夜の底

トゥルルルル、という音に、顔を上げた。
いつの間にか、西陽が窓から静かに差し込んでいる。パソコンに向かっていると時間感覚がなくなっていけない。
時代遅れの受話器を手に取って耳に当てると、聞き馴染みのある声が聞こえてきた。
『あ、寄河(よすが)先生ですか? 佐倉(さくら)です』
「はい、寄河です。おつかれさまです」
『おつかれさまです。今お時間大丈夫ですか?』
「大丈夫です」
彼の声の背後に、静かな喧騒が立っている。
『ありがとうございます。あ、ちょっと待っていただけますか。移動します』
少しの物音が聞こえた後、喧騒が波のように引いていくのが分かった。
『……お待たせしました。先生、進捗はいかがですか?』
「ぼちぼち、でしょうか。〆切までには間に合うかと思います」
『良かったです。ありがとうございます』
ほぼ息だけで話す私の声ならぬ声を、この人はよく聞き取るなと感心してしまう。普段はできればメールにしてくれと頼んではいるのだけど、今日は何か事情があったんだろうか。
『すみません、なんか今日社のサーバーが調子悪くて。メールがなかなか送れなかったので、お電話させていただきました』
「出版社のサーバーが調子悪いって致命的じゃないですか」
『致命的なんですよ』
佐倉の明るい笑い声が聞こえる。笑い事ではないだろうに。
『まぁ、いつもの生存と進捗の確認の連絡なので、要件はこんなところです』
「わかりました。今後とも、寄河蛍をよろしくお願いします」
『はい。毎回思うけど、そんなこと言うの、先生ぐらいですよ。律儀ですね』
「……褒め言葉として受け取っておきます」
私の言葉に、佐倉が愉快そうに笑った。その後一言二言言葉を交わして、電話が切れる。
窓の外を見ると既に陽は沈んでいて、惜しむような残光が世界に光を投げかけていた。
夜が来る。
原稿がきちんと保存されていることを確認して、パソコンの電源を落とした。
昼に食べたまま放置していた固形栄養食の空箱をゴミ箱に捨ててから、立ち上がって玄関に向かう。佐倉が見たら、先生もっとまともな食事をしてくださいって怒るんだろう。想像して、少しだけ笑ってしまった。

私にとって日没後の薄明(はくめい)の世界は、呪縛の記憶だ。それと相対するようにある、自由への安堵。
夜に沈みゆく、始まりの時間。
外に出て、息を吸い込む。
初夏の涼しい風が、静かに吹き抜けた。
月明かりと星明かりの匂い。夜に机に向かうことができない、私だけのものだ。