「ねえルナ、今日なんかビジュ良くない?」
「え?」
メイクルーム。
メイクを終えて鏡の前から立ち上がると、向かいにいたミウが目を丸くした。
今日はファッション誌の撮影日だ。
四ページにわたるグラビアと三人のインタビュー企画。
朝から楽屋入りし、ヘアメイクを済ませて、これから打ち合わせをして撮影に入る予定だった。
ミウはずいっと顔を寄せ、俺の頬を覗き込む。
「なんかメイク乗りがいいっていうか……肌の調子、めちゃくちゃ良くない?」
「……そう?」
そこへ隣のブースからレイも顔を出した。
「ほんとだ。なんか今日のルナ、透明感あるじゃん」
二人にまで言われると、さすがに照れくさい。
「最近、スキンケア変えたんだ。それが合ってるのかも」
思い浮かんだのは、律にもらった化粧水だった。家に帰って試しに使った瞬間、肌にすっと溶け込むような感覚があった。
(……あれ、これいいかも)
そう思って翌朝鏡を見ると、肌がいつもよりしっとりしていて、キメまで整って見えた。
一緒にもらった入浴剤も気持ち良くて、その日は久しぶりに朝までぐっすり眠れた。
今日も昨夜しっかり化粧水をつけて、湯船に浸かってから眠ってきたところだった。
「あと最近、お風呂にちゃんと浸かるようにしてる。よく眠れるし、それもあるのかな」
その一言に、ミウは呆れたように肩を落とした。
「ちょっと待って。アンタ今までシャワーだけだったの?」
「……うん」
「信じらんない。アタシなんて毎日半身浴して、パックして、美顔ローラーまでやってるのに」
得意げな口ぶりに少しむっとすると、レイが苦笑しながら間に入る。
「はいはい、そのへんにしとけって。せっかくルナが美容に興味持ち始めたんだからさ。
で、何に変えたんだ?」
「友達に勧められて、organic-beautyってところの敏感肌用の化粧水。肌馴染みがすごく良くて」
「へぇ、そのブランドは知らないな」
すると待ってましたと言わんばかりに、ミウが胸を張った。
「organic-beauty。
オーガニック由来の原料を使いながら、必要な美容成分だけをちゃんと届けるっていうコンセプトのブランドよ。
広告費をあまりかけない分、品質のわりに価格も抑えられてて、最近かなり評判がいいの」
そこまで一気に説明すると、ミウは改めて俺の顔を眺めた。
「敏感肌向けって聞いてたけど……アンタには当たりだったみたいね。
前はちょっと荒れてたもの」
「気付いてたなら教えてくれよ……」
「言ったわよ?でもアンタ、ろくに調べもしなかったじゃない」
「いや、調べても何が合うのか全然わかんなくて……」
するとミウは少しだけ真面目な表情になった。
「スキンケアってね、『いいもの』を使えばいい訳じゃないの。
四十代の乾燥やシワに悩む人と、アタシたちみたいな十代の皮脂が多い肌じゃ、必要なものは全然違う。
乾燥肌もいれば脂性肌もいるし、毛穴が気になる人も敏感肌の人もいる。
だから、自分の肌を知ることが一番大事なのよ」
「……なるほど」
美容って、思っていたよりずっと奥が深い。
「その化粧水、保湿力が高いタイプだから敏感肌と相性いいんでしょうね。
肌のバリア機能も整いやすいし」
そう聞いて、胸の奥が少しだけ温かくなった。
(やっぱり、律のおすすめだったからか)
思わず小さく笑みがこぼれる。
「ふーん。じゃあ俺も調べてみようかな」
レイが興味深そうに言うと、ミウはすかさず頷いた。
「いきなり買うより、まずはサンプルで試すこと。スキンケアは相性確認が基本よ」
「はいはい、美容先生」
レイが笑うと、ミウは満足そうに鼻を鳴らした。
******
そんな話をしているうちに、あっという間に撮影の時間になった。
スタジオへ移動すると、白を基調としたセットに色とりどりの花や小物が並べられている。
今回のテーマは〝休日のお出かけ〟。
衣装はそれぞれ私服風のコーディネートだった。
俺は黄色のチェック柄のワンピースに白いカーディガン。
ミウは赤いブラウスにデニムパンツを合わせたボーイッシュなスタイル。
レイは淡いブルーのロングスカートに白いブラウスを合わせた、爽やかなコーディネートだ。
「はい、三人寄って〜!」
カメラマンの声に合わせて肩を寄せ合う。
「ルナちゃん、もう少し笑顔!」
「レイちゃんはそのまま!ミウちゃん、顎を少し引いて!」
シャッター音が軽快に響く。
「いいね、その表情!」
「今度は歩いてる感じで!」
その後の撮影は、なんとかいつもの調子を取り戻し、順調に進んでいった。
続くインタビューでは、突然ミウが台本にはない話を切り出した。
「実はルナ、最近スキンケアに凝り始めたんです」
「えっ?」
不意を突かれて一瞬戸惑ったものの、すぐに気持ちを切り替える。
「えっと……最近、化粧水を変えてみたりしてて……」
そこからは普段使っているスキンケアの話や美容のこだわりで会話が弾み、インタビューも和やかな雰囲気のまま終了した。
こうして、この日の仕事は滞りなく終わった。
******
数週間後。
雑誌の発売と同時に、グラビア写真が公式SNSでも公開された。
特に反響が大きかったのは、俺のソロカットだった。
窓辺で柔らかな光を浴びながら微笑む一枚には、
『透明感すごすぎる』
『本当に男の子なの!?』
『肌が綺麗すぎて見惚れる』
『ルナちゃんのスキンケア知りたい!』
そんなコメントが次々と寄せられ、投稿はあっという間に拡散されていく。
数日後、事務所ではマネージャーが興奮気味にスマホを掲げていた。
「すごいぞ!美容ブランドからタイアップの問い合わせが来てる!それも一社じゃない!」
「えっ、本当に?」
「今までライブや音楽関係の仕事が中心だったけど、これをきっかけに美容系の仕事も増えるかもしれないな」
その言葉に、俺は思わず胸の奥が熱くなる。
あの日、律がくれた一本の化粧水。
あれがきっかけで、少しずつ何かが変わり始めていた。
******
部活帰り。
「お邪魔しまーす!」
「どうぞ」
あの日以来、部活の帰りはそのまま律の家へ寄って、一緒に夕飯を食べるのがいつの間にか当たり前になっていた。
母さんにも「部活の後は友達と遊んで帰る」と伝えたら、「楽しんできなさい」とあっさり許可が出た。
この日の夕飯は、きのこやベーコン、ほうれん草がたっぷり入ったリゾット。
ふわりと立ち上るバターの香りに頬を緩めながら、俺はスプーンを口に運ぶ。
「やっぱり美味しい」
「ありがと」
律は少し照れたように笑った。
何度食べても、律の料理は店で出てきてもおかしくないくらい美味しい。
俺はふと思い出して口を開いた。
「あ、そうだ。前にもらった化粧水と入浴剤さ、めちゃくちゃ良かった。本当にありがとう」
そう言うと、律は嬉しそうに俺の顔を見た。
「よかった。見た感じ、肌荒れもだいぶ落ち着いてるし。やっぱりあれ合ってたんだな」
心からホッとしたように微笑む律。
その表情を見て、前から気になっていたことを思い切って聞いてみた。
「あのさ……律って、なんでそんなに美容詳しいの?」
化粧水を選んでくれた時からずっと不思議だった。
律は髪もいつも綺麗にセットしてるし、制服の下につけてるアクセサリーのセンスもいい。
オシャレが好きなんだろうとは思っていた。
でも、スキンケアや化粧品の成分まで詳しい男子なんて、学校にはほとんどいない。
芸能界なら男性のヘアメイクさんも多いし、詳しい人はいくらでもいる。
だけど、学校にいる同年代の男子でここまで美容に詳しい人は初めてだった。
俺の問いに、律は少しだけ首を傾げた。
「なんでって……好きだから」
「……え」
まっすぐ目を見て言われて、胸がどきりと鳴る。
もちろん、美容が好きって意味だ。
わかっているのに、一瞬だけ違う意味に聞こえてしまった自分が恥ずかしい。
そんな俺の様子には気づかず、律は照れくさそうに頭をかいた。
「……まあ、きっかけなら母さんかな」
「お母さん?」
「母さん、MAASAってコスメブランドでBAやってるんだ。今の店舗では売上も指名もトップらしい」
「えっ、すご!」
思わず声が大きくなる。
MAASAといえば、海外発の人気コスメブランド。
プロのメイクさんでも愛用しているのをよく見る。
そのトップBAなんて、相当すごい人なんだろう。
律は少し誇らしそうに笑った。
「母さんってさ、メイクが上手いだけじゃないんだ。お客さんの悩みを聞いて、その人に合うものを一緒に探すのがすごく得意で。
俺、中学の頃ニキビひどくてさ。当時は鏡見るのも嫌だったんだけど、母さんが生活習慣からスキンケアまで全部見直してくれて。少しずつ治っていったんだ」
律は自分の頬を指先で軽く触れる。
「肌が変わるだけで、こんなに気持ちまで変わるんだって思って。それからかな。美容って面白いなって思うようになったのは」
「……なるほど」
だから俺の肌荒れにもすぐ気づいたのか。
ただ知識があるだけじゃない。
人の変化をちゃんと見ているから、あんな自然に声をかけてくれたんだ。
俺はなんだか納得した。
「律はさ、お母さんみたいに美容の仕事に就きたいの?」
そう尋ねると、律は迷うことなく頷いた。
「うん。BAもいいし、メイクアップアーティストにも憧れる。誰かが少しでも自信を持てる手伝いができたらいいなって思うんだ。今は男でも珍しくないし」
その言葉には少しも迷いがなかった。
自分の未来を、まっすぐ見据えている目だった。
「……そっか」
俺は小さく笑って俯く。
俺はこの先もアイドルを続けたいのか。
女装を続けたいのか。
本当は男の姿に戻りたいんじゃないのか。
そんなことばかり考えているのに、答えはまだ見つからない。
だからこそ、誰かの力になりたいと迷いなく言い切れる律が、少し眩しく見えた。
そして同時に、少しだけ羨ましかった。
「……あのさ。それで、折り入ってお願いがあるんだけど。いい?」
「え?うん。何?」
律が少しだけ言いにくそうに視線を逸らす。
俺が首を傾げると、律は立ち上がって手招きした。
「ちょっと、ついてきて」
「……うん」
案内されたのは廊下の奥にある一枚のドア。
律がノブを回して開けると、ふわりと柑橘と石けんを混ぜたような爽やかな香りが漂った。
「わあ……」
思わず声が漏れる。
部屋は白と明るい木目を基調にまとめられていて、余計な物はほとんど置かれていない。
窓際には観葉植物が一鉢。
棚には香水、ヘアワックスが種類ごとに綺麗に並び、その横には雑誌と、美術部らしいスケッチブックが立て掛けられている。
勉強机の上も驚くほど整理されていて、いかにも律らしい、清潔感のある部屋だった。
「その辺、座ってて」
言われるまま、ローテーブルの前に腰を下ろす。
律は机の横へ歩いていき、大きな黒いバッグを持って戻ってくると、俺の隣へ座った。
律がバッグを開けた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。
「……すごい」
中にはアイシャドウ、ファンデーション、チーク、リップ、ブラシ、スポンジ、ビューラー。
プロのメイクさんが現場で使っているような道具が、綺麗に整理されながらぎっしりと詰め込まれていた。
色とりどりのパレットが照明を受けてきらりと光る。
「これ全部……律の?」
「うん」
律は少し照れくさそうに笑う。
「母さんのお下がりだと思った?」
「……うん」
正直に頷くと、律は苦笑した。
「違う。ほとんど自分で買った。今はこれを買うためにバイトしてるようなもんかな」
「えっ!?」
思わず大きな声が出る。
てっきりお母さんから借りているものだと思っていた。
「もちろん、母さんの社割で買ってるMAASAの商品は多いけどね」
そう言って律はバッグを軽く撫でた。
その仕草だけで、この道具をどれだけ大切にしているのかが伝わってくる。
少し間を置いて、律は真剣な顔になった。
「それでお願いなんだけど」
俺も自然と姿勢を正す。
「ハヤテ。もしよかったら、メイクのモデルになってくれないか?」
「……え?」
予想外の言葉に固まる。
「え、えっ!?」
そして、心臓が一気に跳ねた。
まさか。
仕事のこと、バレた……?
焦る俺とは対照的に、律は落ち着いた口調で続ける。
「この前、眼鏡がずれた時に素顔見えただろ?」
「あ……」
「その時思ったんだ。ハヤテって骨格が綺麗だから、メイク映えする顔だなって」
まっすぐな目だった。
変な下心も興味本位もない。
純粋に俺に〝メイクモデルをしてほしい〟と説得している目だった。
「前は中学の同級生の女子にお願いしてたんだけどさ…告白されちゃって。断ったら『もうモデルはやらない』って言われて、それ以来ずっと練習相手がいないんだ。
プロのモデルさんにお願いすることも考えたけど、高校生には結構きついし」
律は一度言葉を切る。
「だから、無理にとは言わない。本当に、たまにでいい。付き合ってもらえたら嬉しい」
俺はじっと律を見つめた。
そこにあるのは、自分の夢に向かって練習したいという真っ直ぐな気持ちだけ。
どうやら俺の芸能活動には気づいていないらしい。
胸を撫で下ろしながら、俺は一つだけ確認する。
「……あのさ。メイクするのはいいんだけど、写真をSNSとかに載せたりはしない?」
その瞬間、律は迷いなく頷いた。
「それは絶対しない。
記録として写真は撮らせてもらいたい。でも、それは俺だけが見るため。ネットに上げたり、人に見せたりもしない」
その言葉に、張っていた緊張が少しだけほどける。
律なら、本当に約束を守ってくれそうだ。
それに。
さっき聞いた夢を、俺は応援したいと思ってしまった。
「……いいよ。写真は撮ってもいい。でもネットはなし。それなら協力する」
「……本当?」
ぱっと表情が明るくなる。
「ありがとう。本当に助かる」
その笑顔があまりにも嬉しそうで、俺まで胸がふわりと温かくなる。
なんだろう、この気持ち。
少しくすぐったくて、照れくさくて。
俺はそれを誤魔化すように小さく頷いた。
「……よろしく」
「え?」
メイクルーム。
メイクを終えて鏡の前から立ち上がると、向かいにいたミウが目を丸くした。
今日はファッション誌の撮影日だ。
四ページにわたるグラビアと三人のインタビュー企画。
朝から楽屋入りし、ヘアメイクを済ませて、これから打ち合わせをして撮影に入る予定だった。
ミウはずいっと顔を寄せ、俺の頬を覗き込む。
「なんかメイク乗りがいいっていうか……肌の調子、めちゃくちゃ良くない?」
「……そう?」
そこへ隣のブースからレイも顔を出した。
「ほんとだ。なんか今日のルナ、透明感あるじゃん」
二人にまで言われると、さすがに照れくさい。
「最近、スキンケア変えたんだ。それが合ってるのかも」
思い浮かんだのは、律にもらった化粧水だった。家に帰って試しに使った瞬間、肌にすっと溶け込むような感覚があった。
(……あれ、これいいかも)
そう思って翌朝鏡を見ると、肌がいつもよりしっとりしていて、キメまで整って見えた。
一緒にもらった入浴剤も気持ち良くて、その日は久しぶりに朝までぐっすり眠れた。
今日も昨夜しっかり化粧水をつけて、湯船に浸かってから眠ってきたところだった。
「あと最近、お風呂にちゃんと浸かるようにしてる。よく眠れるし、それもあるのかな」
その一言に、ミウは呆れたように肩を落とした。
「ちょっと待って。アンタ今までシャワーだけだったの?」
「……うん」
「信じらんない。アタシなんて毎日半身浴して、パックして、美顔ローラーまでやってるのに」
得意げな口ぶりに少しむっとすると、レイが苦笑しながら間に入る。
「はいはい、そのへんにしとけって。せっかくルナが美容に興味持ち始めたんだからさ。
で、何に変えたんだ?」
「友達に勧められて、organic-beautyってところの敏感肌用の化粧水。肌馴染みがすごく良くて」
「へぇ、そのブランドは知らないな」
すると待ってましたと言わんばかりに、ミウが胸を張った。
「organic-beauty。
オーガニック由来の原料を使いながら、必要な美容成分だけをちゃんと届けるっていうコンセプトのブランドよ。
広告費をあまりかけない分、品質のわりに価格も抑えられてて、最近かなり評判がいいの」
そこまで一気に説明すると、ミウは改めて俺の顔を眺めた。
「敏感肌向けって聞いてたけど……アンタには当たりだったみたいね。
前はちょっと荒れてたもの」
「気付いてたなら教えてくれよ……」
「言ったわよ?でもアンタ、ろくに調べもしなかったじゃない」
「いや、調べても何が合うのか全然わかんなくて……」
するとミウは少しだけ真面目な表情になった。
「スキンケアってね、『いいもの』を使えばいい訳じゃないの。
四十代の乾燥やシワに悩む人と、アタシたちみたいな十代の皮脂が多い肌じゃ、必要なものは全然違う。
乾燥肌もいれば脂性肌もいるし、毛穴が気になる人も敏感肌の人もいる。
だから、自分の肌を知ることが一番大事なのよ」
「……なるほど」
美容って、思っていたよりずっと奥が深い。
「その化粧水、保湿力が高いタイプだから敏感肌と相性いいんでしょうね。
肌のバリア機能も整いやすいし」
そう聞いて、胸の奥が少しだけ温かくなった。
(やっぱり、律のおすすめだったからか)
思わず小さく笑みがこぼれる。
「ふーん。じゃあ俺も調べてみようかな」
レイが興味深そうに言うと、ミウはすかさず頷いた。
「いきなり買うより、まずはサンプルで試すこと。スキンケアは相性確認が基本よ」
「はいはい、美容先生」
レイが笑うと、ミウは満足そうに鼻を鳴らした。
******
そんな話をしているうちに、あっという間に撮影の時間になった。
スタジオへ移動すると、白を基調としたセットに色とりどりの花や小物が並べられている。
今回のテーマは〝休日のお出かけ〟。
衣装はそれぞれ私服風のコーディネートだった。
俺は黄色のチェック柄のワンピースに白いカーディガン。
ミウは赤いブラウスにデニムパンツを合わせたボーイッシュなスタイル。
レイは淡いブルーのロングスカートに白いブラウスを合わせた、爽やかなコーディネートだ。
「はい、三人寄って〜!」
カメラマンの声に合わせて肩を寄せ合う。
「ルナちゃん、もう少し笑顔!」
「レイちゃんはそのまま!ミウちゃん、顎を少し引いて!」
シャッター音が軽快に響く。
「いいね、その表情!」
「今度は歩いてる感じで!」
その後の撮影は、なんとかいつもの調子を取り戻し、順調に進んでいった。
続くインタビューでは、突然ミウが台本にはない話を切り出した。
「実はルナ、最近スキンケアに凝り始めたんです」
「えっ?」
不意を突かれて一瞬戸惑ったものの、すぐに気持ちを切り替える。
「えっと……最近、化粧水を変えてみたりしてて……」
そこからは普段使っているスキンケアの話や美容のこだわりで会話が弾み、インタビューも和やかな雰囲気のまま終了した。
こうして、この日の仕事は滞りなく終わった。
******
数週間後。
雑誌の発売と同時に、グラビア写真が公式SNSでも公開された。
特に反響が大きかったのは、俺のソロカットだった。
窓辺で柔らかな光を浴びながら微笑む一枚には、
『透明感すごすぎる』
『本当に男の子なの!?』
『肌が綺麗すぎて見惚れる』
『ルナちゃんのスキンケア知りたい!』
そんなコメントが次々と寄せられ、投稿はあっという間に拡散されていく。
数日後、事務所ではマネージャーが興奮気味にスマホを掲げていた。
「すごいぞ!美容ブランドからタイアップの問い合わせが来てる!それも一社じゃない!」
「えっ、本当に?」
「今までライブや音楽関係の仕事が中心だったけど、これをきっかけに美容系の仕事も増えるかもしれないな」
その言葉に、俺は思わず胸の奥が熱くなる。
あの日、律がくれた一本の化粧水。
あれがきっかけで、少しずつ何かが変わり始めていた。
******
部活帰り。
「お邪魔しまーす!」
「どうぞ」
あの日以来、部活の帰りはそのまま律の家へ寄って、一緒に夕飯を食べるのがいつの間にか当たり前になっていた。
母さんにも「部活の後は友達と遊んで帰る」と伝えたら、「楽しんできなさい」とあっさり許可が出た。
この日の夕飯は、きのこやベーコン、ほうれん草がたっぷり入ったリゾット。
ふわりと立ち上るバターの香りに頬を緩めながら、俺はスプーンを口に運ぶ。
「やっぱり美味しい」
「ありがと」
律は少し照れたように笑った。
何度食べても、律の料理は店で出てきてもおかしくないくらい美味しい。
俺はふと思い出して口を開いた。
「あ、そうだ。前にもらった化粧水と入浴剤さ、めちゃくちゃ良かった。本当にありがとう」
そう言うと、律は嬉しそうに俺の顔を見た。
「よかった。見た感じ、肌荒れもだいぶ落ち着いてるし。やっぱりあれ合ってたんだな」
心からホッとしたように微笑む律。
その表情を見て、前から気になっていたことを思い切って聞いてみた。
「あのさ……律って、なんでそんなに美容詳しいの?」
化粧水を選んでくれた時からずっと不思議だった。
律は髪もいつも綺麗にセットしてるし、制服の下につけてるアクセサリーのセンスもいい。
オシャレが好きなんだろうとは思っていた。
でも、スキンケアや化粧品の成分まで詳しい男子なんて、学校にはほとんどいない。
芸能界なら男性のヘアメイクさんも多いし、詳しい人はいくらでもいる。
だけど、学校にいる同年代の男子でここまで美容に詳しい人は初めてだった。
俺の問いに、律は少しだけ首を傾げた。
「なんでって……好きだから」
「……え」
まっすぐ目を見て言われて、胸がどきりと鳴る。
もちろん、美容が好きって意味だ。
わかっているのに、一瞬だけ違う意味に聞こえてしまった自分が恥ずかしい。
そんな俺の様子には気づかず、律は照れくさそうに頭をかいた。
「……まあ、きっかけなら母さんかな」
「お母さん?」
「母さん、MAASAってコスメブランドでBAやってるんだ。今の店舗では売上も指名もトップらしい」
「えっ、すご!」
思わず声が大きくなる。
MAASAといえば、海外発の人気コスメブランド。
プロのメイクさんでも愛用しているのをよく見る。
そのトップBAなんて、相当すごい人なんだろう。
律は少し誇らしそうに笑った。
「母さんってさ、メイクが上手いだけじゃないんだ。お客さんの悩みを聞いて、その人に合うものを一緒に探すのがすごく得意で。
俺、中学の頃ニキビひどくてさ。当時は鏡見るのも嫌だったんだけど、母さんが生活習慣からスキンケアまで全部見直してくれて。少しずつ治っていったんだ」
律は自分の頬を指先で軽く触れる。
「肌が変わるだけで、こんなに気持ちまで変わるんだって思って。それからかな。美容って面白いなって思うようになったのは」
「……なるほど」
だから俺の肌荒れにもすぐ気づいたのか。
ただ知識があるだけじゃない。
人の変化をちゃんと見ているから、あんな自然に声をかけてくれたんだ。
俺はなんだか納得した。
「律はさ、お母さんみたいに美容の仕事に就きたいの?」
そう尋ねると、律は迷うことなく頷いた。
「うん。BAもいいし、メイクアップアーティストにも憧れる。誰かが少しでも自信を持てる手伝いができたらいいなって思うんだ。今は男でも珍しくないし」
その言葉には少しも迷いがなかった。
自分の未来を、まっすぐ見据えている目だった。
「……そっか」
俺は小さく笑って俯く。
俺はこの先もアイドルを続けたいのか。
女装を続けたいのか。
本当は男の姿に戻りたいんじゃないのか。
そんなことばかり考えているのに、答えはまだ見つからない。
だからこそ、誰かの力になりたいと迷いなく言い切れる律が、少し眩しく見えた。
そして同時に、少しだけ羨ましかった。
「……あのさ。それで、折り入ってお願いがあるんだけど。いい?」
「え?うん。何?」
律が少しだけ言いにくそうに視線を逸らす。
俺が首を傾げると、律は立ち上がって手招きした。
「ちょっと、ついてきて」
「……うん」
案内されたのは廊下の奥にある一枚のドア。
律がノブを回して開けると、ふわりと柑橘と石けんを混ぜたような爽やかな香りが漂った。
「わあ……」
思わず声が漏れる。
部屋は白と明るい木目を基調にまとめられていて、余計な物はほとんど置かれていない。
窓際には観葉植物が一鉢。
棚には香水、ヘアワックスが種類ごとに綺麗に並び、その横には雑誌と、美術部らしいスケッチブックが立て掛けられている。
勉強机の上も驚くほど整理されていて、いかにも律らしい、清潔感のある部屋だった。
「その辺、座ってて」
言われるまま、ローテーブルの前に腰を下ろす。
律は机の横へ歩いていき、大きな黒いバッグを持って戻ってくると、俺の隣へ座った。
律がバッグを開けた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。
「……すごい」
中にはアイシャドウ、ファンデーション、チーク、リップ、ブラシ、スポンジ、ビューラー。
プロのメイクさんが現場で使っているような道具が、綺麗に整理されながらぎっしりと詰め込まれていた。
色とりどりのパレットが照明を受けてきらりと光る。
「これ全部……律の?」
「うん」
律は少し照れくさそうに笑う。
「母さんのお下がりだと思った?」
「……うん」
正直に頷くと、律は苦笑した。
「違う。ほとんど自分で買った。今はこれを買うためにバイトしてるようなもんかな」
「えっ!?」
思わず大きな声が出る。
てっきりお母さんから借りているものだと思っていた。
「もちろん、母さんの社割で買ってるMAASAの商品は多いけどね」
そう言って律はバッグを軽く撫でた。
その仕草だけで、この道具をどれだけ大切にしているのかが伝わってくる。
少し間を置いて、律は真剣な顔になった。
「それでお願いなんだけど」
俺も自然と姿勢を正す。
「ハヤテ。もしよかったら、メイクのモデルになってくれないか?」
「……え?」
予想外の言葉に固まる。
「え、えっ!?」
そして、心臓が一気に跳ねた。
まさか。
仕事のこと、バレた……?
焦る俺とは対照的に、律は落ち着いた口調で続ける。
「この前、眼鏡がずれた時に素顔見えただろ?」
「あ……」
「その時思ったんだ。ハヤテって骨格が綺麗だから、メイク映えする顔だなって」
まっすぐな目だった。
変な下心も興味本位もない。
純粋に俺に〝メイクモデルをしてほしい〟と説得している目だった。
「前は中学の同級生の女子にお願いしてたんだけどさ…告白されちゃって。断ったら『もうモデルはやらない』って言われて、それ以来ずっと練習相手がいないんだ。
プロのモデルさんにお願いすることも考えたけど、高校生には結構きついし」
律は一度言葉を切る。
「だから、無理にとは言わない。本当に、たまにでいい。付き合ってもらえたら嬉しい」
俺はじっと律を見つめた。
そこにあるのは、自分の夢に向かって練習したいという真っ直ぐな気持ちだけ。
どうやら俺の芸能活動には気づいていないらしい。
胸を撫で下ろしながら、俺は一つだけ確認する。
「……あのさ。メイクするのはいいんだけど、写真をSNSとかに載せたりはしない?」
その瞬間、律は迷いなく頷いた。
「それは絶対しない。
記録として写真は撮らせてもらいたい。でも、それは俺だけが見るため。ネットに上げたり、人に見せたりもしない」
その言葉に、張っていた緊張が少しだけほどける。
律なら、本当に約束を守ってくれそうだ。
それに。
さっき聞いた夢を、俺は応援したいと思ってしまった。
「……いいよ。写真は撮ってもいい。でもネットはなし。それなら協力する」
「……本当?」
ぱっと表情が明るくなる。
「ありがとう。本当に助かる」
その笑顔があまりにも嬉しそうで、俺まで胸がふわりと温かくなる。
なんだろう、この気持ち。
少しくすぐったくて、照れくさくて。
俺はそれを誤魔化すように小さく頷いた。
「……よろしく」

