***
「ありがとうございました」
定食屋で夕飯を食べた後の私を閉店まで居座らせてくれた古本屋の店員に会釈をして、既に南の空に高く上がった小望月を見上げた。あと1時間ほどで日付を回るころだろうか。遅くまで開いている古本屋があるものだ。
夜を歩く時には、行き先を特に求めない。
適当に入ったこぢんまりとしたショッピングモールで閉店まで本を読むこともある。繁華街の端で、人の流れをずっと眺めていることもある。公園で月明かりを見上げていることもある。あとはひたすらに、歩く、歩く、歩く。
ゴゥと音を立てて、トラックが道路を駆け抜けていった。テールランプの赤い光を見ながら、なんとなく路地を曲がる。
夜灯にぼんやりと照らされた道を、静かに歩く。住宅地を通り抜けて、川を渡って、あてもなく歩いていく。
足に鉛のような疲労感を覚えた頃には、もう月は大きく西に傾いていた。
目に留まった公園に入って、ベンチに腰掛ける。生き物の気配に僅かに顔を上げると、1匹の黒猫が佇んでいた。
光を反射して、その双眸が一瞬光る。こんな夜中に、珍しいことだ。
「……こんばんは」
ごろごろと喉を鳴らして足元に擦り寄ってきた猫を、そっと撫でる。濡羽色の毛並みが、柔らかく指の隙間を通り抜けていく。しなやかにベンチに飛び乗った猫が、私の隣に座った。随分人に慣れているけれど、飼い猫だろうか。
「あれ、先客だ」
夜の中にぽっかりと浮かび上がるように聞こえた人の声に、私の肩が僅かに跳ねる。黒猫はするりと何かをすり抜けるように走り去った。
「こんばんは。隣良い?」
夜灯に照らされた彼女がにこりと笑う。私と大方同年代に見えた。
「……はい」
私の声を聞いて、隣のベンチに座った彼女が私を覗き込むように眺める。少し、労わるように。
「声、どうしたの? 風邪でもひいた?」
「出ないんです。お気になさらず」
ふぅん、と彼女が口の中で呟いて、正面を向いた。
「高校生? こんな夜中に」
「……23の社会人です。社会不適合者ですけど」
「えー見えない。同い年ぐらいかと思った」
けらけらと彼女が楽しそうに笑った。
「……高校生なんですか」
「うん。あ、どうする? 警察に非行少年って届けても良いけど」
「別に良いです。関心がないので」
「わぁ辛辣ー」
歳下の彼女がまた笑った。よく笑う子のようだ。
「ねぇ、名前教えて。私、月花」
「……真昼、です。あ、『蛍』でも」
「え、なに偽名?」
「二つ名とでも思っておいてください」
「えー? ……じゃあ、マヒルって呼ぼ」
マヒル。片仮名にしか聞こえない、軽くて柔らかい響き。
「……呼び捨てですか」
「だめ?」
「いえ」
微かに首を傾げた月花の表情に思っていたよりも邪気がなくて、少しだけ表情が緩んだ。
「ねぇ、マヒルって何の仕事してるの? 社会人なんでしょ」
「……興味ありますか?」
「ある。ねぇ、あたし高校生なんだよ。進路相談乗ってよ」
「ただのしがない物書きですよ。それに、高校を中退した人間に進路相談なんてしないでください」
へぇ、と呟いて、月花が私のすぐ隣に移動してきた。猫がいなくなった分スペースがあるから別に良いけど、どこに懐く要素があったんだろうか。
「おんなじような人生送ってる人たちにたくさん話聞いても意味ないもん。ぶっ飛んでる人の方が楽しいじゃん。ねぇ、好きなことを仕事にするのって大変だと思う?」
「……私は運と他人の情けで生きてきましたから。楽ではないとは言えますけど、あまり正当な評価はできないかもしれません」
「ふぅん」
何か、将来も続けたいことでもあるんだろうか。訊くほどのことなのかも分からなくて、黙っていた。
「マヒルは物書きって言ってたけど、何書いてるの?」
「……何だと思います?」
笑ってそう問い返すと、「わぁずるーい」と月花が楽しそうに笑った。
「何だろう。イメージ的には、小説とか書いてそうだけど……あ、そうだマヒル」
「はい」
「この本知ってる? あたし、これ大好きなんだけど」
月花がさがさと音を立てて、小さな肩掛け鞄から1冊の本を取り出す。見覚えのある濃紺の表紙が、夜灯に照らされて目に沁みた。
「……あぁ、私の中で一番長い付き合いの人が書いたものです。直接顔を合わせたことはないんですが」
「何それ謎掛け? そういえば、さっき言ってた『蛍』ってもしかして……寄河蛍の名前からとったの?」
「そうですよ?」
「え、他人の名前勝手に使ってる……」
呆れたように溜息を吐く月花に、少し笑ってしまう。
「それにしても……そんなに小説書いているイメージですか、私」
「うん。なんか小説家のイメージってマヒルみたいな人だもん」
「それはそれは。全国の同業者に謝らないといけませんね」
西に傾いた月を見上げながらそう言うと、月花が「えー」と声を上げた。驚き半分、呆れが半分といったところだろうか。
「え、ねぇねぇ、物語ってどういう気持ちで書いてるの? やっぱり、読んだ誰かが救われたら良いなって?」
「……そんな風に思っている人もいるとは思いますけど……私はもっと利己的ですよ。自己救済のために書いて、その過程で似たような誰かも救えたら、……」
彼女の夢を壊すかもしれないな、とは、うっすらと思った。
「少しだけ私の物語に、私に、存在への赦しが与えられるんじゃないかと」
月と夜灯が、白く光っている。死んだように硬直している喉が僅かに痛む。息を吸い込んで、続けた。
「……小説って、自己表現の手段のひとつじゃないですか。あんなに量が多いのって、月花さんは何故だと思います?」
「……何だろう。空気感を伝えたいからじゃないのかな。マヒルは?」
「それもあります。でも私は……怖いんです」
物書きの端くれが、何を言っているんだろうか。完全なる、独りよがりの持論だ。でもこの子には、今日この瞬間にしか出会わない彼女になら、話してみたかった。
「……物語を通して自分の感情を映し出すのが、私にとっての小説です。自分の感情を抉り出して直接に晒すことが、私にはできないので」
物語を通さない人間を見て欲しいのに、物語を通さずに自分を見せることが、どうしようもなく怖い。
だから、私は小説を書いている。
「なるほどね。そういう考え方なんだ」
「……幻滅しました?」
「全然。寧ろ、親近感」
白い光に手を引かれるように、月花が右手をゆらりと宙に伸ばす。その手が驚くほど白いことに、今更ながら気付く。
「表現者って案外、そういう人多いんじゃないかな? 私もバレエずっとやってるけど、私が楽しいからだもん。そりゃ誰かが喜んでくれたら嬉しいけど」
「……舞踊の方の、バレエですか」
「そうそう。排球じゃない方の」
月花が笑って、くるりと回る。夜灯と月に照らされた白い舞台の上で、彼女のシルエットが鈍く光る。
月花のしなやかな脚が地面を蹴って、土埃が舞った。それは光を反射して白く光って、まるで彼女が水を蹴ったかのような錯覚を覚える。
月を跨ぐ。波が揺れる。
そのさまを私は、黙って見ていた。
「……そろそろ、心配になってきたので訊きますけど」
朝焼けが、夜空を溶かすように広がっている。隣に座る月花が、此方を向いた。
「うん」
「帰らなくて良いんですか? 夜が明けたら、何か予定とか」
「あー。まぁ、大丈夫。明日、てか今日だけど……土曜だし」
「あぁ、なるほど」
常に家で仕事をしているためか、曜日感覚が消え失せているのを自覚する。まぁ、今に始まったことではないのだけど。
「マヒルこそ、何かないの? 帰らなくて平気?」
「そうですね、流石にそろそろ帰ります。家帰ってちょっと寝て、9時頃から活動開始でしょうか」
「それ、睡眠時間足りてる?」
月花が苦笑いしながら問うたのに、首を傾げた。成長期でもないんだし、4時間程度寝られれば十分だろう。第一、数年この生活リズムで回しているんだから、今更変えたらそれこそ生活が狂ってしまう。
「大丈夫です」
「ほんとかー?」
底抜けに明るくて、どこか呆れるような月花の声に、思わず釣られて笑ってしまう。「ねぇ」という声に、顔を上げた。
いつの間にか、月花が立ち上がって朝焼けに染まる空を眺めている。
「マヒルが言ってたのの意味をさ、ずっと考えてたんだけど……前に何かで読んだのを思い出したんだよね。寄河蛍って、蛍って名前だけがペンネームなんだって」
確かに、何かのインタビューで訊かれた時に答えた気がする。
「ねぇ。マヒルの苗字って何?」
まぁ、気付かれるだろうとは思っていた。
「……顔とか、晒さないでくださいよ」
「写真撮ってないのにどうやって晒すのよ」
屈託なく笑う月花に、笑ってしまう。薔薇色の朝焼けに照らされた彼女は、目が眩みそうに眩しかった。
「……寄河です。寄河真昼といいます」
目の前に立つ彼女の目が大きく広がって、優しげに笑ったのが見えた。
「……やっぱり。なんか、ぽいなって思ったんだよね。小説の話とか」
「そうですか。晒さないでくださいね」
「晒される心配しすぎじゃない?」
月花がけらけらと声を上げて笑った。
「心配性なんですよ」と返して、彼女の隣に並んで立つ。朝焼けを見ながら、そっと呼びかける。
「……月花さん」
「ん?」
綺麗に透き通った双眸に、私が映っている。
「……お話しできて良かったです。どうか、お元気で」
「うん、ありがとう」
笑ってくれた彼女に軽く頭を下げて、涼しい空気の中を歩き出す。
公園を出て数歩歩くと、「マヒル!」という月花の声が聞こえた。
「新しいの出たら、また買うから」
読み手の顔を直接見たのは初めてだったと、ふと気付く。笑って、頷いた。声が届くかどうかは、分からなかった。
「よろしくお願いします」
嬉しそうに笑った月花が、ひらりと手を振った。身を翻して、小走りに去っていく。
声が届いたかどうかは、分からなかった。
でもあの夜の底を泳いで出会えた彼女の笑顔が、私の脳裏に焼き付いていた。
「ありがとうございました」
定食屋で夕飯を食べた後の私を閉店まで居座らせてくれた古本屋の店員に会釈をして、既に南の空に高く上がった小望月を見上げた。あと1時間ほどで日付を回るころだろうか。遅くまで開いている古本屋があるものだ。
夜を歩く時には、行き先を特に求めない。
適当に入ったこぢんまりとしたショッピングモールで閉店まで本を読むこともある。繁華街の端で、人の流れをずっと眺めていることもある。公園で月明かりを見上げていることもある。あとはひたすらに、歩く、歩く、歩く。
ゴゥと音を立てて、トラックが道路を駆け抜けていった。テールランプの赤い光を見ながら、なんとなく路地を曲がる。
夜灯にぼんやりと照らされた道を、静かに歩く。住宅地を通り抜けて、川を渡って、あてもなく歩いていく。
足に鉛のような疲労感を覚えた頃には、もう月は大きく西に傾いていた。
目に留まった公園に入って、ベンチに腰掛ける。生き物の気配に僅かに顔を上げると、1匹の黒猫が佇んでいた。
光を反射して、その双眸が一瞬光る。こんな夜中に、珍しいことだ。
「……こんばんは」
ごろごろと喉を鳴らして足元に擦り寄ってきた猫を、そっと撫でる。濡羽色の毛並みが、柔らかく指の隙間を通り抜けていく。しなやかにベンチに飛び乗った猫が、私の隣に座った。随分人に慣れているけれど、飼い猫だろうか。
「あれ、先客だ」
夜の中にぽっかりと浮かび上がるように聞こえた人の声に、私の肩が僅かに跳ねる。黒猫はするりと何かをすり抜けるように走り去った。
「こんばんは。隣良い?」
夜灯に照らされた彼女がにこりと笑う。私と大方同年代に見えた。
「……はい」
私の声を聞いて、隣のベンチに座った彼女が私を覗き込むように眺める。少し、労わるように。
「声、どうしたの? 風邪でもひいた?」
「出ないんです。お気になさらず」
ふぅん、と彼女が口の中で呟いて、正面を向いた。
「高校生? こんな夜中に」
「……23の社会人です。社会不適合者ですけど」
「えー見えない。同い年ぐらいかと思った」
けらけらと彼女が楽しそうに笑った。
「……高校生なんですか」
「うん。あ、どうする? 警察に非行少年って届けても良いけど」
「別に良いです。関心がないので」
「わぁ辛辣ー」
歳下の彼女がまた笑った。よく笑う子のようだ。
「ねぇ、名前教えて。私、月花」
「……真昼、です。あ、『蛍』でも」
「え、なに偽名?」
「二つ名とでも思っておいてください」
「えー? ……じゃあ、マヒルって呼ぼ」
マヒル。片仮名にしか聞こえない、軽くて柔らかい響き。
「……呼び捨てですか」
「だめ?」
「いえ」
微かに首を傾げた月花の表情に思っていたよりも邪気がなくて、少しだけ表情が緩んだ。
「ねぇ、マヒルって何の仕事してるの? 社会人なんでしょ」
「……興味ありますか?」
「ある。ねぇ、あたし高校生なんだよ。進路相談乗ってよ」
「ただのしがない物書きですよ。それに、高校を中退した人間に進路相談なんてしないでください」
へぇ、と呟いて、月花が私のすぐ隣に移動してきた。猫がいなくなった分スペースがあるから別に良いけど、どこに懐く要素があったんだろうか。
「おんなじような人生送ってる人たちにたくさん話聞いても意味ないもん。ぶっ飛んでる人の方が楽しいじゃん。ねぇ、好きなことを仕事にするのって大変だと思う?」
「……私は運と他人の情けで生きてきましたから。楽ではないとは言えますけど、あまり正当な評価はできないかもしれません」
「ふぅん」
何か、将来も続けたいことでもあるんだろうか。訊くほどのことなのかも分からなくて、黙っていた。
「マヒルは物書きって言ってたけど、何書いてるの?」
「……何だと思います?」
笑ってそう問い返すと、「わぁずるーい」と月花が楽しそうに笑った。
「何だろう。イメージ的には、小説とか書いてそうだけど……あ、そうだマヒル」
「はい」
「この本知ってる? あたし、これ大好きなんだけど」
月花がさがさと音を立てて、小さな肩掛け鞄から1冊の本を取り出す。見覚えのある濃紺の表紙が、夜灯に照らされて目に沁みた。
「……あぁ、私の中で一番長い付き合いの人が書いたものです。直接顔を合わせたことはないんですが」
「何それ謎掛け? そういえば、さっき言ってた『蛍』ってもしかして……寄河蛍の名前からとったの?」
「そうですよ?」
「え、他人の名前勝手に使ってる……」
呆れたように溜息を吐く月花に、少し笑ってしまう。
「それにしても……そんなに小説書いているイメージですか、私」
「うん。なんか小説家のイメージってマヒルみたいな人だもん」
「それはそれは。全国の同業者に謝らないといけませんね」
西に傾いた月を見上げながらそう言うと、月花が「えー」と声を上げた。驚き半分、呆れが半分といったところだろうか。
「え、ねぇねぇ、物語ってどういう気持ちで書いてるの? やっぱり、読んだ誰かが救われたら良いなって?」
「……そんな風に思っている人もいるとは思いますけど……私はもっと利己的ですよ。自己救済のために書いて、その過程で似たような誰かも救えたら、……」
彼女の夢を壊すかもしれないな、とは、うっすらと思った。
「少しだけ私の物語に、私に、存在への赦しが与えられるんじゃないかと」
月と夜灯が、白く光っている。死んだように硬直している喉が僅かに痛む。息を吸い込んで、続けた。
「……小説って、自己表現の手段のひとつじゃないですか。あんなに量が多いのって、月花さんは何故だと思います?」
「……何だろう。空気感を伝えたいからじゃないのかな。マヒルは?」
「それもあります。でも私は……怖いんです」
物書きの端くれが、何を言っているんだろうか。完全なる、独りよがりの持論だ。でもこの子には、今日この瞬間にしか出会わない彼女になら、話してみたかった。
「……物語を通して自分の感情を映し出すのが、私にとっての小説です。自分の感情を抉り出して直接に晒すことが、私にはできないので」
物語を通さない人間を見て欲しいのに、物語を通さずに自分を見せることが、どうしようもなく怖い。
だから、私は小説を書いている。
「なるほどね。そういう考え方なんだ」
「……幻滅しました?」
「全然。寧ろ、親近感」
白い光に手を引かれるように、月花が右手をゆらりと宙に伸ばす。その手が驚くほど白いことに、今更ながら気付く。
「表現者って案外、そういう人多いんじゃないかな? 私もバレエずっとやってるけど、私が楽しいからだもん。そりゃ誰かが喜んでくれたら嬉しいけど」
「……舞踊の方の、バレエですか」
「そうそう。排球じゃない方の」
月花が笑って、くるりと回る。夜灯と月に照らされた白い舞台の上で、彼女のシルエットが鈍く光る。
月花のしなやかな脚が地面を蹴って、土埃が舞った。それは光を反射して白く光って、まるで彼女が水を蹴ったかのような錯覚を覚える。
月を跨ぐ。波が揺れる。
そのさまを私は、黙って見ていた。
「……そろそろ、心配になってきたので訊きますけど」
朝焼けが、夜空を溶かすように広がっている。隣に座る月花が、此方を向いた。
「うん」
「帰らなくて良いんですか? 夜が明けたら、何か予定とか」
「あー。まぁ、大丈夫。明日、てか今日だけど……土曜だし」
「あぁ、なるほど」
常に家で仕事をしているためか、曜日感覚が消え失せているのを自覚する。まぁ、今に始まったことではないのだけど。
「マヒルこそ、何かないの? 帰らなくて平気?」
「そうですね、流石にそろそろ帰ります。家帰ってちょっと寝て、9時頃から活動開始でしょうか」
「それ、睡眠時間足りてる?」
月花が苦笑いしながら問うたのに、首を傾げた。成長期でもないんだし、4時間程度寝られれば十分だろう。第一、数年この生活リズムで回しているんだから、今更変えたらそれこそ生活が狂ってしまう。
「大丈夫です」
「ほんとかー?」
底抜けに明るくて、どこか呆れるような月花の声に、思わず釣られて笑ってしまう。「ねぇ」という声に、顔を上げた。
いつの間にか、月花が立ち上がって朝焼けに染まる空を眺めている。
「マヒルが言ってたのの意味をさ、ずっと考えてたんだけど……前に何かで読んだのを思い出したんだよね。寄河蛍って、蛍って名前だけがペンネームなんだって」
確かに、何かのインタビューで訊かれた時に答えた気がする。
「ねぇ。マヒルの苗字って何?」
まぁ、気付かれるだろうとは思っていた。
「……顔とか、晒さないでくださいよ」
「写真撮ってないのにどうやって晒すのよ」
屈託なく笑う月花に、笑ってしまう。薔薇色の朝焼けに照らされた彼女は、目が眩みそうに眩しかった。
「……寄河です。寄河真昼といいます」
目の前に立つ彼女の目が大きく広がって、優しげに笑ったのが見えた。
「……やっぱり。なんか、ぽいなって思ったんだよね。小説の話とか」
「そうですか。晒さないでくださいね」
「晒される心配しすぎじゃない?」
月花がけらけらと声を上げて笑った。
「心配性なんですよ」と返して、彼女の隣に並んで立つ。朝焼けを見ながら、そっと呼びかける。
「……月花さん」
「ん?」
綺麗に透き通った双眸に、私が映っている。
「……お話しできて良かったです。どうか、お元気で」
「うん、ありがとう」
笑ってくれた彼女に軽く頭を下げて、涼しい空気の中を歩き出す。
公園を出て数歩歩くと、「マヒル!」という月花の声が聞こえた。
「新しいの出たら、また買うから」
読み手の顔を直接見たのは初めてだったと、ふと気付く。笑って、頷いた。声が届くかどうかは、分からなかった。
「よろしくお願いします」
嬉しそうに笑った月花が、ひらりと手を振った。身を翻して、小走りに去っていく。
声が届いたかどうかは、分からなかった。
でもあの夜の底を泳いで出会えた彼女の笑顔が、私の脳裏に焼き付いていた。



