帰宅して冷静になると矢守秋人が追いかけてこないことも当たり前だと理解した。
むしろ、契約婚であることをいつの間にか私が忘れていたのがいけない。
彼は元々そういう人ではないじゃない。
「いつの間にか、私が……」
居心地がいいと思ってしまっていたから……。
自室の文机に置かれた健康管理台帖を見て虚しくなる。
台帖を感情任せに握ると表紙の紙にぐしゃっと皺が寄った。
「鬼だったなら、健康管理なんてされなくても全く問題ないじゃない……むしろ、付き合ってくれてたってこと。こんな、茶番に! あの矢守秋人が……なんだか、腹が、立ってきた」
台帖を持って台所へ移動して、角に火をつけた。
あと一週間もすれば、全部元通りになる。
じわじわ炎が台帖を焼いている時だった。
――ジュウッ。
音を立てながら私の後ろから伸ばされた手が火を握り消した。
驚いて顔をあげると息を切らした矢守秋人がいた。
「だ、旦那様!?」
「勝手に俺の台帖を燃やすな」
「いらないじゃないですか。旦那様は鬼ですから……私が健康管理なんてしなくとも……今までこんな茶番に、付き合わせてしまってすみませんでした。あと一週間は大人しくしてますから、今までご迷惑おかけしました」
私は不貞腐れたように一息で気持ちを伝えると後ろから矢守秋人のとても小さい声がした。
「茶番……昨日は朝と夜だけ食べた。二時間くらいは寝た、と思う。排便については……」
「ちょ、ちょ旦那様。もう大丈夫です。台帖はやめましたから! 報告とか、いりません」
「なんで、やめる」
「なんでって……ずっと迷惑そうにしていたじゃないですか」
矢守秋人は台帖を握る私の手に手を重ねるように握ってきた。
私の背中はぴったりと矢守秋人の胸やお腹にくっついている。
「おとといから、胸が痛い……」
「お医者さんに行ったいったほうがよろしいかと」
「さっき君を泣かせた時も痛かったのに、今は痛みがない……」
「泣いてないです……痛くなくなったなら、良くなった証拠ではないですか! よかったです。離れてください。あーよかった、旦那様が健康で安心しました。あと一週間、よろしくお願いします!」
私はわざとらしく大きな声を出して矢守秋人から離れた。
自室に戻ろうとすると矢守秋人は私の着物の袖を引いて、引き留めてきた。
「芹……話を」
そのらしくない彼の小さな声に足を止めて、そろりと振り返った。
なずなも喧嘩すると同じように縋るように腕を掴んでは声をかけてくる。
私はこういうのにめっぽう弱い……。
「怖がらせたか……俺が色鬼の混血で、いつもならもっと食い下がってくるのに」
「昨日のですか? あなたの方が私を……違う違う喧嘩したいわけじゃないわ。旦那様を怖いと思ったことないですよ」
矢守秋人がふっと溜息ではなく息をついたのが分かった。
この人でもそう安心して息を吐くことがあるんだ。
「台帖……燃やしていたのは、愛想をつかして」
「愛想? そういうのはなしって、私が契約婚のことを忘れていたんです。あと一週間程で私も旦那様も他人に戻りますし、鬼である旦那様に人の健康管理なんていう茶番に付き合わせてしまっているのも申し訳ないなと思って、最初から必要ありませんでしたね! すみません」
頭を下げるとなぜかふわっと優しい手つきで引き寄せられて、抱きしめられてしまった。
「なっ!」
今まで、こんなこと一度もなかった。あるわけがないんだけど。
「茶番で片づけないでほしい……」
「旦那様にとって、とんだ茶番だったじゃないですか……ぐぇっ、ちょ力つよ」
茶番を連呼していたら、とても強く抱きしめられて内臓が飛び出そうだった。
「だ、旦那様!?」
「歳を重ねるごとにだんだん鬼に近づいてきている自覚があった……寝なくても平気だし、食べなくてもやっていける」
「そう、なんですね? 放し、」
「最初は君の健康管理なんて面倒だと思った……風呂に浸かって疲れを癒す経験なんてなかった。清潔でいるために水浴びみたいなもので、布団で心地よい香りを愉しんだこともなかったし、匂い袋なんて持ったこともなければ、贈られたこともなかった。弁当も持たされたこともなかった。自分の健康に一喜一憂されたこともなかった」
「もう必要ないことですよ」
「……必要だった。俺はずっと自分が人である自信が欲しくて……最近、人間味が出て来たって帝にも部下にも言われることが増えてきて」
「じゃあ、新しく探してください! 旦那様の事を大切に管理してくる人きっと現れますよ。私みたいな面倒な女じゃない素直で優しい子がこの帝都にはいらっしゃると思いますよ」
「だから……」
「さっきから、何が言いたいんです?」
力が強すぎで痛いし、内臓は出そうだし、さっきから何を言っているのかわからない。
喧嘩腰で問いかけると矢守秋人は私の着物の生地に顔を埋め、こもった声でつづけた。
「これからも君がいい……」
「ん? 何です? 聞こえないんですけど、文句ですか」
「だから、不本意ながら……ずっと君がいいと……君が好きなんだ!」
今、なんて言った?
「勝手なことばっかり言って! 散々、さんざん嫌味ばっかり言ってきて……私の家族まで大切にして……あんたねぇ、どうしてくれるの……矢守秋人……」
私も私で上手く気持ちを整理できないまま、矢守秋人の背中に手を回した。


