翌朝、織原葵はいつも通りの『ひまわりの笑顔』で登校してきた。
太陽に借りた青いスポーツタオルを「昨日はありがとね!」と、綺麗に洗濯してラッピングまでして返す彼女を見て、僕は目が信じられなくなった。
(・・・本当に、昨日のあの子と同じ人なんだろうか)
前の席から聞こえてくる彼女の明るい笑い声が、今の僕にはどこか遠くの出来事のように聞こえる。
声をかけようとしても、どうしても喉が詰まってしまって、結局午前中は一度も彼女と目を合わせることができなかった。
「おい、拓海。昼飯行こうぜ」
4時間目が終わると同時に、太陽が僕の机を叩いた。その手にはコンビニの袋が握られている。
「・・・あ、うん。どこで食べる?」
「屋上。今日、天気いいしな」
太陽の後を追って、僕たちは立ち入り禁止の立て札をすり抜け、重い鉄扉を開けて屋上へと出た。
昨日のゲリラ豪雨が嘘みたいに、空はどこまでも澄み切った青色に広がっている。生温かった風は、少しだけ涼しい初夏の匂いに変わっていた。
フェンスに背中を預け、太陽は焼きそばパンを豪快に頬張る。僕は母が作ってくれた弁当を一口食べたものの、味がよく分からなかった。
「なぁ、太陽」
僕はペットボトルのお茶を一口飲んでから、ずっと胸につかえていた言葉をそれとなく切り出した。
「昨日のことなんだけど・・・」
太陽の、パンを動かす口がピタッと止まった。
彼は泳ぐように空を見上げると、ふぅ、と小さく息を吐き出す。
「・・・やっぱり、気になるよな」
「太陽に『誰にも言うな』って言われたけどさ・・・どうしても、あの時の織原さんの顔が頭から離れなくて。・・・あの場所で、一体何があったんだ?」
太陽はしばらく、黙っていた。
遠くで、グラウンドから聞こえるサッカー部の声や、女子生徒の黄色い笑い声が風に乗って響いてくる。この賑やかな学校のどこかに、今もあの笑顔のお面を被った織原さんがいる。
「あそこはさ・・・」
太陽は、食べかけのパンを見つめたまま、ぽつりと言った。
「ちょうど一年前に、あいつの彼氏が事故に遭った場所なんだよ」
――彼氏。
その言葉の重みに、息が詰まりそうになった。
「あいつの彼氏、時任優紀(ときとう ゆうき)って言うんだけどさ」
太陽は遠くの空を見つめたまま、その名前を愛おしそうに、だけど酷く悲しそうに口にした。
「サッカーがめちゃくちゃ上手くて、俺たちとは違う、サッカーの強豪校に推薦で行って、プロのユースチームにも入ってたんだ。俺たちサッカー部の間では有名な奴で、俺たちの憧れだった。織原とも中学の時から一緒で、誰もが認めるお似合いの二人だったんだ。・・・でも、一年前のあの日、あの交差点で、突っ込んできた車から織原を庇って、あいつの目の前で撥ねられたんだ」
太陽の声が、乾いた風に乗って消えていく。
「織原が持ってるあの腕時計、優紀の遺品なんだよ。事故の衝撃で、あいつらが待ち合わせしてた『あの時間』で、完全に針が止まったままなんだ。・・・それからだよ。織原が、学校で不自然なくらいずっと笑うようになったのは」
太陽は空を仰ぎ、眩しそうに目を細めた。
「優紀が死んだ時、織原は泣かなかった。泣かない代わりに、あいつの分まで笑うって決めたみたいに、ずっと無理して笑ってる。だけど・・・雨の日のあの時間だけは、あいつ、どうしてもあそこに行っちゃうんだよな。・・・なぁ、拓海」
太陽が焼きそばパンの袋をくしゃりと丸め、僕を真っ直ぐに見つめた。
「同情すんなとは言わねぇ。だけど、あいつの『止まった時間』を動かせる奴なんて、もうこの世界には誰にもいないんだよ」
突きつけられた太陽の言葉に、僕は何も言い返せなかった。
だけど、胸の奥が、どうしても納得いかないと叫んでいる。
あんなに痛々しく笑う彼女を、このまま見てるだけでいいはずがない。
(時任優紀・・・君が残していった腕時計の音は、今もあの子を苦しめているよ)
屋上に吹き抜ける初夏の風は、どこまでも青く、そして残酷なほどに澄み切っていた。
「じゃぁ、俺、部活行くから。また明日な、拓海」
「うん、また明日」
放課後、太陽はいつも通りスポーツバッグを肩に担いで、足早に教室を出ていった。
僕は一人、心ここにあらずのまま帰り支度を済ませ、校門を出た。だけど、駅へと続く坂道の途中で、スマートフォンのモバイルバッテリーを机の中に忘れてきたことに気づいた。
「・・・あ、最悪。取りに戻るか」
ため息を一つ吐き、来た道を引き返す。
夕方の校舎は、部活動の掛け声や吹奏楽部の楽器の音が遠くから響いているだけで、廊下はひっそりと静まり返っていた。
自分のクラスの教室の前にたどり着き、引き戸に手をかける。
(・・・誰かいる?)
そっと、数センチだけ戸を開けて、教室の中を覗き込む。
オレンジ色の狂おしいほどの夕光が、誰もいない机と椅子を長く、真っ赤に染めていた。
その光の中に、彼女がいた。
織原葵だ。
彼女は自分の席ではなく、一番窓際の、一番後ろの席に座っていた。そこは、今は誰も使っていない空席。
葵は、机の上にそっと、あの黒い男性用の腕時計を置いていた。
そして、腕時計のガラス面を愛おしそうに指先でなぞりながら、ぽつりと呟いた。
「・・・優紀」
その声を聴いた瞬間、心臓が凍りつくかと思った。
学校で見せるあの明るい声じゃない。掠れて、今にも消えてしまいそうな、泣き出しそうな声。
夕陽に照らされた彼女の横顔には、いつも僕たちを安心させるために張り付けている、あの完璧な『ひまわりの笑顔』はどこにもなかった。
ただ、じっと、静かな時計の針を見つめている。
「優紀、昨日ね。太陽がタオル貸してくれたんだよ。部活で使ってるやつ。汗臭いから、しっかり柔軟剤入れて洗って、今日返したの」
誰もいない空間に向かって、葵は独り言のように呟き続ける。
「・・・みんな優しいよ。転校生の瀬戸君も、すごく良い人。でもね・・・誰も、優紀の代わりにはなれないんだよ」
織原さんの目から、ぽろりと大粒の涙が溢れ、机の上の腕時計の文字盤に落ちて弾けた。
それでも彼女は、泣き顔のまま、無理やり口元を吊り上げて笑おうとした。
「だから私、明日もちゃんと笑うね。優紀の分まで、みんなに元気をあげるからね」
その言葉の痛々しさに、僕はこれ以上、見ていられなくなった。
本当は、今すぐ教室に飛び込んで、彼女に声をかけたかった。
だけど、今の僕には、彼女の涙を止めてあげられるような言葉が、どうしても見つからない。どんな言葉をかけたって、それは時任優紀の代わりにはなれない、薄っぺらな偽物に思えてしまうから。
(・・・行ってはダメだ。僕がここに居ていい理由なんて、どこにもない)
おまえにはどうしようもない――昼間、太陽に突き付けられた冷徹な現実が、今の僕の足を縛り付けている。
僕は引き戸にかけていた手を、そっと離した。
中を覗き込むことすら許されないような、圧倒的な拒絶感を前に、ただその場から引き下がるしかなかった。
オレンジ色の夕光が伸びる静かな廊下を、僕は一歩、また一歩と、逃げるように歩き出した。
次第に足が速くなり、気づけば僕は、夕暮れの校舎を駆け抜けていた。
校舎を飛び出し、赤く染まる坂道を息を切らしながら走り続ける。
すれ違う他校の生徒たちの笑い声が、今の僕にはひどく耳障りだった。
僕の頭の中には、誰もいない教室で、動かない腕時計に向かって健気に笑おうとしていた葵の顔が、焼き付いて離れない。
『誰も、優紀の代わりにはなれないんだよ・・・』
彼女あの掠れた声が、耳の奥で何度も何度もリフレインする。
代わりになんてなれなくていい、そんなことはわかっている。
だけど、あんな悲しい笑顔を、彼女にずっと一人で抱え込ませたままでいいはずがない。
夕陽が完全に沈み、街に紫色の夜が降りてくる。
何もできない自分の不甲斐なさに胸をかきむしられながら、僕はただ、夜の帳に包まれていく街をいつまでも見つめていた。
太陽に借りた青いスポーツタオルを「昨日はありがとね!」と、綺麗に洗濯してラッピングまでして返す彼女を見て、僕は目が信じられなくなった。
(・・・本当に、昨日のあの子と同じ人なんだろうか)
前の席から聞こえてくる彼女の明るい笑い声が、今の僕にはどこか遠くの出来事のように聞こえる。
声をかけようとしても、どうしても喉が詰まってしまって、結局午前中は一度も彼女と目を合わせることができなかった。
「おい、拓海。昼飯行こうぜ」
4時間目が終わると同時に、太陽が僕の机を叩いた。その手にはコンビニの袋が握られている。
「・・・あ、うん。どこで食べる?」
「屋上。今日、天気いいしな」
太陽の後を追って、僕たちは立ち入り禁止の立て札をすり抜け、重い鉄扉を開けて屋上へと出た。
昨日のゲリラ豪雨が嘘みたいに、空はどこまでも澄み切った青色に広がっている。生温かった風は、少しだけ涼しい初夏の匂いに変わっていた。
フェンスに背中を預け、太陽は焼きそばパンを豪快に頬張る。僕は母が作ってくれた弁当を一口食べたものの、味がよく分からなかった。
「なぁ、太陽」
僕はペットボトルのお茶を一口飲んでから、ずっと胸につかえていた言葉をそれとなく切り出した。
「昨日のことなんだけど・・・」
太陽の、パンを動かす口がピタッと止まった。
彼は泳ぐように空を見上げると、ふぅ、と小さく息を吐き出す。
「・・・やっぱり、気になるよな」
「太陽に『誰にも言うな』って言われたけどさ・・・どうしても、あの時の織原さんの顔が頭から離れなくて。・・・あの場所で、一体何があったんだ?」
太陽はしばらく、黙っていた。
遠くで、グラウンドから聞こえるサッカー部の声や、女子生徒の黄色い笑い声が風に乗って響いてくる。この賑やかな学校のどこかに、今もあの笑顔のお面を被った織原さんがいる。
「あそこはさ・・・」
太陽は、食べかけのパンを見つめたまま、ぽつりと言った。
「ちょうど一年前に、あいつの彼氏が事故に遭った場所なんだよ」
――彼氏。
その言葉の重みに、息が詰まりそうになった。
「あいつの彼氏、時任優紀(ときとう ゆうき)って言うんだけどさ」
太陽は遠くの空を見つめたまま、その名前を愛おしそうに、だけど酷く悲しそうに口にした。
「サッカーがめちゃくちゃ上手くて、俺たちとは違う、サッカーの強豪校に推薦で行って、プロのユースチームにも入ってたんだ。俺たちサッカー部の間では有名な奴で、俺たちの憧れだった。織原とも中学の時から一緒で、誰もが認めるお似合いの二人だったんだ。・・・でも、一年前のあの日、あの交差点で、突っ込んできた車から織原を庇って、あいつの目の前で撥ねられたんだ」
太陽の声が、乾いた風に乗って消えていく。
「織原が持ってるあの腕時計、優紀の遺品なんだよ。事故の衝撃で、あいつらが待ち合わせしてた『あの時間』で、完全に針が止まったままなんだ。・・・それからだよ。織原が、学校で不自然なくらいずっと笑うようになったのは」
太陽は空を仰ぎ、眩しそうに目を細めた。
「優紀が死んだ時、織原は泣かなかった。泣かない代わりに、あいつの分まで笑うって決めたみたいに、ずっと無理して笑ってる。だけど・・・雨の日のあの時間だけは、あいつ、どうしてもあそこに行っちゃうんだよな。・・・なぁ、拓海」
太陽が焼きそばパンの袋をくしゃりと丸め、僕を真っ直ぐに見つめた。
「同情すんなとは言わねぇ。だけど、あいつの『止まった時間』を動かせる奴なんて、もうこの世界には誰にもいないんだよ」
突きつけられた太陽の言葉に、僕は何も言い返せなかった。
だけど、胸の奥が、どうしても納得いかないと叫んでいる。
あんなに痛々しく笑う彼女を、このまま見てるだけでいいはずがない。
(時任優紀・・・君が残していった腕時計の音は、今もあの子を苦しめているよ)
屋上に吹き抜ける初夏の風は、どこまでも青く、そして残酷なほどに澄み切っていた。
「じゃぁ、俺、部活行くから。また明日な、拓海」
「うん、また明日」
放課後、太陽はいつも通りスポーツバッグを肩に担いで、足早に教室を出ていった。
僕は一人、心ここにあらずのまま帰り支度を済ませ、校門を出た。だけど、駅へと続く坂道の途中で、スマートフォンのモバイルバッテリーを机の中に忘れてきたことに気づいた。
「・・・あ、最悪。取りに戻るか」
ため息を一つ吐き、来た道を引き返す。
夕方の校舎は、部活動の掛け声や吹奏楽部の楽器の音が遠くから響いているだけで、廊下はひっそりと静まり返っていた。
自分のクラスの教室の前にたどり着き、引き戸に手をかける。
(・・・誰かいる?)
そっと、数センチだけ戸を開けて、教室の中を覗き込む。
オレンジ色の狂おしいほどの夕光が、誰もいない机と椅子を長く、真っ赤に染めていた。
その光の中に、彼女がいた。
織原葵だ。
彼女は自分の席ではなく、一番窓際の、一番後ろの席に座っていた。そこは、今は誰も使っていない空席。
葵は、机の上にそっと、あの黒い男性用の腕時計を置いていた。
そして、腕時計のガラス面を愛おしそうに指先でなぞりながら、ぽつりと呟いた。
「・・・優紀」
その声を聴いた瞬間、心臓が凍りつくかと思った。
学校で見せるあの明るい声じゃない。掠れて、今にも消えてしまいそうな、泣き出しそうな声。
夕陽に照らされた彼女の横顔には、いつも僕たちを安心させるために張り付けている、あの完璧な『ひまわりの笑顔』はどこにもなかった。
ただ、じっと、静かな時計の針を見つめている。
「優紀、昨日ね。太陽がタオル貸してくれたんだよ。部活で使ってるやつ。汗臭いから、しっかり柔軟剤入れて洗って、今日返したの」
誰もいない空間に向かって、葵は独り言のように呟き続ける。
「・・・みんな優しいよ。転校生の瀬戸君も、すごく良い人。でもね・・・誰も、優紀の代わりにはなれないんだよ」
織原さんの目から、ぽろりと大粒の涙が溢れ、机の上の腕時計の文字盤に落ちて弾けた。
それでも彼女は、泣き顔のまま、無理やり口元を吊り上げて笑おうとした。
「だから私、明日もちゃんと笑うね。優紀の分まで、みんなに元気をあげるからね」
その言葉の痛々しさに、僕はこれ以上、見ていられなくなった。
本当は、今すぐ教室に飛び込んで、彼女に声をかけたかった。
だけど、今の僕には、彼女の涙を止めてあげられるような言葉が、どうしても見つからない。どんな言葉をかけたって、それは時任優紀の代わりにはなれない、薄っぺらな偽物に思えてしまうから。
(・・・行ってはダメだ。僕がここに居ていい理由なんて、どこにもない)
おまえにはどうしようもない――昼間、太陽に突き付けられた冷徹な現実が、今の僕の足を縛り付けている。
僕は引き戸にかけていた手を、そっと離した。
中を覗き込むことすら許されないような、圧倒的な拒絶感を前に、ただその場から引き下がるしかなかった。
オレンジ色の夕光が伸びる静かな廊下を、僕は一歩、また一歩と、逃げるように歩き出した。
次第に足が速くなり、気づけば僕は、夕暮れの校舎を駆け抜けていた。
校舎を飛び出し、赤く染まる坂道を息を切らしながら走り続ける。
すれ違う他校の生徒たちの笑い声が、今の僕にはひどく耳障りだった。
僕の頭の中には、誰もいない教室で、動かない腕時計に向かって健気に笑おうとしていた葵の顔が、焼き付いて離れない。
『誰も、優紀の代わりにはなれないんだよ・・・』
彼女あの掠れた声が、耳の奥で何度も何度もリフレインする。
代わりになんてなれなくていい、そんなことはわかっている。
だけど、あんな悲しい笑顔を、彼女にずっと一人で抱え込ませたままでいいはずがない。
夕陽が完全に沈み、街に紫色の夜が降りてくる。
何もできない自分の不甲斐なさに胸をかきむしられながら、僕はただ、夜の帳に包まれていく街をいつまでも見つめていた。
