クラスの中心で笑う彼女は、あの日、あの時間で止まった時計を抱きしめている

グランドにホイッスルが響き、昼休みのミニゲームが始まった。
僕は久しぶりの土の感触を確かめながら、大きく息を吸い込んで走り出す。昨日の織原さんの涙、今朝の合わない視線――胸中のモヤモヤを全部振り払うように、全力でボールを追いかけた。

「拓海、パス!」

太陽の声と同時に、鋭いボールが転がってくる。
僕はそれを足元にピタリと収めると、相手ディフェンダーの逆を突く鋭いフェイントで抜き去った。そのまま前線へ、絶妙なカーブをかけたスルーパスを送り出す。

「――っ!」

その瞬間、ピッチのすぐ脇で見ていた太陽の動きが、完全に止まった。
ボールを奪いに行くことも忘れ、目を見開いて僕を凝視している。

それは、グラウンドの端で見守っていた織原さんも同じだった。
友達と並んで座っていた彼女は、弾かれたように立ち上がり、両手でそっと口元を押さえている。

二人の瞳に映っていたのは、僕の姿ではなかった。
独特のステップの踏み方、パスを出す直前の、ほんの一瞬の首の振り方――。
それは、一年前までグラウンドで輝いていた、時任君のプレースタイルに驚くほど酷似していた。

(あのステップ・・・それに、パスを出す前のあの独特な首の振り方・・・。嘘だろ、優紀と、似てる・・・?)

太陽の脳裏に、時任君とサッカーの試合をした時の記憶が鮮明に蘇る。
呆然と立ち尽くし、完全に足の止まった太陽。

「――太陽っ!」

グラウンドを裂くような僕の声が、太陽の鼓膜を強く跳ね上げた。
ハッと我に返った太陽の視線が、僕の目と真っ直ぐに交わる。僕はディフェンダーを引きつけながら、一瞬だけ、誰もいない相手ゴールの裏のスペースへと視線で合図を送った。

(――そこへ走れ、太陽!)

「・・・チッ、今更あいつの幻影追ってんじゃねぇよ、俺は!」

太陽は小さく悪態をつくと、過去を振り払うように猛然とダッシュを開始した。
驚くべき搬送速度ディフェンスの裏へと抜け出す太陽の足元へ、僕は相手の足が届かない絶妙な軌道のパスを送り出す。

ドンピシャのタイミングでボールを収めた太陽が、そのまま豪快に右足を振り抜いた。

ネットが激しく揺れる。
見事なゴールに、グラウンド中から大歓声が沸き起こった。

「しゃあ!入ったーーっ!」

太陽が拳を突き上げ、グラウンドがクラスメイトたちの歓声と拍手に包まれる。
太陽はハイタッチを交わそうと僕に駆け寄り、「ナイスパス、拓海!」と僕の肩を激しく揺らした。

――キーンコーンカーンコーン・・・

その熱気が冷めやらぬうちに、昼休みの終わりを告げる予鈴がグラウンドに響き渡る。
「あ、やべっ、戻るぞ!」「今日の瀬戸マジで凄かったな!」なんて声が周囲から上がり、みんながぞろぞろと校舎へと歩き出し始めた。

そんな賑やかな喧騒の中で、織原さんだけが、ベンチの横で立ち尽くしたまま微動だにしていなかった。

見開かれた瞳は、もう誰もいないゴール前をじっと見つめている。
胸が苦しそうに上下し、両手で固く握りしめた制服のスカートが、小刻みに震えていた。

「・・・葵?葵、大丈夫?」

怪訝そうに顔を覗き込んできた友達の声に、織原さんは弾かれたように肩を震わせた。

「え・・・?あ、うん・・・。ごめん、何でもない、よ・・・」

そう言って友達に微笑み返そうとした彼女の顔は、いつもの完璧な仮面ではなく、今にも崩れ落ちそうなほど強張っていた。
おぼつかない足取りで歩き出す彼女の背中を、僕は遠くから見つめることしかできなかった。

キーンコーンカーンコーン――。

授業の始まりを告げる本鈴が鳴り響き、賑やかだった教室が一気に静まり返る。
教科書を開くカサカサという音だけと、黒板にチョークが当たる規則正しい音だけが、張り詰めた空気の中に溶けていく。

織原さんは、じっと前を向いたまま、一度も後ろを振り返らない。

そんな中、斜め後ろの席に座る太陽は、ノートを開いたままペンを動かさずにいた。
太陽の視線は、時折、僕の方へと向けられる。その瞳はいつもの陽気なものではなく、深く、何かを測りかねるように重かった。

(・・・あのステップ、それに、あのパスのタイミング・・・)

太陽は、グラウンドでの僕の動きを頭の中で何度も巻き戻していた。

(マジで・・・優紀にちょっと似てた・・・。ただの偶然か?いや、だけど・・・)

前の学校でサッカー部だったという拓海。優紀とは会ったこともないはずの男。
それなのに、あいつのプレーには、自分が誰よりもよく知っている、今は亡き親友の面影が確かに混ざり合っていた。

太陽は小さく息を吐き、ペンを握る手にぐっと力を込める。
偶然にしては出来過ぎているその既視感に、太陽の胸の奥で、言いようのないざわつきが静かに広がっていた。

(・・・さっきの、パスの出し方・・・)

織原さんはノートの端を指先で強く白むほど握りしめていた。
黒板の文字なんて、もう一つも頭に入っていない。視界がかすむほどの混乱が、彼女の胸を支配していた。

(嘘・・・だって、そんなはずない。優紀と瀬戸君は、会ったこともないのに・・・。昨日、瀬戸君にあんな話をされたから・・・私の頭が、おかしくなっちゃったのかな・・・?)

自分の都合のいい幻影を拓海に重ねてしまったのではないか。そんな自責と戸惑いで、彼女の心は小さなパニックを起こしていた。

そんな二人の複雑な思考の渦を、僕は知る由もない。
ただ、授業が始まってからずっと、僕の背中には奇妙な熱が突き刺さっていた。

(・・・なんか、太陽がめっちゃこっち見てる気がする・・・)

チラリと斜め後ろの席に視線をやると、やっぱり太陽がノートも取らずに、何かを値踏みするような真剣な目で僕を見つめている。いつもなら授業中にこっそり変顔をしてくるような奴なのに、今の目は完全に「ガチ」だ。

(僕、さっきのミニゲームで何か変なことしちゃったかな・・・。それとも、昨日織原さんを泣かせたこと、やっぱり怒ってるんだろうか・・・)

太陽の意図が見えない視線に、僕は居心地の悪さを感じながら、小さく身を縮めることしかできなかった。
教室のエアコンの微かな作動音だけが、僕たち三人の張り詰めた沈黙を、じりじりと引き延ばしていく。

キーンコーンカーンコーン――。

帰りのホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴り、静まり返っていた教室が、一気に放課後の賑やかさを取り戻す。
みんなが帰宅や部活の準備でバタバタと動き出す中、太陽がゆっくりと僕の席に歩み寄ってきた。

「なぁ、拓海。おまえ・・・」

いつになく真剣な、どこか固い声。
太陽がその先を言いかけ、僕が身を固くしたその瞬間、教室の後ろのドアから大きな声が響いた。

「おーい、太陽!何してんだ、早く着替えに行こうぜ!キャプテン怒るぞ!」

別のクラスのサッカー部員が、太陽を呼びに来たのだ。

「あ・・・。おう、すぐ行く!」

太陽はドアの方へと応えると、もう一度僕をじっと見つめた。その瞳には、どうしても確かめたい何かと、躊躇いが混ざり合っている。

「・・・いや、なんでもねぇわ。また明日な!」

結局、太陽はそれだけ言うと、少し後ろ髪を引かれるような顔で教室を飛び出していった。

気づけば、教室には僕と、数人の生徒しか残っていない。
カバンを肩にかけて帰ろうとした時、すれ違いざま、織原さんの席が目に入った。

彼女は帰る支度は終えているのに、なぜ席から立ち上がらず、机の上の筆箱をじっと見つめていた。僕の足音に気づいたのか、彼女の長い睫毛が小さく跳ねる。

織原さんは、ほんの少しだけ唇を動かした。
何かを言いかけるように。だけど、すぐにその唇を強く結び、僕から視線を逸らして立ち上がってしまった。

「・・・また、明日。瀬戸君」

いつも通りの綺麗な、だけどどこか震えているような声。
彼女はそのまま、僕の横をすり抜けて教室を出て行く。

誰も、何も言わなかった。何も聞けなかった。
太陽の言葉の続きも、織原さんが残していった小さな挨拶の意味も、夕暮れに染まる教室の中に、ぽつんと置き去りにされたままだった。