ノートの端に、ローファーのイラストを描き殴っていた、
キーンコーンカーンコーン、と午前中の終わりを告げるチャイムが響き、我に返って慌てて消しゴムを動かす。
結局、午前中の授業の内容はほとんど頭に入ってこなかった。
教科書を開いて黒板を書き写していても、どうしても視界の端に、すぐ前の席の綺麗な黒髪ストレートが映り込んでしまう。
授業中、彼女は熱心にノートを取り、先生の冗談に小さく肩を揺らして笑っていた。どこからどう見ても、クラスの人気者の日常だ。
(・・・やっぱり、昨日のあれは見間違いだったのかな)
転校初日の緊張が見せた、僕の錯覚。そう割り切ってしまえば楽なのに、あのガラス細工のように脆そうだった横顔が、どうしても胸の奥に引っかかていた。
「おーい、拓海!一緒にお昼食おうぜ」
そう言ってガタガタと勢いよく机をくっつけてくれたのは、前の学校でサッカー部だったと聞いて、初日に「俺もサッカー部なんだ!」と声をかけてきてくれた、松永太陽(まつなが たいよう)だった。その名前の通り、屈託のない弾けるような笑顔で、クラスの男子の輪の中心にいるような奴だ。
「あ、うん、ありがとう」
太陽の持ってきてくれた明るい空気に救われながら、母が作ってくれた弁当を食べ始める。前の学校でのポジションの話や、この学校のサッカー部の先輩たちの噂話。太陽が面白おかしく話してくれるおかげで、僕の緊張も少しずつほぐれていった。
そうして、あっという間にお昼ご飯を食べ終えた頃。
影が差したかと思うと、僕たちの机の前に、何人かの女子の集団が立ち止まった。
「瀬戸君、ご飯食べ終わった?」
弾むような声の主は、織原葵だった。隣には、休み時間等に、彼女の周りにいる女子グループの二人が並んでいる。
「うん、ちょうど食べ終わったところだけど・・・」
「よかった!あ、太陽、邪魔しちゃってごめんね」
葵が悪戯っぽく笑うと、太陽は「全然!」と大きく手を振った。
「昨日、先生から『瀬戸に軽く構内を案内してやってくれ』って頼まれたんだよね。お昼休み、まだ時間あるし、もしよかったら特別ツアー行かない?」
「お、それ俺もついて行っていい?」
すかさず太陽が身を乗り出す。
「実は俺、この前世界史の準備室行くとき迷子になったんだわ。案内してよ、織原」
「ちょっと、太陽は二年目でしょ!」
葵が呆れたように笑い、周りの女子たちも「太陽君らしいねー」とクスクス笑う。教室の空気が、さらに一段と明るくなった。
「まぁ、いいよ。瀬戸君のボディーガード代わりになってね。じゃぁ、行内特別ツアー一行、出発!」
葵が楽しそうに先頭を歩き出し、太陽が「ほら行くぞ、拓海」と僕の肩を軽く叩く。
僕は「あ、うん」と微笑みながら、賑やかな彼らの後ろを追いかけた。
「――で、こっちが特別教室棟。理科室の前の骨格標本、夜見るとマジで怖いから気をつけろよ?」
「ちょっと太陽君、変な脅し方しないでよ」
太陽が身振り手振りを交えて学校の「怪談」を話し、女子たちがそれにツッコミを入れる。そんな賑やかなやり取りを聞きながら歩いているうちに、ツアーの一行は管理棟の静かな廊下へと差し掛かった。
「はい、ここが図書室だよ。うちの学校、無駄に小説とか漫画のラインナップが充実してるから、雨の日の暇つぶしには最高だよ」
葵が大きな木製の扉を開けると、ひんやりとした空気と共に、紙とインクの独特な匂いが僕たちを包み込んだ。お昼休みということもあって、何人かの生徒が静かに本をめくっている。
「へぇ、結構広いんだな」
「でしょ?瀬戸君は前の学校でも本読んだりしてた?」
「いや、あんまり。基本、部活ばっかりだったし、休み時間とかも友達と校庭で遊ぶことの方が多かったかな」
「あはは、太陽と一緒だね。あ、私ちょっと読みたい本探してきていい?みんなは適当に見てて!」
葵はそう言って、僕たちに小さく手を振ると、迷いのない足取りで奥の本棚へと歩いて行った。
「じゃぁ、俺、サッカー雑誌のバックナンバーあるか見てくるわ!」と太陽も反対側へ向かっていき、女子グループの子たちも新刊コーナーへ向かう。
一人残された僕は、なんとなく、葵が向かった奥の本棚の方へとゆっくり歩みを進めた。
背表紙の並ぶ静かな通路を進み、少し開けた窓際の閲覧スペースに差し掛かった、その時だった。
大きな窓から差し込む初夏の光の中に、葵がぽつんと佇んでいた。
彼女の視線の先にあるのは、二人掛けの小さな机。
その前で、彼女は一冊の古びた本――おそらくスポーツ雑誌か何かのバックナンバーを両手で大切そうに抱え、動かずにいた。
(・・・織原さん?)
声をかけようとして、言葉が喉の奥で止まる。
そこには、クラスのみんなの前で見せる『ひまわり』のような笑顔は、影も形もなかった。
――ここで、彼と一緒にあの本を読んだな・・・。
そんな切ない声が、静寂に満ちた図書室に響いてきそうなほど、彼女の横顔は今にも泣き出しそうに歪んでいた。愛おしそうに机を見つめる瞳は、ここではないどこか、遠い過去の景色を見つめているようだった。
「おーい、拓海ー!織原ー!そろそろ予鈴鳴るぞー!」
遠くから太陽の呑気な声が響き、図書室の空気が一気に現実へと引き戻される。
ハッとしたように葵が肩を揺らし、抱えていた本を大慌てで棚へと戻した。
「あ、優紀・・・じゃなくて、太陽、声大きい!図書室なんだから、静かにしてよー」
振り返りながら太陽に文句を言う彼女の顔には、もう、いつもの完璧な笑顔が張り付いていた。あまりの切り替えの早さに、僕の胸はきゅっと締め付けられる。
「瀬戸君、いこっか。授業に遅れちゃう」
僕の横を通り過ぎる時、葵はいつも通りに微笑みかけてくれた。
だけど、僕は、彼女のポケットの中で、何かがかすかに擦れ合う小さな音を聞き逃さなかった。それは、カチカチという機会の音ではなく、いつからかずっと止まったままの、重い金属の擦れる音だったような気がした。
5時間目のチャイムが鳴り、世界史の先生が黒板にチョークを走らせる。
教室中にカリカリとノートを写す音が響く中、僕のシャープペンシルを握る手は、さっきから完全に止まっていた。
(・・・一体、何を考えてたんだろう)
目の前には、いつもと変わらない織原葵の背中がある。
綺麗に切り揃えられた髪が、先生の板書を追うたびに小さく揺れている。時折、隣の席の女子と教科書を見せ合ってクスクスと笑い合っている姿は、どこからどう見ても「クラスの人気者の織原さん」だ。
だけど、僕の脳裏には、あの図書室の窓際で、泣き出しそうな顔で古い雑誌を抱きしめていた彼女の姿が焼き付いて離れなかった。
『ここで彼と一緒にあの本を読んだな・・・』
彼女がそう呟いたわけじゃない。ただの僕の妄想だ。
でも、あの時の彼女の瞳は、明らかに僕たちのいる「現在」ではなく、遠い「過去」の誰かを見つめているような気がした。
それに、あの時ポケットの奥から聞こえた、カチリ、と重い金属が擦れ合うような音。あれは一体、何の音だったんだろう。まるで、何かのネジを巻くような、あるいは刻むのをやめてしまった時計の秒針が、必死に抵抗しているような・・・そんなカチカチという奇妙な音が、どうしても耳から離れなかった。
「――おい、拓海。ここ、次のテストに出るからマークしとけよ」
隣の席から、太陽が教科書で顔を隠しながら、小さな声で囁いてくれた。
「あ、うん。ありがとう・・・」
慌てて教科書に目に落とすものの、文字が滑って全く頭に入ってこない。
前の学校では、授業中といえばサッカーのことばかり考えていた。なのに、転校してまだ二日目の僕の頭の中は、ろくに話したこともない前の席の女の子のことで埋め尽くされている。
窓の外を見上げると、お昼休みの青空が嘘のように、いつの間にか厚い灰色の雲が空を覆い始めていた。
生ぬるい風がカーテンを大きく揺らす。
ねぇ、織原さん。
君はいつもそうやって、完璧な笑顔のお面を張り付けて、一人で何を守っているの?
遠くでゴロゴロと、雷の音が小さく響いた。
放課後には本格的な雨になりそうだった。
キーンコーンカーンコーン、と午前中の終わりを告げるチャイムが響き、我に返って慌てて消しゴムを動かす。
結局、午前中の授業の内容はほとんど頭に入ってこなかった。
教科書を開いて黒板を書き写していても、どうしても視界の端に、すぐ前の席の綺麗な黒髪ストレートが映り込んでしまう。
授業中、彼女は熱心にノートを取り、先生の冗談に小さく肩を揺らして笑っていた。どこからどう見ても、クラスの人気者の日常だ。
(・・・やっぱり、昨日のあれは見間違いだったのかな)
転校初日の緊張が見せた、僕の錯覚。そう割り切ってしまえば楽なのに、あのガラス細工のように脆そうだった横顔が、どうしても胸の奥に引っかかていた。
「おーい、拓海!一緒にお昼食おうぜ」
そう言ってガタガタと勢いよく机をくっつけてくれたのは、前の学校でサッカー部だったと聞いて、初日に「俺もサッカー部なんだ!」と声をかけてきてくれた、松永太陽(まつなが たいよう)だった。その名前の通り、屈託のない弾けるような笑顔で、クラスの男子の輪の中心にいるような奴だ。
「あ、うん、ありがとう」
太陽の持ってきてくれた明るい空気に救われながら、母が作ってくれた弁当を食べ始める。前の学校でのポジションの話や、この学校のサッカー部の先輩たちの噂話。太陽が面白おかしく話してくれるおかげで、僕の緊張も少しずつほぐれていった。
そうして、あっという間にお昼ご飯を食べ終えた頃。
影が差したかと思うと、僕たちの机の前に、何人かの女子の集団が立ち止まった。
「瀬戸君、ご飯食べ終わった?」
弾むような声の主は、織原葵だった。隣には、休み時間等に、彼女の周りにいる女子グループの二人が並んでいる。
「うん、ちょうど食べ終わったところだけど・・・」
「よかった!あ、太陽、邪魔しちゃってごめんね」
葵が悪戯っぽく笑うと、太陽は「全然!」と大きく手を振った。
「昨日、先生から『瀬戸に軽く構内を案内してやってくれ』って頼まれたんだよね。お昼休み、まだ時間あるし、もしよかったら特別ツアー行かない?」
「お、それ俺もついて行っていい?」
すかさず太陽が身を乗り出す。
「実は俺、この前世界史の準備室行くとき迷子になったんだわ。案内してよ、織原」
「ちょっと、太陽は二年目でしょ!」
葵が呆れたように笑い、周りの女子たちも「太陽君らしいねー」とクスクス笑う。教室の空気が、さらに一段と明るくなった。
「まぁ、いいよ。瀬戸君のボディーガード代わりになってね。じゃぁ、行内特別ツアー一行、出発!」
葵が楽しそうに先頭を歩き出し、太陽が「ほら行くぞ、拓海」と僕の肩を軽く叩く。
僕は「あ、うん」と微笑みながら、賑やかな彼らの後ろを追いかけた。
「――で、こっちが特別教室棟。理科室の前の骨格標本、夜見るとマジで怖いから気をつけろよ?」
「ちょっと太陽君、変な脅し方しないでよ」
太陽が身振り手振りを交えて学校の「怪談」を話し、女子たちがそれにツッコミを入れる。そんな賑やかなやり取りを聞きながら歩いているうちに、ツアーの一行は管理棟の静かな廊下へと差し掛かった。
「はい、ここが図書室だよ。うちの学校、無駄に小説とか漫画のラインナップが充実してるから、雨の日の暇つぶしには最高だよ」
葵が大きな木製の扉を開けると、ひんやりとした空気と共に、紙とインクの独特な匂いが僕たちを包み込んだ。お昼休みということもあって、何人かの生徒が静かに本をめくっている。
「へぇ、結構広いんだな」
「でしょ?瀬戸君は前の学校でも本読んだりしてた?」
「いや、あんまり。基本、部活ばっかりだったし、休み時間とかも友達と校庭で遊ぶことの方が多かったかな」
「あはは、太陽と一緒だね。あ、私ちょっと読みたい本探してきていい?みんなは適当に見てて!」
葵はそう言って、僕たちに小さく手を振ると、迷いのない足取りで奥の本棚へと歩いて行った。
「じゃぁ、俺、サッカー雑誌のバックナンバーあるか見てくるわ!」と太陽も反対側へ向かっていき、女子グループの子たちも新刊コーナーへ向かう。
一人残された僕は、なんとなく、葵が向かった奥の本棚の方へとゆっくり歩みを進めた。
背表紙の並ぶ静かな通路を進み、少し開けた窓際の閲覧スペースに差し掛かった、その時だった。
大きな窓から差し込む初夏の光の中に、葵がぽつんと佇んでいた。
彼女の視線の先にあるのは、二人掛けの小さな机。
その前で、彼女は一冊の古びた本――おそらくスポーツ雑誌か何かのバックナンバーを両手で大切そうに抱え、動かずにいた。
(・・・織原さん?)
声をかけようとして、言葉が喉の奥で止まる。
そこには、クラスのみんなの前で見せる『ひまわり』のような笑顔は、影も形もなかった。
――ここで、彼と一緒にあの本を読んだな・・・。
そんな切ない声が、静寂に満ちた図書室に響いてきそうなほど、彼女の横顔は今にも泣き出しそうに歪んでいた。愛おしそうに机を見つめる瞳は、ここではないどこか、遠い過去の景色を見つめているようだった。
「おーい、拓海ー!織原ー!そろそろ予鈴鳴るぞー!」
遠くから太陽の呑気な声が響き、図書室の空気が一気に現実へと引き戻される。
ハッとしたように葵が肩を揺らし、抱えていた本を大慌てで棚へと戻した。
「あ、優紀・・・じゃなくて、太陽、声大きい!図書室なんだから、静かにしてよー」
振り返りながら太陽に文句を言う彼女の顔には、もう、いつもの完璧な笑顔が張り付いていた。あまりの切り替えの早さに、僕の胸はきゅっと締め付けられる。
「瀬戸君、いこっか。授業に遅れちゃう」
僕の横を通り過ぎる時、葵はいつも通りに微笑みかけてくれた。
だけど、僕は、彼女のポケットの中で、何かがかすかに擦れ合う小さな音を聞き逃さなかった。それは、カチカチという機会の音ではなく、いつからかずっと止まったままの、重い金属の擦れる音だったような気がした。
5時間目のチャイムが鳴り、世界史の先生が黒板にチョークを走らせる。
教室中にカリカリとノートを写す音が響く中、僕のシャープペンシルを握る手は、さっきから完全に止まっていた。
(・・・一体、何を考えてたんだろう)
目の前には、いつもと変わらない織原葵の背中がある。
綺麗に切り揃えられた髪が、先生の板書を追うたびに小さく揺れている。時折、隣の席の女子と教科書を見せ合ってクスクスと笑い合っている姿は、どこからどう見ても「クラスの人気者の織原さん」だ。
だけど、僕の脳裏には、あの図書室の窓際で、泣き出しそうな顔で古い雑誌を抱きしめていた彼女の姿が焼き付いて離れなかった。
『ここで彼と一緒にあの本を読んだな・・・』
彼女がそう呟いたわけじゃない。ただの僕の妄想だ。
でも、あの時の彼女の瞳は、明らかに僕たちのいる「現在」ではなく、遠い「過去」の誰かを見つめているような気がした。
それに、あの時ポケットの奥から聞こえた、カチリ、と重い金属が擦れ合うような音。あれは一体、何の音だったんだろう。まるで、何かのネジを巻くような、あるいは刻むのをやめてしまった時計の秒針が、必死に抵抗しているような・・・そんなカチカチという奇妙な音が、どうしても耳から離れなかった。
「――おい、拓海。ここ、次のテストに出るからマークしとけよ」
隣の席から、太陽が教科書で顔を隠しながら、小さな声で囁いてくれた。
「あ、うん。ありがとう・・・」
慌てて教科書に目に落とすものの、文字が滑って全く頭に入ってこない。
前の学校では、授業中といえばサッカーのことばかり考えていた。なのに、転校してまだ二日目の僕の頭の中は、ろくに話したこともない前の席の女の子のことで埋め尽くされている。
窓の外を見上げると、お昼休みの青空が嘘のように、いつの間にか厚い灰色の雲が空を覆い始めていた。
生ぬるい風がカーテンを大きく揺らす。
ねぇ、織原さん。
君はいつもそうやって、完璧な笑顔のお面を張り付けて、一人で何を守っているの?
遠くでゴロゴロと、雷の音が小さく響いた。
放課後には本格的な雨になりそうだった。
