クラスの中心で笑う彼女は、あの日、あの時間で止まった時計を抱きしめている

スマホのマップアプリが示した目的地までは、あと徒歩三分。
なのに、僕の身体はまるで重力が三倍になったかのように重かった。

「はぁ・・・」

今朝だけで何度目になるかわからないため息が、初夏の生ぬるい風に消えていく。

瀬戸拓海(せと たくみ)、高校二年生。絶賛、人生最大の憂鬱と格闘中。
親の急な転勤に伴う、この時期の転校。校門へと続く坂道には、同じ制服を着た生徒たちの賑やかな声が響いている。誰もが楽しげに笑い合い、週末の出来事を報告し合っている。すっかり出来上がってしまったその眩しい人間関係の輪が、今の僕には少しだけ痛い。

よそ者である僕を、彼らはどんな目で見るのだろう。腫れ物扱いか、あるいは無関心か。
胸の奥の心音は、坂道を登る息切れのせいだけではなく、明らかな緊張で速度を上げていた。
鞄のストラップをぎゅっと握り直し、僕は顔を上げる。
いよいよ、あの校門をくぐらなければならない。

――それからの時間は、緊張のあまり半分ほど記憶が飛んでいる。
気づけば僕は、他人行儀な静けさに満ちた職員室を後にし、担任の先生の少し後ろを歩いていた。リノリウムの床を叩く自分の上履きの音だけが、やけに大きく耳に届く。

「瀬戸、そんなに緊張しなくても大丈夫だぞ。うちのクラスは賑やかな奴らが多いから、すぐに馴染めるさ」

歩きながら先生が気楽な調子で声をかけてくれるが、その「賑やか」というワードが逆に僕の胃をキリキリと締め付けた。

やがて、先生の足が止まる。
『2年B組』と書かれたプレート。木製の引き戸の向こうからは、地鳴りのような騒がしさが漏れ聞こえていた。朝のホームルーム前の、一番熱気のある時間帯だ。

「よし、俺が声をかけたら入ってこい」

先生がガラガラと戸を開け、教室内へと入っていく。
一瞬にして、中の空気が先生を迎えるものへと変わる。
ドアのすぐ外、クラスの誰もから死角になる場所に残された僕は、小さく深呼吸をした。

「――おい、みんな静かに。一回席につけ。今から新しい仲間を紹介するぞ」

先生の張りのある声が響き、ガタガタと椅子を引く音がいくつか聞こえてきた後、教室が一気に静まり返る。
心臓が、ドクンと大きな音を立てた。

「瀬戸、入ってこい」

教室の中から先生の声が僕を呼ぶ。
僕はもう一度だけ深く息を吸い込み、固くなった足に力を入れて、ゆっくりと引き戸を引いた。

ガラガラ、という音が、いつもより重く響く。
一歩、教室の中に足を踏み入れた瞬間、数十人分の視線が一斉に僕へと突き刺さった。好奇心、値踏みするような目、あるいは退屈そうな視線。それらが一堂に集まるプレッシャーに、一瞬だけ目眩がしそうになる。

「瀬戸拓海です。前の学校ではサッカー部に入っていました。早くこの学校に慣れたいと思うので、よろしくお願いします」

事前に考えていた通りの、可もなく不可もない挨拶。声が震えなかったことだけが救いだった。パチパチと、義理堅いようなまばらな拍手が教室に広がる。

早くあの視線の嵐から逃れたくて、僕は小さく頭を下げ、逃げるように顔を上げた。
――その時だった。

教室のちょうど真ん中、窓際から三列目のあたり。
綺麗に手入れをしているであろう、ロングストレートでサラサラの黒髪。くっきり二重で、色白。少し大きめの制服のカーディガンを羽織り、華奢な感じの女子。

圧倒的な、陽のオーラ。
僕のような転校生とは住む世界が違う、このクラスの中心にいるような気がした。
それが、僕と織原葵(おりはら あおい)の、最初の出会いだった。

先生が「瀬戸の席は、あそこな」と差した場所を見て、僕は心臓が跳ね上がるのを抑えられなかった。
用意されていた空席は、まさにその彼女の、すぐ後ろの席だったからだ。

机の間を通り抜ける僕を、他のクラスメイトたちが「よろしくね」と気さくに引き留める。それにつられる様にして、彼女ーー葵も、僕の方へと振り返った。

「よろしくね、瀬戸君。私は織原葵。困ったことがあったら何でも聞いて?」

弾けるような、完璧なひまわりの笑顔だった。
誰もがこの笑顔に惹かれるのではないか・・・そう思わされるような笑顔だ。

「あ、うん。よろしく、織原さん」

緊張しながらそう答えて、僕は椅子の背もたれに手をかける。
――けれど、その時だった。

僕から視線を外し、退屈そうに窓の外の景色へと目を向けた彼女の横顔。
ほんの、一秒にも満たない刹那。
さっきまでの眩しい笑顔が嘘のように消え去り、彼女は世界に一人だけ取り残されたような、酷く切ない表情で遠くを見つめていた。

ドクン、と胸の奥が妙な脈を打つ。
見間違いだろうか。
そう思って座席に座り、もう一度彼女の背中を見つめた時には、彼女はもう明るい声で、隣の席の友達と他の地層に週末のドラマの話を小声で始めていた。

初夏の風が、窓から吹き込んで彼女の髪を揺らす。
僕の波乱の学校生活は、彼女の背中を見つめることから始まった。