矢守秋人、いや、帝様の犬である旦那様のお家は予想よりもだいぶこぢんまりとしていた。
お家の場所においても帝都御所に近いところだとばかりに思っていた。
しかし、帝都御所から随分外れた西側に位置していた。
「何か言いたい事しかなさそうな顔だな。だいたい、予想はついているが」
「口は堅い方です!」
「……どうぞ?」
心底、私の事などどうでもよさそうな声が返ってきた。
「てっきり帝都御所に近い場所に住んでいらっしゃるものだと思っていました」
私の問いに矢守秋人は眼鏡を指先で押し上げた。
「……帝の犬は俺を含め五人。東西南北・帝都御所に一人。それから部下が複数人ついている」
「旦那様だけ、ってわけじゃないんですね?」
「俺一人で帝都を全て守護できるわけがないだろう。方角で警備範囲をわけているんだ」
この人たちのおかげで私は今日まで鬼の存在を知らずに生きてこられたと言うわけなんだ。
それはありがたいな。拝んでおこう。
「何故拝む……」
「旦那様たちのおかげで、お母さんもなずなも私も、今まで鬼に出会わずに済んだんだなぁと思ったら、拝まずにはいられません。ありがたや、ありがたや」
「ふんっ……と、いうのは全部嘘で、実は鬼と通じていて君を奴らに喰わせて終わり。だったらどうするんだ? もっと不安に思ったり、危機感をもったりあるだろう」
矢守秋人はあきれ顔で腕を組んでいた。
たしかに、矢守秋人なら私を陥れることを企んでいてもおかしくないとは思うけれど……。
「旦那様はどこか企んでいそうで……感じは悪いですが、帝様のことは裏切ったりとかしなさそうなので!」
「ふん」
矢守秋人は眼鏡を押し上げてから、鼻で笑って家の中へ入っていった。
必要最低限の会話しかしないってわけね。
どうぞとか、ようこそわが家へくらい言えないのかな。
これから一緒に住むのわかってるの?
矢守邸の中、物は少なくて片付いてはいるのに、どうにも空気がどんよりとしていた。
「家主が湿っぽいと家の中もそうなるのかな……」
「なにか?」
「いえ!」
「おほほほ、さて、換気とお掃除を!」
ひとまず家中の窓を全て開け換気し、掃除をはじめた。
私の部屋へ案内されたが、ひと月分の荷物はすぐに整理が終わってしまった。
私は荷物の中から古紙を束ねた特製冊子を取り出し、文机に広げた。
「よしっ!」
「それは?」
私が文机に紙の束を広げていると矢守秋人は手元を覗き込み、訝しんできた。
「内容によっては……検閲する必要が」
「これですか? まだ白紙です。旦那様の健康管理台帖ですから!」
「健康管理台帖?」
「書いて字の如く、旦那様の健康管理をするための記録台帖です。元ですけど、商家の娘は台帳管理が得意なのです。家計簿もお任せください!」
胸を叩くと矢守秋人は眼鏡を外して大袈裟に眉間をおさえた。
「はぁ……俺の健康管理台帖……やかましい上にずうずうしい女だ。すこしは大人しくできないのか……」
「なんとでも! このお家広いのに鬱蒼としてるのでお掃除と換気は念入りに行います! 三食の記録と睡眠の記録、あとは」
「他にもあるのか」
「排便の記録もつけたいですね!」
「は?」
「契約の内ですから! 教えてくださいね! 大事なことです」
「まったく、この女は――」
「旦那様、これも契約の内ですよ? 私が問いかけたら必ず、答えてくださいませね」
私は今この瞬間、初めて矢守秋人から観念したような表情を引き出せたことに成功した。
とても心が満たされていた。
***
矢守秋人とという帝様の犬は健康管理以前にとても忙しい人だった。
夜中でも朝方でも平気で部下が呼び出しに来たりは日常茶飯事。
不満一つ漏らすことなく、身なりを整え出かける。
お風呂に入ったと思ったらすぐに出かけてしまったり、夜遅くまで書き物、読み物をしていたりする。
でも、疲れている様子を全く出さない。
この人、倒れるまで止まらないのでは?
「どうすべきか……」
初日の勢いはそがれ、思いの外、真っ白な健康管理台帖が泣いているように見えた。
このままでいるのもなと私は頬を叩いた。
「朝と夜の間のよくわからない時間にお邪魔しまっス! 矢守サン、至急帝都御所へお願いしたいっス!」
「わかった。すぐに向かう」
「はい!」
私は部下の方の声に飛び起きて走り、矢守秋人の元へ向かった。
「旦那様! 身なりを整えるのに五分ほどかかりますよね!」
「なにか?」
「いえ、お気になさらず! 準備は進めてくださいね」
「ん?」
私は慌てて着物の袖を紐でひきあげ、台所に立った。
おにぎりと卵焼きと漬物を木箱に入れて素早く布で包んで玄関で靴を履く矢守秋人の元へ運んだ。
「旦那様! これだけはお持ちくださいませ! お弁当です!」
「ふんっ、これをもって御所に行けと?」
まずい、間違えた。
可愛らしい桃色の布で包んでしまった。
「朝ごはんです! 道中食べれば持っていかなくても大丈夫ですから」
「……おい、押すな――」
半ばお弁当を押し付けて、ぐいぐい背中を押して送り出した。
ようやく私の作成した健康管理台帖に自信をもって記入することが出来る。
「ふー、間に合ってよかった。食べてくれるといいけど……矢守秋人のことだから食べずに捨てるかも」
でも、持たせたことには変わりないから万事大成功ということで。
「おっ? おお――!」
いつ帰ってきたのかはわからなくて、いつまた出て行ってしまったのかもわからないけれど、居間の卓にお弁当箱と一緒に和菓子が置いてあった。
「箱の中は……完食!」
えらい! 矢守秋人!
お弁当の箱を開くと中は綺麗になくなっていた。
傍らにお菓子が添えられているということは捨てずに食べた上でのお礼だろうか。
「意外と律儀? あれ……なにか挟まってる」
お弁当箱の下に掌の大きさの紙が挟まっていた。
「もらいもの」
細く整った字だった。
矢守秋人はこういう字を書くのか。
もっと走り書きで太くて筆圧が強いのかと思っていた。
それからは間に合う時は必ずお弁当を持たせるようにした。
「旦那様! お弁当です!」
「……あぁ」
ある時は少しの帰宅時間でも身体が休まるようにお風呂は薬湯にしてみた。
「旦那様! 気持ちいいですか? 疲労に効く薬湯ですよ」
「……悪くない」
またある時は寝室には安眠の香を焚いてみたり、さらに身体が解ける香りの匂い袋を作ってみたりした。
「どうですか、ぐっすり眠れていますか!」
「……わかった、ちゃんと寝るからその勢いをやめろ。夢にまで出てきそうな女だな」
いらない、捨てろ、気遣い不要と怒られると思ったものの、拒否されることはなかった。
私の健康管理台帖が少しずつ文字で埋まっていくのは嬉しいことだった。


