星降る夜の寓話

マンションのエントランスを入って、集合ポストの中を見ると、中は空っぽだった。
ポストにはいつも何らかのチラシが突っ込まれている。
不要品回収業者のものだったり、リフォーム会社のものだったり。圧倒的に多いのは宗教関連。
それらが何も入っていないということは、律が家に帰っているということになる。


急いで階段を上がり、ドアロックに暗証番号を入れた。

玄関のドアを開けると、思っていた通り、そこには男物の靴があった。
でも、いつもと違って脱いだ向きのままで揃えられていない。

リビングドアを開けると、スーツ姿の律がダイニングテーブルの椅子に座って、スマホを見ていた。
足元には着替えが入っていると思われるカバンが置いてある。

これは、しばらく帰れそうにないくらいの事件が起きたという意味。

「ただいま」

律はわたしを見て、ほっとしたような表情をした。

「おかえり。これから出かけるけど、当分帰れないと思う」

そう言いながら、椅子の背にかけた上着を着る。

「わかった。気をつけてね」
「何かあった?」

律のネクタイが歪んでいることに気がついて、それを直すために手を伸ばした。
察した律は、動かずにじっと待っている。

「どうして?」
「そんな顔してる。帰りの遅いのが続くのもめずらしい」
「そうだね」

ネクタイを直した合図に、軽く胸を叩く。

「それでいいんだよ。環はもっと遊べばいい。これ以上遅くなると上から文句言われるから行くけど、戸締りだけはしっかりしとくように」
「もしかして、わたしが帰るのを待ってた?」

律は微笑んだだけだった。

「必ず帰って来る」
「気を付けてね」
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」


玄関まで律を見送ってから、誰もいなくなったリビングに戻った。


律は何気なく言ったんだろうけど、「必ず帰って来る」と言われると、安心する。
まるで「もうひとりじゃないよ」って言われてるみたいで。

こんな勝手な想像、きっと律には迷惑でしかない。


さっきまで律が座っていた椅子の下に紙きれが落ちているのに気が付いた。
それを拾うと、コンビニのレシートだった。
おにぎりが3つとお茶。今日の日付で時間は14時20分。
きっとこれがお昼ご飯。

お弁当を作ってあげたいけれど、そんなことをしたら署の人に何を言われるか想像したら作れない。

ふと、レシートを持つ手の小指が目に入った。
他の指と比べて目に見えておかしな方向に曲がっている。
でも他人の、ましてや小指なんてじっと見る人なんていないから、誰にも指摘されたことはない。
この小指は、父に殴られた拍子に思いっきり柱にぶつけて、多分骨折したのが原因。



昼間からお酒を飲んでいる父に腹が立って文句を言った時のこと。

「飲んでばっかりいないで仕事してよ!」

わたしの言葉に、競馬新聞を見ていた父は顔をあげると怒鳴った。

「ガキが生意気なこと言うんじゃない!」
「何でそんなふうになっちゃったの? お母さんがどれだけ大変かわかってる? 自分は働きもせずに昼間からお酒ばっかり――」

いきなり強い力で平手打ちをされて、その勢いで柱にぶつかった。

怖くなって逃げようとしたけれど、髪の毛を掴まれて、引っ張られるように床に叩きつけられた。
這うようにして何とか距離をとり、立ち上がると急いで2階の自分の部屋に逃げ込んだ。


その時は逃げることに夢中だったし、自分の身に起きたことが信じられなかった。
でも、平手打ちされた頬がジンジンして、それが現実だと知らせる。

心臓がすごいいきおいでバクバクいっていた。

何かにふれた小指が痛くて、見ると紫色に腫れ、少し向きも変わっていることに気が付いた。
でも、母に心配させたくなかったし、病院に行けばお金もかかる。
だから痛みを我慢して隠した。

随分たって、色も腫れも元に戻ったけれど、少し曲がった指は元には戻らなかった。