ほら見てごらん、お姫さまが今日もひとりで、ひとりで……。
「体調が悪いんだって?」
「眩暈と、吐き気がちょっと」
「ああ、顔色悪いなあ。熱測ってみようか? とりあえずベッドに横になって。シャツとベルト、自分で緩められる?」
「はい、自分で出来まぁす……」
その言葉にもたつく手でボタンを外す。
高校一年生、市川優凪は怠い身体をベッドに横たわらせてため息をつく。この高校の保健室には全国でも珍しい男性養護教諭がいた。幸原透、数年前までは総合病院で看護師として働いていたが諸事情により転職したらしい。朝も夜もなかったからね、と彼は笑う。今は穏やかな日々が送れているのだろうか、まだ高校生の優凪には大人の世界は想像でしかわからない。
「次の授業単位やばくて、無理して出るか迷ってるんですよねえ」
「単位かあ、それも大事なんだけどでもあまり無理はして欲しくないんだ。市川くん最近調子悪いでしょ」
「はは、ちょっとだけですよお」
「ええ、ちょっとかなあ?」
怠そうな話し方に対して優凪の容姿は至極繊細でかわいらしい。例えればまるで少女のよう。色も白く色素が薄いのか髪も綺麗な薄い栗色で、大きな目に長いまつ毛、身長こそ平均程度はあるが痩せ型と言うよりも痩せすぎていて、彼を見るだけで庇護欲を刺激されるものもいる。
そのせいで裏では密かに彼は周りからお姫さまなんて呼ばれていた。優凪にとっては不名誉なあだ名でもあったが、親しい友人がいないからたまにどこかから漏れ出る同級生のひそひそ声でのその呼び方には何も言えず、ひとり複雑な感情を抱くだけだ。
体温計の電子音が鳴る。優凪がシャツの中に手を入れたその時保健室のドアが開いた。
「すみません、転びました」
背が高い。どこかで見たことのあるような、でも優凪は彼の名を知らなかった。しかし向こうは見覚えでもあるのかじっと優凪を見つめくちびるが動く、お姫さま……と。
「あれ、加瀬くんじゃないの。珍しいね、体育?」
「はい、ハードルで失敗しちゃって」
加瀬、と呼ばれたその人物はハーフパンツ姿で膝から出血しているようだった。自分の血はどうも思わないのに他人のそれは痛々しい。
「市川くんはちょっと待っててね。加瀬くん、傷、消毒しようか」
体温計を持ったまま優凪はとりあえず沈黙する。熱はない、それほど重症ではなさそうだった。一方で幸原は加瀬を座らせて傷の手当てを始める。
「加瀬くんの記録、まだ抜かれていないね。さすが中学で全国大会に行った実力は違うなあ」
「いえ、最近伸び悩んでて、陸上の難しさを実感しています。先生にはまだ追いつけそうにありません」
「私に? あっはは、もう十年も昔のことだよ? 大学駅伝に出たと言っても私はもともと補欠で、あの年準優勝したのもチームに実力者が多かっただけだ。運が良かったとしか言いようがない。比べるならきっと君の方がいい選手だ」
陸上……駅伝? 部活のことだろうか。加瀬は背が高いが引き締まって筋肉質な、それでも適度に痩せた体格。マラソン選手によく見るみたいな、と言うことは彼は陸上部か。記録がどうのと言っているところをみるとどうやらそれなりの選手な気がする。それだけの風格が彼にはあった。
幸原がガーゼを取りに行く、ふたりきりになった優凪と加瀬はじっと見つめあった。優凪は彼を知らない、だけど加瀬の視線はどこか熱さを感じてなんだか気まずくなってしまう。加瀬がふと、口を開いた。何事かと構えた優凪、しかしその時幸原が戻って来る。
「加瀬くん、ガーゼあてるよ」
「あ、はい」
加瀬は何を言おうとしたのだろうか。しかし優凪は彼を知らないし親しくなる理由もない。そっと静かにカーテンを閉めて黙って布団にもぐりこむ。やがてどろりとした身体の怠さが優凪を包み、そのまま眠りにつく。加瀬のことはそれだけで忘れたはずだった。
「体調が悪いんだって?」
「眩暈と、吐き気がちょっと」
「ああ、顔色悪いなあ。熱測ってみようか? とりあえずベッドに横になって。シャツとベルト、自分で緩められる?」
「はい、自分で出来まぁす……」
その言葉にもたつく手でボタンを外す。
高校一年生、市川優凪は怠い身体をベッドに横たわらせてため息をつく。この高校の保健室には全国でも珍しい男性養護教諭がいた。幸原透、数年前までは総合病院で看護師として働いていたが諸事情により転職したらしい。朝も夜もなかったからね、と彼は笑う。今は穏やかな日々が送れているのだろうか、まだ高校生の優凪には大人の世界は想像でしかわからない。
「次の授業単位やばくて、無理して出るか迷ってるんですよねえ」
「単位かあ、それも大事なんだけどでもあまり無理はして欲しくないんだ。市川くん最近調子悪いでしょ」
「はは、ちょっとだけですよお」
「ええ、ちょっとかなあ?」
怠そうな話し方に対して優凪の容姿は至極繊細でかわいらしい。例えればまるで少女のよう。色も白く色素が薄いのか髪も綺麗な薄い栗色で、大きな目に長いまつ毛、身長こそ平均程度はあるが痩せ型と言うよりも痩せすぎていて、彼を見るだけで庇護欲を刺激されるものもいる。
そのせいで裏では密かに彼は周りからお姫さまなんて呼ばれていた。優凪にとっては不名誉なあだ名でもあったが、親しい友人がいないからたまにどこかから漏れ出る同級生のひそひそ声でのその呼び方には何も言えず、ひとり複雑な感情を抱くだけだ。
体温計の電子音が鳴る。優凪がシャツの中に手を入れたその時保健室のドアが開いた。
「すみません、転びました」
背が高い。どこかで見たことのあるような、でも優凪は彼の名を知らなかった。しかし向こうは見覚えでもあるのかじっと優凪を見つめくちびるが動く、お姫さま……と。
「あれ、加瀬くんじゃないの。珍しいね、体育?」
「はい、ハードルで失敗しちゃって」
加瀬、と呼ばれたその人物はハーフパンツ姿で膝から出血しているようだった。自分の血はどうも思わないのに他人のそれは痛々しい。
「市川くんはちょっと待っててね。加瀬くん、傷、消毒しようか」
体温計を持ったまま優凪はとりあえず沈黙する。熱はない、それほど重症ではなさそうだった。一方で幸原は加瀬を座らせて傷の手当てを始める。
「加瀬くんの記録、まだ抜かれていないね。さすが中学で全国大会に行った実力は違うなあ」
「いえ、最近伸び悩んでて、陸上の難しさを実感しています。先生にはまだ追いつけそうにありません」
「私に? あっはは、もう十年も昔のことだよ? 大学駅伝に出たと言っても私はもともと補欠で、あの年準優勝したのもチームに実力者が多かっただけだ。運が良かったとしか言いようがない。比べるならきっと君の方がいい選手だ」
陸上……駅伝? 部活のことだろうか。加瀬は背が高いが引き締まって筋肉質な、それでも適度に痩せた体格。マラソン選手によく見るみたいな、と言うことは彼は陸上部か。記録がどうのと言っているところをみるとどうやらそれなりの選手な気がする。それだけの風格が彼にはあった。
幸原がガーゼを取りに行く、ふたりきりになった優凪と加瀬はじっと見つめあった。優凪は彼を知らない、だけど加瀬の視線はどこか熱さを感じてなんだか気まずくなってしまう。加瀬がふと、口を開いた。何事かと構えた優凪、しかしその時幸原が戻って来る。
「加瀬くん、ガーゼあてるよ」
「あ、はい」
加瀬は何を言おうとしたのだろうか。しかし優凪は彼を知らないし親しくなる理由もない。そっと静かにカーテンを閉めて黙って布団にもぐりこむ。やがてどろりとした身体の怠さが優凪を包み、そのまま眠りにつく。加瀬のことはそれだけで忘れたはずだった。
