帝の犬の契約嫁による健康管理帖~紫鬼編~

 
 一進一退の痴話喧嘩から、一週間。
 矢守秋人は私の健康管理を自ら進んで受けながら、新月の晩の準備を進めていた。
 
「旦那様、紫鬼さんをどう討伐するんです?」
「帝の犬、および部下には平安の頃より伝わる陰陽の力が備わっている」
「なにかすごい力ってことですか?」
「すごい、力? ではないと思う」

 カチっと矢守秋人は眼鏡を指先で押し上げた。
 帝の犬という存在がどれだけすごいかは、もう身をもって知っている。
 今更何を言われても驚くことはない。 

「鬼を斬れる神刀も使うし、結界張ったり、呪術も使えるけど、まずは紫鬼の動きを止めて捕まえようと思っている」

 仕事人の矢守秋人がまず用意したのは、私用の新月の晩の手順書だった。
 ぬかりがないとはこのことを言うのだろうと思えるほど、緻密に書かれていた。
 そして、小さく整った文字がびっしり綴られていた。

「びっしりですね……」
「当日までには全て頭にいれること」
「はい……」

 矢守秋人は眼鏡を指先で押し上げて私に言いつけた。




 今夜が新月。

「旦那様が夕方に迎えにくるまでは家から出ないこと」

 私は段取りの書かれた手順書を再度確認していた。
 まずは、矢守秋人が家に戻ってから紫鬼を迎撃するための場所に移動することになっている。
 この区画に住んでいるのは私たちだけではないからだ。

 
「お邪魔するっス! 芹さん、いるっスか?」

 私は、矢守秋人が帰宅するのを今か今かとそわそわしながら家中を歩き回っていた。
 そこへ、真帆路くんの元気な声がした。

「真帆路くん?」

 手順書に記載のなかった真帆路くんが突然現れて、私は慌てて玄関へ向かった。

「あれ、どうしたの?」
「矢守サンから迎えに行くように言われたっス。帝から急ぎの仕事を頼まれたから約束の時間に来られないらしいっス!」
「……そう、なの?」

 私は手順書通り、平静を装い、荷物を持って外に出た。

 馬車の中、真帆路くんと向かい合っている。
 そわそわする気持ちを落ち着かせるように両手を握り合わせている。

「緊張してるっスか?」

 真帆路くんが可愛らしく首を傾けてこちらの様子を伺っていた。
 落ち着いて、平常心、大丈夫。

「緊張……か。どうだろう」
「緊張しないわけないっスよね」

 私は両手をこねながら今か今かと伺っていた。
 ――ヒヒーンッ!
 合図は馬が鳴き、暴れて車体が揺れることだった。

「揺れたっスね。怪我とかしてないスか? 芹サン」
「真帆路くん、もういいよ」
「はい?」
「ひと月ぶりですね、紫鬼さん」
「なに?」

 真帆路くんに化けていた紫鬼はみるみる姿を変えた。
 真帆路くんの愛らしい栗色の髪は紫色に変わり、色鬼特有の炎のように揺らめく紫の虹彩が現れた。
 
「はぁ? 動かないんだけど!」

 これは手順書通りだった。
 矢守秋人が仕掛けた鬼の動きを封じるための結界区域。
 ここに入るまでは彼が誰に化けていようと紫鬼であることに私が気付いていることを、気づかれないようにしなければならなかった。

「いっ……いつから、気づいてたのさ?」
「帝様から急ぎの仕事ってところです」
「?」

 身体が動かせない紫鬼は抵抗を諦めて、横柄な態度を取り始めた。

「はぁ? なにそれ」
「矢守秋人はね。帝様からの勅命は妻の命より大切で、いついかなる時も遂行するの。今夜、紫鬼さんが私を迎えに来ることがわかっているのに他の仕事を受けることなんてまずない」
「逆にそこまでわかってて、なんで一緒に来たの? 馬鹿なの? その帝の犬もほ〜〜んと間抜け」
「やっぱりあなたもそうなんだ?」
「?」

 私は動けない紫鬼の紫の炎揺らめく虹彩を覗いた。
 
「旦那様は御者としてずっと一緒にいたのに……」
「は?」

 私は風呂敷から健康管理台帖を取り出して、ここ一週間の矢守秋人の健康状態を読み上げた。

「健康管理台帳にね。矢守秋人は視力が悪いって書いてあるの。普段、彼はずっと眼鏡をしてる。でも、ここ一週間はさらに見えにくいって言ってた。今まで気にしたことなかったみたいだけど……普通の人の視力は日によって良くもならないし、悪くもならないの」
「だから、何……」
「色鬼は新月の日に視力が極端に弱くなるんじゃない?その代わりに嗅覚が優れるから蓮華の花の神子を血の匂いから探しやすくなるってことだったんでしょう?」

 馬車が止まり、御者をしていた矢守秋人が扉を開けた。

「芹の血をもらって服にしみこませた。芹以外、気にもとめなかったんだろうな」
「ほんっと、最悪!」

 動けない紫鬼は外へ放り出され丸くなっていた。
 鬼を斬る神刀を抜いた矢守秋人に紫鬼は叫んだ。

「ボクはずっと、あなたを待ってた! それだけだったのに! 神子様のために今まで生きて来たのに!目がぼやけて、あなたを見れない!」

 紫鬼の声が矢のように私の身体に刺さった気がした。
 そうして、私の中には記憶には存在していない血に刻まれた記憶が走った。

『神子様! ボクはずっとあなたを守り続けますね』
紫詠(しえい)、そんなひっぱらないでください。私はどこにも行きません』

 幼い紫鬼が神子の手引いて歩いている。
 信頼する主の顔を見上げる健気な姿だった。
 それは人も鬼もない微笑ましい穏やかな日常だった。

『神子様っ!』

 そして、紫鬼の目の前には斬られて地面に横たわる神子。
 身体から飛び散った血が紫鬼の顔中にかかった。

『返せ! ボクの神子様を返せ!』

 むせ返るような蓮華の花の匂いが充満する場所で地面を這い絶望する姿だった。


「秋人さん!」

 紫鬼の首に刀を振り下ろそうとする矢守秋人を止めるように声をあげた。
 声に応じて矢守秋人はピタッと手を止めた。

 怖くないはずがない。
 私を欺くための紫鬼の演技かもしれない。
 でも、確認しないと......。

「あの、紫鬼さんの名前は?」
「……しえ、紫詠(しえい)……」

 やっぱり、演技などではない。
 あれは前の神子の記憶だ。
 私っていう人間はどこまでいっても、こうなのだ。
 縋るような姿を見るとどうにも手を差し伸べたくなってしまう。
 全く、学習しない。

「紫詠くん……うちの子になる? 私が生きている間だけでよければなんだけど」

 紫鬼は揺らめく紫の虹彩を涙で滲ませていた。

「え......は、はぁ!? 意味わかんない……帝の犬の嫁のあんたなんてボクの神子様じゃないし!」
「でも、迎えにきてくれたんだよね? ずっと、待っていてくれたんでしょう」
「それは……」

 私は紫詠くんに手を伸ばして、彼もまた手を伸ばしてくれようとしていた感動的な場面だった。

 その雰囲気に水を差すようにごちんと刀の柄で矢守秋人に叩かれた。

「いったぁ」

 顔をあげるまでもなく、不機嫌なのがわかる。
 勝手なことばかりしたし、彼の勅命は紫鬼の討伐だ。
 それでも、ほかに選択肢はないものだろうか。

「旦那様……」
「……わかってる」

 まだ何も言ってないけど、なにがわかったんだろう……。

「……紫詠といったな。帝の名のもと、俺の使い魔としてなら飼ってやる。それ以外なら今ここで退治する」
「よ、よろしいのですか!?」
「帝にお伺いをたてるが、ひとまずこの紫鬼には聞きたいことがたくさんある。話をするなら、今は生かしておいてやる」
「やだ、今殺せよ……お前の使い魔なんて御免だね。ボクは神子様だけの」
「まぁまぁ、紫詠くん。先のことはこれから一緒に考えようよ」
「……神子様が言うなら、帝の犬の話、聞いてやってもいい」

 これにて、紫鬼の討伐騒動と、ひとつきの契約婚が終了した。
 死傷者も出ずに無事に日常が戻ったのでありました。