終礼のチャイムが鳴ると同時に、教室のあちらこちらから「うわ、最悪!」というブーイングが一斉に巻き起こった。
窓の外は、先ほどの曇り空が嘘のように、バケツをひっくり返したような大雨になっていた。
激しい雨粒が窓ガラスを激しく叩きつけ、遠くの景色を白く煙らせている。
「拓海、おまえ傘持ってる?」
鞄を肩にかけながら、太陽が僕の席にやってきた。
「いや、持ってない。天気予報見てなかったからさ」
「マジか、俺もなんだよ・・・でもさ、これ、ワンチャン、今が一番マシな方じゃね?これ以上ひどくなったら完全に足止め食らうぞ」
太陽は不敵にニヤリと笑うと、親指で外を指した。
「今のうちに、走って帰ろうぜ!」
「えっ、この中を?・・・まぁ、ここに残ってても帰れなくなるか」
「だろ?よし、ダッシュな!遅れた方が明日、ジュース奢り!」
「あ、ちょっと待ってよ!」
叫ぶ太陽の後を追って、僕も慌てて鞄を抱え、昇降口へと走った。
校舎の外へ飛び出した瞬間、ひんやりとした雨の匂いと、激しい水音が鼓膜を震わせる。
「うおっ、冷たっ!走れ走れー!」
太陽は制服のブレザーの裾をパタパタとさせながら、水たまりを豪快に跳ね上げて坂道を下っていく。僕も濡れるのをもはや諦めて、ローファーに染み込んでくる水の冷たさを感じながら、彼の背中を必死に追いかけた。
雨のカーテンが世界を遮り、すれ違う人も車も、みんな急ぎ足で通り過ぎていく。
アスファルトに叩きつけられる激しい雨の音のせいで、自分の呼吸の音さえも遠くへとかき消されてしまいそうだった。
駅へと続くいつもの交差点が見えてきた、その時。
僕の少し前を走っていた太陽が、急にその足を緩めた。
「・・・あれ?」
雨に濡れた髪をかき上げながら、太陽が怪訝そうな声を漏らす。
「どうしたんだよ、太陽。止まったら風邪ひく――」
太陽の視線を追うようにして、僕も前方に目を向けた。
そして、その場所に釘付けになった。
交差点のすぐ手前。ガードレールに囲まれた、何の変哲もない歩道の片隅。
そこに、一人の女の子が傘もささずにぽつんと立っていた。
ずぶ濡れになって制服のブラウスが肌に張り付き、綺麗なロングヘアの髪から水滴が滴り落ちている。
――織原葵だった。
彼女は傘もささず、まるで自分の身体が雨に濡れていることすら気づいていないかのように、ただじっとアスファルトの一点を見つめて立ち尽くしていた。
いつもクラスの真ん中でみんなを照らしていたあの眩しい笑顔は、どこにもない。雨の冷たさに耐えるように、小さな体をきつく震わせている。
「おい、太陽。あそこにいるの、織原さんだよな?こんな雨の中、傘もささずに何してるんだよ、あんなところで・・・」
声をかけようと一歩踏み出しかけた僕の肩を、太陽がぐっと掴んだ。
振り返ると、太陽はいつもの屈託のない笑顔を完全に消し去り、酷く痛々しいものを見るような目で葵を見つめていた。
「・・・あ」
太陽の唇から、かすかな声が漏れる。
「そうか、今日は・・・ここって、あいつの・・・」
そこまで言って、太陽は言葉を濁した。雨に濡れた顔を歪め、ぎゅっと拳を握りしめている。その表情は、僕の知らない『何か』を明らかに知っているような顔だった。
「太陽?どういうことだよ」
「・・・いや、ごめん、拓海。今は、声かけない方がいい。あいつ、あの場所の前にいる時は、誰の声も届かなくなるから」
太陽の言葉の意図が分からず、僕はもう一度、葵の方へと視線を戻した。
白く煙る雨の世界の中で、彼女は両手を胸の前でぎゅっと合わせるようにして、何かを必死に抱きしめていた。
祈るような、あるいは縋るような、あまりにも悲痛な後ろ姿。
その時、激しい風が吹き抜け、雨のカーテンが一瞬だけ薄くなった。
僕の目が、彼女の指の隙間にきらりと光る、鈍い銀色の金属を捉える。
――腕時計だ。
少し大きめの、男性用に見える古い腕時計。
彼女はそれを、まるで世界で一番大切な宝物であるかのように、濡れた両手で、壊れそうなほど強く抱きしめていた。
カチ、カチ、カチ。
5時間目の授業中、僕の耳の奥でずっと鳴り響いていたあの奇妙な音が、激しい雨の音に混じって、再び脳裏に蘇ってくる。
あの日、あの時間で、世界が止まってしまった女の子。
クラスの中心で笑う彼女の本当の姿を、僕は雨の境界線の向こう側に見た気がした。
太陽の顔を見ると、今まで見たことがないくらい暗かった。
けれど、太陽はきつく唇を噛みしめると、濡れた自分のスポーツカバンのジッパーを勢いよく引いた。中から取り出したのは、部活で使う予定だったのだろう、まだ綺麗に畳まれたの大きめのスポーツタオルだった。
「太陽・・・?」
太陽は僕の言葉には答えず、大きな足取りでガードレールの向こうへ、葵の後姿へと近づいていった。
そして、彼女の細い肩へ、後ろからそのタオルをふわりと、乱暴に、だけど優しく引っ掛けた。
ハッとして肩を揺らした葵が、ゆっくりと振り返る。
その瞳は、まだ過去の深い闇から戻りきっていないように、虚ろに泳いでいた。
「何してんだよ、織原」
太陽はあえていつも通りの、少し呆れたような、ぶっきらぼうな声を絞り出した。
「そんなところで突っ立てたら風邪ひくだろ。・・・ほら、早く帰れよ」
葵は自分の肩にかかったタオルの温もりを確かめるように小さく俯き、それから、ぎゅっと胸の前で握りしめていた腕時計を、大慌てでブレザーのポケットの奥へと隠した。
「・・・うん。ありがと、太陽」
消え入りそうな声だった。
だけど、僕たちの視線に気づいた瞬間、彼女の顔に、またあの、いつもの『お面』がピキリと張り付くのが分かった。
無理やり口元を上げて、僕たちを安心させるための、いつもの完璧なひまわりの笑顔。
「瀬戸君も、巻き込んじゃってごめんね。もう大丈夫だから、二人とも風邪ひかないうちに早く行きなよ!」
その笑顔が、今の僕には、何よりも痛々しく見えた。
本当は今にも泣きだしそうなのに、どうしてそんな風に笑えるんだろう。
「じゃぁな。タオルはいつでもいいから、返せよ」
太陽はそれ以上は何も言わず、葵に背を向けた。そして、僕の肩をぐっと引き寄せると、「行こうぜ、拓海」と、今度は一度も振り返らずに足早に歩き出した。
土砂降りの雨の中、僕は太陽にひかれるまま、坂道を下っていく。
一度だけ後ろを振り返ると、雨のカーテンの向こう、青いタオルを肩にかけた彼女の小さなシルエットが、ゆっくりと駅とは反対方向へ歩き出すのが見えた。
「・・・拓海」
隣を歩く太陽が、前を向いたまま、雨の音に負けないような低い声で呟いた。
「あいつのアレ、誰にも言うなよ。クラスの奴ら、誰も知らないから」
太陽の手が、かすかに震えているのが分かった。
僕はただ、ポケットに手を突っ込んで、短く「分かった」とだけ答えた。
僕のブレザーのポケットの中には、何も入っていない。
だけど、耳の奥ではまだ、彼女のポケットから聞こえたあの音が、カチカチと規則正しく鳴り響いているような気がしてならなかった。
窓の外は、先ほどの曇り空が嘘のように、バケツをひっくり返したような大雨になっていた。
激しい雨粒が窓ガラスを激しく叩きつけ、遠くの景色を白く煙らせている。
「拓海、おまえ傘持ってる?」
鞄を肩にかけながら、太陽が僕の席にやってきた。
「いや、持ってない。天気予報見てなかったからさ」
「マジか、俺もなんだよ・・・でもさ、これ、ワンチャン、今が一番マシな方じゃね?これ以上ひどくなったら完全に足止め食らうぞ」
太陽は不敵にニヤリと笑うと、親指で外を指した。
「今のうちに、走って帰ろうぜ!」
「えっ、この中を?・・・まぁ、ここに残ってても帰れなくなるか」
「だろ?よし、ダッシュな!遅れた方が明日、ジュース奢り!」
「あ、ちょっと待ってよ!」
叫ぶ太陽の後を追って、僕も慌てて鞄を抱え、昇降口へと走った。
校舎の外へ飛び出した瞬間、ひんやりとした雨の匂いと、激しい水音が鼓膜を震わせる。
「うおっ、冷たっ!走れ走れー!」
太陽は制服のブレザーの裾をパタパタとさせながら、水たまりを豪快に跳ね上げて坂道を下っていく。僕も濡れるのをもはや諦めて、ローファーに染み込んでくる水の冷たさを感じながら、彼の背中を必死に追いかけた。
雨のカーテンが世界を遮り、すれ違う人も車も、みんな急ぎ足で通り過ぎていく。
アスファルトに叩きつけられる激しい雨の音のせいで、自分の呼吸の音さえも遠くへとかき消されてしまいそうだった。
駅へと続くいつもの交差点が見えてきた、その時。
僕の少し前を走っていた太陽が、急にその足を緩めた。
「・・・あれ?」
雨に濡れた髪をかき上げながら、太陽が怪訝そうな声を漏らす。
「どうしたんだよ、太陽。止まったら風邪ひく――」
太陽の視線を追うようにして、僕も前方に目を向けた。
そして、その場所に釘付けになった。
交差点のすぐ手前。ガードレールに囲まれた、何の変哲もない歩道の片隅。
そこに、一人の女の子が傘もささずにぽつんと立っていた。
ずぶ濡れになって制服のブラウスが肌に張り付き、綺麗なロングヘアの髪から水滴が滴り落ちている。
――織原葵だった。
彼女は傘もささず、まるで自分の身体が雨に濡れていることすら気づいていないかのように、ただじっとアスファルトの一点を見つめて立ち尽くしていた。
いつもクラスの真ん中でみんなを照らしていたあの眩しい笑顔は、どこにもない。雨の冷たさに耐えるように、小さな体をきつく震わせている。
「おい、太陽。あそこにいるの、織原さんだよな?こんな雨の中、傘もささずに何してるんだよ、あんなところで・・・」
声をかけようと一歩踏み出しかけた僕の肩を、太陽がぐっと掴んだ。
振り返ると、太陽はいつもの屈託のない笑顔を完全に消し去り、酷く痛々しいものを見るような目で葵を見つめていた。
「・・・あ」
太陽の唇から、かすかな声が漏れる。
「そうか、今日は・・・ここって、あいつの・・・」
そこまで言って、太陽は言葉を濁した。雨に濡れた顔を歪め、ぎゅっと拳を握りしめている。その表情は、僕の知らない『何か』を明らかに知っているような顔だった。
「太陽?どういうことだよ」
「・・・いや、ごめん、拓海。今は、声かけない方がいい。あいつ、あの場所の前にいる時は、誰の声も届かなくなるから」
太陽の言葉の意図が分からず、僕はもう一度、葵の方へと視線を戻した。
白く煙る雨の世界の中で、彼女は両手を胸の前でぎゅっと合わせるようにして、何かを必死に抱きしめていた。
祈るような、あるいは縋るような、あまりにも悲痛な後ろ姿。
その時、激しい風が吹き抜け、雨のカーテンが一瞬だけ薄くなった。
僕の目が、彼女の指の隙間にきらりと光る、鈍い銀色の金属を捉える。
――腕時計だ。
少し大きめの、男性用に見える古い腕時計。
彼女はそれを、まるで世界で一番大切な宝物であるかのように、濡れた両手で、壊れそうなほど強く抱きしめていた。
カチ、カチ、カチ。
5時間目の授業中、僕の耳の奥でずっと鳴り響いていたあの奇妙な音が、激しい雨の音に混じって、再び脳裏に蘇ってくる。
あの日、あの時間で、世界が止まってしまった女の子。
クラスの中心で笑う彼女の本当の姿を、僕は雨の境界線の向こう側に見た気がした。
太陽の顔を見ると、今まで見たことがないくらい暗かった。
けれど、太陽はきつく唇を噛みしめると、濡れた自分のスポーツカバンのジッパーを勢いよく引いた。中から取り出したのは、部活で使う予定だったのだろう、まだ綺麗に畳まれたの大きめのスポーツタオルだった。
「太陽・・・?」
太陽は僕の言葉には答えず、大きな足取りでガードレールの向こうへ、葵の後姿へと近づいていった。
そして、彼女の細い肩へ、後ろからそのタオルをふわりと、乱暴に、だけど優しく引っ掛けた。
ハッとして肩を揺らした葵が、ゆっくりと振り返る。
その瞳は、まだ過去の深い闇から戻りきっていないように、虚ろに泳いでいた。
「何してんだよ、織原」
太陽はあえていつも通りの、少し呆れたような、ぶっきらぼうな声を絞り出した。
「そんなところで突っ立てたら風邪ひくだろ。・・・ほら、早く帰れよ」
葵は自分の肩にかかったタオルの温もりを確かめるように小さく俯き、それから、ぎゅっと胸の前で握りしめていた腕時計を、大慌てでブレザーのポケットの奥へと隠した。
「・・・うん。ありがと、太陽」
消え入りそうな声だった。
だけど、僕たちの視線に気づいた瞬間、彼女の顔に、またあの、いつもの『お面』がピキリと張り付くのが分かった。
無理やり口元を上げて、僕たちを安心させるための、いつもの完璧なひまわりの笑顔。
「瀬戸君も、巻き込んじゃってごめんね。もう大丈夫だから、二人とも風邪ひかないうちに早く行きなよ!」
その笑顔が、今の僕には、何よりも痛々しく見えた。
本当は今にも泣きだしそうなのに、どうしてそんな風に笑えるんだろう。
「じゃぁな。タオルはいつでもいいから、返せよ」
太陽はそれ以上は何も言わず、葵に背を向けた。そして、僕の肩をぐっと引き寄せると、「行こうぜ、拓海」と、今度は一度も振り返らずに足早に歩き出した。
土砂降りの雨の中、僕は太陽にひかれるまま、坂道を下っていく。
一度だけ後ろを振り返ると、雨のカーテンの向こう、青いタオルを肩にかけた彼女の小さなシルエットが、ゆっくりと駅とは反対方向へ歩き出すのが見えた。
「・・・拓海」
隣を歩く太陽が、前を向いたまま、雨の音に負けないような低い声で呟いた。
「あいつのアレ、誰にも言うなよ。クラスの奴ら、誰も知らないから」
太陽の手が、かすかに震えているのが分かった。
僕はただ、ポケットに手を突っ込んで、短く「分かった」とだけ答えた。
僕のブレザーのポケットの中には、何も入っていない。
だけど、耳の奥ではまだ、彼女のポケットから聞こえたあの音が、カチカチと規則正しく鳴り響いているような気がしてならなかった。
