響魚の家はどこか懐かしい、古く重厚な印象のある引き戸の木造建築。塀からのぞく大きな木は桜なのか、車と使い込まれた自転車が二台玄関にとまっている。
「ただいま」
「あ、おじゃましまーす……」
引き戸を引くと玄関に大きな絵が飾ってあった。古びた風景画、秋の柿の木の実り、いまの季節にぴったりだった。
「おかえり、お兄ちゃん。友達?」
「ああ、高校の」
そこに現れたのは響魚とよく似た少女、背が高く整えられたボブカットで中学生くらいだろうか。彼女はじっと優凪を見つめる。
「あ、どうも、こんにちはぁ……市川です」
「もしかして、優凪さん?」
「え」
「おい類奈、やめろよ」
「優凪さんでしょ、よくお兄ちゃんと電話してる。聞こえてるよ、いつも優凪優凪って」
「あ、はい……市川優凪です」
「はじめまして、妹の類奈です。へえ、綺麗な人だね、絵本に出てくるお姫さまみたいな顔して。お兄ちゃん好きそう」
「類奈、うるさい」
「はは、照れてるんだ。どうぞごゆっくり」
「はあ」
類奈はくすくすと笑い家の奥に入って行った。残された優凪と響魚、響魚は気まずそうな顔をしている。
「悪いな、妹が」
「いやいいけど……あ、お土産、渡せばよかった」
***
響魚の部屋は物が少なくさっぱりと片付いていた。机には参考書とノートパソコン、それもしっかりと整理されていて、彼の几帳面な性格が良く出ている。
「ベッドにでも腰かけて構わないよ。何か飲むか?」
「あ、お気遣いなく」
この部屋で響魚は育って日々を過ごしている。その場所を初めて見ることが出来て、優凪が嬉しいような誇らしいような気持ちになった。彼の性格上、多分そんなに友人知人を部屋に呼ぶようなタイプではないだろう。優凪だから、連れて来てくれた。
「悪いな、大した娯楽もない部屋で」
「綺麗に整頓されてて尊敬する。僕はいつも散らかしちゃうし」
「あまり物を置くのが好きじゃないだけだ。趣味も少ないし」
「走ること?」
「まあ、それも一応趣味とも言えるな」
追い詰められるような苦しい時間を抜けて走りぬいた先に、彼はいつも何を見るのだろう。優凪には見ることのできない世界、体育の授業ですら見学が多くろくに参加したことはないから。
「妹さん、響魚くんに似てた」
「そうか? あいつはやかましいし年を経るごとに生意気を言う。困ったものだよ」
「兄妹がいるだけいいじゃないの、僕は一人っ子だからいつも寂しかった」
賑やかな家庭に憧れた。しかし優凪はいつもひとりになってしまう。家族もそばにいなくて友人もいない、自分の価値すら忘れてしまいそうな日々。お姫さまなんて言われてはみても、正面から優凪に向かい合ってくれた人はいなかった。唯一の例外が、加瀬響魚。
「響魚くんに会えて嬉しかったな」
「……そうか」
優凪の隠している本音を知っている人、その心の孤独を知っている人。
「優凪?」
しばしの沈黙に響魚が優凪の方を見ると、優凪はいつの間にかベッドに寝転がって眠っていた。疲れていたのだろうか、確かに体調を崩していたばかりだったが。
「優凪」
すっかり寝入っている。小さな寝息をたてて、年齢の割にあどけない顔をして。響魚は少し迷って、その頬に触れた。しっとりと柔らかで、色の白い艶やかな顔。だから皆が憧れるのだ、お姫さま、と。その自分の価値を優凪は自覚してはいないのだろうか。
響魚は優凪の上に覆いかぶさって、じっとそのくちびるを見つめる。目を覚ます様子はない、ならば、いいか。
「んー……?」
眠っている優凪に軽くキスをした。ほんの短時間、一瞬のことだ。優凪はそのまままた眠ってしまった。このことを知っているのは響魚だけ。優凪は気が付いていない、秘密だ、これは響魚の心の中だけの秘密の行為。多少の罪悪感はあるけれど、優凪に触れた一瞬は響魚にとっては永遠に値するくらいに深い感情を刻む。優凪には言わない、言えやしない、本当のことを知ったら驚くだろう。
軽い一瞬の間のキス、それは王子さまにとってはじめての……知らないのはお姫さまばかりで。
「ただいま」
「あ、おじゃましまーす……」
引き戸を引くと玄関に大きな絵が飾ってあった。古びた風景画、秋の柿の木の実り、いまの季節にぴったりだった。
「おかえり、お兄ちゃん。友達?」
「ああ、高校の」
そこに現れたのは響魚とよく似た少女、背が高く整えられたボブカットで中学生くらいだろうか。彼女はじっと優凪を見つめる。
「あ、どうも、こんにちはぁ……市川です」
「もしかして、優凪さん?」
「え」
「おい類奈、やめろよ」
「優凪さんでしょ、よくお兄ちゃんと電話してる。聞こえてるよ、いつも優凪優凪って」
「あ、はい……市川優凪です」
「はじめまして、妹の類奈です。へえ、綺麗な人だね、絵本に出てくるお姫さまみたいな顔して。お兄ちゃん好きそう」
「類奈、うるさい」
「はは、照れてるんだ。どうぞごゆっくり」
「はあ」
類奈はくすくすと笑い家の奥に入って行った。残された優凪と響魚、響魚は気まずそうな顔をしている。
「悪いな、妹が」
「いやいいけど……あ、お土産、渡せばよかった」
***
響魚の部屋は物が少なくさっぱりと片付いていた。机には参考書とノートパソコン、それもしっかりと整理されていて、彼の几帳面な性格が良く出ている。
「ベッドにでも腰かけて構わないよ。何か飲むか?」
「あ、お気遣いなく」
この部屋で響魚は育って日々を過ごしている。その場所を初めて見ることが出来て、優凪が嬉しいような誇らしいような気持ちになった。彼の性格上、多分そんなに友人知人を部屋に呼ぶようなタイプではないだろう。優凪だから、連れて来てくれた。
「悪いな、大した娯楽もない部屋で」
「綺麗に整頓されてて尊敬する。僕はいつも散らかしちゃうし」
「あまり物を置くのが好きじゃないだけだ。趣味も少ないし」
「走ること?」
「まあ、それも一応趣味とも言えるな」
追い詰められるような苦しい時間を抜けて走りぬいた先に、彼はいつも何を見るのだろう。優凪には見ることのできない世界、体育の授業ですら見学が多くろくに参加したことはないから。
「妹さん、響魚くんに似てた」
「そうか? あいつはやかましいし年を経るごとに生意気を言う。困ったものだよ」
「兄妹がいるだけいいじゃないの、僕は一人っ子だからいつも寂しかった」
賑やかな家庭に憧れた。しかし優凪はいつもひとりになってしまう。家族もそばにいなくて友人もいない、自分の価値すら忘れてしまいそうな日々。お姫さまなんて言われてはみても、正面から優凪に向かい合ってくれた人はいなかった。唯一の例外が、加瀬響魚。
「響魚くんに会えて嬉しかったな」
「……そうか」
優凪の隠している本音を知っている人、その心の孤独を知っている人。
「優凪?」
しばしの沈黙に響魚が優凪の方を見ると、優凪はいつの間にかベッドに寝転がって眠っていた。疲れていたのだろうか、確かに体調を崩していたばかりだったが。
「優凪」
すっかり寝入っている。小さな寝息をたてて、年齢の割にあどけない顔をして。響魚は少し迷って、その頬に触れた。しっとりと柔らかで、色の白い艶やかな顔。だから皆が憧れるのだ、お姫さま、と。その自分の価値を優凪は自覚してはいないのだろうか。
響魚は優凪の上に覆いかぶさって、じっとそのくちびるを見つめる。目を覚ます様子はない、ならば、いいか。
「んー……?」
眠っている優凪に軽くキスをした。ほんの短時間、一瞬のことだ。優凪はそのまままた眠ってしまった。このことを知っているのは響魚だけ。優凪は気が付いていない、秘密だ、これは響魚の心の中だけの秘密の行為。多少の罪悪感はあるけれど、優凪に触れた一瞬は響魚にとっては永遠に値するくらいに深い感情を刻む。優凪には言わない、言えやしない、本当のことを知ったら驚くだろう。
軽い一瞬の間のキス、それは王子さまにとってはじめての……知らないのはお姫さまばかりで。
