入学式ですでにほとんど散っていた桜が、完全に散ったころ。新入生もそろそろ授業が始まる。今日の一限は現代文の授業。文系は不得手なのでちょっぴり憂鬱。
「今日、現代文の初めての授業じゃん?」
「おん。」
「何すんだろ」
「まずはガイダンスじゃね?」
「そっかぁ~」
「残念?」
「まさか。」
 筆箱の中身を出しては整えを繰り返す那衣(なぎ)の横で、ぼうっとそれを見つめながら言葉を交わす。
「はーい、じゃあみなさん席着いて~」
 見かけたことが、あるようなないような、とにかく、よくは知らない女性の先生が教室の前のドアから入ってくる。小脇には、恐らくプリント類の詰まったクリーム色のトートバッグ。じゃ、と那衣に小さく手を振り、席へ戻る。今になってぞろぞろとロッカーまで教材を取りに行く、主に男子生徒が何人か。
「今日は最初の授業だから許すけど、次回からは準備しておいてくださいね~。取りに行かせませんから。」
 それは……多分何気に最強の脅し。幸いにも、俺はきちんと机の上に教材を用意してから那衣の元へ行っていたので、問題なし。優等生、優等生。と思っていると、それに気付いたように那衣がこっちを見て、鼻で笑って肩をすくめた。ひでぇや。
「はい、じゃあまず簡単に自己紹介をしていきたいと思います。」
 それから、先生の名前、他に担当しているクラスの話、好きな食べ物……特に男子生徒は謎に盛り上がっている。先生が「なんか質問あるー?」と言ったときに、一人が手を挙げて「先生は彼氏いますか?」と訊いていた。中学生のときにもやっていたな、これ。「いま~す」と返ってきたときにはクラス中の男子がわちゃわちゃしだしていたし。隣の席の多田(ただ)も笑っていたから、それに巻き込まれるように俺も笑った。
 あ、多田はこのクラスになって一番最初に仲良くなったやつ。
「はい、じゃ!」
 クラスが一番うるさくなってきたところで先生の一声。す、と熱が冷めていくのがわかる。高校一年生なんて中学生に毛が生えたようなもんだろうけど、こういうところは変わったな、と思う。
「教科書一八ページ開いてください。さっそくなんですけどね、ここ読みます。後で配るプリントについて考えてもらいますから、気になるところがあったら目印とか付けながら聞いていてください。」
 初めて開くかったい教科書を、机の角をつかってこじ開ける。こういうのは開き始めが一番肝心なんだ。多田には「ガチやん」と笑われたけど。
 それから少し間を置いて、先生のはきはきした声が教室中に響く。やっぱり、こういうのは”国語の教師”という感じがする。はっきりした声で、抑揚が不自然でなくて心地よい。そうして優雅に音を聞いていると、途中でページをめくり、またページをめくり、そして少し経ってから先生の声が区切りをつけた。
「これは、——で有名な——先生がこの教科書のために書き下ろしたものらしいです。ということはね、高校一年生になった君たちへ向けて伝えたいことがあって作られたものってことです。」
 へえ、そりゃ贅沢。前から回ってくるプリントを受け取り、後ろに回す。プリントには二つの四角、とその上に文章。
『本文を通して、筆者が伝えたかったことを考えて書きなさい。』
 あるある。まあ、なんとなく読んで……あれ、難しいかもしれない、案外。これが中学と高校の差か。愛、愛をテーマにしている。それはわかる。恋との違いを語っている。それもわかる。けど……うぅん、いまいち綺麗にまとめられない。こう……言っていることはわかるけど、言葉に、きちんとした文章として答えるとなると……どうにも手が止まる。
「多分けっこう難しいと思うので、わからなかったらは飛ばして大丈夫です。わかる方から埋めていってください。」
 こりゃちょうどいい、ということで潔く二分の一を飛ばす。
『あなたの思う愛と恋の違いは何ですか。』
 ……おや、おやぁ。ええ……。この手の、「あなたの考えを答えなさい」系は苦手だ。え、だって、考えたことがない。そりゃ、その二つがまるで別ものだろうというのは流石にわかる。けど、違いを言葉にしろと言われると……なぁ。
「言葉にするのが難しかったら箇条書きでいいですよ~」
 神かな⁇ なぜ先生はさっきからずっと俺の欲しい言葉ばかりくれるんだ。エスパーか?
 シャーペンを持つ手に力を入れる。……けど、でも、結局わからないや。とりあえず上の段を埋めることにする。箇条書きでいいのなら、するする出てくる。魔法のように。もう、学校の七不思議に入っていい気がする。いや、学校じゃなくて高校生の、か? なんだっていいけど。
 とはいえ、それも終わればまたご対面なわけで、この問いに向き合わなければならない。
 愛と恋か……。愛は、家族とか友達とかに向けるもの。で、恋は好きな人に向ける感情。……かな。何だか違う感じ。もや、と腹の底で整然としない不快感が渦を巻く。そういう、誰に向けるものとか、そういうのってなんだか浅い気がするんだ。もっと深く……。
 こんな問いに真面目に答えようとするって馬鹿っぽい? けれど、どうにもこの問いが俺の心を掴んで離さないんだ。言葉にして表したいと腹が叫ぶ感じ。愉快に近い感覚がする。高校に入って一番最初の春、もう本当に頭の頭だ。だけど、俺は高校生活一番の感動を覚えたのではないかと思う。それくらい、俺はのめり込んでいた。思考すると、それに伴って勝手に手が動いていた。

「あ、じゃあ時間になっちゃったんで回収しまーす。」
 先生の声に突然、現実に引き戻された。顔を上げると、黒板の端の時計は授業終了の一分前くらいを示していた。
「なんかお前、めっちゃ集中してたね。」
 隣から肩をつつき、小声で。一応号令前だというのに、すっかり多田はリラックスして腕を伸ばしていた。
「や、なんか恋とかってアオハル~って感じじゃん? だからなんか、大事なことだなって。」
 キリッ、とキメて言うと、伸び切った笑いが返ってくる。
「きりーつ」
 日直の声にのろのろと立ち上がり、こっそりぐっと伸びる。
「れーい ありがとうございましたー」
 お辞儀はそこそこ、軽い足取りで迷いなく那衣の席へ。後ろから多田もついてくる。
「那衣はなんて答えた?」
「どっち?」
「下ぁ? 俺は——」
「お前ら、次の準備した?」
 代数の教材を抱え、向こうから天野(あまの)がやってくる。もちろん、真っ先にここへ来たのでまだである。しぶしぶ教室後ろのロッカーまで行き、教材を取り出し、自分の席まで持っていく。那衣の席へ戻ると、ちゃっかり那衣も準備を整えていた。
「そいや、大河(たいが)はどうなの?」
「俺? ……、……一緒にいて楽しい相手を”大切”って思う気持ちが”愛”で、どきどきする”好き”って感情が”恋”って答えた。」
「あ~なんかぽいかも」
 背中をつんつんと多田。ぽいってなんだよ、ちょっと笑ってたし。馬鹿にしてるな⁈ このやろ、お前のはどうなんだ!
「愛とは、相手やものごとを大切に思い、尽くそうとする気持ち、慈しむ心。恋とは、ずっとそばにいられない人に強く惹かれ、満たされない切ない気持ち。」
 ……辞書かな⁉
「まあ、実際見たし。」
「え、いつの間に?」
「授業前に、昨日に現代文だったクラスのやつから。」
「……地味にそれ、不正じゃね?」
 よく言った天野! まあ、細かく言うことじゃないけど、ずりい! 一方で多田は「まあまあまあ」と曖昧な返答で濁す。確信犯だ。
「てか活動範囲広いな。まだ入学から二週間くらいじゃん。」
「あ、それ。」
 椅子に座ったままの那衣の頭に、ずっしりと腕を組んで乗っける。
「ちょ、やめろ」
 そう言われちゃ、もっと力をかけたくなる。
「あ~単に同中ってだけ、お前らみたいに。お前らほど距離近くないけど。」
「そりゃぁ? 親友ですからぁ」
「誰がだよ! 重いっ!」
「照れ隠し~」
 頬をつっつけばうげぇという顔をされる。わぁひどい。まあ、これがいつものやり取りだよな~。これが俺らの仲ってやつ。俺は好きだけどな、楽しい。なんだかんだ那衣もそうだと思う。本気で嫌がられたことはないし、なんだかんだこうやって中学の三年間もいたわけだし。
「なあ、帰りどっか寄らね?」
「どっかってどこ?」
「どっか。」
 那衣からのお誘い。適当言っちゃってさ、どうせ甘いもんだろ、わかってんの。多田も天野も、何度か声をかけたが毎度断られる。一応、今回もアイコンタクトで誘うけれど、首を横に振られる。なんだろな。まだ部活始まっていないのに。
「何食いたいの?」
 那衣の頭の上だった腕を下ろしていき、那衣の首に引っ掛けて後ろからスマホをのぞく。
「近くにクレープあるらしいの。行くしかないだろ」
「そ?」
 笑って揺れた声に、那衣は不貞腐れた面持ちで手刀を食らわせてくる。
「クレープあるからって行くしかないってのは那衣だからだろ。な。」
 ……多田と天野の二人に振ったんだけれど……どちらからも反応がない。嫌な予感がして顔を上げると……やっぱり、いつの間に離れて二人だけで話している。あ、や、俺たちが二人で話していたからか。なら、そうだな。
「大河も食う?」
 那衣の声に、そっちへまた戻る。
「うん、そりゃもちろん。」
「いつもありがとな」
「ん?」
「わざわざスイーツ付き合ってくれて、一緒に食ってくれて。」
 なにそれ、照れる……。つか、あー……はず。顔、熱くなってきた。やべ、離れよ。
「当たり前すぎ、お前と食いてーだけだし。」
 それだけ言って残し、俺は唐突に「じゃ」と別れを告げ、席へ引っ込んでいった。那衣はそんな俺に戸惑っていた気がする。視界の端にちょっと見えただけだたから、わからないけど。顔は、多分見られていない。……いない、よな?
 席に着き、俯きがちに頬をむにむにいじる。だって、絶対変な顔してた。そんな露骨なもんじゃないだろうけどさ、多分、ちょっとは変。
 くそう、くそう。親友だ、俺たちは親友だ。何度も自分にはそう言い聞かせてきたんだけどな。ときどき言葉にして、すると那衣に拒否されるまでが一連の流れ。意味ないよな、何度繰り返したって、皮被せたって、中身はずっと手付かずなんだ。

 遅くなりました、今更だけれど自己紹介。
 紫芝大河、十五歳、男。身長は——ってのは置いといて、さっさと結論を言ってしまえば、俺は那衣に恋をしている。