クラスの中心で笑う彼女は、あの日、あの時間で止まった時計を抱きしめている

夕陽に照らされた彼女の瞳が一瞬だけ大きく揺れた気がしたけれど、次の瞬間には、いつもの完璧な、鈴の鳴るような笑顔がそこにあった。

「あれ?瀬戸君は太陽たちと行かなかったの?唐揚げ半額、今日までだって太陽すっごい張り切ってたのに」

小首を傾げて、悪戯っぽく笑う織原さん。
そんな彼女を前にして、僕は緊張で心臓が破裂しそうになりながらも、何とか言葉を絞り出した。


(・・・やっぱり、そうやって笑うんだ)

胸が、チクリと痛む。
もし昨日までの僕なら、「あはは、僕はちょっと用事があってさ」なんて話を合わせて、そのまま教室を出て行っていただろう。

だけど、今の僕には太陽の言葉がある。教室で見た、彼女の寂しげな顔と視線の理由を知っている。

「・・・うん。僕は、織原さんに謝らなきゃいけないことがあって、残ったんだ」

「え・・・?私に謝ること?」

織原さんは心当たりがないように、不思議そうにパチパチと瞬きをした。その綺麗な瞳が真っ直ぐに僕を捉える。

「僕、三日前の放課後・・・誰もいないと思って、この教室に忘れ物を取りに戻ってきたんだ。その時、織原さんが・・・その、一人で、泣いているのを見ちゃったんだ」

「――っ」

織原さんの息が止まるのが分かった。
さっきまで浮かべていた完璧な笑顔が、まるでガラスが割れるように一瞬で消え去る。

「声をかけることもできなくて、そのまま黙って帰っちゃって・・・本当にごめん。盗み見するみたいなことになっちゃって、ずっと申し訳ないと思ってて」

僕が頭を下げると、教室には痛いほどの静寂が戻ってきた。
カチ、カチ、と時計の音だけが響く中、織原さんは小さく震える声で呟いた。

「そっか・・・見られちゃったか・・・」

織原さんは力なく微笑むと、そのまま視線を床へと落とした。
いつもの明るい声とは違う、今にも消えてしまいそうな、掠れた声。

彼女は自分の細い指先をぎゅっと握りしめ、儚げに笑いながら、さらに深く俯いた。

「私の独り言も・・・聞いた・・・?」

その問いかけに、僕の脳裏に、あの日の放課後に織原さんが絞り出すように言った言葉が蘇る。

――『誰も、優紀の代わりにはなれないんだよ・・・』

織原さんの中で、大きすぎる時任優紀という存在。そしてその存在を失って、今もあの事故の日から一歩も動けずにいる目の前の少女。
今ここで核心に触れれば、織原さんはさらに傷つき、心を閉ざして、この教室から走り去ってしまうかもしれない。

でも、ここで嘘をついて誤魔化したら、昨日から太陽と作戦会議をした意味がないんだ。

僕は深く息を吸い込み、逃げずに、真っ直ぐに織原さんを見つめた。

「・・・うん、聞いたよ」

織原さんの肩が、ピクリと小さく跳ねた。

「時任優紀君、の名前。・・・僕、太陽から聞いたんだ。君にとって、どれだけ大切な人だってことも」

僕がそう告げると、織原さんはゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、いつもの完璧な笑顔の面影はどこにもない。夕暮れの赤い光を反射した瞳が、じっと、僕の心の奥を見透かすように真っ直ぐに向けられる。

「太陽から・・・」

織原さんは、かすかに声を震わせながらも、静かに僕を呼び止めるように言葉を紡いだ。

「太陽から・・・どこまで聞いた?」

責めるような口調ではなかった。むしろ、自分の隠し事がどこまで暴かれてしまったのかを恐る恐る確かめるような、そんな響きだった。

太陽が教えてくれたこと。
時任優紀という人が、誰も追いつけないほどのサッカーの天才だったこと。みんなに愛されていたこと。そして――織原さんを庇って、事故で、突然この世界からいなくなってしまったこと。

どこまで話すべきか、一瞬迷った。でも、中途半端な同情や嘘は、きっと今の彼女には見透かされる。

「全部、聞いたよ」

僕は逃げずに、織原さんの瞳を見つめ返した。

「時任君が、すごくサッカーが上手だったことも・・・。それから、一年前、事故で亡くなったことも。全部、太陽から聞いた」

「・・・そっか・・・優紀はね・・・」

織原さんは視線を窓の外、オレンジ色に燃える空へと向けた。
その横顔は、今にも消えてしまいそうなほど儚くて、だけどどこか覚悟を決めたような、不思議な強さがあった。

「本当に、真っ直ぐな人だったの。いつも泥だらけになってサッカーボールを追いかけてて、周りのみんなを笑顔にする天才で・・・。太陽と優紀が並んでグランドを走ってる姿を見るのが、私は、すごく好きだった・・・」

ぽつり、ぽつりと、記憶の糸をたぐるように織原さんが語り出す。
思い出す時任君の姿は温かいはずなのに、彼女の細い肩はかすかに震えていた。

「あの日・・・私は、優紀と待ち合わせしてたの。いつも通りの、なんてことない放課後になるはずだった。でも、私がちゃんと前を見て歩いていなかったから・・・」

織原さんはぎゅっと自分の胸元を掴んだ。制服の生地が、彼女の指の力で白く強張る。
その瞳は、一年前のあの凄惨な瞬間の光景を、今まさに目の前で見つめているようだった。

「突っ込んできた車から、優紀が私を突き飛ばして・・・庇ってくれたの。気が付いた時には、優紀が倒れてて・・・。病院に運ばれた時には、もう、冷たくなってた」

織原さんの声が、かすかに震え始める。
泣き出してしまいそうなのを、彼女は奥歯を噛み締めて、必死に堪えていた。

「私が・・・代わりに死ねばよかったんだよ。優紀には未来があったのに、私のせいで、優紀の未来を奪っちゃった。・・・だからね、あの日から私の頭の中の時計は、カチッ、て音を立てて止まったままなの。私だけ、幸せそうに前に進むことなんて、絶対に許されないの・・・っ」

耐えきれなくなった一滴の涙が、織原さんの頬を伝って、夕日にきらりと光った。

涙を流しながら、自分を責め続ける織原さん。
その悲痛な叫びを、僕は胸が張り裂けそうな思いで受け止めていた。

かけるべき優しい言葉なんて、僕には一つも見つけられない。
だけど、彼女をこの暗闇に置き去りにしたまま、逃げるわけにはいかないんだ。

「・・・今の織原さんを見たら、きっと時任君は悲しむんじゃないかな」

夕暮れの教室に、僕の言葉が唐突に響いた。

織原さんの身体が、凍り付いたようにピタリと止まる。
涙に濡れた瞳が大きく見開かれ、信じられないものを見るような目で、真っ直ぐに僕へと向けられた。

「・・・え?」

「自分の命を懸けて守った織原さんが、一年経ってもずっと苦しんで、自分の方が死ねばよかったなんて自分を責めて泣いている。そんな姿を見たら、時任君は・・・守らなきゃよかったって、後悔しちゃうよ」

「――っ、そんな、こと・・・っ!」

織原さんの声が、怒りと悲しみで激しく裏返る。
それは、彼女が一年間ずっと隠し持っていた、生々しい感情の爆発だった。

「どうしてそんなこと・・・瀬戸君に分かるの・・・っ?瀬戸君は、優紀のこと何も知らないじゃない!私がどれだけ後悔して、どれだけあの日から・・・っ」

怒りで肩を震わせ、大粒の涙をボロボロとこぼしながら、僕を睨みつける織原さん。
その視線から、僕は一瞬たりとも目を逸らさなかった。ここで目を逸らしたら、彼女の心に二度と触れられなくなる気がしたから。

「・・・うん。織原さんが怒るのは当然だと思う」

僕は静かに、だけど一歩も引かずに言葉を返した。

「僕はまだ転校してきたばかりで、織原さんや太陽との関係も浅い。時任君のことも、昨日太陽から詳しく聞いたばかりだ。そんな部外者の僕に、二人の聖域に土足で踏み込まれるようなことを言われたら、怒って当たり前だよ」

織原さんは息を呑み、言葉を失ったように僕を見つめた。

「だけど・・・関係が浅い僕だからこそ、見えるんだ。織原さんは、時任君に助けてもらったその命を、自分を責めるためだけに使い続けてる。・・・時任君は、そんなこと絶対に望んでないと思う」

「っ・・・」

「命を懸けて守りたいほど、織原さんのことが大切だったんだよ。その大切な人が、自分のせいで一生笑えないままでいたら、僕だったら絶対悲しい。・・・だから、言わせてもらうよ。織原さんは、もう前を向いて笑っていいんだ」

教室を支配していたのは、僕たちの荒い息遣いと、夕暮れの赤い光だけだった。
織原さんは唇をわなわなと震わせ、やがて、堰(せき)を切ったようにその場に崩れ落ちた。

床に崩れ落ちた織原さんは、両手で顔を覆い、小さな身体をさらに小さく丸めた。
完璧だったはずの彼女の防衛線は完全に決壊し、そこから溢れ出すのは、一年間ずっと一人で耐えてきた、剥き出しの嗚咽だった。

僕は、伸ばしかけた手を、空中で止める。
肩に触れてあげたい、大丈夫だよと言ってあげたい。でも、今の僕の手は、彼女の傷口を無理やり抉ってしまった手だ。

「・・・一人にして」

覆った両手の隙間から、消え入りそうな、でも拒絶の滲む声が漏れた。

「一人にして・・・お願い・・・」

胸が、引きちぎられるように痛む。
僕は自分の浅はかさを呪いそうになりながら、それでも、彼女のその言葉を拒むことはできなかった。

「・・・ごめん」

ぽつりとそれだけ残して、僕はゆっくりと背を向けた。

引き止めるような声は、もう聞こえない。
カツン、カツンと、静まり返った廊下に自分の足音だけが虚しく響く。

夕陽が完全に沈みかけ、学校全体が深い藍色に染まっていく中、僕は何度も教室の方を振り返りそうになるのを必死に堪えながら、一人、校門へと向かって歩き続けた。

 (――織原さん。僕は、間違ってたのかな・・・)

答えをくれる人は、誰もいなかった。