俺には、昔から忘れられない子がいる。
きっかけは、小学生の頃の夏休みだった。
何気なくつけていたテレビに、その子は突然現れた。
『えーん……えーん……』
『きみ、どうしたの?』
夏休みに放送されていた、七つ子家族のドタバタを描くファミリードラマ。
その日の話は、ショッピングセンターで迷子になった三男が、自分と同じように迷子になって泣いている小さな子を見つけるという内容だった。
優しく声を掛けられたその子は、おそるおそる顔を上げる。
涙で濡れた大きな瞳。
ぷくっとした丸い頬。
不安そうな表情なのに、どこか守ってあげたくなるような可愛さがあって、俺は思わず画面に見入ってしまった。
『僕と一緒にお母さんを探そう!』
『……うん!』
その瞬間に見せた笑顔は、さっきまで泣いていた子と同じとは思えないくらい眩しかった。
そして母親と再会して飛びつく姿に、気付けば俺までほっとして笑っていた。
……この子、誰なんだろう。
ドラマが終わると、俺はエンドクレジットを目で追った。
いた。迷子役・〝朝倉ハヤテ〟。
その日から、俺は朝倉ハヤテという子役を調べ始めた。
事務所のホームページを何度も見に行って、出演していたCMや雑誌を探し、新しい出演情報が出れば欠かさずチェックする。
朝倉ハヤテは、とにかく笑顔が可愛かった。
ぱっちりとした目も、ころころ変わる表情も、見ているだけで元気になれる。
でも、それ以上に惹かれたのは仕事に向き合う姿勢だった。
どんな役でも一生懸命で、CMの短い映像ですら全力なのが伝わってくる。
インタビューでは『いつ、どんな仕事が来てもいいように、毎日レッスンを頑張っています』そんなふうに照れくさそうに話していて、小学生ながら「すごいな」と素直に思ったのを覚えている。
だから自然と応援していた。
テレビに映れば嬉しかったし、新しい仕事が決まれば自分のことみたいに嬉しかった。
だけど、中学校に上がったある日。
朝倉ハヤテは突然姿を消した。
芸能事務所のホームページからも名前がなくなり、新しい出演情報も一切更新されない。
(…もしかしたら芸能界、辞めちゃったのかな)
そう思った途端、胸の奥がぽっかり空いたような気がした。
もう、あの笑顔を見ることはないのかもしれない。
そんな寂しさを抱えたまま、俺も自分の夢や勉強に打ち込み、高校へ進学した。
*******
高校一年のクラス分け。
廊下に貼り出された名簿を見た瞬間、俺は心臓が止まるかと思った。
ほとんどが見覚えのない名前。
その中で、たった一つの名前から目が離せなくなった。
(……まさか)
同姓同名かもしれない。
きっと違う人だ。
そう自分に言い聞かせながらも、胸の鼓動だけはどんどん速くなっていく。
教室に入ると、一人ずつ自己紹介が始まった。
「三番、朝倉!」
名前が呼ばれるのは早かった。
〝あ〟で始まる名前だから。
俺は前方の席をじっと見つめる。
静かに立ち上がった彼は、ゆっくりと振り返った。
少し長めの前髪。
黒縁の眼鏡。
その背格好は制服もきっちり着こなしている、どこにでもいる真面目な高校生に見えた。
テレビや雑誌で見ていた、あの眩しい笑顔とはまるで違う。
けど。
(……やっぱり)
俺には一目で分かった。
あの夏休み、画面越しに見て以来。
ずっと心のどこかに残っていた、あの子だった。
彼は少し俯きながら口を開く。
「……朝倉ハヤテです。勉強も運動もあまり得意じゃないですが、仲良くしてもらえると嬉しいです。よろしくお願いします」
控えめな拍手が教室に広がる。
それから俺は、自分の自己紹介までほとんどの奴の自己紹介を聞いていなかった。
〝あの子〟に会えた。
その喜びで胸がいっぱいだったから。
(でも………芸能界、もう辞めたならその事には触れてほしくないのかもしれないな。
地味な格好してるし、高校では静かに過ごしたいのかも)
もしそうなら。
昔テレビに出てたよな、なんて言うのは違う気がした。
だから休み時間。
俺は何でもない顔をして、そっと彼の席へ向かった。
「俺、橘。よろしく」
声を掛けると、朝倉は肩を小さく震わせた。
「……朝倉です。よろしく」
恐る恐るこちらを見る瞳。
その表情には、戸惑いがそのまま浮かんでいた。
(ああ、また怖がられてる)
派手な髪にピアス。
初対面で警戒されるのは、もう慣れっこだ。
苦笑しながら、俺は気にせず続ける。
「さっき運動も勉強も得意じゃないって言ってたけどさ。部活は決めてんの?」
朝倉は少しだけ考えてから、小さく答えた。
「……美術部、いいかなって思ってる」
その一言を聞いた瞬間。
「そっか」
俺は笑って頷いた。
その時にはもう、入る部活は決まっていた。
*******
高校一年の夏が終わる頃。
美術部に入っても、ハヤテは顔を出さない日が多かった。
今日もいないのか、なんて思って。
そんな日が続くたび、なんとなく物足りない気持ちになる。
部活なんて一人でも十分楽しいはずなのに、その理由が自分でもよく分からなかった。
けれど夏休みが明けた頃からハヤテは少しずつ部活へ来るようになった。
そのたびに俺は、心の中で小さくガッツポーズをしていた。
部活のある日は、自然と隣へ行く。
気づけば、それが当たり前になっていた。
その日の活動はほとんど自由時間だった。
それぞれ好きな場所でスケッチブックを広げ、思い思いの絵を描いている。
「あ……やべ。色鉛筆忘れた」
困ったように頭を掻くハヤテを見て、俺は迷わず自分の色鉛筆を差し出した。
「これ使って。いっぱいあるから」
「え、いいの?」
「もちろん」
一瞬驚いたように目を丸くしたあと、ハヤテは嬉しそうに笑った。
「ありがと。じゃあ借りる」
「うん」
さらさら、と紙を擦る音だけが静かな教室に響く。
しばらく描いているうち、ふと気になって口を開いた。
「なあ、ハヤテのスケッチブック見せてよ」
「えー?じゃあ律のも見せろよ」
「いいよ」
「……じゃ、色鉛筆借りてるし」
少し照れくさそうに笑って差し出されたスケッチブックを受け取る。
何気なくページをめくった俺は、思わず目を見開いた。
人の手。
校舎の窓から見える風景。
机の上に置かれた林檎。
一枚、また一枚。
二十枚近く描き込まれたページは、ほとんど最後まで埋まっていた。
しかも後ろへ進むほど、線も陰影も見違えるほど上達している。
「……すげえ」
思わず声が漏れた。
「こんなに描いてたのか。なのに今年の前半、全然来なかったじゃん」
そう尋ねると、ハヤテは少し困ったように頬を掻いた。
「実はさ、美術部って休みやすそうだなって思って入ったんだよ。いろいろ…忙しかったし」
苦笑いを浮かべ少し俯いたあと、少しだけ真面目な顔になる。
「でも、描いてみたら思ったより楽しくてさ。
やっぱりちゃんと部活行きたいなって思ったんだ。皆に追いつけるように、家で少しずつ練習してた」
その言葉に、もう一度スケッチブックへ目を落とす。
最後のページには、一羽の鳥が描かれていた。
翼を大きく広げ、今にも飛び立とうとしている鳥。
まるで、昨日までとは違う場所へ踏み出そうとしているみたいだった。
「……すごい。めちゃくちゃ上達してるじゃん」
自然と笑みがこぼれる。
俺はページを閉じ、ハヤテへ返した。
「俺、好きだな。ハヤテの絵」
そう言うとハヤテは一瞬きょとんとして、それから少し照れたように笑った。
「……そう?ありがと」
その笑顔を見た時。
胸がきゅっと苦しくなった。
そして、ドキドキと高鳴り出す。
でも、理由を考えた瞬間───すぐに答えが浮かんだ。
ハヤテは、自分の気持ちにまっすぐなんだ。
部活は「休めるから」という理由で入ったはずなのに、今では家で何十枚も絵を描くほど夢中になっている。
面白いと思ったものには目を輝かせて。
綺麗だと思った景色に感動して。
嬉しいことがあれば素直に笑う。
そんな瑞々しい感性で、世界を楽しんでいる。
昔から、そんなハヤテを見ているのが好きだった。
部活に来ない日は、どこか物足りなくて。
隣にいるだけで嬉しくて。
照れたように笑ってくれるだけで、胸があたたかくなる。
好きだったのは、あの笑顔だけじゃないんだ。
何にでも心を動かし、まっすぐ向き合う。
そんなハヤテという人、そのものに。
ずっと前から、惹かれていたんだ。
この気持ちは、きっと昔から変わっていなかった。
ただ俺が、まだその想いに名前をつけられなかっただけ。
俺は───ハヤテが好きだ。
(もう、この気持ちを知らなかった頃には戻れない)
夕暮れに赤く染まりゆく教室の中。
俺は、生まれて初めて恋を知った。
きっかけは、小学生の頃の夏休みだった。
何気なくつけていたテレビに、その子は突然現れた。
『えーん……えーん……』
『きみ、どうしたの?』
夏休みに放送されていた、七つ子家族のドタバタを描くファミリードラマ。
その日の話は、ショッピングセンターで迷子になった三男が、自分と同じように迷子になって泣いている小さな子を見つけるという内容だった。
優しく声を掛けられたその子は、おそるおそる顔を上げる。
涙で濡れた大きな瞳。
ぷくっとした丸い頬。
不安そうな表情なのに、どこか守ってあげたくなるような可愛さがあって、俺は思わず画面に見入ってしまった。
『僕と一緒にお母さんを探そう!』
『……うん!』
その瞬間に見せた笑顔は、さっきまで泣いていた子と同じとは思えないくらい眩しかった。
そして母親と再会して飛びつく姿に、気付けば俺までほっとして笑っていた。
……この子、誰なんだろう。
ドラマが終わると、俺はエンドクレジットを目で追った。
いた。迷子役・〝朝倉ハヤテ〟。
その日から、俺は朝倉ハヤテという子役を調べ始めた。
事務所のホームページを何度も見に行って、出演していたCMや雑誌を探し、新しい出演情報が出れば欠かさずチェックする。
朝倉ハヤテは、とにかく笑顔が可愛かった。
ぱっちりとした目も、ころころ変わる表情も、見ているだけで元気になれる。
でも、それ以上に惹かれたのは仕事に向き合う姿勢だった。
どんな役でも一生懸命で、CMの短い映像ですら全力なのが伝わってくる。
インタビューでは『いつ、どんな仕事が来てもいいように、毎日レッスンを頑張っています』そんなふうに照れくさそうに話していて、小学生ながら「すごいな」と素直に思ったのを覚えている。
だから自然と応援していた。
テレビに映れば嬉しかったし、新しい仕事が決まれば自分のことみたいに嬉しかった。
だけど、中学校に上がったある日。
朝倉ハヤテは突然姿を消した。
芸能事務所のホームページからも名前がなくなり、新しい出演情報も一切更新されない。
(…もしかしたら芸能界、辞めちゃったのかな)
そう思った途端、胸の奥がぽっかり空いたような気がした。
もう、あの笑顔を見ることはないのかもしれない。
そんな寂しさを抱えたまま、俺も自分の夢や勉強に打ち込み、高校へ進学した。
*******
高校一年のクラス分け。
廊下に貼り出された名簿を見た瞬間、俺は心臓が止まるかと思った。
ほとんどが見覚えのない名前。
その中で、たった一つの名前から目が離せなくなった。
(……まさか)
同姓同名かもしれない。
きっと違う人だ。
そう自分に言い聞かせながらも、胸の鼓動だけはどんどん速くなっていく。
教室に入ると、一人ずつ自己紹介が始まった。
「三番、朝倉!」
名前が呼ばれるのは早かった。
〝あ〟で始まる名前だから。
俺は前方の席をじっと見つめる。
静かに立ち上がった彼は、ゆっくりと振り返った。
少し長めの前髪。
黒縁の眼鏡。
その背格好は制服もきっちり着こなしている、どこにでもいる真面目な高校生に見えた。
テレビや雑誌で見ていた、あの眩しい笑顔とはまるで違う。
けど。
(……やっぱり)
俺には一目で分かった。
あの夏休み、画面越しに見て以来。
ずっと心のどこかに残っていた、あの子だった。
彼は少し俯きながら口を開く。
「……朝倉ハヤテです。勉強も運動もあまり得意じゃないですが、仲良くしてもらえると嬉しいです。よろしくお願いします」
控えめな拍手が教室に広がる。
それから俺は、自分の自己紹介までほとんどの奴の自己紹介を聞いていなかった。
〝あの子〟に会えた。
その喜びで胸がいっぱいだったから。
(でも………芸能界、もう辞めたならその事には触れてほしくないのかもしれないな。
地味な格好してるし、高校では静かに過ごしたいのかも)
もしそうなら。
昔テレビに出てたよな、なんて言うのは違う気がした。
だから休み時間。
俺は何でもない顔をして、そっと彼の席へ向かった。
「俺、橘。よろしく」
声を掛けると、朝倉は肩を小さく震わせた。
「……朝倉です。よろしく」
恐る恐るこちらを見る瞳。
その表情には、戸惑いがそのまま浮かんでいた。
(ああ、また怖がられてる)
派手な髪にピアス。
初対面で警戒されるのは、もう慣れっこだ。
苦笑しながら、俺は気にせず続ける。
「さっき運動も勉強も得意じゃないって言ってたけどさ。部活は決めてんの?」
朝倉は少しだけ考えてから、小さく答えた。
「……美術部、いいかなって思ってる」
その一言を聞いた瞬間。
「そっか」
俺は笑って頷いた。
その時にはもう、入る部活は決まっていた。
*******
高校一年の夏が終わる頃。
美術部に入っても、ハヤテは顔を出さない日が多かった。
今日もいないのか、なんて思って。
そんな日が続くたび、なんとなく物足りない気持ちになる。
部活なんて一人でも十分楽しいはずなのに、その理由が自分でもよく分からなかった。
けれど夏休みが明けた頃からハヤテは少しずつ部活へ来るようになった。
そのたびに俺は、心の中で小さくガッツポーズをしていた。
部活のある日は、自然と隣へ行く。
気づけば、それが当たり前になっていた。
その日の活動はほとんど自由時間だった。
それぞれ好きな場所でスケッチブックを広げ、思い思いの絵を描いている。
「あ……やべ。色鉛筆忘れた」
困ったように頭を掻くハヤテを見て、俺は迷わず自分の色鉛筆を差し出した。
「これ使って。いっぱいあるから」
「え、いいの?」
「もちろん」
一瞬驚いたように目を丸くしたあと、ハヤテは嬉しそうに笑った。
「ありがと。じゃあ借りる」
「うん」
さらさら、と紙を擦る音だけが静かな教室に響く。
しばらく描いているうち、ふと気になって口を開いた。
「なあ、ハヤテのスケッチブック見せてよ」
「えー?じゃあ律のも見せろよ」
「いいよ」
「……じゃ、色鉛筆借りてるし」
少し照れくさそうに笑って差し出されたスケッチブックを受け取る。
何気なくページをめくった俺は、思わず目を見開いた。
人の手。
校舎の窓から見える風景。
机の上に置かれた林檎。
一枚、また一枚。
二十枚近く描き込まれたページは、ほとんど最後まで埋まっていた。
しかも後ろへ進むほど、線も陰影も見違えるほど上達している。
「……すげえ」
思わず声が漏れた。
「こんなに描いてたのか。なのに今年の前半、全然来なかったじゃん」
そう尋ねると、ハヤテは少し困ったように頬を掻いた。
「実はさ、美術部って休みやすそうだなって思って入ったんだよ。いろいろ…忙しかったし」
苦笑いを浮かべ少し俯いたあと、少しだけ真面目な顔になる。
「でも、描いてみたら思ったより楽しくてさ。
やっぱりちゃんと部活行きたいなって思ったんだ。皆に追いつけるように、家で少しずつ練習してた」
その言葉に、もう一度スケッチブックへ目を落とす。
最後のページには、一羽の鳥が描かれていた。
翼を大きく広げ、今にも飛び立とうとしている鳥。
まるで、昨日までとは違う場所へ踏み出そうとしているみたいだった。
「……すごい。めちゃくちゃ上達してるじゃん」
自然と笑みがこぼれる。
俺はページを閉じ、ハヤテへ返した。
「俺、好きだな。ハヤテの絵」
そう言うとハヤテは一瞬きょとんとして、それから少し照れたように笑った。
「……そう?ありがと」
その笑顔を見た時。
胸がきゅっと苦しくなった。
そして、ドキドキと高鳴り出す。
でも、理由を考えた瞬間───すぐに答えが浮かんだ。
ハヤテは、自分の気持ちにまっすぐなんだ。
部活は「休めるから」という理由で入ったはずなのに、今では家で何十枚も絵を描くほど夢中になっている。
面白いと思ったものには目を輝かせて。
綺麗だと思った景色に感動して。
嬉しいことがあれば素直に笑う。
そんな瑞々しい感性で、世界を楽しんでいる。
昔から、そんなハヤテを見ているのが好きだった。
部活に来ない日は、どこか物足りなくて。
隣にいるだけで嬉しくて。
照れたように笑ってくれるだけで、胸があたたかくなる。
好きだったのは、あの笑顔だけじゃないんだ。
何にでも心を動かし、まっすぐ向き合う。
そんなハヤテという人、そのものに。
ずっと前から、惹かれていたんだ。
この気持ちは、きっと昔から変わっていなかった。
ただ俺が、まだその想いに名前をつけられなかっただけ。
俺は───ハヤテが好きだ。
(もう、この気持ちを知らなかった頃には戻れない)
夕暮れに赤く染まりゆく教室の中。
俺は、生まれて初めて恋を知った。

