ドラマ撮影も中盤に差し掛かってきていた。
いつも通り教室で康太と優希の会話のシーンを撮った後、監督が俺に期待するように言った。
「ルナちゃん、この後はいよいよ見せ場だからね。期待してるよ」
「……はい」
小さく頷きながら返事をする。
この後に控えているのは、優希が教師・純子へ思いを打ち明ける告白シーン。
自分が男であること。
そして、ずっと胸に秘めてきた恋心。
優希という人物のすべてをさらけ出す、このドラマでも屈指の重要な場面だった。
だからこそ、少しだけ不安だった。
ちゃんと優希の気持ちを届けられるだろうか。
そんなことを考えていると、不意に隣から声がした。
「大丈夫」
顔を上げると、奏さんが柔らかく笑っている。
「俺もさ、この現場に入ったばかりの頃は緊張してたんだ。主演の佐原さんもいるし、ベテランの人も多いしさ」
照れくさそうに頭を掻いて笑う。
「でもルナと一緒のシーンが増えてから、すごくやりやすくなった」
「え……?」
「なんて言うんだろう。演技してるっていうより、普通にルナと話してる感覚なんだよね」
その言葉に思わず目を瞬かせる。
「さっきも気付いたら、優希じゃなくてルナに話しかけてるような気分になってたし」
「奏さん……」
「だから大丈夫。今まで通りでいい。ルナらしく演じれば、それが一番優希らしく見えるから」
まっすぐ向けられた言葉が、じんわりと胸に染み込んでいく。
気付けば撮影も折り返しを迎えていた。
共演シーンが多いこともあって、奏さんとは自然と言葉を交わすようになり、休憩時間も一緒に過ごすことが増えた。
最初は憧れのアイドルグループの人という印象だったのに、今ではすっかり頼れる先輩になっている。
そんなことを考えていると、奏さんがふっと苦笑した。
「…でもルナの告白を応援するって、なんか複雑な気持ちかな」
「え?」
ボソッと呟かれた言葉に思わず聞き返そうとした瞬間。
その一言の意味を考えるより早く「次のシーン入りまーす!」と言うスタッフさんの大きな声がスタジオに響いた。
「あ、呼ばれた」
「行こっか」
奏さんはいつものように爽やかに笑うと、何事もなかったように歩き出す。
俺も慌ててその背中を追い掛けた。
さっきの言葉が少しだけ気になったけれど、それを聞き返す時間はなかった。
******
「──よーい、スタート!」
夕暮れの教室。
窓から差し込む茜色の光が、誰もいない机を長く照らしている。
そこにちょこんと座っているのは、優希。
物憂げな顔で俯いている。
少し遅れて、教室の扉が静かに開いた。
『……先生』
『優希ちゃん。相談があるって聞いたけど』
純子が穏やかに笑う。
優希が小さく頷くと、純子は優希の向かいの席に座った。
『……先生』
『どうしたの?』
少し俯いたまま、制服のスカートの裾をぎゅっと握る。
言葉を探すように息を吸い込み、意を決したように顔を上げた。
『優希ね……恋、してるの』
その一言に、純子はふっと優しく微笑んだ。
『知ってるわ』
『……え?』
『康太くんのこと、好きなんでしょう?』
当然のように告げられた言葉。
優希はびっくりしたように目を瞬かせ、次の瞬間、悲しそうな顔で小さく首を横に振った。
『……違うよ』
『え……?』
『先生』
その瞳が真っ直ぐ純子を見つめる。
『先生は……優希のこと、全然分かってない』
教室に沈黙が落ちる。
優希はゆっくりと両手を頭へ伸ばした。
カツン、とピンを外す音。
さらりと揺れた長い髪が、その手によって持ち上げられる。
ウィッグが静かに床へ落ちる。
現れたのは────短い黒髪。
純子は息を呑んだ。
『……優希、ちゃん……?』
優希は何も答えず、胸元のリボンへ手を掛け力任せに外した。
そして一つ、また一つ。
制服のボタンを外していく。
シャツを肩から滑らせ、タンクトップ、スカートまで脱ぎ捨てる。
そこに立っていたのは、ボクサーパンツ姿の────紛れもなく、一人の男の子だった。
純子は言葉を失う。
『……どういう、こと……』
少年は静かに笑った。
その笑顔は、どこか寂しげで、それでいて晴れやかだった。
『先生』
一歩。
また一歩と近付く。
『俺、男なんだ』
教室中に響く、落ち着いた低い声。
もう、女の子らしく作った話し方ではない。
そして俯き、言葉を漏らした。
『ずっと騙してて、ごめん』
純子は呆然と立ち尽くす。
信じられないものを見るように、ただ彼を見つめていた。
少年は真っ直ぐ純子の瞳を見据える。
『でも────俺が好きなのは、康太じゃない。先生だよ。先生が好き』
ほんの少しだけ唇を震わせながら、それでも笑う。
静かな教室に、その言葉だけが響く。
『俺のこと、一人の男として見てほしい』
一瞬の沈黙。
夕日が二人を赤く照らす。
純子は震える声で、ようやく彼の名前を呼んだ。
『……優希……くん』
その声を聞いた優希は、小さく微笑んだ。
*******
「────カット!」
監督の声が響いた瞬間、俺ははっと我に返った。
さっきまで自分が何を考えていたのか、うまく思い出せない。
胸の奥に抱え続けた想いを吐き出すように言葉が溢れ、気付けばセリフは自然と口をついて出ていた。
こんな感覚は、初めてだった。
「……良かったよ!」
モニターの前から立ち上がった監督が、興奮気味にこちらへ歩いてくる。
そして、俺の肩をぽんと叩いた。
「このシーンは難しいから、何テイクか撮る覚悟でいたんだけど……これは一発でいいね!
優希がずっと抱えてきた葛藤も、『自分を見てほしい』っていう切実な想いも、全部伝わってきた。告白の時の目が本当に良かったよ!いいシーンになってる」
「あ……ありがとうございます!」
思わず頬が緩む。
監督にここまで褒めてもらえるなんて思ってもいなかった。
すると、隣から優しい声が聞こえた。
「私も圧倒されちゃった」
振り向くと、純子役の佐原レイナさんが穏やかに微笑んでいた。
「もちろん台本でも印象的な場面なんだけど……ルナちゃんのお芝居を受けて、本当に優希の思いを初めて知ったような気持ちになったの。
特に最後の目。あの一瞬は、お芝居だって分かっていてもドキッとしたわ」
「レイナさん……!」
憧れの大女優からそんな言葉をもらえるなんて。
胸がいっぱいになって、自然と笑みがこぼれた。
「ありがとうございます!」
「これはいい感じになってきたんじゃない?」
監督が満足そうにモニターを見返しながら笑う。
「よし、この勢いで次のシーンもいこう!」
「「はい!」」
現場に明るい返事が重なる。
スタッフたちも慌ただしく次の準備を始め、スタジオは再び活気を取り戻していった。
「…………」
そんな中、一人だけ動かない人がいた。
奏さんだった。
少し離れた場所から、じっと俺を見つめている。
その視線は、さっきまでとはどこか違っていた。
驚いたような。
何かを考え込んでいるような。
言葉にできない感情を押し殺しているような、そんな表情。
「神崎さん、次お願いしまーす!」
スタッフさんに呼ばれて、奏さんはようやく我に返る。
「あ、はい」
いつもの爽やかな笑顔を浮かべると、何事もなかったようにセットへ向かって歩き出した。
けれど俺は、その一瞬だけ見せた表情が、なぜだか妙に心に引っ掛かっていた。
******
その日の撮影を終え、控室へ戻る。
衣装を脱いで着替えを済ませても、俺の頭の中には、さっき撮ったシーンが何度も蘇っていた。
演技をしていたあの時間。
なぜか俺の脳裏には、ずっと律の顔が浮かんでいた。
告白してくれた時の、あの真っ直ぐな瞳。
少し震えていた声。
必死に想いを伝えようとしていた表情。
俺はそれを、優希の感情と重ね合わせるように演じていた。
演じているうちに、胸の奥から自然と感情が込み上げてきた。
理解してもらえない苦しさ。
踏み出すことへの怖さ。
拒絶されるかもしれないという不安。
それでも、この想いだけは伝えたい。
そんな気持ちに押されるように、気づけば言葉が口から溢れていた。
律も、あんな気持ちだったんだろうか。
そう思った瞬間、胸がきゅっと締めつけられる。
(そりゃそうだよな、男なんだし…)
それで俺は、ハッとした。
(もしかして律、完全に玉砕するつもりで俺に告白したとか?)
そもそも男が男に告白するって、並大抵の勇気じゃない。
しかも俺の恋愛対象が男ってことも伝えてなかった。
(でも……)
俺は「考える」って返事をした。
律も「少しは俺を意識して」なんて言って────。
不意に、あのキスの感触まで思い出してしまう。
「~~っ……」
誰もいない控室で、一人顔が熱くなる。
それで俺はふと気になった。
(律は…男が好きなのかな?)
考えてみれば、そういう話はしたことがなかった。
今まで律に恋人がいたのかさえも、俺は知らない。
もし律に彼女か彼氏がいたことがあったら。
(めちゃショックかも…)
そんなことを思って、一人頭を振る。
まだ決まったわけじゃない。
そうと決まれば、美術部の合宿の時に聞かなければ。
そう俺は決意を新たにして、夏季合宿がもう直ぐ近いことを思い出した。
コンコン。
不意に控え室のドアがノックされ、俺は顔を上げた。
「ルナ、入るよ」
「はい」
返事をするとドアが開き、奏さんがひょこっと顔を覗かせた。
俺と目が合うと、いつもの爽やかな笑顔を浮かべる。
「今日もご飯どうかなと思って、誘いに来たんだけど」
「あ……」
思わず言葉に詰まる。
最近、撮影終わりは奏さんと食事に行くことが増えていた。
しかも毎回「先輩だから」と言ってご馳走してくれる。
正直、一緒に食べる時間はすごく楽しい。
でも、さすがに何回も奢ってもらうのは申し訳なかった。
「いいんですか?今月だけでも結構ご馳走になってますし……なんだか悪くて」
そう言うと、奏さんは少しだけ考えるように視線を泳がせた。
そしてひと呼吸置いて、柔らかく笑う。
「じゃあさ。今日、俺んち来ない?」
「……え?」
予想外の言葉に思わず目を丸くする。
奏さんは照れたように頭をかきながら続けた。
「ここから電車で二十分くらいだし。ちょうど食材も買ってあるから何か作れるし、飲み物もあるよ。
奢られるのが気になるなら、そのほうが気兼ねしないかなって思って」
「……」
確かに、それなら気は楽かもしれない。
でも、いきなり家にお邪魔するなんて迷惑じゃないだろうか。
そんな迷いが顔に出ていたのか、奏さんは少し声のトーンを落とした。
「……本当はさ。今日のルナの演技、本当に良かったんだ」
「奏さん……」
その真剣な表情に、自然と視線が合う。
「ちゃんと感想を伝えたいし、演技の話もゆっくりしたくて」
そう言って少しだけ照れくさそうに笑うと、最後に遠慮がちに付け加えた。
「……ダメ、かな?」
その表情を見た瞬間、迷いはすっかり消えていた。
勢いよく首を横に振る。
「全然!俺も奏さんと話すの、すごく楽しいですし。ぜひお願いします!」
「よかった」
奏さんは心底ほっとしたように笑う。
その笑顔につられて俺も笑みを返し、荷物を手に取った。
「じゃあ、行こうか」
「はい!」
そうして俺は奏さんと、並んで控え室を後にしたのだった。
******
「お邪魔します……、うわぁ……!」
玄関の扉をくぐった瞬間、思わず感嘆の声が漏れた。
まず目に飛び込んできたのは、床から天井まで届く大きな窓いっぱいに広がる都会の夜景。
室内は間接照明が優しく灯り、落ち着いた琥珀色の空間を作り出している。
生活感はあるのに不思議なくらい洗練されていて、まるでインテリア雑誌に載っていそうな空間だった。
「すご……。奏さんの部屋、めちゃくちゃオシャレですね……」
思わず部屋を見回しながら呟く。
リビングの奥には、ガラスの引き戸でゆるく仕切られたベッドルームが見える。
白いシーツがきれいに整えられ、ホテルみたいにすっきりとしていて、その向こうにも夜景が広がっていた。
「そんな大したもんじゃないよ。一人暮らし始めるときに、ちょっと頑張って家具だけ揃えたんだ」
奏さんは照れたように笑いながら靴を脱ぐ。
テレビや雑誌で見る〝売れっ子アイドルの自宅〟なんて言葉が頭をよぎる。
ここで生活しているなんて、どこか現実味がなくって、俺はもう一度部屋を見回してしまった。
「適当に座ってて。何か作るから」
「えっ、手伝いますよ!」
「ほんと?じゃあ、きゅうりだけ切ってもらえる?」
「はい!」
エプロンをつけた奏さんは、冷蔵庫から食材を次々と取り出し、慣れた手つきで包丁を動かしていく。
フライパンからはジュッという心地いい音が響き、オリーブオイルとガーリックの香ばしい香りがふわりと広がる。
俺も教えてもらいながらきゅうりとレタスを切って皿に盛り付ける。
「そのくらいで大丈夫。上手い上手い」
「ほんとですか?」
「うん。いいじゃん」
褒められると、なんだか少し照れくさい。
そうして二人で準備を終え、料理をテーブルへ並べた。
「じゃあ、いただきます」
「いただきます」
まずは奏さんが作ってくれたシーザーサラダを一口。
シャキッと瑞々しいレタスに、みずみずしいきゅうり。
濃厚でコクのあるシーザードレッシングが全体を包み込み、香ばしく焼かれたベーコンの旨味と、カリッとしたクルトンの軽やかな食感が重なっていく。
粉チーズのまろやかな風味まで口いっぱいに広がって、思わず頬が緩んだ。
「……おいしい!」
思わず声を上げると、隣に座る奏さんが嬉しそうに笑う。
「よかった。一人暮らし長いからさ。自炊だけは結構自信あるんだ」
「いや、結構どころじゃないですよ。お店で出てきても普通に納得するレベルです」
「それは褒めすぎ。……じゃあさ」
笑っていた奏さんが、不意に声の調子を落とした。
まっすぐ俺を見つめて、ふっと口角を上げる。
「ルナに告白してきた男と、俺。どっちが上手い?」
「……っ!?」
思わず咽せた。
「けほっ、ごほっ……!」
「はは、ごめんごめん。食べてる時に変なこと言って」
奏さんは苦笑しながら、ぽんぽんと優しく背中をさする。
ようやく落ち着いて顔を上げると、俺は少し頬を赤くしながら答えた。
「……本当ですよ!そんなの……比べるものじゃ、ないです」
そう言いながら、どっちも比べられないくらい美味しいし…と俺は思ってた。
すると、奏さんがくすっと笑った。
「でも俺覚えてるよ。その相手の好きなところ聞いたらさ、優しいところ、料理がうまいところ、一緒にいると安心できる美容男子って言ったこと」
「よ…よく覚えてますね…」
思わず苦笑すると、奏さんはさらりと言った。
「勿論。だって好きだから、ルナのこと」
「……え?」
頭が真っ白になった。
聞き間違えたのかと、思わず奏さんの顔を見る。
だけどその瞳は、冗談を言う時のものじゃなかった。
真っ直ぐで、どこまでも真剣だった。
「好き」
その一言だけが、静かな部屋に落ちた。
さっきまで聞こえていた外の音も、エアコンの音も。
全部遠くなった気がした。
「……本当は、最初に会った時から気になってたんだ。でも今日の撮影で、確信した」
奏さんは穏やかに続ける。
「俺、あの時まで優希とルナをどこか同じ感覚で見てたんだよ。でもあのシーンは違った。あの瞬間、ルナは完全に優希になってた。それを見て、俺ももっと本気で芝居しなきゃ、って思わされた」
「奏さん……」
「もちろん役者として尊敬してるって気持ちもある。でも、それだけじゃない。
真っ直ぐな目とかさ。笑うと一気に幼くなる笑顔とか。頑張り屋なところとか。気付いたら全部気になってた。その証拠にさ、ほら」
「……えっ」
そう言って差し出されたスマホを見て、俺は息を呑んだ。
フォルダ名は、『ルナ』。
開かれた画面には、デビュー当時から今までの俺の写真や記事のスクリーンショットが、ずらりと並んでいた。
「クランクインの日から少しずつ集めてたんだよね。お気に入りは、この前の水着」
奏さんは照れ笑いしながら画面をスクロールする。
表示されたのは、雑誌で公開されたばかりのソロカット。
黄色いチェック柄のワンピース水着にパレオを巻いて微笑む俺だった。
撮影の日を思い出して、思わず笑ってしまう。
「ああ……これ。ちょっと露出多くて、あの日は結構恥ずかしかったんですよね」
照れ隠しに笑うと、奏さんが身を乗り出した。
「いや、すごく可愛いよ!
あと、インタビューも読んだ。
〝自然と笑える人がいい〟〝無理をしなくていい関係が理想〟って書いてあっただろ?」
「……はい」
「あれ読んで思ったんだ。俺、ルナとならそんな関係を築ける気がする」
奏さんは一瞬だけ視線を落とし、静かに笑う。
その声には、不思議なくらい確信があった。
「もしルナに好きなタイプがいるなら、少しでも近づけるよう努力する。……こんな気持ちになるの、俺、初めてなんだ」
「奏さん……」
その名前を呼ぶのが精一杯だった。
すると奏さんは、少し困ったように笑って頭を掻いた。
「……ごめん。急だったよな。困らせるつもりじゃなかったんだ。
たぶんルナは俺のことを〝優しい先輩〟くらいにしか思ってないって分かってたから………少しは、恋愛対象として見てほしかった」
奏さんは、少しだけ寂しそうに笑って俯いた。
「しかも、別の人にも告白されたばかりなんだろ?そんなタイミングで、本当にごめん。
今すぐに、返事はいらないから」
「……」
俺は、何も言えなかった。
奏さんの真っ直ぐな想い。
律への気持ち。
決まらない自分自身の答え。
全部が一度に胸へ押し寄せてきて、頭の中はひどく混乱していた。
俺はそんな気持ちを落ち着かせようと、手元にあったグラスを掴んで一気に口へ運んだ。
───その瞬間だった。
「っ、ゲホッ!?えっ……!?」
喉が焼けるような刺激に、思い切り咽せる。
慌ててグラスを見ると、それは俺のジュースじゃなかった。
奏さんが飲んでいたチューハイ。
「ご、ごめん!それ俺のだった!ルナ、大丈夫!?」
「は、はい……」
慌てた様子の奏さんにそう返事はしたものの、初めて口にしたアルコールは思った以上に強かった。
頭がぼうっと熱くなる。
身体がふわふわ浮くようで、視界まで少し揺れている気がした。
「……っ」
力が入らない。
気付けば俺は、奏さんの肩へそっと身を預けていた。
「っ、ルナ、本当に大丈夫……?」
逞しい肩から伝わる体温が心地いい。
熱くなった身体が、その温もりを求めるように自然ともたれかかる。
「はぁ……」
吐いた息まで熱い。
何も考えられない。
ただ、この安心感に包まれていたかった。
そんな、時だった。
耳元で優しい声がした。
「……ルナ、水、飲もう」
「……ん……?」
ぼんやりと返事をするものの、身体は思うように動かない。
奏さんも黙ったまま俺を見つめていた。
静かな時間が数秒流れる。
やがて、小さく息をつく音が聞こえた。
「……ごめん」
その声と同時に、ぐっと肩を抱き寄せられる。
そして次の瞬間。
柔らかな感触が、唇へ重なった。
「……っ!?」
驚いて目を見開く。
唇の隙間から、ひんやりとした水が少しずつ流れ込んできた。
こく……。
こく、と無意識に飲み込む。
全部飲み終えると、ゆっくりと唇が離れた。
「……っ」
我に返って顔を上げた瞬間、目の前にいたのは、いつもの穏やかな奏さんじゃなかった。
熱を帯びた瞳。
獲物を逃がすまいとするような、鋭く獰猛な眼差し。
息が止まりそうになる。
奏さんは俺を見つめたまま、小さく笑った。
「……ダメだよ、ルナ。さっき告白した男の前で、そんな無防備な顔したら」
それは、低く掠れた声だった。
指先が俺の頬をそっと撫でる。
「本当に襲われても、文句言えない」
「……っ!」
一気に頬が熱くなる。
奏さんの瞳は少し潤んでいて、その色気に胸がざわついた。
鼓動がどんどん速くなる。
だけど、それ以上に頭を占めたのは別のことだった。
「……い、今の……ファーストキス、だった……」
震える声で呟くと、奏さんの表情が固まった。
目を丸くしたまま俺を見る。
「え、うそ……初めて、だったの……?」
恥ずかしくて顔を伏せたまま、小さく頷く。
その途端、奏さんは額に手を当て、小さく苦笑した。
「……やっちゃったな」
照れ隠しのように頭を掻きながら、申し訳なさそうに息を吐く。
「水飲ませなきゃって思ったのも本当なんだ。酒も少し回ってそうだったし、このままだと危ないと思って」
そこまで言ってから、俺を真っ直ぐ見つめる。
そして、少しだけ目を細めた。
「……でも、それだけじゃない。
ごめん。あれは……俺がしたかった」
奏さんはそう言って、静かに認めるように俯いて笑った。
その一言は言い訳ではなく、自分の気持ちを素直に認めるような、静かな告白だった。
どう言っていいかわからず視線を彷徨わせると、ふと壁掛け時計が目に入る。
「あ……時間! 終電は……」
目を凝らすと、長針はもう11時45分を指していた。
(えっ……こんなに!?)
いつのまにか時間の感覚がすっかり飛んでいた。
慌てる俺とは対照的に、奏さんは肩をすくめてさらりと言う。
「終電なら、もう無いよ」
「そ、そんな……」
母さんになんて説明しよう。
慌ててスマホを取り出した、その時だった。
ブルッ。
着信の振動が手のひらに伝わった。
画面に表示されていたのは、〝母さん〟の三文字。
「ご、ごめんなさい。親からなので、出ますね」
一言断ってから通話ボタンを押す。
するとすぐに、受話口から心配そうな声が飛び込んできた。
『ハヤテ?今日ドラマの撮影って言ってたけど……こんな時間になるなんて、何かあったの?』
「その……」
心配をかけたくない。
でも、なんて説明すればいいのか分からない。
言葉に詰まっていると───。
「貸して」
「えっ……!?」
ひょい、と奏さんが俺の手からスマホを取った。
俺が目を丸くする横で、奏さんは落ち着いた声で話し始める。
「夜分遅くに失礼します。ドラマでご一緒している、神崎奏です」
『えっ……神崎さん!? あの〝HYPER-MEN〟の……!?』
「はい。知っていただけていて嬉しいです」
奏さんは、通話口では伝わらないのに輝かんばかりのアイドルスマイルを浮かべた。
そして通話ではその輝きは伝わらないはずなのに、なぜか母さんは通話先で熱っぽくため息をつく。
そして奏さんは立て板に水を流すように、サラサラと話し始めた。
「今日はルナさんと作品や演技について話していたら、二人とも熱が入ってしまって。気づけばこんな時間になってしまっていました」
『そうだったんですね……』
「終電もなくなってしまいましたし、明日は僕が責任を持ってご自宅までお送りします。今日はうちに泊まっていただこうと思っています」
「えっ…」
俺が口を挟む間もなかった。
母さんが通話先ですっかり安心したように言った。
『神崎さんなら安心ですね。同じ事務所の先輩ですもの』
「ありがとうございます」
『この業界は共演者同士で作品を作り上げる時間も大切でしょうし……。ハヤテ……いえ、ルナには、羽目を外しすぎないようにだけ伝えておいてくださいね』
「はい、お母さん。ちゃんと見ておきます」
その返事がやはり妙に板についていて、思わず俺は奏さんを見てしまう。
すると受話口の向こうから、母さんがどこか恐縮したように声を弾ませた。
『不束な息子ですが、どうぞよろしくお願いします!』
「はい。安心してお任せください」
そう言って通話を切ると、奏さんはスマホを俺へ返しながら、悪びれもなく笑った。
「……これで、お泊まり決定だね。しかも『息子をよろしくお願いします』なんて言われちゃった」
「いやいやいや……なんであんなにあっさり……」
もっと怒られるとか、心配されるとか、普通そういうものじゃないのか。
戸惑う俺に、奏さんは肩をすくめる。
「まあ、ああ言えば大抵の親は納得するよ。しかもルナってけっこう若い頃から芸能界にいたでしょ?
だったら十中八九、親御さんの理解もあるタイプだと思ってさ。そういう親って、仕事のためなら多少遅くなることも分かってるから『作品作りの話をしてました』って言えば、それ以上はあまり突っ込んでこないんだよ」
思わずなるほど、と感心してしまう。
それにしても。
「……奏さん、言い訳が上手すぎます」
思わず本音が漏れる。
すると奏さんは得意げに笑った。
「まあね。伊達にこの業界長くやってないから。こういう場面の切り抜け方くらいは身についてるよ」
そう言って、一歩こちらへ近づく。
奏さんの顔には、意味深げな笑みが浮かんでいた。
「でも……実は俺、終電がなくなってるの、もっと前から気付いてたんだ」
「……え?」
心臓がどくん、と大きく鳴る。
奏さんはさらに身を寄せ、耳元でそっと囁いた。
「つまり、わざと。……ルナに帰ってほしくなかったから」
「……っ」
柔らかな息が耳に触れただけで、背筋がぞくりと震えた。
身体がぴくっと跳ねるのを見て、奏さんは楽しそうに目を細める。
「……一緒にお風呂、入る?」
吸い込まれそうな瞳に、一瞬だけ頷きそうになる。
けれど我に返って、俺は勢いよく首を横に振った。
「……っ、それは、ダメです!」
「ははっ、残念」
意外にも、奏さんはあっさり引き下がった。
その後、俺はシャワーを借り、着替えとして奏さんの大きめのTシャツを貸してもらう。
袖が指先まですっぽり隠れてしまうくらい大きくて、ほのかに柔軟剤と奏さんの香りがした。
……それだけで、妙に落ち着かなくなる。
そして次に問題になったのは、寝る場所だった。
寝室にはダブルベッドが一つだけ。
「俺、ソファーで寝ます」
そう言った途端、奏さんは首を横に振る。
「じゃあ俺もソファーで寝る」
「いや、それは……!」
「ベッド広いし。メンバーが泊まりに来た時だって普通に一緒に寝てるから、気にしなくていいよ」
何度断っても譲ってくれず、結局押し切られる形で俺たちは同じベッドで眠ることになった。
もちろん、お互い少し距離を空けて。
それでも隣に人の気配があるだけで落ち着かなくて、なかなか寝付けなかった。
───そして翌朝。
「おはよう、ルナ」
柔らかな声に目を開ける。
ぼんやりとした視界いっぱいに奏さんの顔が映った、その瞬間。
気付けば俺は腕の中へ引き寄せられ、そのまま唇へ軽く口づけを落とされた。
寝起きの頭が、その出来事を理解するまで数秒。
その朝は、俺の人生で一番衝撃的な始まりとなったのだった。
いつも通り教室で康太と優希の会話のシーンを撮った後、監督が俺に期待するように言った。
「ルナちゃん、この後はいよいよ見せ場だからね。期待してるよ」
「……はい」
小さく頷きながら返事をする。
この後に控えているのは、優希が教師・純子へ思いを打ち明ける告白シーン。
自分が男であること。
そして、ずっと胸に秘めてきた恋心。
優希という人物のすべてをさらけ出す、このドラマでも屈指の重要な場面だった。
だからこそ、少しだけ不安だった。
ちゃんと優希の気持ちを届けられるだろうか。
そんなことを考えていると、不意に隣から声がした。
「大丈夫」
顔を上げると、奏さんが柔らかく笑っている。
「俺もさ、この現場に入ったばかりの頃は緊張してたんだ。主演の佐原さんもいるし、ベテランの人も多いしさ」
照れくさそうに頭を掻いて笑う。
「でもルナと一緒のシーンが増えてから、すごくやりやすくなった」
「え……?」
「なんて言うんだろう。演技してるっていうより、普通にルナと話してる感覚なんだよね」
その言葉に思わず目を瞬かせる。
「さっきも気付いたら、優希じゃなくてルナに話しかけてるような気分になってたし」
「奏さん……」
「だから大丈夫。今まで通りでいい。ルナらしく演じれば、それが一番優希らしく見えるから」
まっすぐ向けられた言葉が、じんわりと胸に染み込んでいく。
気付けば撮影も折り返しを迎えていた。
共演シーンが多いこともあって、奏さんとは自然と言葉を交わすようになり、休憩時間も一緒に過ごすことが増えた。
最初は憧れのアイドルグループの人という印象だったのに、今ではすっかり頼れる先輩になっている。
そんなことを考えていると、奏さんがふっと苦笑した。
「…でもルナの告白を応援するって、なんか複雑な気持ちかな」
「え?」
ボソッと呟かれた言葉に思わず聞き返そうとした瞬間。
その一言の意味を考えるより早く「次のシーン入りまーす!」と言うスタッフさんの大きな声がスタジオに響いた。
「あ、呼ばれた」
「行こっか」
奏さんはいつものように爽やかに笑うと、何事もなかったように歩き出す。
俺も慌ててその背中を追い掛けた。
さっきの言葉が少しだけ気になったけれど、それを聞き返す時間はなかった。
******
「──よーい、スタート!」
夕暮れの教室。
窓から差し込む茜色の光が、誰もいない机を長く照らしている。
そこにちょこんと座っているのは、優希。
物憂げな顔で俯いている。
少し遅れて、教室の扉が静かに開いた。
『……先生』
『優希ちゃん。相談があるって聞いたけど』
純子が穏やかに笑う。
優希が小さく頷くと、純子は優希の向かいの席に座った。
『……先生』
『どうしたの?』
少し俯いたまま、制服のスカートの裾をぎゅっと握る。
言葉を探すように息を吸い込み、意を決したように顔を上げた。
『優希ね……恋、してるの』
その一言に、純子はふっと優しく微笑んだ。
『知ってるわ』
『……え?』
『康太くんのこと、好きなんでしょう?』
当然のように告げられた言葉。
優希はびっくりしたように目を瞬かせ、次の瞬間、悲しそうな顔で小さく首を横に振った。
『……違うよ』
『え……?』
『先生』
その瞳が真っ直ぐ純子を見つめる。
『先生は……優希のこと、全然分かってない』
教室に沈黙が落ちる。
優希はゆっくりと両手を頭へ伸ばした。
カツン、とピンを外す音。
さらりと揺れた長い髪が、その手によって持ち上げられる。
ウィッグが静かに床へ落ちる。
現れたのは────短い黒髪。
純子は息を呑んだ。
『……優希、ちゃん……?』
優希は何も答えず、胸元のリボンへ手を掛け力任せに外した。
そして一つ、また一つ。
制服のボタンを外していく。
シャツを肩から滑らせ、タンクトップ、スカートまで脱ぎ捨てる。
そこに立っていたのは、ボクサーパンツ姿の────紛れもなく、一人の男の子だった。
純子は言葉を失う。
『……どういう、こと……』
少年は静かに笑った。
その笑顔は、どこか寂しげで、それでいて晴れやかだった。
『先生』
一歩。
また一歩と近付く。
『俺、男なんだ』
教室中に響く、落ち着いた低い声。
もう、女の子らしく作った話し方ではない。
そして俯き、言葉を漏らした。
『ずっと騙してて、ごめん』
純子は呆然と立ち尽くす。
信じられないものを見るように、ただ彼を見つめていた。
少年は真っ直ぐ純子の瞳を見据える。
『でも────俺が好きなのは、康太じゃない。先生だよ。先生が好き』
ほんの少しだけ唇を震わせながら、それでも笑う。
静かな教室に、その言葉だけが響く。
『俺のこと、一人の男として見てほしい』
一瞬の沈黙。
夕日が二人を赤く照らす。
純子は震える声で、ようやく彼の名前を呼んだ。
『……優希……くん』
その声を聞いた優希は、小さく微笑んだ。
*******
「────カット!」
監督の声が響いた瞬間、俺ははっと我に返った。
さっきまで自分が何を考えていたのか、うまく思い出せない。
胸の奥に抱え続けた想いを吐き出すように言葉が溢れ、気付けばセリフは自然と口をついて出ていた。
こんな感覚は、初めてだった。
「……良かったよ!」
モニターの前から立ち上がった監督が、興奮気味にこちらへ歩いてくる。
そして、俺の肩をぽんと叩いた。
「このシーンは難しいから、何テイクか撮る覚悟でいたんだけど……これは一発でいいね!
優希がずっと抱えてきた葛藤も、『自分を見てほしい』っていう切実な想いも、全部伝わってきた。告白の時の目が本当に良かったよ!いいシーンになってる」
「あ……ありがとうございます!」
思わず頬が緩む。
監督にここまで褒めてもらえるなんて思ってもいなかった。
すると、隣から優しい声が聞こえた。
「私も圧倒されちゃった」
振り向くと、純子役の佐原レイナさんが穏やかに微笑んでいた。
「もちろん台本でも印象的な場面なんだけど……ルナちゃんのお芝居を受けて、本当に優希の思いを初めて知ったような気持ちになったの。
特に最後の目。あの一瞬は、お芝居だって分かっていてもドキッとしたわ」
「レイナさん……!」
憧れの大女優からそんな言葉をもらえるなんて。
胸がいっぱいになって、自然と笑みがこぼれた。
「ありがとうございます!」
「これはいい感じになってきたんじゃない?」
監督が満足そうにモニターを見返しながら笑う。
「よし、この勢いで次のシーンもいこう!」
「「はい!」」
現場に明るい返事が重なる。
スタッフたちも慌ただしく次の準備を始め、スタジオは再び活気を取り戻していった。
「…………」
そんな中、一人だけ動かない人がいた。
奏さんだった。
少し離れた場所から、じっと俺を見つめている。
その視線は、さっきまでとはどこか違っていた。
驚いたような。
何かを考え込んでいるような。
言葉にできない感情を押し殺しているような、そんな表情。
「神崎さん、次お願いしまーす!」
スタッフさんに呼ばれて、奏さんはようやく我に返る。
「あ、はい」
いつもの爽やかな笑顔を浮かべると、何事もなかったようにセットへ向かって歩き出した。
けれど俺は、その一瞬だけ見せた表情が、なぜだか妙に心に引っ掛かっていた。
******
その日の撮影を終え、控室へ戻る。
衣装を脱いで着替えを済ませても、俺の頭の中には、さっき撮ったシーンが何度も蘇っていた。
演技をしていたあの時間。
なぜか俺の脳裏には、ずっと律の顔が浮かんでいた。
告白してくれた時の、あの真っ直ぐな瞳。
少し震えていた声。
必死に想いを伝えようとしていた表情。
俺はそれを、優希の感情と重ね合わせるように演じていた。
演じているうちに、胸の奥から自然と感情が込み上げてきた。
理解してもらえない苦しさ。
踏み出すことへの怖さ。
拒絶されるかもしれないという不安。
それでも、この想いだけは伝えたい。
そんな気持ちに押されるように、気づけば言葉が口から溢れていた。
律も、あんな気持ちだったんだろうか。
そう思った瞬間、胸がきゅっと締めつけられる。
(そりゃそうだよな、男なんだし…)
それで俺は、ハッとした。
(もしかして律、完全に玉砕するつもりで俺に告白したとか?)
そもそも男が男に告白するって、並大抵の勇気じゃない。
しかも俺の恋愛対象が男ってことも伝えてなかった。
(でも……)
俺は「考える」って返事をした。
律も「少しは俺を意識して」なんて言って────。
不意に、あのキスの感触まで思い出してしまう。
「~~っ……」
誰もいない控室で、一人顔が熱くなる。
それで俺はふと気になった。
(律は…男が好きなのかな?)
考えてみれば、そういう話はしたことがなかった。
今まで律に恋人がいたのかさえも、俺は知らない。
もし律に彼女か彼氏がいたことがあったら。
(めちゃショックかも…)
そんなことを思って、一人頭を振る。
まだ決まったわけじゃない。
そうと決まれば、美術部の合宿の時に聞かなければ。
そう俺は決意を新たにして、夏季合宿がもう直ぐ近いことを思い出した。
コンコン。
不意に控え室のドアがノックされ、俺は顔を上げた。
「ルナ、入るよ」
「はい」
返事をするとドアが開き、奏さんがひょこっと顔を覗かせた。
俺と目が合うと、いつもの爽やかな笑顔を浮かべる。
「今日もご飯どうかなと思って、誘いに来たんだけど」
「あ……」
思わず言葉に詰まる。
最近、撮影終わりは奏さんと食事に行くことが増えていた。
しかも毎回「先輩だから」と言ってご馳走してくれる。
正直、一緒に食べる時間はすごく楽しい。
でも、さすがに何回も奢ってもらうのは申し訳なかった。
「いいんですか?今月だけでも結構ご馳走になってますし……なんだか悪くて」
そう言うと、奏さんは少しだけ考えるように視線を泳がせた。
そしてひと呼吸置いて、柔らかく笑う。
「じゃあさ。今日、俺んち来ない?」
「……え?」
予想外の言葉に思わず目を丸くする。
奏さんは照れたように頭をかきながら続けた。
「ここから電車で二十分くらいだし。ちょうど食材も買ってあるから何か作れるし、飲み物もあるよ。
奢られるのが気になるなら、そのほうが気兼ねしないかなって思って」
「……」
確かに、それなら気は楽かもしれない。
でも、いきなり家にお邪魔するなんて迷惑じゃないだろうか。
そんな迷いが顔に出ていたのか、奏さんは少し声のトーンを落とした。
「……本当はさ。今日のルナの演技、本当に良かったんだ」
「奏さん……」
その真剣な表情に、自然と視線が合う。
「ちゃんと感想を伝えたいし、演技の話もゆっくりしたくて」
そう言って少しだけ照れくさそうに笑うと、最後に遠慮がちに付け加えた。
「……ダメ、かな?」
その表情を見た瞬間、迷いはすっかり消えていた。
勢いよく首を横に振る。
「全然!俺も奏さんと話すの、すごく楽しいですし。ぜひお願いします!」
「よかった」
奏さんは心底ほっとしたように笑う。
その笑顔につられて俺も笑みを返し、荷物を手に取った。
「じゃあ、行こうか」
「はい!」
そうして俺は奏さんと、並んで控え室を後にしたのだった。
******
「お邪魔します……、うわぁ……!」
玄関の扉をくぐった瞬間、思わず感嘆の声が漏れた。
まず目に飛び込んできたのは、床から天井まで届く大きな窓いっぱいに広がる都会の夜景。
室内は間接照明が優しく灯り、落ち着いた琥珀色の空間を作り出している。
生活感はあるのに不思議なくらい洗練されていて、まるでインテリア雑誌に載っていそうな空間だった。
「すご……。奏さんの部屋、めちゃくちゃオシャレですね……」
思わず部屋を見回しながら呟く。
リビングの奥には、ガラスの引き戸でゆるく仕切られたベッドルームが見える。
白いシーツがきれいに整えられ、ホテルみたいにすっきりとしていて、その向こうにも夜景が広がっていた。
「そんな大したもんじゃないよ。一人暮らし始めるときに、ちょっと頑張って家具だけ揃えたんだ」
奏さんは照れたように笑いながら靴を脱ぐ。
テレビや雑誌で見る〝売れっ子アイドルの自宅〟なんて言葉が頭をよぎる。
ここで生活しているなんて、どこか現実味がなくって、俺はもう一度部屋を見回してしまった。
「適当に座ってて。何か作るから」
「えっ、手伝いますよ!」
「ほんと?じゃあ、きゅうりだけ切ってもらえる?」
「はい!」
エプロンをつけた奏さんは、冷蔵庫から食材を次々と取り出し、慣れた手つきで包丁を動かしていく。
フライパンからはジュッという心地いい音が響き、オリーブオイルとガーリックの香ばしい香りがふわりと広がる。
俺も教えてもらいながらきゅうりとレタスを切って皿に盛り付ける。
「そのくらいで大丈夫。上手い上手い」
「ほんとですか?」
「うん。いいじゃん」
褒められると、なんだか少し照れくさい。
そうして二人で準備を終え、料理をテーブルへ並べた。
「じゃあ、いただきます」
「いただきます」
まずは奏さんが作ってくれたシーザーサラダを一口。
シャキッと瑞々しいレタスに、みずみずしいきゅうり。
濃厚でコクのあるシーザードレッシングが全体を包み込み、香ばしく焼かれたベーコンの旨味と、カリッとしたクルトンの軽やかな食感が重なっていく。
粉チーズのまろやかな風味まで口いっぱいに広がって、思わず頬が緩んだ。
「……おいしい!」
思わず声を上げると、隣に座る奏さんが嬉しそうに笑う。
「よかった。一人暮らし長いからさ。自炊だけは結構自信あるんだ」
「いや、結構どころじゃないですよ。お店で出てきても普通に納得するレベルです」
「それは褒めすぎ。……じゃあさ」
笑っていた奏さんが、不意に声の調子を落とした。
まっすぐ俺を見つめて、ふっと口角を上げる。
「ルナに告白してきた男と、俺。どっちが上手い?」
「……っ!?」
思わず咽せた。
「けほっ、ごほっ……!」
「はは、ごめんごめん。食べてる時に変なこと言って」
奏さんは苦笑しながら、ぽんぽんと優しく背中をさする。
ようやく落ち着いて顔を上げると、俺は少し頬を赤くしながら答えた。
「……本当ですよ!そんなの……比べるものじゃ、ないです」
そう言いながら、どっちも比べられないくらい美味しいし…と俺は思ってた。
すると、奏さんがくすっと笑った。
「でも俺覚えてるよ。その相手の好きなところ聞いたらさ、優しいところ、料理がうまいところ、一緒にいると安心できる美容男子って言ったこと」
「よ…よく覚えてますね…」
思わず苦笑すると、奏さんはさらりと言った。
「勿論。だって好きだから、ルナのこと」
「……え?」
頭が真っ白になった。
聞き間違えたのかと、思わず奏さんの顔を見る。
だけどその瞳は、冗談を言う時のものじゃなかった。
真っ直ぐで、どこまでも真剣だった。
「好き」
その一言だけが、静かな部屋に落ちた。
さっきまで聞こえていた外の音も、エアコンの音も。
全部遠くなった気がした。
「……本当は、最初に会った時から気になってたんだ。でも今日の撮影で、確信した」
奏さんは穏やかに続ける。
「俺、あの時まで優希とルナをどこか同じ感覚で見てたんだよ。でもあのシーンは違った。あの瞬間、ルナは完全に優希になってた。それを見て、俺ももっと本気で芝居しなきゃ、って思わされた」
「奏さん……」
「もちろん役者として尊敬してるって気持ちもある。でも、それだけじゃない。
真っ直ぐな目とかさ。笑うと一気に幼くなる笑顔とか。頑張り屋なところとか。気付いたら全部気になってた。その証拠にさ、ほら」
「……えっ」
そう言って差し出されたスマホを見て、俺は息を呑んだ。
フォルダ名は、『ルナ』。
開かれた画面には、デビュー当時から今までの俺の写真や記事のスクリーンショットが、ずらりと並んでいた。
「クランクインの日から少しずつ集めてたんだよね。お気に入りは、この前の水着」
奏さんは照れ笑いしながら画面をスクロールする。
表示されたのは、雑誌で公開されたばかりのソロカット。
黄色いチェック柄のワンピース水着にパレオを巻いて微笑む俺だった。
撮影の日を思い出して、思わず笑ってしまう。
「ああ……これ。ちょっと露出多くて、あの日は結構恥ずかしかったんですよね」
照れ隠しに笑うと、奏さんが身を乗り出した。
「いや、すごく可愛いよ!
あと、インタビューも読んだ。
〝自然と笑える人がいい〟〝無理をしなくていい関係が理想〟って書いてあっただろ?」
「……はい」
「あれ読んで思ったんだ。俺、ルナとならそんな関係を築ける気がする」
奏さんは一瞬だけ視線を落とし、静かに笑う。
その声には、不思議なくらい確信があった。
「もしルナに好きなタイプがいるなら、少しでも近づけるよう努力する。……こんな気持ちになるの、俺、初めてなんだ」
「奏さん……」
その名前を呼ぶのが精一杯だった。
すると奏さんは、少し困ったように笑って頭を掻いた。
「……ごめん。急だったよな。困らせるつもりじゃなかったんだ。
たぶんルナは俺のことを〝優しい先輩〟くらいにしか思ってないって分かってたから………少しは、恋愛対象として見てほしかった」
奏さんは、少しだけ寂しそうに笑って俯いた。
「しかも、別の人にも告白されたばかりなんだろ?そんなタイミングで、本当にごめん。
今すぐに、返事はいらないから」
「……」
俺は、何も言えなかった。
奏さんの真っ直ぐな想い。
律への気持ち。
決まらない自分自身の答え。
全部が一度に胸へ押し寄せてきて、頭の中はひどく混乱していた。
俺はそんな気持ちを落ち着かせようと、手元にあったグラスを掴んで一気に口へ運んだ。
───その瞬間だった。
「っ、ゲホッ!?えっ……!?」
喉が焼けるような刺激に、思い切り咽せる。
慌ててグラスを見ると、それは俺のジュースじゃなかった。
奏さんが飲んでいたチューハイ。
「ご、ごめん!それ俺のだった!ルナ、大丈夫!?」
「は、はい……」
慌てた様子の奏さんにそう返事はしたものの、初めて口にしたアルコールは思った以上に強かった。
頭がぼうっと熱くなる。
身体がふわふわ浮くようで、視界まで少し揺れている気がした。
「……っ」
力が入らない。
気付けば俺は、奏さんの肩へそっと身を預けていた。
「っ、ルナ、本当に大丈夫……?」
逞しい肩から伝わる体温が心地いい。
熱くなった身体が、その温もりを求めるように自然ともたれかかる。
「はぁ……」
吐いた息まで熱い。
何も考えられない。
ただ、この安心感に包まれていたかった。
そんな、時だった。
耳元で優しい声がした。
「……ルナ、水、飲もう」
「……ん……?」
ぼんやりと返事をするものの、身体は思うように動かない。
奏さんも黙ったまま俺を見つめていた。
静かな時間が数秒流れる。
やがて、小さく息をつく音が聞こえた。
「……ごめん」
その声と同時に、ぐっと肩を抱き寄せられる。
そして次の瞬間。
柔らかな感触が、唇へ重なった。
「……っ!?」
驚いて目を見開く。
唇の隙間から、ひんやりとした水が少しずつ流れ込んできた。
こく……。
こく、と無意識に飲み込む。
全部飲み終えると、ゆっくりと唇が離れた。
「……っ」
我に返って顔を上げた瞬間、目の前にいたのは、いつもの穏やかな奏さんじゃなかった。
熱を帯びた瞳。
獲物を逃がすまいとするような、鋭く獰猛な眼差し。
息が止まりそうになる。
奏さんは俺を見つめたまま、小さく笑った。
「……ダメだよ、ルナ。さっき告白した男の前で、そんな無防備な顔したら」
それは、低く掠れた声だった。
指先が俺の頬をそっと撫でる。
「本当に襲われても、文句言えない」
「……っ!」
一気に頬が熱くなる。
奏さんの瞳は少し潤んでいて、その色気に胸がざわついた。
鼓動がどんどん速くなる。
だけど、それ以上に頭を占めたのは別のことだった。
「……い、今の……ファーストキス、だった……」
震える声で呟くと、奏さんの表情が固まった。
目を丸くしたまま俺を見る。
「え、うそ……初めて、だったの……?」
恥ずかしくて顔を伏せたまま、小さく頷く。
その途端、奏さんは額に手を当て、小さく苦笑した。
「……やっちゃったな」
照れ隠しのように頭を掻きながら、申し訳なさそうに息を吐く。
「水飲ませなきゃって思ったのも本当なんだ。酒も少し回ってそうだったし、このままだと危ないと思って」
そこまで言ってから、俺を真っ直ぐ見つめる。
そして、少しだけ目を細めた。
「……でも、それだけじゃない。
ごめん。あれは……俺がしたかった」
奏さんはそう言って、静かに認めるように俯いて笑った。
その一言は言い訳ではなく、自分の気持ちを素直に認めるような、静かな告白だった。
どう言っていいかわからず視線を彷徨わせると、ふと壁掛け時計が目に入る。
「あ……時間! 終電は……」
目を凝らすと、長針はもう11時45分を指していた。
(えっ……こんなに!?)
いつのまにか時間の感覚がすっかり飛んでいた。
慌てる俺とは対照的に、奏さんは肩をすくめてさらりと言う。
「終電なら、もう無いよ」
「そ、そんな……」
母さんになんて説明しよう。
慌ててスマホを取り出した、その時だった。
ブルッ。
着信の振動が手のひらに伝わった。
画面に表示されていたのは、〝母さん〟の三文字。
「ご、ごめんなさい。親からなので、出ますね」
一言断ってから通話ボタンを押す。
するとすぐに、受話口から心配そうな声が飛び込んできた。
『ハヤテ?今日ドラマの撮影って言ってたけど……こんな時間になるなんて、何かあったの?』
「その……」
心配をかけたくない。
でも、なんて説明すればいいのか分からない。
言葉に詰まっていると───。
「貸して」
「えっ……!?」
ひょい、と奏さんが俺の手からスマホを取った。
俺が目を丸くする横で、奏さんは落ち着いた声で話し始める。
「夜分遅くに失礼します。ドラマでご一緒している、神崎奏です」
『えっ……神崎さん!? あの〝HYPER-MEN〟の……!?』
「はい。知っていただけていて嬉しいです」
奏さんは、通話口では伝わらないのに輝かんばかりのアイドルスマイルを浮かべた。
そして通話ではその輝きは伝わらないはずなのに、なぜか母さんは通話先で熱っぽくため息をつく。
そして奏さんは立て板に水を流すように、サラサラと話し始めた。
「今日はルナさんと作品や演技について話していたら、二人とも熱が入ってしまって。気づけばこんな時間になってしまっていました」
『そうだったんですね……』
「終電もなくなってしまいましたし、明日は僕が責任を持ってご自宅までお送りします。今日はうちに泊まっていただこうと思っています」
「えっ…」
俺が口を挟む間もなかった。
母さんが通話先ですっかり安心したように言った。
『神崎さんなら安心ですね。同じ事務所の先輩ですもの』
「ありがとうございます」
『この業界は共演者同士で作品を作り上げる時間も大切でしょうし……。ハヤテ……いえ、ルナには、羽目を外しすぎないようにだけ伝えておいてくださいね』
「はい、お母さん。ちゃんと見ておきます」
その返事がやはり妙に板についていて、思わず俺は奏さんを見てしまう。
すると受話口の向こうから、母さんがどこか恐縮したように声を弾ませた。
『不束な息子ですが、どうぞよろしくお願いします!』
「はい。安心してお任せください」
そう言って通話を切ると、奏さんはスマホを俺へ返しながら、悪びれもなく笑った。
「……これで、お泊まり決定だね。しかも『息子をよろしくお願いします』なんて言われちゃった」
「いやいやいや……なんであんなにあっさり……」
もっと怒られるとか、心配されるとか、普通そういうものじゃないのか。
戸惑う俺に、奏さんは肩をすくめる。
「まあ、ああ言えば大抵の親は納得するよ。しかもルナってけっこう若い頃から芸能界にいたでしょ?
だったら十中八九、親御さんの理解もあるタイプだと思ってさ。そういう親って、仕事のためなら多少遅くなることも分かってるから『作品作りの話をしてました』って言えば、それ以上はあまり突っ込んでこないんだよ」
思わずなるほど、と感心してしまう。
それにしても。
「……奏さん、言い訳が上手すぎます」
思わず本音が漏れる。
すると奏さんは得意げに笑った。
「まあね。伊達にこの業界長くやってないから。こういう場面の切り抜け方くらいは身についてるよ」
そう言って、一歩こちらへ近づく。
奏さんの顔には、意味深げな笑みが浮かんでいた。
「でも……実は俺、終電がなくなってるの、もっと前から気付いてたんだ」
「……え?」
心臓がどくん、と大きく鳴る。
奏さんはさらに身を寄せ、耳元でそっと囁いた。
「つまり、わざと。……ルナに帰ってほしくなかったから」
「……っ」
柔らかな息が耳に触れただけで、背筋がぞくりと震えた。
身体がぴくっと跳ねるのを見て、奏さんは楽しそうに目を細める。
「……一緒にお風呂、入る?」
吸い込まれそうな瞳に、一瞬だけ頷きそうになる。
けれど我に返って、俺は勢いよく首を横に振った。
「……っ、それは、ダメです!」
「ははっ、残念」
意外にも、奏さんはあっさり引き下がった。
その後、俺はシャワーを借り、着替えとして奏さんの大きめのTシャツを貸してもらう。
袖が指先まですっぽり隠れてしまうくらい大きくて、ほのかに柔軟剤と奏さんの香りがした。
……それだけで、妙に落ち着かなくなる。
そして次に問題になったのは、寝る場所だった。
寝室にはダブルベッドが一つだけ。
「俺、ソファーで寝ます」
そう言った途端、奏さんは首を横に振る。
「じゃあ俺もソファーで寝る」
「いや、それは……!」
「ベッド広いし。メンバーが泊まりに来た時だって普通に一緒に寝てるから、気にしなくていいよ」
何度断っても譲ってくれず、結局押し切られる形で俺たちは同じベッドで眠ることになった。
もちろん、お互い少し距離を空けて。
それでも隣に人の気配があるだけで落ち着かなくて、なかなか寝付けなかった。
───そして翌朝。
「おはよう、ルナ」
柔らかな声に目を開ける。
ぼんやりとした視界いっぱいに奏さんの顔が映った、その瞬間。
気付けば俺は腕の中へ引き寄せられ、そのまま唇へ軽く口づけを落とされた。
寝起きの頭が、その出来事を理解するまで数秒。
その朝は、俺の人生で一番衝撃的な始まりとなったのだった。

