病弱少年はいつかお姫さまに

「先生ー……、ちょっとだけ帰る前に眠っていってもいいですかあ」
「あれ、市川くん。補習とかはないんだよね、どうしたの、そんなに身体きつい?」
「立っているだけで血の気が引いて、このまま家に帰りつく自信がないです」
「困ったねえ、いいよ、部活動が終わるまで時間はあるし横になっていたら?」
「窓側借りまーす」
「はいはい」

 換気のため窓側のベッドは窓が開け離れていた。優凪は窓を閉めてカーテンを引く、その時陸上部の練習の様子が見える。誰よりも速く走っている生徒、ああ響魚だ。彼が一番速い。彼のエース級の実力を優凪はようやく目にすることになる。
 そう言えば加瀬響魚と言う名前はよく朝礼で表彰されていたような気もするが、朝礼自体が体調が悪くなることが多くてあまり何をやっているのか記憶がなかった。
 一位でゴールした響魚、でも優凪は気分が悪くてそれどころではないので黙って布団にもぐりこみ目を閉じる。カーテンを閉めるとき響魚と目が合った気がした。
 昼食を抜いたのがいけなかったか、でも食欲なんてない。この頃そう言う日が多かった。くらくらとしながら眠りに落ちて行く。この原因のよくわからない日常的な体調不良はどうにかならないものか。

「すみません」
「あれ、加瀬くん。また怪我したの?」
「いや、そうじゃなくて」

 ベッドを仕切るカーテンの向こう、遠くから響魚の声が聞こえる。夢を見ているのだろうか、でもそれにしてはやけに鮮明に。

「ゆう……市川、来ていますか」
「ああ来てるよ。ちょっと寝てから帰るって。よく知ってるね」
「窓越しに見えたから……俺、部活終わったら迎えに来ます。一緒に帰ります」
「あ、本当? 助かるよ、ひとりで帰らせるのは危なっかしいから」
「じゃあ、あとで迎えに来るので」
「はーい」

 誰が迎えに来るって? 自分のいないところで一緒に帰ることになってしまっている。これは夢か、でもさっき彼は確かにこちらを見ていた……。

 ***

「おい優凪、起きろ」

 突然低い声が聞こえた。ここは、確か保健室で……あれ、いまは何時だっけ。

「う……えっ、なに……」
「最終下校時刻は過ぎた、起き上がれるか」
「なんで、響魚くん」
「一緒に帰ろう、地下鉄だろう」
「そうだけど、どうして知ってるわけ?」
「前からたまに駅で見かけていたから、俺も地下鉄。家まで送るよ」
「えっ、いやいいってば、ひとりで帰れる」
「方角が同じなんだから別にいいだろう、準備が出来るまで待ってるから」

 家の方向まで知っている。そんな響魚は優凪にとって少し恐ろしい存在にもなりつつあった。別に意地悪なことをされたわけではないけれど、その執着、一体何故? ベッドで制服を整えていると閉められたカーテンの向こうで響魚と幸原の声がする。

「加瀬くんてば市川くんのこと、やけに気にしているみたいだけどどうしたの? クラスは違うよね」
「前から見かけて気になっていただけです。悪意はありません」
「まあ、友達が増えるのは良いことだよ。君にとっても市川くんにとっても、きちんと送り届けてあげてね」
「はい」

 結局、すっかり家まで一緒に帰ることになってしまっていた。ふたりはなんてことないように話しているが、とは言え響魚とは今日初めて話したのだ。置き去りになった心は優凪だけで……。

「じゃあまた明日ね、市川くんはお大事に」
「はぁい、さようなら」

 幸原に挨拶をして保健室から出るところで制服姿の響魚はさりげなく優凪の鞄を持った。少し戸惑った優凪だったが、確かに荷物は重かったので黙ってありがたく持ってもらうことに。駅までの十五分、何の話をしたら良いのか。しかしそもそも響魚は沈黙を気にしてはいないようだった。焦りも見せずゆっくりと歩く。その足の速さも優凪に合わせて。

「優凪、家では家族が待っているのか?」
「え、僕の家? んー、まあそんな感じ」

 本当は両親は幼い頃に離婚していて現在親権を持つ父は東北に単身赴任。優凪が東京にいる理由もそれほどなかったけれど、そもそも父と仲が良いわけでもないから現在、ひとり暮らしだった。
 学費生活費は払ってくれる、それだけだ。この事情を響魚に言うか迷ったが黙っておくことにした。家庭の事情を打ち明けるほどまだ親しいわけじゃない気がして。
 とは言え、響魚が悪意を持って接していないこともわかって来てはいた。幼い頃のいじめっ子はもっと露骨だったし、今も保健室ばかり行く優凪を良く思わないものもいる。体育の見学がずるいとか、欠席したのにレポートで許されてしまう授業のこととか。だけど響魚はただ黙ってそばにいてくれる。そんな存在今までいなかった。

「……心配してくれてるの?」
「ひとりで寝込んでいたら不便なこともあるだろう」
「はは、大丈夫大丈夫。もう高校生だし」
「まだ高校生だ」
「は……」

 本当はこの時響魚に打ち明けてしまおうかと思った。優凪に関する長い孤独の話を。でも誰かに重いと思われるようなそんな存在にはなりたくない。嫌われたくないだけだ、今でもそれほど好かれているわけじゃないけれど。
 駅についてホームに降りやって来た各駅停車に乗る。優凪はなんとなく今日はこのまま最寄り駅に着かなくてもいいと思った。