「……ただいま」
心も身体も鉛のように重いまま、玄関の扉を開けた。
ぱたぱたと足音が近づいてくる。
「おかえりー!今日は早かったのね。ちょうどご飯できたところよ」
母さんがいつもの笑顔を覗かせる。
ふわりと漂う夕飯の香り。
それだけで、張り詰めていたものがほどけていく気がした。
食卓には、湯気の立つハンバーグ。
俺の大好物だった。
「さ、食べましょ。いただきます」
「……いただきます」
ナイフを入れると、肉汁がじゅわっと溢れる。
一口頬張れば、食べ慣れた優しい味が口いっぱいに広がった。
美味しい。
その当たり前の温かさが、今日は妙に胸に沁みる。
しばらく黙って食べていたけれど、気づけば俺は口を開いていた。
「……母さん」
「ん?どうしたの?」
母さんは穏やかに微笑みながら、俺を見る。
その優しい表情を見ていると、怖くなる。
だけど、聞かずにはいられなかった。
「俺が、芸能界……辞めたいって言ったらどうする?」
その瞬間。
食卓から音が消えた。
母さんは箸を置き、静かに俯く。
長い沈黙。
胸が苦しくなる。
きっと言われる。
────ここまで頑張ってきたのに。
────せっかく人気が出てきたのに。
そんな言葉を覚悟していた。
やがて母さんは、ゆっくりと顔を上げる。
「……いいんじゃない?」
「……え?」
思わず聞き返す。
けれど母さんは、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべていた。
「私は止めないわよ」
その言葉が信じられず、俺は目を見開く。
だって、子役の頃から芸能界を勧めてくれたのは母さんだった。
熱心にオーディションやレッスンに通わせてくれていたのも。
そんな母さんが、どうしてこんなにもあっさり────。
戸惑う俺を見つめながら、母さんは静かに口を開いた。
「あのね。私が昔、国民的人気アイドルグループにいたことはハヤテも知ってるわよね」
「……うん」
「でも、私はグループの中じゃ下の下。今じゃ名前を覚えてる人なんて、ほとんどいないくらい」
そう言って、自嘲するように笑う。
朝倉ヒカリ。
その名前は、今ではネットで検索しても、ようやく情報が出てくる程度だ。
「でもね。その頃絶対的エースだった花咲愛ちゃんとは、仲が良かったの」
「花咲愛……」
その名前には聞き覚えがあった。
グループのセンターとして一世を風靡し、卒業後は女優としても活躍していた伝説的な存在。
けれど、ある日突然芸能界を引退した。
「この前ね、久しぶりに連絡をもらって、ご飯を食べに行ったの」
その言葉で思い出す。
律の家へ行った日、母さんが『久しぶりのお友達と会ってくる』って嬉しそうに出かけていったことを。
「あの子ね。当時付き合ってた、まだ無名だった俳優との子を妊娠したの。それで芸能界を辞めたのよ」
母さんは遠くを見るように続ける。
「その時の私は『せっかく手に入れた地位を全部捨てるなんて、もったいない』って思ってた。私だったら絶対そんな選択はしないって」
少し苦い笑みを浮かべた。
「しかも、その彼氏は最低な人だったの。他にも付き合ってる女性がいて……結局、愛ちゃんは一人で子どもを産んで育てる道を選んだ。
だから私はね。きっと今頃、苦労してるんだろうなって勝手に思い込んでたの」
思わず息を呑む。
芸能界をひっそりと引退しなければならなかった花咲愛さん。
どれほど彼女が苦労しただろうかと考えたら、俺も胸が痛くなった。
けれど次の瞬間、母さんはふっと笑った。
その笑顔は、どこか眩しそうだった。
「会ってびっくりしたわ。あの子、実家の農家を継いでたの」
「……え?」
「畑を耕して、お野菜や果物を育てて、それでジャムや加工品を作って販売してるんですって。『毎日忙しいけど、本当に楽しいの』って笑ってた。息子さんも立派に育っててね、写真まで見せてくれて」
母さんは、その時のことを思い返すように目を細めた。
「その笑顔を見た瞬間、思ったの。
ああ、愛ちゃんは────今が一番輝いてるんだ、って。
芸能界にいるから輝けるんじゃない。その人が、その人らしく笑っていられる場所にいるからこそ、人は一番輝くんだって」
母さんは真っ直ぐ俺を見つめた。
その瞳は、どこまでも優しかった。
「最近ね。ハヤテの元気がないこと、母さん気づいてたの」
「……母さん」
「芸能界が、もう楽しくないのかなって。無理して笑ってるんじゃないかなって」
胸の奥が熱くなる。
全部、見抜かれていた。
「だからね。もし本当に辛くて、苦しくて……ハヤテがハヤテらしくいられないなら。
芸能界なんて、辞めてもいいのよ。
────どこにいたって、ハヤテが笑って、ハヤテらしく生きていてくれること。それが母さんにとって、一番の幸せなんだから」
*******
俺は自分の部屋へ戻った。
静まり返った部屋に一人。
ベッドへ腰を下ろし、ぼんやりと天井を見上げる。
(……俺が、俺らしくいられる場所)
そんなこと、今まで考えたこともなかった。
子役の頃からずっと。
期待に応えて、求められる役を演じて。
アイドルになってからも〝ルナ〟として笑い続けてきた。
自分らしさなんて、いつの間にか後回しになっていた。
「……あ」
ふと机の上に置かれたスケッチブックが目に入る。
何気なく手に取り、ページをめくった。
石膏像。
貯金箱。
自分の手。
窓辺に来た小鳥。
そして、美術部の合宿で描いた芦ノ湖の風景。
紙をめくる指が止まる。
そこに挟まっていたのは、一枚の人物画だった。
律が描いた、俺。
ベンチに座り、少し俯きながらスケッチブックへ向かう俺の姿。
真剣な眼差し。
長いまつげ。
すっと通った鼻筋。
少し厚めの唇まで。
驚くほど丁寧に描き込まれていて、一目で俺だとわかる。
なぜだかわからないけど、この絵を見て俺は律への恋心に気付いてしまった。
あの日、素直に「付き合おう」と言えていたら。
アイドルのことも、全部打ち明けられていたら。
今みたいに、こんなに遠回りしなくて済んだんだろうか。
「……もう、遅いけど」
小さく呟いて、苦く笑う。
沈んだ気持ちを振り払うように立ち上がると、時計が9時を指していることに気付いた。
(月曜9時か……)
最近は録画ばかりで、リアルタイムでは見ていなかった。
でも今日は、なんとなく見ようと思った。
リビングへ向かい、テレビをつける。
すると、ちょうど流れていたのは俺の告白シーンだった。
呆然と立ち尽くす純子先生。
その前に立つ、俺が演じる優希。
女子制服を脱ぎ捨てウィッグを外した優希は、紛れもなく一人の男だった。
『ずっと騙してて、ごめん。
でも……俺が好きなのは、康太じゃない。
先生だよ。先生が好き。
俺のこと、一人の男として見てほしい』
『優希……くん……』
思わず、画面に見入ってしまう。
(……こうして見ると、不思議だな)
アイドルでもなく、学校で眼鏡を掛けたハヤテでもない、演じている俺。
だけど、その姿も確かに俺だった。
(……俺らしさ)
そう呟いて、手元の絵へ視線を落とす。
テレビの中の俺。
律が描いた俺。
二人の俺を見比べて、ふと気付いた。
(……俺、自分の素顔をちゃんと見たことがない)
誰かに求められる姿ばかり追いかけて。
本当の自分を見つめようとしたことなんて、一度もなかった。
その時、不意に思い出す。
律の家で、一緒にスキンケアをした日。
『スキンケアを丁寧にするって、自分を丁寧に扱うことでもあるんだ。
鏡に映る自分を見て少しでも前向きになれるなら、それだけで楽しくなれる』
そして、律のお母さんの言葉。
『魅力は受け入れないと、その人のものにはならないの』
その言葉が、今になって胸の奥へ沈んでいった。
律の描いた俺を見つめながら、ある考えが浮かぶ。
もしかしたら、俺はずっと、自分で自分を隠し続けてきたんじゃないだろうか。
もし、このままじゃなく。
本当の自分として立てる場所を作れたなら。
その考えは、きっとこれからの俺を大きく変えてしまう。
そんな予感がした。
「……でも」
そこまで考えた、その時だった。
プルルルル。
静かな部屋に、スマホの着信音が響く。
画面を見ると、マネージャーからだった。
「はい、ルナです。……はい。はい……えっ?」
思わず声が裏返る。
そして翌日の放課後。
俺たちPrism★Starsの三人は、急遽事務所へ呼び出されることになった。
心も身体も鉛のように重いまま、玄関の扉を開けた。
ぱたぱたと足音が近づいてくる。
「おかえりー!今日は早かったのね。ちょうどご飯できたところよ」
母さんがいつもの笑顔を覗かせる。
ふわりと漂う夕飯の香り。
それだけで、張り詰めていたものがほどけていく気がした。
食卓には、湯気の立つハンバーグ。
俺の大好物だった。
「さ、食べましょ。いただきます」
「……いただきます」
ナイフを入れると、肉汁がじゅわっと溢れる。
一口頬張れば、食べ慣れた優しい味が口いっぱいに広がった。
美味しい。
その当たり前の温かさが、今日は妙に胸に沁みる。
しばらく黙って食べていたけれど、気づけば俺は口を開いていた。
「……母さん」
「ん?どうしたの?」
母さんは穏やかに微笑みながら、俺を見る。
その優しい表情を見ていると、怖くなる。
だけど、聞かずにはいられなかった。
「俺が、芸能界……辞めたいって言ったらどうする?」
その瞬間。
食卓から音が消えた。
母さんは箸を置き、静かに俯く。
長い沈黙。
胸が苦しくなる。
きっと言われる。
────ここまで頑張ってきたのに。
────せっかく人気が出てきたのに。
そんな言葉を覚悟していた。
やがて母さんは、ゆっくりと顔を上げる。
「……いいんじゃない?」
「……え?」
思わず聞き返す。
けれど母さんは、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべていた。
「私は止めないわよ」
その言葉が信じられず、俺は目を見開く。
だって、子役の頃から芸能界を勧めてくれたのは母さんだった。
熱心にオーディションやレッスンに通わせてくれていたのも。
そんな母さんが、どうしてこんなにもあっさり────。
戸惑う俺を見つめながら、母さんは静かに口を開いた。
「あのね。私が昔、国民的人気アイドルグループにいたことはハヤテも知ってるわよね」
「……うん」
「でも、私はグループの中じゃ下の下。今じゃ名前を覚えてる人なんて、ほとんどいないくらい」
そう言って、自嘲するように笑う。
朝倉ヒカリ。
その名前は、今ではネットで検索しても、ようやく情報が出てくる程度だ。
「でもね。その頃絶対的エースだった花咲愛ちゃんとは、仲が良かったの」
「花咲愛……」
その名前には聞き覚えがあった。
グループのセンターとして一世を風靡し、卒業後は女優としても活躍していた伝説的な存在。
けれど、ある日突然芸能界を引退した。
「この前ね、久しぶりに連絡をもらって、ご飯を食べに行ったの」
その言葉で思い出す。
律の家へ行った日、母さんが『久しぶりのお友達と会ってくる』って嬉しそうに出かけていったことを。
「あの子ね。当時付き合ってた、まだ無名だった俳優との子を妊娠したの。それで芸能界を辞めたのよ」
母さんは遠くを見るように続ける。
「その時の私は『せっかく手に入れた地位を全部捨てるなんて、もったいない』って思ってた。私だったら絶対そんな選択はしないって」
少し苦い笑みを浮かべた。
「しかも、その彼氏は最低な人だったの。他にも付き合ってる女性がいて……結局、愛ちゃんは一人で子どもを産んで育てる道を選んだ。
だから私はね。きっと今頃、苦労してるんだろうなって勝手に思い込んでたの」
思わず息を呑む。
芸能界をひっそりと引退しなければならなかった花咲愛さん。
どれほど彼女が苦労しただろうかと考えたら、俺も胸が痛くなった。
けれど次の瞬間、母さんはふっと笑った。
その笑顔は、どこか眩しそうだった。
「会ってびっくりしたわ。あの子、実家の農家を継いでたの」
「……え?」
「畑を耕して、お野菜や果物を育てて、それでジャムや加工品を作って販売してるんですって。『毎日忙しいけど、本当に楽しいの』って笑ってた。息子さんも立派に育っててね、写真まで見せてくれて」
母さんは、その時のことを思い返すように目を細めた。
「その笑顔を見た瞬間、思ったの。
ああ、愛ちゃんは────今が一番輝いてるんだ、って。
芸能界にいるから輝けるんじゃない。その人が、その人らしく笑っていられる場所にいるからこそ、人は一番輝くんだって」
母さんは真っ直ぐ俺を見つめた。
その瞳は、どこまでも優しかった。
「最近ね。ハヤテの元気がないこと、母さん気づいてたの」
「……母さん」
「芸能界が、もう楽しくないのかなって。無理して笑ってるんじゃないかなって」
胸の奥が熱くなる。
全部、見抜かれていた。
「だからね。もし本当に辛くて、苦しくて……ハヤテがハヤテらしくいられないなら。
芸能界なんて、辞めてもいいのよ。
────どこにいたって、ハヤテが笑って、ハヤテらしく生きていてくれること。それが母さんにとって、一番の幸せなんだから」
*******
俺は自分の部屋へ戻った。
静まり返った部屋に一人。
ベッドへ腰を下ろし、ぼんやりと天井を見上げる。
(……俺が、俺らしくいられる場所)
そんなこと、今まで考えたこともなかった。
子役の頃からずっと。
期待に応えて、求められる役を演じて。
アイドルになってからも〝ルナ〟として笑い続けてきた。
自分らしさなんて、いつの間にか後回しになっていた。
「……あ」
ふと机の上に置かれたスケッチブックが目に入る。
何気なく手に取り、ページをめくった。
石膏像。
貯金箱。
自分の手。
窓辺に来た小鳥。
そして、美術部の合宿で描いた芦ノ湖の風景。
紙をめくる指が止まる。
そこに挟まっていたのは、一枚の人物画だった。
律が描いた、俺。
ベンチに座り、少し俯きながらスケッチブックへ向かう俺の姿。
真剣な眼差し。
長いまつげ。
すっと通った鼻筋。
少し厚めの唇まで。
驚くほど丁寧に描き込まれていて、一目で俺だとわかる。
なぜだかわからないけど、この絵を見て俺は律への恋心に気付いてしまった。
あの日、素直に「付き合おう」と言えていたら。
アイドルのことも、全部打ち明けられていたら。
今みたいに、こんなに遠回りしなくて済んだんだろうか。
「……もう、遅いけど」
小さく呟いて、苦く笑う。
沈んだ気持ちを振り払うように立ち上がると、時計が9時を指していることに気付いた。
(月曜9時か……)
最近は録画ばかりで、リアルタイムでは見ていなかった。
でも今日は、なんとなく見ようと思った。
リビングへ向かい、テレビをつける。
すると、ちょうど流れていたのは俺の告白シーンだった。
呆然と立ち尽くす純子先生。
その前に立つ、俺が演じる優希。
女子制服を脱ぎ捨てウィッグを外した優希は、紛れもなく一人の男だった。
『ずっと騙してて、ごめん。
でも……俺が好きなのは、康太じゃない。
先生だよ。先生が好き。
俺のこと、一人の男として見てほしい』
『優希……くん……』
思わず、画面に見入ってしまう。
(……こうして見ると、不思議だな)
アイドルでもなく、学校で眼鏡を掛けたハヤテでもない、演じている俺。
だけど、その姿も確かに俺だった。
(……俺らしさ)
そう呟いて、手元の絵へ視線を落とす。
テレビの中の俺。
律が描いた俺。
二人の俺を見比べて、ふと気付いた。
(……俺、自分の素顔をちゃんと見たことがない)
誰かに求められる姿ばかり追いかけて。
本当の自分を見つめようとしたことなんて、一度もなかった。
その時、不意に思い出す。
律の家で、一緒にスキンケアをした日。
『スキンケアを丁寧にするって、自分を丁寧に扱うことでもあるんだ。
鏡に映る自分を見て少しでも前向きになれるなら、それだけで楽しくなれる』
そして、律のお母さんの言葉。
『魅力は受け入れないと、その人のものにはならないの』
その言葉が、今になって胸の奥へ沈んでいった。
律の描いた俺を見つめながら、ある考えが浮かぶ。
もしかしたら、俺はずっと、自分で自分を隠し続けてきたんじゃないだろうか。
もし、このままじゃなく。
本当の自分として立てる場所を作れたなら。
その考えは、きっとこれからの俺を大きく変えてしまう。
そんな予感がした。
「……でも」
そこまで考えた、その時だった。
プルルルル。
静かな部屋に、スマホの着信音が響く。
画面を見ると、マネージャーからだった。
「はい、ルナです。……はい。はい……えっ?」
思わず声が裏返る。
そして翌日の放課後。
俺たちPrism★Starsの三人は、急遽事務所へ呼び出されることになった。

