若き介護者

 慎太郎がまだ高校1年生だった頃。立石家はまだなんの変哲もない「普通」の家族だった。
慎太郎は野球部に所属しており、夏の大会へ向け、毎日夜遅くまで練習に励んでいた。
そんなある日。
「ただいまー!母さん見てよ!」
慎太郎は母親に背番号1を堂々と見せびらかす。
「え?!1番もらえたの?!」
「うん!1年生だけど今年の夏はお前で行くって監督に言ってもらえた!」
「そっか〜すごいわぁ」
母は特別嬉しそうにしていた。
「それでさお願いなんだけど」
「なに?」
「たまには試合見にきてよ」
母親は慎太郎の試合を一度も見たことがなかった。別に野球をすることに反対していたからではない。単純に父母会への参加が面倒くさかったのだ。気の使い合いや車での送迎。父母だけでの飲み会など。あまり社交的な性格ではない母親からしてしまえばこんなのは地獄とほぼ変わらなかった。
「うーん…でも他のお母さん方に会うの面倒くさいし…」
「遠くの席で見てればいいじゃん。バックネット裏とかで見てれば誰も声かけてこないよ!」
「そぉ?じゃあ行ってみようかな」
「よし!じゃあ約束ね!」

試合当日、その約束が守られることはなかった。

 試合開始の30分ほど前にベンチ入る慎太郎と部員たち。キャッチボールや軽いミーティングを済ませ、試合に備えていた。慎太郎はバックネット裏へ回り、母の姿を一目見ようと見渡すも見つからない。
「来るって言ってたのになぁー…」
「おい!慎太郎!そろそろ始まるぞベンチ前に並べ!」
「はい!」
結局、母の姿を見つけることができないまま試合が始まってしまった。
試合は着々と進んでいき、最終回まできていた。慎太郎はここまで8回を無失点に抑える好投を見せていた。試合の途中でも母が来た様子は見受けられず、家に帰ったら嘘つき!裏切り者!とキツく言ってやろうとそう心の中で決心していた。
最後の打者を抑えゲームセット。慎太郎の高校が勝利を飾った。試合が終了し、球場の外へ出ると他の部員の保護者たちが拍手で出迎えてくれた。しかしそこに慎太郎の母の姿はなく、ありがとうございますと頭を下げつつも少し寂しさを感じていた。
 試合後のミーティングが終わり、カバンからスマートフォンを取り出すと父親から何件もの不在着信が入っていた。普段こんなことはない。背筋が凍りつくような感じがした。恐る恐る履歴ボタンをタップし、父親に折り返しの電話をかける。
「もしもし?ごめん試合中だったんだ」
「悪いな、何回も電話して!緊急だったんだ。落ち着いてよく聞けよ。母さんがな車に轢かれて、さっき救急車で運ばれたんだ。病院は球場近くの大学病院だ!俺も今向かってるからお前も向かえ!」
「え…え?!ちょっと!」
父親もだいぶ焦っている様子でこっちの話を聞く前に電話を切られてしまった。
慎太郎は急いでユニフォームを脱ぎ、ぐちゃぐちゃのままカバンの中へ詰め込んだ。
「おい、慎太郎!みんなで祝勝会やらないか?」
「悪りぃな!ちょっと急用でここ抜けるわ!」
「お?おぉ」
私服は着替えた後、カバンを担いで猛ダッシュで病院へと向かう。走れば5分ほどで着く道のりだったが、これほど長いと思ったことはなかった。
 汗だくのまま病院へ到着し、受付へと走る。
「はぁ…はぁ…あの!立石真由子の息子です!ここに母が運ばれてきたと聞いたのですが」
「落ち着いてください。今確認します」
慎太郎は指で机を何度も叩き、早くしろと受付へ圧をかけていた。ほんの数十秒だったがその時間すら惜しかった。
「確認取れました。現在手術中となっています。手術室の前までご案内いたしますので、こちらはどうぞ」
「ありがとうございます」
手術中と言う赤いランプが光り、中の様子は見えないが物々しい雰囲気が漂っていた。
「すぐ近くに家族控室がございます。そちらで少しお休みになってください」
「あ、いやこの椅子で大丈夫です。気が向いたらそっちに行きますので」
「わかりました。では失礼します」
手術室の目の前にある椅子に腰を下ろす。いつもならスマートフォンを取り出し、すぐゲームを開くがそんな気分にもなれなかった。
数十分遅れて父親が病院へと到着した。
「母さんは?」
「まだ手術室の中にいる」
「そうか」
「お父さん。俺今日の試合見に来てくれって母さんに頼んだんだよ。いつもみたいに他の保護者にとか言って面倒く下がってたけど無理やり頼んだんだ」
父親は何も言わず頷いている。
「それが間違いだったのかな?こんなお願いしなきゃお母さんは事故に遭わずに済んだのかな?」
目にはいっぱいの涙を浮かべていた。
「そんなことないぞ。母さんは今日の試合すごく楽しみにしてた。朝だって鼻歌を歌いながら家事をしてた。あんなご機嫌な母さん久々に見たよ。だからお前のせいじゃないよ」
涙がこぼれ落ちないように天井を見つめるも、ボロボロと大量にこぼれ落ちてきてしまう。
 そこからどれぐらい時間が経ったかわからない。2人とも動くことがないまま、ただずっと手術が終わるのを待っていた。病院の廊下の小窓から見える外はすっかり暗くなり、慎太郎の心の中を表しているようだった。
その時、カチッと言う音が鳴り、手術中のランプが消えた。扉が開き、担当医が出てくる。
「あ、ご家族の方ですか?」
「はい」
「お母さんなんですけども、命の方に別状はありません」
その言葉を聞き、2人はほっと安堵する。
「ただですね、頸髄を損傷しています。詳しくは診察室で写真をもとにお話しいたしますので1階でお待ちください」
看護師に1階へと促される。
「頸髄ってどこ?」
「いや俺もわかんないけどなんとなく首とかじゃない?」
「そこを損傷ってやっぱ重症なのかな?」
何はともあれ命があってとりあえずよかった慎太郎は安堵の中、再び泣きそうになっていた。
「立石さん。診察室1番はどうぞ」
「失礼します」
「あ、先ほどはどうも。どうぞおかけください」
「はい」
「先ほども説明した通りですね、特に今すぐ命に関わるといったことはないと思います。ただですね頸髄を損傷しています」
担当医はボードに首のレントゲン画像を貼り付ける。
「ここですね」
そう言われてもよくわからない。
「頸髄のC5つまり首の骨の5番目が損傷しています」
「はぁ…い?」
2人の頭にはクエスチョンマークが浮かんでいた。
「よくわからないですよね。なので首の骨が損傷してるんだなぐらいに考えてください。そして大変なのがここからです」
「大変?」
「ここの骨を損傷すると肘を伸ばす、手首を返す、指先を使う動作、体幹や足が動かなかったり、動かしにくかったりします」
「え?!」
2人はここで初めてことの重大さに気づく。
「排便や食事も1人ではできなかなってしまいます。この先、症状が進行した場合は呼吸器をつけて生活することにもなると思います」
「待って待って!待ってください!じゃあ妻はもう普通に生活していくことができないんですか?!」
「はっきり申し上げますが、その通りです。今回のケース奥様は頸髄を完全損傷していますので回復の見込みはほぼ無いかと」
「そんな…そんなのもう人間じゃないじゃないか…」
父親は頭を抱え、俯いていた。
「そんなことありませんよ。命はありますし、言葉もしっかり話せます。あなたの奥様なんでしょう?その言い方はよろしくないかと思います」
「あんたに何がわかんだよ…冷静話だけしてりゃ終わるもんなぁ!」
「おい!お父さん落ち着けって!」
「落ち着いてられるか!お前ら医者は手術したら終わりだもんなぁ!その後のことは関係ないもんな!家族のことを思ってるふりをして心の中ではなんとも思ってねぇんだろ!」
「やめてよ!」
慎太郎は父親に抱きつき、暴走を必死に止める。
「すみません!今すぐ病院を出て行くので、通報だけは勘弁してください」
「いえ、私の方こそ。そんなつもりはなかったのですが申し訳ありません」
「謝るぐらいなら初めから言うんじゃねぇよ!」
「お父さんもういいだろ!一旦帰ろう!俺たちも頭を冷やすんだ!」
病院を後にし、車へと乗り込む。家に着いた頃にはすでに日付を跨いでいた。いつ寝たのかわからない。目を覚ました頃にはもうすでに日はてっぺんまで昇っていた。
「お風呂入らなきゃ。あ、部活に連絡してないや。まぁそんなのは後でいいか…」
お風呂から上がり、体を拭きながら裸のままリビングへと向かう。するとテーブルの上には見慣れない封筒と置き手紙が置いてあった。
「もう…しわけない?これを足しにしてくれ?」
近くにある封筒の中を見ると札束がごっそり入っていた。まさかと思い家の中をくまなく探す。父の姿は見当たらなかった。それどころか荷物も車も全てが消えていた。どれだけ連絡をしても繋がらない。
「嘘だろ…」
母がこの状態で唯一の頼みの綱だった父も消えた。祖父母はすでに他界していて頼れる大人が周りにいない。慎太郎はこの日を境にひとりぼっちになってしまった。