とても美しい夢を見た。
濁りのない透き通った池を進んで行く私。
蓮華の花の蕾が時間をかけてゆっくり開いていくのを眺めていた。
ようやく咲いたのを見届けた時、目が覚めたのは夜明け前だった。
「今日も一生懸命頑張ろう」
伸びをして気合を入れた。
「なずな……熱下がらないね。大丈夫?」
「ごめんね、お姉ちゃん。今日誕生日なのに……」
妹の額に掌をひたりと当てると想像以上の熱さにピリッとした。
「そっか、誕生日……忘れてた。……うん。お姉ちゃんお仕事に行ってくるから、ちゃんと薬飲んで寝てるんだよ。おかゆは枕元ね!」
「お姉ちゃんばっかり……ごめんね。最近は調子よかったのに」
身体の弱い妹だけれど、本人の言った通り、最近は調子が良かった。
それだけにとても心配になる。
「謝らないの! なずなのせいじゃないよ。じゃあ、行ってくるね!」
なずなの布団をかけなおして部屋を出るとずりずり足を引きずる音がした。
玄関で靴を履きながら顔をあげると顔色のあまりよくないお母さんが壁を支えに顔を出した。
「芹……」
「お母さん! 寝てないと、身体辛いでしょう?」
「針仕事くらいなら出来そうなの。芹の見送りくらいできるわ」
「見送りなんていいいよ! 身体最優先! 無理はしないでね」
「ごめんね。芹」
「もう、お母さんまで……謝らないでよ。私は大丈夫! 身体だけは頑丈だもの」
裕福な商家・宇田川の娘だったのは数年前までの話。
父が商売に失敗して私たち家族は帝都の外れにある小さな平屋に住んでいる。
父は失踪、病弱な妹と昼夜働き続けて身体を壊してしまった母を養うために今度は私が昼夜働いている。
身長もそれなりにあるし、重いもの持てるし、なにより身体強くて本当によかった。
今日は定食屋さんの女将さんに紹介してもらった貴族様のお屋敷で開催される夜会のお手伝い。
日給がとてもよくて二つ返事で引き受けた。
「よし! 張り切って働こう!」
働くことは得意だ。
頑張ればお給金がもらえるし、その時間は何も考えなくていい。
お母さんもなずなも悪いことをしたわけではない。
それなのにいつも申し訳なさそうに謝られるのは心苦しくなってしまう。
大丈夫だよ、お母さん、なずな。
私が守るからね!
支給の給仕服に着替えてからは息つく暇がないほど忙しかった。
「宇田川さん、これ大広間に運んでくださる?」
「はい!」
大きな置物を抱えて階段を上っては降りる。
「これ、厨房に運んでくれ」
「はい!」
野菜の入った木箱を重ねて厨房と荷棚を行ったり来たりする。
「このお花、お客様をお迎えする入口に運んでくれ」
「かしこまりました!」
お花の束も抱えられるだけ抱えて、ひたすら運んでいく。
テキパキと仕事をこなしていると、自分の身体より大きな花瓶を運ぶ小柄の女の子を見かけた。
見るからに重たそうだな、足取りもどこかふらふらしているし、声をかけた方がいいかな。
小柄な後ろ姿が病弱な妹と重なった。
「あっ!」
——ガシャンッ。
声をかけようと思った時にはすでに遅く、女の子は花瓶を落として割ってしまった。
現場を見なくとも盛大に何かを壊したとわかる大きな音に誰もが動きを止めた。そして、彼女を鋭い視線で睨んでいた。
私はいてもたってもいられなくなり、その場に縮こまり身体を震わす彼女に駆け寄った。
「怪我はないですか?」
「あ……えっと」
「早く片付けなさい! お客様が来られる時間が近づいているのよ!」
私と女の子を引っぱたくような大声で注意をされた。
私は反射でびしっと姿勢を正し、返事をした。
「かしこまりました! すぐに! 片づけます! 申し訳ございません!」
いくらするんだろう……今日のお給金分ではまず足りないだろうな。
床に散らばる花瓶の欠片を拾いながら、肩を落とす。
「ご、ごめんなさい……! 私のせいで巻き込んでしまって」
「全然、私ももう少し早く声をかければよかったと思って……いっ!」
「切っちゃったの?」
「大丈夫! 少しだけだから」
花瓶の破片で指を切って血が一筋流れてしまった。
慌てて血を舐めてから手ぬぐいで指を縛った。
危ない……絨毯に血を垂らしたらまた何か言われるかも……。
絨毯まで弁償になったら我が家は……。
「ねぇ!」
「……っ大丈夫。もう止血したから、絨毯にも垂れてないですし!」
「待って……!」
「心配してくれてありがとうございます! 次の仕事に行きますね!」
花瓶を落として割るくらい非力な女の子だと思っていた。
それなのに、傷を見せてと腕を引かれた力が強いを通り越して痛かった。
とっさに心配、してくれていただけだよね。
どうにか花瓶も片づけ終わり、全ての準備が間に合った。
しかし、夜会が始まって忙しくなくなるわけではない。
むしろ、準備の時よりもずっと走り回っていた。
あれが足りない、これが足りない、持って行って、持ち帰ってきての連続だった。
「キャーッ!」
煌びやかで賑やかな夜会に水を差すように悲鳴と食器が割れるような音が上がった。
「なにか、あったのかな」
人の波があちらこちらで渦のようにうごめいていた。
混乱する会場の中、親とはぐれ転んでしまった子供を見つけた。
「危ない!」
私は無我夢中で駆け寄って子供を抱き上げた。
しかし、人の波に飲み込まれ蹴られたり、押されてたりして転んでしまう。
人波の落ち着いている場所まで子供を運んだ。
「お姉ちゃんありがとう」
「いいえ~~」
「ちょっと、宇田川さん!」
ボロボロで傷だらけの私を見かねた給仕長が傷を洗い手当するように言った。
「いたた……」
膝と肘が擦れてる。
今日は散々だなぁ。
落ち込んでいると目の前には昼間に花瓶を一緒に片づけた小柄な女の子が立っていた。
「さっき、大丈夫でした? とても大騒ぎでしたねぇ」
「そうだね。探したよ。どこにいたの?」
小柄な女の子の体つきは年若い男の子に変わった。
そして、艶のある黒髪と黒い瞳は紫色に変化していった。
まっすぐ私に向けられた瞳はとても特徴的だった。
紫色の炎が揺らめいているような不思議な虹彩をしていた。
さらに、目尻に赤い線入るとこの世のものではないような妖しさを醸し出していた。
「ねぇ、あんた」
少女にも少年にも聞こえる声で呼ばれ、私を招くように細長い指を伸ばされた時だった。
私と少年の間に一人、壁のように立ちふさがった。
皺がひとつもない上等な生地の洋装に似合う肢体、息を飲むすらりとした立ち姿だった。
「なに、……そこどいてくれない」
「紫鬼だな」
「だったらなに……あぁ、あんたが帝の犬?」
紫鬼? 帝の犬?
私は壁のような男性の背を眺めながら聞こえた単語を心の内で復唱していた。
すると、ひょっこり噂の紫鬼さんが私をのぞいた。
「ねぇ、名前は?」
「名前? 芹……です」
「芹!」
「やっと会えた! 出会えた! ずっと待ってた!」
「はぁ……」
妖しい少年にとても喜ばれている……。
どこかで会った事があるのかな。
「次の新月に迎えに行くね。どこにいても隠れてもわかるからちゃんと待っててね!」
紫鬼さんは私の手を取って、歓迎するように指先に口づけると霧の如くふわっと姿を消してしまった。
私は目を何度も擦ったが、状況は変わらなかった。
とても冷たい唇の感覚が指先に残っていた。
帝の犬と呼ばれていたすらっとした洋装の男性が振り返った。
「ふん」
嫌味たらしく鼻を鳴らして、眼鏡の奥から鋭い視線を私に向けていた。
頭から爪先まで値踏みするように首を傾ける姿はお世辞にも感じのいいとは全く思えなかった。
「名前と年齢は?」
借金取りの方がもう少し温度を感じる話し方をするのに……。
「……宇田川、芹です。今日で十八になりました」
「わかった」
何がわかったのだろう。
「俺についてきなさい」
「い、いやです!」
「こい!」
強引に腕を引かれて、私は振り払うように暴れた。
「あなた! 私は名乗ったんだから、そっちも名乗るのが筋ってもんでしょう!」
「君には関係ないだろう」
「私だってあなたと関係ないです。帝の犬だかなんだか知らないけどねぇ!」
「いいからこい!」
今度は襟を掴まれる。
なんなんだこの男は!
「私には病弱の妹と寝込んでる母がいるんです! ちゃんとお給金もらって家に帰らないといけないんです! 離してください!」
私が叫ぶと襟を掴まれている力が緩まった。
これは解放されるかと思ったのも束の間、男は私の頬をぐにっと捻り上げた。
「事情はわかった。今日のお給金の三倍出してやるからこい!」
「さ、三倍……」
いくらだろう。
空中の妄想そろばんを叩くとその桁の多さに気が遠くなった。
「甘いこと言って、売り飛ばされたりとか……」
「ちゃんと家に戻してやるからこい!」
「はい! わかりました!」
今日一番大きな声を出すと、もう一度頬をつねられた。
暴力反対!


