Prism★Stars〜女装アイドルは美容男子と恋に落ちる〜

今日は夏休みの数少ないオフの日。

俺は律と約束をして、昼から二人で律の家へ遊びに来ていた。
休みの日に友達の家へ遊びに行く。
それだけなのに、朝からなんだか落ち着かなくて、待ち合わせの時間より少し早く家を出てしまった。

こんなふうに誰かと過ごす休みが、こんなにも楽しみだなんて。

「おじゃましまーす!」

ピンポンを押すと、心得たように開くドア。
勢いよく玄関をくぐると、律が小さく笑う。

「どうぞ」

もう何度も来ている家だから、すっかり勝手知ったる場所だ。

「はぁ〜……暑っ!夏ってなんで毎日こんな暑いんだよ」

額の汗を手の甲で拭いながらぼやくと、律は靴を脱ぎながら肩をすくめた。

「夏だからだろ」
「そりゃそうか」

思わず吹き出すと、律もつられるように笑った。
その穏やかな空気に気持ちが緩んで、俺はいつものように声をかける。

「今日は……いつもの、する?」
「……っ、ああ」

俺が上目遣いに尋ねると、律は一瞬だけ息を止めたように目を見開き、ふっと視線を逸らした。

「……律?」

呼びかけると、肩が小さく揺れる。
ほんの一瞬のことだった。
律は軽く息を吐くと、何事もなかったように俺へ視線を戻した。

いつもの、とは律にメイクをしてもらうこと。

最近ではすっかり恒例になっているし、別に照れるようなことでもないはずなのに。
少しだけ不思議に思っていると、律はどこか覚悟を決めたように口を開いた。

「あのさ、ハヤテ。この前からスキンケアのこと、いろいろ聞いてただろ?」
「うん」
「もしよかったら、顔を洗うところから見せてもらえない?」
「え?いいけど」

そう答えると、律はどこか安心したように息をついた。

「よかった。スキンケアって、何を使うかばかり注目されるけど、それ以上に使い方が大事なんだ。洗い方とか、化粧水のつけ方とか。そこを見れば、もっとアドバイスできるかなって思って」

〝使い方が大事〟と言われても、正直いまいち実感は湧かない。
でも、俺のためにそこまで考えてくれていたことが嬉しかった。
俺は笑顔で頷いて立ち上がる。

「もちろん!じゃあ、早速始めよ!」

*********

洗面台の前に立ち、前髪をクリップで留める。
隣には律が並び、鏡越しに俺の様子を見ていた。
俺は洗顔料を手に取って軽く泡立て、そのまま顔へ伸ばそうとした─────その時だった。

「ストップ」
「え?」
「もう少し泡立てよう」
「そうなの?」
「うん。ちょっと貸して」

律は俺の手から洗顔料を受け取ると、手早く泡立て始めた。
指先がくるくると動くたび、空気を含んだ泡がみるみる膨らんでいく。
気づけば、手のひらいっぱいのふわふわでもっちりした泡が出来上がっていた。

「えっ、すご……」

思わず声を上げると、律は少し照れくさそうに笑う。

「ここまでじゃなくてもいいけど、しっかり泡立てた方が肌への負担が少ないし、汚れも落ちやすいから。慣れないうちは泡立てネットとか使うのもいいかも」

そう言って泡を返される。
恐る恐る顔へ乗せると、ふわっと柔らかな感触に思わず目を閉じた。

「わ……」

指ではなく泡で包み込まれるように洗う感覚が新鮮で、いつもよりずっと気持ちいい。
洗い流してタオルを手に取ると、今度は律が声を掛けた。

「あ、こするのはダメだよ」
「え?」
「こう」

律は俺の手元を見ながら、自分の頬にタオルを軽く押し当ててみせる。

「水分を吸わせる感じ。肌って思ってる以上に傷つきやすいから」
「へぇ……」

言われた通り、ぽん、ぽん、と押さえるように拭く。

「あと、顔に使うタオルはなるべく清潔なものを使うこと。最近は使い捨てのフェイスタオルを使う人も多いかな」
「知らなかった……」

顔を触ってみる。

「……え、なんかツルツルじゃない?」
「だろ?」

少し得意げに笑う律に、思わず俺も笑ってしまう。

「こんなに違うんだ」
「まだ洗顔だけだけどな」

そう言って律は化粧水のボトルを手に取った。

「次は化粧水。コットンにたっぷり染み込ませて──」

パシャッと液を含ませる音がする。

「こうやって肌に乗せる」
「あっ……」

ひんやりとしたコットンが頬へ触れた瞬間、小さく声が漏れた。
律も驚いたように動きを止め、鏡越しに目が合う。

「あ……ご、ごめん」
「い、いや!びっくりしただけだから!」

頬が熱くなる。
変な声なんて出すつもりじゃなかったのに。

「続けて。大丈夫だから」

そう言うと、律は少しだけ躊躇ってから「……じゃあ、失礼」と小さく呟いた。
さっきよりずっと優しい手つきで、頬、額、顎へとコットンが滑っていく。
ひんやり冷たいのに、不思議と律の指先だけは温かく感じた。

「……」

いつの間にか二人とも黙っていた。
静かな洗面所には、水滴の落ちる音だけが響く。
そのまま乳液、クリームまで手際よく終えると、律は満足そうに頷いた。

「これで終わり。夜ならこのまま寝て大丈夫。朝なら最後に日焼け止めを塗って、気になるところだけコンシーラーを使えばいいかな」
「……ありがと」

鏡に映る自分へ顔を近づける。
指先で頬を触ると、いつもよりもっちりしていて、肌に自然な艶まで出ている気がした。

「……なんか、本当に変わるんだな」

思わず漏れたその言葉に、隣の律が少しだけ目を細めて笑った。

「うん、変わるよ。スキンケアを丁寧にするって、自分を丁寧に扱うことでもあるんだ。
鏡に映る自分を見て少しでも前向きになれるなら、それだけで楽しくなれる。
食べるものも意識すると、もっと変わるよ。
朝ならビタミンが多いフルーツとか、リコピンが入ってるトマトとか。肌にもいいし」

そう言って少し考えるように視線を上げる。

「今度、夕飯作るときに入れとく」

その何気ない一言に、俺の胸がちくりと痛んだ。
…そうだ。
新しく決まった仕事。

夏休みの間はまだ何とかなる。
でも秋になって学校が始まれば、仕事との両立で部活にも顔を出せなくなるかもしれない。
そうなれば、律の家に寄る時間もきっと減る。

その未来を想像すると、思った以上に寂しかった。

「……あのさ」

意を決して口を開く。

「また部活、休むことになるかも。
だから……律の家に来るのも、今までみたいには来られなくなると思う」

言い終えた途端、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
律は一瞬だけ何か言いたげに唇を動かした。
けれど、その言葉は飲み込み、小さく微笑む。

「そっか」

少しだけ寂しそうに笑って、それでも穏やかな声で続けた。

「でも、いつでもいいよ。
俺、ハヤテが来るの楽しみにしてるから。待ってる」

その笑顔が、あまりにも優しくて。
どくん、と心臓が大きく跳ねた。

どうして。
どうして、こんなに嬉しいんだろう。

気づけば、考えるより先に言葉が口をついていた。

「……あのさ」
「ん?」

「律って……なんで、俺にこんなに優しくしてくれるの?」

律は目を丸くして、ぱちりと瞬きをする。

「……え?」

律が瞬きをした。

「……友達、だから?」

自分で言いながら、その言葉がひどく頼りなく聞こえた。

「…………」

律はすぐには答えなかった。
何かを言おうとしては口を閉じ、少しだけ視線を泳がせる。
やがて、小さく息をつくと、ゆっくりと口を開いて────

「ただいま〜っ!」

玄関から弾むような声が響いた。
その直後、ぱたぱたと軽快な足音が近づいてきて、洗面所のドアが勢いよく開く。

「いやぁ、今日急に出勤なくなっちゃってさぁ!もう暑……」

そこまで言いかけた女性は、洗面所に並んで立つ俺と律を見てぴたりと止まった。
ぱちぱちと瞬きをしたあと、静かにドアを閉める。

「……失礼しました⭐︎」

妙に爽やかな一言に、律が呆れたようにため息をついた。

「母さん。今日は昼から友達が来るって言っただろ」

「あ、そうだった」

全然悪びれた様子もなく返事が返ってくる。
俺は慌てて髪を留めていたクリップを外した。

「ごめんなさい!僕、お邪魔しちゃってて……。先に使ってください!」
「え?本当に?じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」

すぐにドアが開き、にこっと笑った女性が顔をのぞかせた。
紺色のスーツに、品よく整えられたメイク。
艶のある黒髪は後ろでひとつにまとめられて、その清潔感のある姿は凛とした雰囲気がある。
さっき律が「母さん」と呼んだから親子なのは分かった。
……けど。

(若い……)

どう見ても高校生の息子がいるお母さんには見えなかった。
そんな俺を見て、女性はにこやかに頭を下げる。

「こんなところで何だけど、 (たちばな) 律子(りつこ)です。律の母です」

それから俺に視線を向け、柔らかく微笑んだ。

「あなたがハヤテ君ね」
「えっ? 僕のこと、知ってるんですか?」
「もちろん!」

律子さんは嬉しそうに頷く。

「律がいつも話してくれるもの。
学校で仲良くなった友達で、最近はメイクの練習にも付き合ってくれてるって。すごく楽しそうに話してたわ」

そう言うと、俺の顔をまじまじと見つめる。

「わぁ……本当に綺麗なお顔。
律がお願いしたくなる気持ち、よく分かるわ」

律子さんは少し身を乗り出して、目を輝かせた。

「私もメイクしたくなってきちゃった」
「え……」

突然そんなことを言われて戸惑っていると、隣から律が苦笑混じりに口を挟んだ。

「母さん。ハヤテ困ってる」
「あ、ごめんごめん。職業病ね」

律子さんは肩をすくめて笑う。
そのやり取りを見ていた律が、ふと思いついたように呟いた。

「……でも、一回母さんがハヤテにメイクするところ、見てみたいかも」

思わず律を見る。

「……え?」
「えっ!?いいの?」

俺と律子さんの声が、ぴたりと重なった。
律は冗談を言っている様子ではなく、真っ直ぐ頷く。

「母さん、本当に上手いから。
長年BAとしていろんな人にメイクしてきたし、その人に似合うメイクを見つけるのも得意なんだ。
……もしハヤテが嫌じゃなければ、モデルになってるところ見てみたい」

その言葉に、俺は笑って頷いた。

「うん!もちろん!」
「やった!」

律子さんはぱんっと両手を合わせる。

「腕が鳴るわね〜!ハヤテ君、よろしくね!」

*******

「それじゃあ、始めましょうか」

律子さんは楽しそうに笑うと、机の上にメイク道具を手際よく並べ始めた。
ファンデーションにブラシ、アイシャドウのパレット。
律が使っていたものより種類も数も多く、まるでプロの現場みたいだ。

「ハヤテ君は、そこに座ってくれる?」
「はい」

言われるまま椅子に腰掛けると、律子さんは立てた大きい鏡越しに俺の顔をじっと見つめた。
その視線は何かを探すような、優しい目だった。

「ハヤテ君」
「はい」
「あなたは、どんな人になりたい?」
「……え?」

思わず聞き返してしまう。
メイクをするのに、そんなことを聞かれるとは思ってもみなかった。
律子さんは柔らかく微笑む。

「メイクってね、その人の『なりたい自分』を形にするものだから。
まずはそこを知りたいの」
「なりたい……自分」

そんなこと、考えたこともなかった。
鏡に映る自分を見つめながら、しばらく黙り込む。

そして、頭に浮かんだ言葉をそのまま口にした。

「……素顔だと、子どもっぽく見られることが多いんです」
「うん」
「だから……もう少し、大人っぽく。
できれば、かっこよく見られたいです」

その言葉を聞くと、律子さんは嬉しそうに頷いた。

「なるほど。そういうことね」

メイクブラシを一本手に取りながら、ふっと笑う。

「でもね、ハヤテ君。メイクは、別人になるためのものじゃないの」
「え?」

俺は思わず目を瞬かせた。
俺にとってメイクは、装うもの。
自分を覆い隠すものだったから。
律子さんはさらに続けた。

「その人が元々持っている魅力を見つけて『なりたい自分』を少しだけ前に出してあげるもの。
だから今日は、ハヤテ君の中にある『大人っぽくて、かっこいい魅力』を引き出してみましょうか」

その言葉に、不思議と胸が高鳴った。

*******

「……はい、完成」

律子さんの声に合わせて、ゆっくりと目を開く。
恐る恐る鏡を見ると、思わず息をのんだ。

「……え」

そこに映っていたのは、見慣れたはずの自分。
なのに、まるで別人のようだった。
丸くて子供っぽい印象だった目元はすっきりと引き締まり、表情まで少し大人びて見える。

肌は自然なのに驚くほど綺麗で、前髪を流しただけのはずなのに、顔立ちまで違って見えた。

「……すごい」

思わず鏡に顔を近づける。
派手なメイクじゃない。
なのに、鏡の向こうの自分は今まで見たことがないくらいカッコよかった。

「これ……本当に、俺ですか?」

思わず漏れた声に、律子さんがくすっと笑った。

「もちろん。ハヤテ君よ」

そう言うと、鏡越しに俺の顔を指差した。

「ハヤテ君は元々お肌が綺麗だから、ファンデーションは薄くして質感だけ少しマット寄りにしたの。ツヤを抑えるだけでも、ぐっと落ち着いた印象になるのよ」
「へぇ……」
「それから輪郭に少しだけシェーディングを入れて、骨格に立体感を出したわ。小顔にするためじゃなくて、フェイスラインを引き締めて大人っぽく見せるため」

言われてよく見ると、確かに顔つきが少し凛々しく見える。
そして律子さんは、最後に前髪へそっと手を添えた。

「あと、おでこを少し見せたでしょう?隠すより見せた方が、ハヤテ君の顔立ちはずっと爽やかでかっこよく見えるわ」

そう言って満足そうに頷く。

「元々の素材がいいから、大きく変える必要なんてないのよ。少し引き算をして、魅力を引き出しただけ」

もう一度鏡を見る。
さっきまで「別人みたいだ」と思っていた顔が、不思議と少しずつ自分らしく見えてきた。

「……そっか。ハヤテは……かっこいい感じになりたかったんだ」

ぽつり、と律が呟いた。
その声に振り向くと、律はどこか肩を落として苦笑している。

「俺さ……自分が『こうしたい』って思うメイクばっかりしてきたから。
なんか、ごめん」
「そんなことない!」

思わず声が大きくなる。

「俺、律のメイクもすごく好きだよ!
毎回新しい自分になれた気がして、すごく楽しいし」

そう言うと、律子さんも嬉しそうに頷いた。

「そうそう。それも立派なメイクなのよ。
メイクにはいろんな考え方があるの。
モデルさんの『なりたい姿』を叶えるのも一つ。
でも、メイクする人が『この人のこんな魅力を見せたい』って思って仕上げるのも、同じくらい素敵なこと。
それで初めて、『私ってこんな雰囲気も似合うんだ』って気付く人も、たくさんいるもの」

律は少しだけ表情を緩めた。
そんな息子を見て、律子さんはふっと笑う。

「それにね。私が律のメイクを好きな理由は、もう一つあるの」

律は嫌な予感でもしたのか、じとっとした目を向ける。

「……何だよ」

律子さんはにやりと笑った。

「モデルへの愛が溢れてるから」

「え?」
「……なっ」

俺と律の声がぴったり重なる。

「メイクを始める前に写真を見せてもらったでしょう?
あれだけで分かったわ」

そう。
さっき律子さんは「今までのメイクも見てみたい」と言っていた。
律は約束を守って、今まで誰にも見せていなかったらしい。
俺が「いいですよ」と言って初めて見せたのだ。

律子さんはどこか微笑ましそうに話し始める。

「例えばハヤテ君の目。
律はそこが一番綺麗だと思ってるでしょう?」
「……え」
「だからアイメイクはいつも、その透明感が引き立つようになってる。
肌もそう。ツヤ感を活かして『綺麗』って思える質感を残してるの」

律は何も言わない。

「つまりね、『こういうハヤテ君を見てほしい』っていう気持ちが、メイクからすごく伝わってくるの」
「へぇ……」

思わず律を見る。
本人は恥ずかしそうに視線を逸らしていた。

「……でもね。魅力って、周りが見つけるだけじゃ完成しないの。
本人が『これも自分なんだ』って受け入れて、初めてその人の魅力になるのよ」

律子さんは少しだけ真面目な表情になる。
静かな声が部屋に響く。

「どんなに素敵なメイクをしても、家に帰って落とせば終わり。
舞台衣装も、脱げば終わりよね。
魅力も同じことよ。
誰かに『素敵だね』『可愛いね』『かっこいいね』って言われても、自分が受け入れなければ、それはずっと借り物のままなの」

その言葉が、不思議なくらい胸に残る。

「今はね、『人からどう見られるか』より、『自分がどうありたいか』を大事にしていい時代なの。
メイクは、その『ありたい自分』を後押しするための道具。
それ以上でも、それ以下でもないのよ」
「……ありたい、自分」

その言葉を、俺はゆっくりと繰り返した。
まるで俺のことを全部知っているみたいだった。
女装アイドルをしていて、それがあまりしっくりきていないことも。
思わず律子さんを見つめる。
だけどそこにあるのは、美容の仕事を長く続けてきた人だからこその、優しく包み込むような眼差しだけだった。

そう思った、その時。
律子さんはくるりと律の方を向き、いたずらっぽく笑った。

「だから、律の愛もいつか受け入れてもらえるといいわね」

「……え?愛……?」
「~~~っ、母さん!」

俺が固まるのと同時に、律の大きな叫び声が部屋中に響いた。

「あはは、ごめんごめん!」

楽しそうに笑う律子さんの声が部屋に響く。
それに、どこか真剣だった部屋の空気は一気にほどけていった。

*******

すっかり夕焼けに染まった帰り道。
メイクを落とし、律子さんの手料理までご馳走になった俺たちは、並んで駅へ向かって歩いていた。

「今日は母さんが急に帰ってきて、ごめん。
変なことばっか言ってただろ」

思わず笑って首を振る。

「全然!お母さん、すごく素敵な人だった。また会いたいな」

それはお世辞じゃなかった。
メイクが上手なだけじゃない。
その人らしさを大切にしてくれる素敵な大人だった。

「……そっか」

律は小さく笑って、どこか安心したように息をつく。
そんな話をしているうちに、駅が見えてきた。
立ち止まり、律へ向き直る。

「送ってくれてありがとう。また夏休みに会おうな」
「……うん」

返事はあった。
でも、いつもの律より少しだけ元気がない。
気になったけれど、俺は「じゃあ」と軽く手を振り、駅へ向かって歩き出した。

その時だった。

「……ハヤテ!」

呼び止められるのと同時に、腕を掴まれる。

「えっ?」

振り返ると、律が俺を真っ直ぐ見つめていた。
何かを言いたそうなのに、言葉が出てこない。
何度も唇を開いては閉じる。
その姿を見ているだけで、胸がざわついた。

やがて律は、小さく息を吸う。

「……さっきさ。友達だから、ここまで優しくしてくれるのかって聞いただろ」
「あ……うん」

あの洗面所での会話だ。
律は視線を少しだけ伏せ、ぽつり、とこぼすように言った。

「ずっと考えてた。なんで俺、こんなにハヤテのこと気になるんだろうって」

胸が、どくんと鳴った。

「多分……」

律はもう一度俺を見る。

「ハヤテは、俺にとって特別だからなんだと思う」
「……特別?」

思わず聞き返す。

「うん」
「特別な……友達?」

そうであってほしいような。
違っていてほしいような。
そんな気持ちで尋ねると、律は小さく頷いた。

「……うん」

けれど、その頷きはどこか苦しそうだった。
沈黙。
蝉の鳴き声だけが、二人の間を埋める。

やがて律は、苦笑するように息を吐いた。

「……ごめん。今の、嘘」

その声は震えていた。

「……え?」

律はゆっくり首を横に振る。

「友達として……じゃない」

そして、次の瞬間。
ぐい、と強く腕を引かれた。

「っ……!」

気づけば、律の腕が俺を強く抱き締めていた。
突然のことに息が止まる。
胸越しに伝わる体温。
耳元で聞こえる少し速い鼓動。

「……律」

名前を呼ぶ声まで震えてしまう。
律は抱き締める力を少しだけ強くした。
そして、意を決したように囁く。

「……好き」

びくりと、身体が震えた。
その一言が、胸へ真っ直ぐ落ちていく。

「ハヤテが好き」
「……」
「友達じゃない、意味で」

その瞬間、世界が止まったような気がした。
人気の全くない、駅の前。
遠くで響く蝉の声だけが、やけに鮮明に聞こえた。

どれくらい黙っていただろう。
律はゆっくり腕をほどき、ぎこちなく笑う。

「……返事は、今じゃなくていいから。
もし迷惑だったら、無理に今まで通り接しなくてもいい。
俺のこと避けても、無視しても……」
「っ、そんなことしない!」

思わず遮るように叫んでいた。
律は驚いたように目を見開き、それから少しだけ安心したように笑う。

「……良かった」

その笑顔は、今にも泣きそうなくらい弱々しかった。

「言わなきゃ後悔するって思っただけなんだ。
だから……ハヤテを困らせたいわけじゃない。
嫌がることも、絶対しない。本当に、気にしなくていいから」

その声は、どこまでも優しくて。
だからこそ、胸が締めつけられた。
何か言わなきゃ。
そう思って口を開いた、その時だった。

律は少し照れくさそうに笑うと、視線を逸らした。

「……あと、一つだけ。告白ついでに、本当のこと言っていい?」

その言い方に、思わず背筋が伸びる。
俺が頷くと、律は小さく息を吸ってから静かに口を開いた。

「ハヤテが昔、芸能活動してたこと……俺、知ってた」
「えっ?」

思わず目を見開く。
……昔?

「『大好き7つ子』とか、お菓子のCMとか。
子役も、ジュニアモデルもやってただろ?」
「あ……」

言われて初めて気付く。
あの頃は芸名じゃなく、本名で活動していた。
だから知っている人がいても不思議じゃない。

「高校の入学式で『朝倉ハヤテ』って名前を聞いた時さ。あの子だ、ってすぐ分かった。
でも、ハヤテは学校では普通に過ごしたそうだったから。
そのことには触れない方がいいんだろうなって思って、黙ってた」

「…………」

胸が熱くなる。
そうだったんだ。
律は最初から知っていたのに、一度もそれを口にしなかった。
俺が話すまで待っていてくれた。
その優しさが、胸いっぱいに広がっていく。

「でも好きになったのは、それとは全然関係ない」

律は少しだけ首を振って、真っ直ぐ俺を見た。

「一緒にご飯食べたり、話したり。
笑ったり、メイクしたり……そういう時間が全部楽しくて。
気付いたら、ハヤテと一緒にいる時間が一番好きになってた」
「……」

胸が苦しい。
頬が熱い。
律が、俺をそんなふうに思ってくれていたなんて。

「……ありがとう」

やっとの思いで声を絞り出す。

「急だったから、まだ頭が追いついてないけど……ちゃんと考える。律のこと」

その言葉を聞いた律は、心底ほっとしたように笑った。

「……ありがとう」

沈黙が流れる。
夕暮れから夜へ変わる空の下。
夏の風だけが、二人の間を静かに吹き抜けた。

その時だった。

「……ハヤテ」

名前を呼ばれた次の瞬間。
ふわり、ともう一度抱き寄せられる。

「……っ」

驚いて顔を上げる。
その距離の近さに息を止めた、その時。
柔らかな感触が、頬へそっと触れた。

「……」

ほんの一瞬。
触れるだけのキス。

律はすぐに身体を離し、照れ隠しのように笑った。

「……考えてくれるなら。俺のこと、ちゃんと意識してほしいなって」
「え……」

胸がどくん、と大きく鳴る。
律は耳まで真っ赤にしながら頭をかいた。

「じゃあ、また」

そう言って背を向ける律の後ろ姿は、どこか照れくさそうで、でも少しだけ晴れやかだった。

遠ざかっていくその背中を見送りながら、俺はそっと頬に手を当てる。
さっき触れた場所が、まだ熱い。
まるでそこだけ体温が残っているみたいだった。

「……どうしよう」

頬の熱は、いつまで経っても引いてくれなかった。