Prism★Stars〜女装アイドルは美容男子と恋に落ちる〜

そしてドラマの撮影を終えた頃。
俺には、もう一つ楽しみにしていた予定があった。

美術部の夏季合宿。
美術館を巡ったり、観光地で風景を描いたり。
二泊三日でのんびり過ごす、毎年恒例の行事だ。
去年は仕事と重なって参加できなかったから、今年こそはと心待ちにしていた。

……そのはずだった。

(……どんな顔して律に会えばいいんだろう)

この数週間で起きた出来事が、あまりにも濃すぎた。
意図してなかったとはいえ、告白された相手とキスして一晩一緒に泊まってしまったのだ。
それを思い出すと、今でも顔から火が出そうなほど居た堪れなくなる。

それでも、奏さんの真っ直ぐな言葉も、触れ合った唇の熱も。
忘れようとしても、ふとした拍子に思い出してしまう。

(……俺、どうしたいんだろう)

自分の気持ちが分からない。
恋なのか、ただ動揺しているだけなのか。
考えれば考えるほど答えは遠ざかっていく。

「……よし」

小さく頭を振る。

(今は忘れよう。せっかくの合宿なんだ。楽しもう)

気持ちを切り替えて高校へ向かうと、校門前には大型バスが停まっていた。
乗り込んだ瞬間、私服のクラスメイトたちが一斉に声を掛けてくる。

「おっ、朝倉来た!」
「遅いぞー!」
「ごめんごめん」

苦笑しながら車内を見渡した、その時。

「おはよ、ハヤテ」

聞き慣れた声に視線を向ける。
窓際の席に座る律と、ぱちりと目が合った。
律はオシャレなデザインTシャツにGパンの私服姿で、アッシュグレーの髪もラフにセットしていた。
あまりのかっこよさに、俺は一瞬食い入るように見つめて─────

「……お、おはよ」

思わず視線を逸らしてしまった。
空いている席はないかと車内を見回す。
けれど残っているのは、律の隣だけだった。
その様子を見ていたクラスメイトたちが、面白そうに笑う。

「何やってんだよ。早く相方のとこ座れって」
「相方って……」
「じゃあ旦那?」

林田が茶化すと、隣の大木が肩を小突いた。

「バカ、お前何言ってんだよ」

二人はケラケラ笑っている。
悪意なんてまるでない。
いつも通りの軽口だ。
だからこそ、俺だけが必要以上に意識していることが余計に恥ずかしかった。

「……失礼します」

小さく呟きながら、俺は律の隣へ腰を下ろす。
シートがわずかに揺れ、肩が触れそうな距離になる。

「昨日は眠れた?」

律は何事もなかったような、いつも通りの口調。
その自然さに少しだけ救われながら、俺は曖昧に笑った。

「……あんまり、かな」
「珍しいじゃん。なんで?」
「……準備に時間かかっちゃって」

咄嗟についた小さな嘘。
本当は、いろんなことを考えすぎて眠れなかった。
けれど、それを言えるはずもない。

「そっか」

律はそれ以上深く聞いてこなかった。
その一言だけで会話は途切れる。
沈黙は流れたけれど、不思議と居心地は悪くなかった。

やがて運転手がエンジンを吹かし、ゆっくりとバスが動き出す。

夏の合宿が、静かに始まった。

******

合宿先は箱根。
最初に向かったのは、美術館だった。

館内には大きな彫刻や名画が並び、静かな空気の中にゆっくりと時間が流れていくようだ。

展示を見て回っているうちに、中庭へ出た。

そこには泉があり、その中央には一体の大きな顔の石像があった。
何かよくわからなかったから、とりあえず説明を読む。

『嘆きの天使』
水面に映った自分の姿に恋をして水仙に生まれ変わった神話の若者〝ナルキッソス〟をイメージした像。
特殊な水還元装置により、石の顔の目から途切れることなく涙(水)が流れ出て泉となっています。

ナルシストの語源のやつか、と俺はピンときた。
途切れることなく涙を流し続ける石像を見つめる。

でも、自分を恋するほど好きになれるなんて。
幸せなことなんじゃないだろうか。

ふと水面を覗き込む。
映っていたのは、黒縁眼鏡を掛けた冴えない男子高校生────朝倉ハヤテ。
〝ルナ〟じゃない。

……でも。
俺は、そのどちらも好きになれない。

じゃあ。
リリイベで歓声を浴びていた、あの女の子は誰なんだろう。
テレビやステージで笑っている〝ルナ〟も。
学校で俯いて過ごしている〝朝倉ハヤテ〟も。
どちらも俺なのに、どちらも本当の自分じゃない気がする。

俺は、一体どこにいるんだろう。

そんなことを考えた瞬間、ふっと意識が遠のくような感覚に襲われた。

「ハヤテ。なんかぼーっとしてない?」
「……え?」

聞き慣れた声に肩を揺らし、顔を上げる。
律が少し心配そうにこちらを覗き込んでいた。

「あ……ごめん」

気づけば皆から少し遅れて立ち止まっていたらしい。
慌てて歩き出すと、律も自然に歩幅を合わせてくれた。

「やっぱ寝不足かも」
「そっか。じゃあ今日は早めに寝たほうがいいな」

その何気ない気遣いが、律らしかった。
その優しさに胸が温かくなる。
そして、前から気になっていたことがふと口をついて出た。

「……なあ」
「ん?」

周囲に誰もいないことを確認してから、小さく尋ねる。

「律はさ……俺のどこがいいの?」

律が足を止めかける。

「俺、律みたいにオシャレじゃないし。学校じゃ地味で、正直ダサいほうだと思う」

言いながら、少し情けなくなってきた。
目立ちたくなくて、そうしてきたのは自分だ。
それなのに今になって、いつも格好良く決まっている律の隣にいる自分が、ひどく不釣り合いに思えてしまう。

「……だから、不思議だった。なんで俺なんだろうって」

律は少しだけ考えるように息をつき、それから穏やかに笑った。

「そんなの、関係ないよ」
「……え?」
「オシャレじゃなくても、美容に興味がなくても。ハヤテはハヤテだから」

まっすぐ目を合わせたまま続ける。

「そのままで十分魅力的なんだよ」

あまりにも迷いなく言われて、思わず耳まで熱くなる。
そんな俺を見て、律は少し笑った。

「それにさ、ハヤテって完成されてないところが魅力なんだよな」
「完成されてない……?」
「うん。なんていうか……もっと良いところを引き出したくなる。そういう魅力がある」
「……だからモデルみたいにプロデュースしたくなるってこと?」

そう言うと、律はすぐに首を振った。

「違う。ハヤテ、勘違いしてる」

その声は、さっきまでより少しだけ真剣だった。

「ハヤテは元々持ってるものがちゃんとあるのに、それをわざと隠してる気がするんだ。だからもっと知りたいし、もっと見てみたいって思う。……気になるんだよ」

「……っ」

その言葉に、胸の奥を掴まれた気がした。
思い出したくもなかった、昔の記憶。
ずっと蓋をしてきた痛みが、不意に心の奥から浮かび上がってくる。

「ハヤテ?」
「……あ、ああ。ごめん」

慌てて首を振る。

どうして今、このことを思い出したのか。
自分でもわからなかった。

律は心配そうに眉を寄せる。

「ごめん。俺、嫌なこと言った?」
「え?ううん、全然」

無理やり笑顔を作る。

「ありがと。そんなふうに言ってもらえて……なんか、少し自信出てきた」

そう笑ってみせる。

けれど、その笑顔を見つめる律の表情は、どこか釈然としなかった。

*******

それは、小学生の頃。
七つ子ドラマに出演した、その夏休み明けのことだった。

「なあ、お前、テレビ出てただろ!」

教室へ入るなり、クラスの中心にいるような男子が大きな声で言った。
その一言で、教室中の視線が一斉に俺へ集まる。
仕事のことは学校では話していなかった。
だから、誰にも知られていないと思っていた。

だけど流石に夏休みの時期のファミリードラマは、子供の視聴率も高かったみたいだった。

「……うん。出てたけど?」

できるだけ平静を装って答えると、そいつは得意げに笑った。

「やっぱりな!お前、芸能人になりたいのかよ!?
うちの母ちゃんが言ってたぜ。こういうのって、大人に気に入られないとテレビなんか出られないんだって。
役もらうために、みんな偉い人にゴマすってるんだろ?」
「は、はぁ?そんなことしてない!」

思わず声が裏返る。
今回の役は、事務所が持ってきてくれたオーディションだった。
何度も練習して、一生懸命演技をして、自分の力で勝ち取った役だ。
それを、そんなふうに言われるなんて思ってもいなかった。

けれど、そいつは鼻で笑った。

「どうだか〜。今回は違ったとしてもさ、芸能界にいたらそのうち絶対そういうことするようになるんだって。
そんなのみんな知ってんのに、そんなとこに入れようとするお前の母ちゃんはおかしいって」

その瞬間だった。
気づけば、拳が相手の頬にめり込んでいた。

「っ!?」

相手が尻もちをつく。
教室が一瞬で静まり返った。
自分が何をしたのか理解したのは、その後だった。

結局、それは〝子ども同士のケンカ〟として処理された。

先生に叱られ、お互いに謝るよう言われて終わった。
でも、俺は少しも悪いとは思えなかった。
母さんを悪く言われたことだけは、どうしても許せなかったから。

それ以来、クラスのみんなとの間には見えない壁ができた。
話しかけられることはあっても、どこか遠巻きでまるで腫れ物を扱うような距離感だった。

だから、中学は小学校の学区から少し離れた学校を選んだ。
自由な校風で、知っている人も少ない場所。

そして、その頃にはもう決めていた。
芸能活動をしていることは、誰にも言わない。

知られなければ、変な目で見られることもない。
知られなければ、母さんが悪く言われることもない。

そう思って、俺は〝朝倉ハヤテ〟として目立たないように生きることを選んだ。

******

夕食を終え、俺たちは宿へ戻った。

同じ部屋になったのは、律と林田、大木、それに俺の四人。
宿には温泉があり、露天風呂までついていて、みんな子どものようにはしゃいでいた。

風呂でさっぱりした後、それぞれ浴衣に着替えベッドに潜り込む。

しばらくすると、向かいのベッドからは林田と大木の豪快ないびきが聞こえ始めた。

(……眠れない)

時計を見ると、まだ夜九時。
普段の俺なら、ようやく一日が落ち着く時間だ。
仕事の連絡を確認したり、マネージャーさんへ返信したり。
疲れてはいても、この時間に眠れる体じゃなかった。

(仕事のメールでも見ようかな……)

そう思ってスマホに手を伸ばしかけた、その時だった。
トン、と肩を軽く叩かれる。

「?」

振り向くと、すぐ目の前に律の顔があって思わず肩が跳ねた。

「わっ……!」
「しー」

律は口元に人差し指を当て、小さく笑う。
それから顎でそっとドアの方を示した。
──少し外に行こう。
そういう意味だと察して、俺は静かにベッドを抜け出した。

******

部屋を出た先は、宿の日本庭園だった。

夜風が火照った身体を心地よく撫でる。
庭の片隅にある木のベンチへ律が腰を下ろす。
俺もその隣に座った。

浴衣姿の律は、淡い灯りに照らされた庭園によく馴染んでいた。
少し沈黙が流れたあと、律がぽつりと口を開く。

「今日さ、様子変だったから」
「え?」
「昼間、俺……変なこと言っちゃったかなって。ずっと気になってた」

その一言で、俺はようやく腑に落ちた。

「ああ……あの話か」

苦笑しながら小さく首を振る。

「気にしないで。律のせいじゃないよ。ただ、ちょっと嫌なこと思い出しただけ」
「嫌なこと?」
「……うん」

少しだけ夜空を見上げてから、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「昔、俺がドラマに出てたの、律も知ってるだろ?」
「ああ」
「あのあと学校でさ、同級生に言われたんだよ。
『芸能人って、大人にゴマすって仕事もらうんだろ?』って。
子どもだったから、真に受けちゃって。
それ以来、芸能活動のことはあんまり人に言わなくなったんだ」
「……」

律は黙ったまま俯き、やがて深く息を吐いた。
苦々しそうな声だった。

「……そんなこと言うヤツ、いるんだな。
気にするな、って言いたいけど……そんなこと言われたら、気にするよな」

そして俺を真っ直ぐ見つめる。

「ハヤテは、悪くない」

その一言が胸の奥へ静かに染み込んでいく。
自然と笑みがこぼれた。

「……ありがとう。でも、それからかな。目立たないようにしようって思うようになったの。
だから昼間、律に『もっと自信持てばいいのに』って言われた時、その頃のことを思い出しちゃってさ」
「……ごめん」

ぽつりと落ちた謝罪は、思っていた以上に重く掠れていた。
その声音に慌てて首を振る。

「いやいや、本当に気にしなくていいって!
小学生同士のくだらないケンカみたいなもんだし」
「それでも、その一言でハヤテが自分を隠して生きようって思うくらい傷ついたんだろ」
「……」

返す言葉が見つからなかった。
律は自分を責めるように視線を落とす。

「ごめん。知らなかったとはいえ、軽率だった」

そんな顔をさせたかったわけじゃない。
俺は慌てて笑ってみせた。

「本当に大丈夫だよ。
律が悪いわけじゃないし……」

少し照れくさくなりながら続ける。

「それにさ。俺に魅力があるって言ってくれたの、嬉しかった。
今の地味でダサい俺に、そんなこと言ってくれる人……律くらいだからさ」

へへっと笑ってみせる。
けれど律は笑わなかった。
どこか切なそうな、もどかしそうな表情で、ただ真っ直ぐ俺を見つめ続けている。
そんな律に、俺はふと気になって口を開いた。

「……でもさ。もし俺が……律のアドバイスに従って、すごくカッコよくなって、また芸能界でやりたいって言ったら……どう思う?」
「え?」

思わぬ問いに律は目を瞬かせた。

「それで人気が出てさ。
律の知らないところで、仕事って言ってファンにサービスしたり、ドラマでラブシーンやったり。嫌いにならない?」

言いながら、心臓がバクバクしてきた。
それは半分くらいは、今俺が現在進行形でやってることだったから。
律は少し考え込んでから、苦しげに言った。

「……難しい」
「……難しい?」
「想像したら、嫌な気持ちになるよ。
ハヤテがラブシーンで他の人にキスするところとか見たくない。いや、絶対無理。見れない。ファンと握手すら、してほしくない」
「ま、まあそうだよな…」

硬い表情で言う律にそうだよな、と納得する。
一般人とはもう付き合えない、と言った奏さんの言葉を思い出した。────その時。
律はまた口を開いた。

「でも…それが芸能界なんだよな。
ハヤテがそれでも挑戦したいなら、理解…しなくちゃいけないんだろうなって、思う」
「律……」

律の方を思わず見つめる。
律も俺の方をまっすぐな目で、見てた。

「ハヤテは、まだ芸能界でやってきたい、って思いがあるの?」
「俺は────」

その言葉に思考が停止する。
俺?
今までは仕事だからしなくちゃいけない、と思ってた。
でも俺は。

本当は、どうしたいんだろう。

「……わかんない」
「……」
「……仕事が楽しかったのは、本当なんだ。
でもそれって、進んでやりたいことばっかりじゃないし……」

そう言って俺は、黙った。
律も暫く黙ってたけど、しばらくして明るく言った。

「いいじゃん、それで」
「…え?」

振り向くと、律は笑ってた。

「仕事ってそういうもんだと思うし。
芸能以外の仕事だってさ、嫌な事なんて山ほどある訳だし。
それでも『やっていて楽しい』って思える仕事に出会える人って、そんなに多くないと思うんだ」
「…………」
「だから今の話を聞いて思った。ハヤテは、まだ芸能の仕事が好きなんだなって。
でも、それを続けるかどうかを決めるのは俺じゃない。
俺は…」

一呼吸置いて、律は言った。

「ハヤテのやりたいことを、応援するよ。
それで悩んだら、相談乗るし一緒に悩みたい」

そうして律は、俺の目をまっすぐ見る。
その目は強く、こちらを見据えていた。

「俺は、ハヤテに楽しそうに笑っててほしいから」
「律……!」

気付いたら俺は、律にガバッと抱きついていた。

「は、ハヤテ……!」
「ありがと、律」

そして距離が近くなって、赤らむ顔の律を見てふと思い出す。
聞こうと思ってたこと。

「……律ってさ。男が好きなの?」
「……えっ?」

また驚く律に、考えながら言葉を紡ぐ。

「だって俺、男じゃん。元々男が恋愛対象なのかなって…」
「ああ…」

律は納得したように頷いて、暫く考えている。
そして口を開いて、あっさりと言った。

「わかんない」
「…わかんない!?」
「うん。元々は女の子が好きだった気がするけど、ハヤテのことも自然と好きになってた……っていうか。あまり男とか女とか意識してないのかもしれない」
「その…じゃあ、今まで誰かと付き合ったりは?」
「小学校の時に告白してきた一人と中学の時一人で…二人かな。あ、どっちも女子ね」
「…キスとか、した?」
「してない」

律に可愛らしい経験だけしかないことを知って俺は安心してホッと息を吐いた。
それを見て律は、何やら笑い出した。

「やけに気にするじゃん、俺のこと」
「そ、そりゃ気になるよ。だって…」

告白してきたじゃん。
なんとなくその先が言えなくて、俺は言葉に詰まる。
そんな俺を律はニヤニヤ見ていた。

「それってさ…少しは俺に気があるって思って、いいってこと?」
「え…っ」

言われて焦る。顔が熱い。
確かに今までの経験について聞くなんて、相当気になってだってことだ。
言い当てられてドキッとする。

「はー…ヤバい、可愛すぎ」
「かわ…っ」

そして律は俺をガバッと抱きしめた。
腕に強く抱き止められて、また胸が高鳴る。

(あ…)

胸と胸が触れ合って、心臓の音が聞こえた。
ドクン、ドクンと、律の胸も早鐘を打っている。
それに気付いて、なんだかソワソワと焦れたような気持ちになった。

「ハヤテ……」
「……」

不意に身体が離され、俺たちは見つめ合う。
そして、俺が目を瞑ると────

ガラガラ、トントン。

遠くから近づく足音が聞こえた。

「……あ」

俺はすぐさま目を開けると、同じく目を丸くした律と目があった。
そしてすぐさま俺たちは身体を離して、その場を立ち上がる。

そして立ち去ろうとしたその時。
出会ったのは顧問の浦西先生だった。
50歳くらいの独り身の、優しい女性顧問。

先生はビックリしたように俺たちの顔を見比べていた。

「あ…あなた達、なんでこんな遅くまでこんなところにいるの?」
「ご、ごめんなさい!ちょっと話し込んでて…」

俺がそう言うと、先生は呆れたようにため息をついたが優しげに微笑んでいってくれた。

「もう、見逃してあげるから早く寝なさい。明日も早いんだから」
「「はい」」

俺たち二人のしょぼんとした声がハモって、俺たちは思わず顔を見合わせた。

そして先生におやすみなさいと告げ、俺たちは部屋に戻っていった。
妙な胸の高鳴りとともに。

******

翌日は芦ノ湖で写生大会。
俺たちは並んで湖を書いていた。

夏の箱根は蒸し暑い中にも、冷涼な空気をはらんでいて静かに絵を描くのにぴったりだった。

俺は湖の線を一本引いて、そこに浮かぶ船を書いている。

律の方を見ると、こちらをじっと見ていた。
その視線につい照れ臭くなる。

「何、じっと見て」
「いや、綺麗だなって」
「なんだよ、それ」

綺麗なものなら、目の前の湖を書けばいいのに。そう思って俺は律に構わず目の前の風景を書き進めた。

無言で書くこと20分ほど。
ふと書く手を止めると、俺は今だに律がこちらを見ていることに気付いた。
しかも、鉛筆を動かしながら。

俺はある確信を持って、律に話しかけた。

「なあ。もしかして書いてるのって、俺?」
「……バレたか」

バツが悪そうな顔をする律。
それに俺は笑って答えた。

「別に、見せてくれるならいいよ」
「良かった。じゃあ心置きなく描く」

そう言って律はまた鉛筆を動かして、すぐに言った。

「できた」
「え?早くね?」
「まあ。ハヤテだけだからさ、描いたの」

その言葉に目を丸くしながら、俺は律が渡してきたスケッチブックを受け取った。

「折角景色が綺麗なんだから、湖でも描けばいいのに…っ」

思えば俺は、律の絵を見たことなかった。
俺のは見せたことがあって、その代わり見せろよ、なんて言ったけど結局見なかった。
なんか、人の絵って見るのが申し訳ないような気がしてたから。

律が渡してきたその絵は、俺の横顔だった。
湖を見て真剣な顔で、でも少し笑ってて。

その絵の中の俺は、幸せそうだった。

「どう?似てるかな?」

照れくさそうに笑う律。
その顔を見て、俺は思った。

ああ。
俺、律が好きなんだ────って。