クラスの中心で笑う彼女は、あの日、あの時間で止まった時計を抱きしめている

賑やかな笑い声が響く昼休みの教室に、今の僕はとてもいられなかった。
いつも通りに、いや、いつも以上に眩しく笑う織原さんの顔を、どうしても直視できなかった。

逃げ出すように向かったのは、人気のない体育館の裏手だった。
ひんやりとした日陰のコンクリートに背中を預け、僕はただ、校庭から聞こえてくるホイッスルの音をぼんやりと聞いていた。頭の中では、昨日の夕暮れの教室と、織原さんの痛々しい涙が何度も何度もループしている。

(僕は、どうすればよかったんだろう・・・)

「おい、拓海」

突然、上から降ってきた声にビクッと肩が跳ねた。
見上げると、そこには購買のパンを片手に持った太陽が立っていた。いつも通りの軽い調子を装っているけれど、その目は真っ直ぐに僕を見つめている。

「こんなところで一人で何してんだよ。・・・大丈夫か?」

太陽は僕の隣の壁に背中を預けると、ふっと息を吐いた。

「おまえ、今日の朝からずっと織原の顔、見てねぇだろ。あいつ、いつも通り笑ってはいるけど、おまえが目ぇ合わせないからちょっとシュンとしてたぞ」

「それは・・・」

声が、喉の奥でつっかえた。
昨日見たこと、聞いたこと。織原さんの涙の理由。それを自分が知ってしまったということ。
頭の中にはたくさんの言葉が溢れているのに、どれをどう紡いでいけばいいのか分からない。
僕が拳をぎゅっと握りしめたまま俯くと、太陽は小さく苦笑して、それ以上追及するのをやめた。

「織原となんかあった?・・・まぁ、話しにくいなら無理に聞かないけどさ」

太陽は購買のパンの袋をガサゴソと開けながら、視線を校庭の方へと向けた。

「ただ、おまえがそこまで思い詰めた顔してるの、初めて見たからさ。俺に話せることなら、いつでも聞くぞ」

太陽のどこまでも真っ直ぐで、優しい気遣いが心に沁みる。
このざわざわした昼休みの学校では、まだ言葉がうまくまとまらない。だけど、太陽にだけは、どうしてもちゃんと話したかった。
織原さんのあの涙から、逃げ出したままでいたくなかった。

「・・・ありがとな、太陽」

僕は俯いていた顔を上げ、太陽の目をしっかりと見据えた。

「・・・放課後、部活が終わったら、少し話せないか?校門の近くで待ってるから」

僕のいつもと違うトーンに、太陽は一瞬だけ驚いたように目を見張った。だけど、すぐにいつもの不敵な笑みを浮かべて、僕の肩をぽんと叩く。

「おぅ、分かった。じゃぁ、部活終わったらすぐ行くからさ」

ちょうどその時、昼休みの終わりを告げる予鈴が僕たちの頭上で鳴り響いた。

放課後、部活の終わりを見計らって、僕は校門の近くの壁に背を預けて太陽を待っていた。
下校する生徒たちが賑やかに通り過ぎていく中、僕の心だけが取り残されたように重い。

「お、拓海!待たせたな!」

大きなスポーツバッグを肩にかけた太陽が、少し汗をにじませながら走ってきた。

「悪い、片付けに時間かかっちまって。・・・ここじゃ何だし、ちょっと近くの公園行くか」

太陽は僕の緊張した空気を察したのか、いつもより少しトーンを落とした声で言い、歩き出した。

すっかりオレンジから紫色のグラデーションへと変わり始めた夕暮れの街を、僕たちは並んで歩く。近くの小さな公園に到着すると、太陽は自動販売機でスポーツドリンクを二つ買い、一つを僕に手渡してくれた。

「ほらよ。おまえも喉乾いてんだろ」

受け取ったペットボトルは冷たくて、表面の水滴がじんわりと僕の手に染み込んでいく。だけど、その冷たさが逆に、高鳴っていた僕の心臓を少しだけ落ち着かせてくれた。

太陽がゴクゴクと勢いよくそれを飲み干すのを見ながら、僕は息を深く吸い込み、昨日の夕暮れの教室のことを、ぽつり、ぽつりとたどたどしく話し始めた。

「実は、昨日・・・放課後の教室で、織原さんが泣いてるのを見たんだ」

僕がそう言うと、太陽は驚いたように目を見開いたが、すぐに真剣な顔になった。

「・・・おまえはそれを見て、どう思った?」

太陽の声は、いつになく低く、真っ直ぐだった。
ただの同情か、それとも野次馬か。僕が織原さんの心にどれだけの覚悟を持って踏み込もうとしているのかを、太陽は試しているようだった。

冷たいスポーツドリンクのボトルを、指が白くなるほど強く握りしめる。
夕闇が迫る公園の静寂の中で、僕は自分の心の一番奥にある感情を、必死に言葉に変えて紡ぎ出した。

「・・・正直、どうしたらいいか分からないし、どうやって話したらいいかも分からない」

僕は視線を落としたまま、ぽつり、ぽつりと胸の内を吐き出す。

「織原さんが背負ってるものの大きさを知って、僕は何も言えずに逃げ出した。僕には、時任優紀の代わりになんてなれない・・・。だけど」

そこで一度言葉を区切り、僕は顔を上げて、太陽の目を正面から見つめた。

「だけど・・・織原さんの、本当の笑顔を見たいと思ったんだ。あの痛々しい噓の笑顔じゃなくて、心から笑ってるところを、僕は見たい」

言い切ると、喉の奥が熱くなった。
太陽は僕の言葉を遮ることなく、じっと聞き入っていた。そして、手元にあったスポーツドリンクを最後の一滴まで飲み干すと、ふっと小さく息を吐いた。

「・・・拓海」

太陽は空になったボトルを軽く指で弾き、鋭い、だけどどこか試すような視線を僕に向けてきた。

「それが簡単なことじゃないってわかってても、おまえは織原と本気で向き合う覚悟があるってことか?」

その言葉の重みに、一瞬、身体がすくみそうになる。
織原さんの過去に踏み込むということは、織原さんの涙を、苦しみを、全部一緒に背負うということだ。生半可な気持ちじゃ、きっと誰も救えない。

だけど、僕の答えはもう決まっていた。

「・・・うん。覚悟なんて、まだうまく言えないけど。でも、僕はもう逃げたくない」

僕が真っ直ぐに答えると、太陽はしばらく僕の顔をじっと見つめていた。
やがて、張り詰めていた太陽の表情がふっと緩み、いつもの悪戯っぽい顔に戻る。

「・・・おまえの覚悟はわかった。ぶっちゃけ無謀だとは思うが・・・」

太陽はそう言って苦笑いすると、一歩近づいてきて、僕の頭をガシガシと乱暴に撫で回した。

「わっ、ちょっと、太陽・・・っ!?」

「いいから黙って撫でられとけ!・・・俺もできる限りは協力してやるよ」

くしゃくしゃになった髪の隙間から見えた太陽の笑顔は、夕闇の中でもすごく眩しかった。

「織原をあんな風にさせちまったのは、近くに居ながら何もできなかった俺の責任でもあるからさ。おまえみたいなバカが突っ走るなら、少しは手伝ってやる」

太陽はそう言って、僕の肩をぽんと叩いた。
乱暴に扱われた頭のてっぺんが、なんだかじんわりと温かい。一人で抱え込んでいた重い塊が、太陽の手によって、少しだけ軽くなったような気がした。

「よし!なら、さっそく作戦会議だ!」

さっきまでのシリアスな空気はどこへやら、太陽は拳を握りしめて鼻息荒く身を乗り出してきた。完全にエンジンがかかってしまっている。

「え、今から!?もう遅いから、明日にしようぜ・・・」

すっかり夜の帳が下りた周囲を見回しながら、僕は思わず苦笑いをもらした。
時計の針はもう、夕飯の時間を指そうとしている。

「あ?なんだよ、おまえが言い出しっぺだろ!」

「そうだけど、それとこれとは別!ほら、帰るよ」

やれやれと首を振りながら歩き出す僕の後ろを、太陽が「ちぇー、せっかく盛り上がってきたのに!」と文句を言いながら追ってくる。

織原さんの抱える傷は、きっと僕たちが思っている以上に深くて重い。
だけど、僕の隣には太陽がいる。
夜道を並んで歩く影は、昨日よりもずっと力強く、前を向いていた。