『異雨(いう)』

 玄関の鍵が開いていた。ドアノブを捻って中に入ると、見覚えのない、上質な革で作られた女性物の靴が三和土に揃えて置かれていた。傘をいつもの場所に立て掛け、それから胸騒ぎに急かされるようにリビングへ向かうと、離婚して実家に帰ったはずの母が「お帰り」とあの頃と同じ声音で言った。
「……勝彦さんは?」
「さっき、出かけて行った」
「そっか……あ、ただいま」
 鞄を床に置き、そのまま逃げるようにキッチンへ向かう。冷蔵庫を開けたものの、何を探すでもなく中を眺めた。母は何も言わない。でも、その沈黙だけで、昔の自分に戻ってしまいそうだった。玉ねぎとケチャップが残ってるから、夕食はチキンライスでも作ろうか。そんな言葉が、危うく喉まで込み上げた。
 結局、水出し緑茶を取り出し、二つのコップに注いで母へ差し出した。礼を言って受け取る母の薬指には、外したばかりのような指輪の跡が残っていた。思わず、その手から目を逸らした。その先の窓には雨粒が張りつき、やがて細い筋を引いて落ちていく。それを眺めているほうが、母の手を見るよりずっと楽だった。
「最近、雨多いよね」
「まあ、夏だし」
「異常現象って言うらしいよ。ニュースで言ってた。そういう天気だと具合を崩す人も多くなるし、翔は体調大丈夫?」
「……僕は平気」
 コップを片手に持ちながら、床に置いた鞄を乱雑に引き寄せた。部屋に行こうとする僕を阻止するかのように、玄関扉が勢いよく開く音が聞こえてきた。
「いや、酷い雨だな」
 コンビニ袋をぶら下げた勝彦が濡れた肩を払いながらリビングへ入ってきた。眼鏡は湿気で曇っている。それでも、勝彦は雨を嘆くより、母との再会を喜んでいるような、そんな表情を浮かべていた。
「おお、翔か。お帰り」
 緑茶の水滴が指先を濡らして床に落ちた。緑茶の雫はコンビニ袋に付いた雨粒と混ざり、どちらの水なのか分からなくなる。さりげなく袋を覗くと、中は缶ビールに、つまみやスナック菓子がぎっしり詰まっていた。
「うん、ただいま」
 三人がリビングに揃ったことを、勝彦は何かを確かめるように、僕と母の姿を眺めていた。満足そうに何度も頷く。その姿を見て、僕の中に小さな苛立ちが湧いたのを感じて「部屋に行ってる」とだけ言い残し、襖を開けた。
 四畳半の畳部屋には、赤本やマークシート用紙が散らかったままの机があり、その上には途中まで解いた問題集が置かれていた。
「どうしたんだ。翔のやつ」
「私が急に来たんだもの。驚くに決まってるわ」
 二枚の襖は、世界を隔てるにはあまりにも薄過ぎる。雨音は変わらないのに、プルタブを開ける音が重なるたびに、二人の声も徐々に増していく。スナック菓子の袋を破る音。その向こうで、進路の話が聞こえてくる。
 事件を追っていたフリーライターが、そこで出会った女優と結婚した。そんな話は、新聞の見出しを飾るには打って付けだった。けれど、子供にとっては足枷でしかない。
 初めは学校で持て囃されたし、「睦月栞奈のサインが欲しい」と群がる男子に懇願されたりもした。母に頼んでみると、事務所的に駄目だと言われ、それを一言一句、伝えると、理不尽な言葉を吐き捨てられた。でも、襖を隔てた向こう側を知ったら、そんな言葉は出てこないだろう。
「翔は進路、なんて言ってるの?」
「それが……東京の大学に行きたいって」
「それはちょっと、難しいんじゃ」
「俺もそう言ったさ。でも、あいつの考えも分からなくはない」
 もうこれ以上は聞きたくない、そう思う前に、気づいた時には襖に手をかけていた。二人の驚いた顔が目に入る。母は何か言おうとして口を開き、勝彦は持っていた缶を止めたまま固まっていた。聞かれていたかも、そんな戸惑いの表情だった。
「ごめん、ちょっと出てくる」
 駆け足で玄関へ向かい、靴の踵を踏んだまま足を突っ込む。傘を掴み、玄関の扉を閉めた。財布も携帯も置いたまま飛び出していたことに気づいたのは、雨の中、誰もいないバス停に立ってからだった。
 取りに戻る選択肢も、ここに残る意地も、もうなかった。ひたすら、歩いた。橋を渡り、手すり越しに流れる川を見下ろした。母の言っていた異常現象を目の当たりにする。いつもなら穏やかなはずの川は、水位を増して濁った流れになっている。なのに、驚きはなかった。
 見慣れた坂道の中央には黄色いガードレールが設置されており、その奥には数台の白い車が路肩に駐車していた。無意識のうちに、ここに来ている自分に驚きつつも、擁壁を覆うツタを眺めながら、ゆっくりと坂を登っていく。
 坂の上にある公園の、その中心に建てられた東屋に、あの女性はいた。
 折り畳んだ傘を脇に置いて、ベンチに腰掛けたまま、ただ静かに雨の降る街を眺めている。その指先には、火の消えかけた煙草が挟まれていた。細い煙が屋根の下にゆっくりと漂い、雨の湿った空気に溶けていく。
「来たんだ」
 呆れたように口元を緩めると、隣へ少し身をずらした。火の消えかけた煙草を携帯灰皿に押し込んだ。「隣にどうぞ」などと、その動作に勝手に命名していた。母の「お帰り」よりも迎えられた感覚が、僕は好きだった。
 傘を閉じて隣に腰を下ろすと、煙草の匂いが鼻をくすぐった。屋根の外で、水溜まりを踏んだ誰かの「うわ」という声が響く。
「今日は何?英文?それとも数学?」
「それが、荷物を置いてきてしまって」
 自称教師を名乗る真澄とは、半年前、この東屋で出会った。東京の大学を卒業してから、この街の学校を転々としているらしいが、どこの学校で、何を教えているのかは頑なに教えてくれない。そのくせ、英語も数学も、現代文まで妙に教えるのが上手かった。
「じゃあ今日は雑談だね」
 真澄は直ぐそこの自販機で買ったばかりらしい缶コーヒーを膝の上で転がした。