前回の夜の密会から三日が立つ。今日は金曜日。合図とやらはこの三日間皆無だった。ベットから身を起こし一階へと向かう。この二回の密会で分かったことは美月さんと美月は別人ということ、それに狂気を孕む魔性の女性だということ。あの空間を強制的に捻じ曲げるようなオーラに、冷たくも甘い香水のような匂い、あの場所に彼女がいたという事実が色濃くいつまでも残っているような感覚。そして一番の謎は美月は何かを隠しているということ。二回目の夜の会に僕を誘うように挑発してきたこと、僕にだけ仮面を剥いだ姿を見せること。まるで僕とあの夜の屋上に会うことに何かしらの意味を美月自身が感じていて、僕にだけあの姿を見せることで自分をさらに引き出せると思ったのか。
いつもの日常が、静かに、けれど決定的に壊れ始めていた。
自分が体験したあの出来事は、本当に現実だったのだろうか。それとも、日頃の孤独と疲労が見せた歪んだ白昼夢だったのか。夢と現実の境界線がひどく曖昧なまま、僕は重い身体を起こし、いつものように機械的に身支度を整えて家を出た。
朝の通学路は、いつもと何も変わらない。
太陽の光が無遠慮に街を照らし、アスファルトの熱気が揺れている。電線にとまったカラスの鳴き声、遠くを走る電車の踏切の音、そして同じ制服を着た生徒たちの足音。
けれど、僕の目を通す世界は、どこか一枚の薄いフィルムを挟んだように色を失っていた。街の喧騒も、生徒たちの笑い声も、すべてが遠い世界の出来事のように響く。
学校の敷地に入り、昇降口へ近づくにつれて、そのノイズは波のように密度を増していく。
古い木製の靴箱の前で上履きに履き替えると、湿気を含んだ木の匂いと、誰かが撒いた甘ったるい制汗スプレーの香りが混ざり合った、学校特有の息が詰まる空気が肺を満たした。これもいつも通り。
「おはよう!」
「昨日のドラマ見たー?」
「マジでヤバい、課題終わってないんだけど!」
無邪気で、無意味で、幸福な日常の会話。
普段なら、僕はそれらの音をただの雑音(BGM)として処理し、自らを風景の一部――何の色も持たない背景として消し去ることで、己の平穏を守ってきた。
けれど、教室の引き戸を開けた瞬間、その静かな諦念はあっけなく粉砕された。
「美月さーん! 今日の放課後、カラオケ行こうよ!」
「あはは、ごめんねー! 今日もちょっと先約があってさ。今度絶対行こ!」
教室の最前線、太陽の光が最も強く降り注ぐ窓際の席。その中心で、花が咲いたような完璧な笑顔を振りまいている少女がいた。
瀬戸美月。
クラスの真ん中で、光を独占するように輝く絶対的な一軍ヒロイン。
制服の衿元のくずし方ひとつ、前髪をかき揚げる指先の仕草ひとつとっても、計算し尽くされた可憐さがある。男子たちの下品な冗談には鈴を転がすような愛想笑いで返し、女子たちの輪の中では気さくで優しい理想の友人を演じきっている。
青白い月光の下で「ぜーんぶ私の演技」と囁いていた、あのか細く壊れそうな少女の面影は、どこを探しても見当たらなかった。
胸の奥をじりじりと焼くような不快感と、冷めた焦燥感を抱えながら、僕は一番後ろの自分の席へと歩を進める。
誰も僕のことなど見ていない。僕もまた、誰も見ない。いつも通りの、無味乾燥な学校生活のはずだった。
昨日も一昨日も同じ日常のはずなのに、この胸の焦燥感は何だろう、、
見慣れた景色に見慣れた動き、なのにいつもとは違うような、この刺激は僕の人生にとって必要な気がする。
観測者としてのこの今の人生に無意識に刺激を求めてしまっていたのかもしれない。
これこそが僕の素なのかはわからないが仮面を被っている事実だけはわかった。
鞄を机の横にかけ、第一限の授業の準備をしようと引き出しに手を突っ込んだ、その時だった。
指先に、カサリと不揃いな紙片の感触が触れた。
……?
引き出してみると、それは昨日の数学の小テストの解き直しプリントの端を、無造作に破り取った小さなメモ切れだった。
折り畳まれたそれを解くと、そこには彼女の几帳面で整った筆跡で、たった一行だけ、こう記されていた。
『今夜、満ちる前の月が綺麗だよ』
心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
思わず視線を上げる。
教室の真ん中で、女子グループの中心にいた美月が、ほんの一瞬――コンマ数秒だけ、こちらへ視線を滑らせていた。
その瞳の奥にあったのは、クラスメイトたちに向けられている優等生の笑顔ではない。
昨夜の屋上と同じ。すべてを見透かし、僕の平穏を嘲笑うような、冷たい狂気。
彼女は僕と目が合うと、誰にも気づかれないほど微かに唇の端を吊り上げ、すぐに何事もなかったかのように友達との会話へと戻っていった。
背筋に、ゾクッとした冷たい鳥肌が走る。
教室という空間。誰もが彼女に群がり、彼女という太陽の周りを無邪気に回っているこの滑稽な舞台の上で、僕だけが彼女の裏側のコードを受け取っている。
自分を風景と同化させて生きてきたはずの僕が、彼女の気まぐれな罠によって、強制的に共犯者の舞台へと引きずり降ろされていく。
その異常な優越感と、底知れない不気味さに、僕の手指は微かに震えていた。
いつもの日常は、もうどこにも存在しなかった。
一限のチャイムが、重苦しく教室に響き渡った。
教卓に立った国語教師が、黒板に白粉を撒き散らしながらチョークを走らせる。カツカツという無機質な音が、静まり返った教室に規則正しく刻まれていく。
周囲のクラスメイトたちは、退屈そうに頬杖をついて窓の外の若葉を眺めたり、教師の目を盗んでスマホを弄ったり、必死に眠気と戦ったりしている。
いつもなら、僕もその退屈な空気の一部になりきっていたはずだった。
教科書の隅に無意味な落書きをし、思考を半ば麻痺させ、ただ放課後という終わりの時間が訪れるのを待つだけの透明な存在。
けれど、今の僕の意識は、教科書に並ぶ文章をすべり落ち、ただ指先に残るあのメモ切れの感触と、そこに書かれた今夜という二文字だけに支配されていた。
(何のために、こんな真似をした?)
チラリと、前方へ視線をやる。
美月の背中は、少しの隙も見せずにまっすぐに伸びていた。教師の問いかけに完璧なタイミングで頷き、ノートにペンを走らせるその姿は、どこからどう見ても真面目で可憐な女子生徒そのものだ。
誰も気づいていない。
隣の席の男子も、後ろの席の女子も、教壇に立つ教師でさえも。
いま自分たちが受けている授業のすぐ目と鼻の先で、あの一軍のヒロインが、クラスで最も陰薄い男の引き出しに秘密の暗号を忍ばせたことなんて。
世界から取り残されたような錯覚と、自分だけが彼女の本当の姿――あの底知れない闇を知っているという歪んだ全能感が、胸の奥でドロドロと混ざり合っていく。
二限の国語、三限の英語、四限の物理。
時間は淡々と、けれど確実に過ぎていった。
僕の思考はずっと過熱したままで、ノートに取った文字は自分でも読めないほど乱れていた。
「――はい、じゃあ今日ははここまで。昼休みに入ってください」
四限終了のチャイムとともに、 教室 は一気に爆発したような喧騒に包まれた。
「美月ちゃん、一緒にお弁当食べよー!」
「うん! 今日の玉子焼き、ちょっと失敗しちゃったんだけど食べてくれる?」
美月は可愛らしく首をかしげながら、色鮮やかな弁当箱を取り出した。たちまち彼女の周りには人が集まり、華やかな輪が形成される。
僕は購買で買ってきた、パサついた焼きそばパンの袋を静かに破り、自分のデスクで黙々と口に運んだ。
咀嚼するたびに、パサついたパン生地が喉に突っかかる。味がしない。
すぐ目の前で繰り広げられているのは、徹底された演劇だ。
彼女の笑顔、声のトーン、相槌の打ち方。そのすべてが、周囲の人間が求めている瀬戸美月というアイコンを完璧に満たすために計算されている。
(狂ってる……)
そう思いながら、ふと気づく。
狂っているのは彼女だけだろうか。
その嘘にまんまと騙され、彼女という太陽の光を浴びて気持ちよさそうに笑っているクラスメイトたちも、そしてその完璧な演技の裏側に魅せられ、目を離せずにいる僕自身も、等しく狂っているのではないか。何度もあれを演技だと嘲るのは無理な話なのかもしれない。以前の美月の発言を思い出す。
「クラスで目立たないように、誰の記憶にも残らないように背景のふりをしているそれ。傷つかない場所から人を観察して、分かったような気になってるそれ。……それだって、立派な仮面じゃない?」
僕のこの視点は仮面なんだ。みんなこの社会を生きるのに必死なんだ。仮面を被らなければこの日本では生きていくことはできない。
みんなそれを知っているんだ。いつからだろうか、この世界が暗いと感じるようになったのは。
窓の外を眺める。風に揺れる木々は蒼汰の心に賛同しているようだった。
昼休みが終わり、午後の授業が始まり、やがて放課後を告げる終わりのチャイムが鳴り響いた。
「じゃあなー、部活行ってくる!」
「バイバーイ、また明日ね!」
生徒たちがゾロゾロと教室を去っていく。夕陽が斜めに差し込み、誰もいなくなった教室の机と椅子が長い影を床に落とし始める。
美月もまた、友人たちに手を振りながら、一度も僕の方を振り返ることなく教室を出て行った。
残されたのは、僕と少し離れたところに女子の三人グループが一つ形成され、三人は雑談に花を咲かせていた
その子らの声以外は聞こえない静まり返った教室で、僕はもう一度ポケットからあのメモ切れを取り出し、指先でギュッと握りしめた。
確かめなければならない。
彼女が僕に何を求めているのか。
僕をどう壊そうとしているのか。
そして――あの冷たい月光の下でしか息ができない彼女の本当の顔を。
カバンを肩にかけ、僕は一人、放課後のはじまりと同時に訪れる夜を待ち始めた。
――一度、家に帰ろう。
こんな場所に留まっていたら、頭がおかしくなりそうだった。冷たい水道水で顔を洗い、自分の部屋という安全地帯に戻れば、あのアホらしいメモのことなんて忘れて、いつもの背景としての平穏を取り戻せるはずだ。そう自分に言い聞かせながら、急ぎ足で下校路を辿った。
夕暮れの街を歩き、家の玄関をくぐる。
家族に短く声をかけ、自分の部屋に入り、重い扉を閉める。制服のポケットから握りつぶしたメモを取り出し、机の上にぽんと放り投げた。
ベッドに倒れ込み、天井の模様を眺める。
静かだった。部屋にはエアコンの低い稼働音と、僕の不規則な息遣いしか存在しない。いつもの、慣れ親しんだ無機質な日常。
(……行かなきゃいいだけの話だ)
あんな気まぐれなメモに付き合う必要なんてない。僕と彼女は関わるべきじゃない。学校という舞台の主演と背景。交わるはずのない二人が、夜の屋上で顔を合わせるなんて異常だ。無視して寝てしまえば、明日にはまたあの完璧で退屈な日常が続いていく。
そう思って目を閉じる。
――だが、暗闇の中で浮かんできたのは、部屋の静寂ではなく、昨夜の屋上で見たあの瞳だった。
狂気を孕んだ、真空のような冷たい瞳。
『ぜーんぶ私の演技』と囁いた掠れた声。
息が詰まる。
机の上に放り投げた小さな紙片が、まるで生き物のように僕を嘲笑っている気がした。冷たい水道水で顔を洗っても、胸の奥でくすぶる熱い不快感と焦燥感は一向に消えてくれない。
(確かめなければ、僕の平穏は戻らない――)
結局、僕は自分を誤魔化しきれなかった。結局僕が求めているのは退屈な日常なんかではなかった。
退屈ではないとしたら刺激的な人生を求めているのだろうか。
時計の針が夜の九時を回った頃。母が静まり返ったのを見計らい、僕は足音を殺して部屋を抜け出した。夜の冷たい空気が、火照った頬を撫でる。私服の上に羽織った薄手のパーカーのポケットに手を突っ込み、暗闇に包まれた通学路を、今度は自分自身の意志で引き返していった。
昼間の喧騒が嘘のように消え去った夜の学校は、まるで巨大な生き物の死骸のようだった。
施錠された裏門の隙間をすり抜け、忍び足で校舎の裏手へと回る。非常階段の前に立ち、暗がりの中で冷たい手すりを握りしめた。
踏み出す一歩ごとに、スニーカーが金属のステップを叩く乾いた音が夜の静寂に響く。
一段、また一段。
街灯の光も届かない闇を上り詰め、屋上へと続く重い鉄の扉の前に立った。
隙間からヒュウヒュウと冷たい夜風が吹き抜ける低い音が聞こえてくる。
汗ばんだ手で錆びついた金属のハンドルを握りしめ、体重をかけて一気に押し下げた。
ギギギ……と鈍い金属音を立てて、扉が開く。
その瞬間、冷気を含んだ夜風が正面から吹きつけ、僕の前髪を激しく煽った。
視界が開けた先――そこは、青白い月光のカーテンに満たされた屋上だった。
コンクリートの床の中央。体育座りの姿勢で夜空を見上げている少女のシルエットがあった。
あの時のままだった。最初美月と話したあの夜の会と。
私服に着替えてきた僕とは違い、彼女は学校の制服のままだった。ただし、ブレザーは脱ぎ捨てられ、白いブラウスの袖を少しだけ捲り上げている。
昼間、クラスの真ん中で太陽の光を独占していた一軍の美月さんの煌びやかさは完全に削ぎ落とされ、そこには今にも月光の中に溶けて消えてしまいそうなほど、透明で脆い何かが座っていた。
扉が開いた重い音に、彼女はゆっくりと首を巡らせた。
「……本当に来たんだ」
月光を浴びた美月の琥珀色の瞳が、夜の闇の中で怪しく揺らめく。
その薄い唇が、昨夜と同じ、すべてを見透かすような冷ややかな微笑みを象った。もちろん彼女が座っているのは理解していた。やはり昼とのギャップが強すぎて座っている人が一瞬誰かわからなかった
「……一度家に帰ったのに、わざわざ戻ってきてくれたんだね。約束を守る、いい子だね。蒼汰」
昼間の「クラスメイト」としての距離感をあっさりと投げ捨て、彼女は僕の名を呼ぶ。
一度家に帰ったことまで見透かされているようなその口ぶりに、背筋がヒヤリと冷えた。
「……あのメモは何なんだよ」
僕は努めて冷静なトーンを保ちながら、コンクリートを踏みしめて数歩前に踏み出した。
「教室であんな真似して……誰かに見られたらどうするつもりだ。僕と君が関わってるなんて噂が立ったら、君のあの完璧な『日常』が壊れるぞ」
「見られないよ」
美月は即座に言い切った。その声には、微かな嘲笑が混ざっている。
「だってあいつらは『完璧な美月さん』しか見てないもん。背景と同化してる蒼汰と、私があとでここで落ち合ってるなんて……誰も、逆立ちしたって想像すらしないよ」
彼女はくすくすとお腹を抱えるようにして笑うと、自分の隣の冷たいコンクリート床を、小さな手でポンポンと叩いた。
「そんなところで立ちすくんでないで、座りなよ。今日の月……すごく冷たくて、綺麗だよ」
☆錆びついた屋上の重い扉を背にして、僕たちはどちらからともなく「ちょっと下に降りてみない?」と、暗い校舎へ探検に出かけることにした。
昼間なら、学校という場所は僕たちを明確に隔てる残酷な檻だ。カーストの頂点に君臨する一軍の美月と、日陰の底で息を潜める僕。けれど、すべての光が引き揚げた夜の校舎は、僕たち二人だけのものだった。
運動靴から履き替えたスリッパの底が、リノリウムの床を擦るかすかな音が、やけに鼓膜を震わせる。
静まり返った校舎では、自分の心臓の音すら美月に聞こえてしまうのではないかと錯覚し、胸の奥が不自然に弾んだ。一歩進むたびに、夜の冷気が靴底を通して足の裏からじわじわと体温を奪っていく。
階段を下り、長い廊下を歩く。昼間は何百人もの生徒が行き交うその通路は、今や深海の底に沈んだ回廊のように不気味で、同時に狂おしいほどに神秘的だった。
たどり着いたのは、僕たちの教室だった。
ガラ、と音を立てないように引き戸を開けると、鼻腔を突いたのは昼間の熱気の残り香だった。クラスメイトたちの汗や制服の柔軟剤、チョークの粉の匂いが、夜の冷たい空気と混ざり合って、澱のように床に沈んでいる。
月光が差し込む窓際の席だけが、まるで劇場の舞台のように白銀に発光していた。
「昼間の私はここに座って、ずっと演技してるんだよ」
美月は、昼間なら僕が近づくことすら許されない一軍の特等席――彼女自身の机の上に、ふわりとローファーを滑らせて腰掛けた。
影になって、彼女の表情はよく見えない。けれど、組み替えられた彼女の細い足首が、僕の制服の袖に触れそうなほど近くで揺れていた。昼間の彼女の残像が、目の前にいる夜の美月のしなやかさに、静かに上書きされていく。
「……本当の美月は、ここにいないみたいだね」
僕がぽつりと呟くと、彼女は小さく喉を鳴らして笑った。その笑い声すら、昼間の高いトーンとは違い、夜の闇に深く吸い込まれていく。
交わることのないはずの場所で、僕たちはしばらく言葉をなくし、月光に照らされた無人の教室を見つめていた。胸を締め付けるような背徳感と、奇妙な全能感が、僕たちの呼吸を少しずつ速めていく。
「ねえ、ちょっと喉渇かない?」
美月が机から飛び降りた。ローファーが床を叩く小さな音が、静寂に波紋を広げる。
僕たちは教室を後にし、さらに奥の薄暗いピロティへと向かった。
闇の隅で、自動販売機だけがまるで深海の巨大な発光生物のように、怪しく青白い蛍光灯の光を放っている。美月が小銭を入れると、チャリン、という金属音が鋭く夜を切り裂いた。
ボタンを押した瞬間、ガコン、と腹に響くような重低音でお茶のペットボトルが落ちてきた。
「はい、蒼汰の分」
手渡されたペットボトルは、痛いほどに冷えていた。表面に結露した水滴が指先を濡らし、ぽたぽたと床に滴り落ちる。
キャップをひねると、プシュ、と微かな音が静寂に溶けた。一口含むと、冷たい緑茶の苦味が、緊張と興奮で渇ききっていた喉をじりじりと潤していく。美月はそのボトルを自分の火照った頬にわざと押し当てて、「つめたっ」と悪戯っぽく身を震わせた。その些細な仕草ひとつに、僕は目を奪われてしまう。
「……そろそろ、上に戻ろっか」
スリル満点の探検を終え、僕たちは再び屋上へと戻ってきた。
そこには、僕たちを閉じ込める壁も天井もなかった。世界がすべて色を失い、モノクロームのグラデーションだけで再構成されたような夜。天空に君臨する月は、狂おしいほどの白銀の光をコンクリートの床に焼き付けている。
心地よい疲労感と興奮の余韻のなかで、僕たちは並んで床に腰を下ろした。
静寂が完全に戻ってきたところで、僕は、ずっと胸の奥で温めていた言葉を口にした。
「月は、夜を照らしてくれる存在だよね」
「……ん?」
「一見きれいだし、みんなが視認できていて、注目も集まりやすい。なんたって夜のシンボルだからね。でも、月は決して裏側を見せることはない。その二面性が、美月なんだと思う。太陽で同じことを語れないのは、そういうことなんだろうな。だから僕は、月を美月に重ね合わせてしまうんだと思う」
僕の言葉を聞いた美月は、お茶のペットボトルを床に置くと、ふっと小さく自嘲気味に笑った。
「二面性ねー……」
彼女はしなしなとした細い両手の指を丸めて小さな筒を作ると、それを右目に当てて月を覗き込んだ。実際には何も拡大なんてされない、ただの手製の頼りない望遠鏡。
視界から余計な夜を切り落とし、ただ一つの月だけを閉じ込めるようなその仕草のまま、彼女は諦めの表情で、淡々と語り始めた。
「私だって、本当の自分をさらけ出したいさ。でも、それを許してくれないんだ。周りがね」
手作りの望遠鏡を覗いたまま、彼女の声が夜の空気にほどけていく。
「『普通』に囚われた今の人間には、よっぽどの変わり者でない限り、さらけ出すことなんてできないんだよ。だから私は、ずっと個性を出すことのできない『暗闇の人間』だと思ってた。そんな私を、あの光り輝く月だと形容してくれたことは、とても嬉しいかな」
美月はゆっくりと手を下ろし、僕の方を振り返った。その小さな覗き穴から解き放たれた彼女の瞳は、琥珀色の光を吸い込んで、壊れたガラス細工のようにきらきらと揺れている。
「ただ、暗闇しか存在しない夜という不思議な時間帯が成り立つのは、やっぱり月があるからだよね。月によって、物の輪郭がうっすらと確認できるんだもん。そういう、夜ならではの『淡さ』みたいなものに、みんな無意識に惹かれているんだと思う」
物の輪郭を曖昧にする、夜の淡さ。
諦めを孕んだそのしなやかな横顔を見つめながら、僕は、喉の奥が引き締まるような切なさを覚えていた。彼女の秘密に触れたい。いや、この夜の淡さの中に、ずっと二人で溺れていたいと、強く願ってしまっていた。
「美月はこの月ってどう思う?」
美月は再び前を向き月を見上げる。
「蒼汰が言ったように決して裏側を見せることはないし月って恒星じゃないから自らが光を発してるわけではないよね。太陽の光を反射してみんなの言う月に化けているんだ。太陽っていう自然のスポットライトが当たって光輝くようにしてくれてる。皆には完璧な美月さんに見えるけど常に美月という裏側も隣り合わせているんだ。そう考えると月って私なんだなって思う」
「もし月が太陽の光を反射するのをやめたら、ただの暗闇の塊に戻る。私も同じ。演技をやめたら、何もない空っぽな人間になっちゃうんだよ。……ねえ蒼汰、それでも君は、この空っぽな月の中身が知りたい?」
月光の下で妖しく揺れる彼女の微笑み。それは、僕が必死に隠してきた孤独と絶望の輪郭を、冷たい指先でそっとなぞられるような、甘美で恐ろしい誘惑だった。
「月はね、毎日形を変えるんだよ。欠けたり、満ちたり、時には新月みたいに完全に姿を消したりする。……なのに、クラスのみんなが私に求める『瀬戸美月』は、一年中ずっと満月のままでいなきゃいけない。欠けることも、暗闇に隠れることも許されない。それって、月にとっても人間にとっても、一番不自然で苦しいことなんだよ」
美月の言葉は、甘い毒のように僕の鼓膜から脳の奥へと浸透していった。
「……空っぽなんかじゃないよ」
僕はゆっくりと首を振った。考えなしに言葉を出す。冷えたお茶を固く握りしめながら、彼女の琥珀色の瞳をまっすぐに見つめ返す。
「昼間の太陽は傲慢だ。世界を隅々まで照らし出して、僕たちに『正しさ』や『立ち位置』を押し付けて境界線を作る。……でも、月の光は違う。色の違いも、クラスのカーストも、僕たちの間の境界線も、全部同じ夜の影の中に溶かしてくれる」
風が吹き抜け、彼女のブラウスの裾を揺らした。美月は息を呑み、言葉を失ったように僕を見つめている。
「満ち欠けを無視して、ずっと眩しい満月でいることを強制されるのが昼間の学校なら……ここでの美月は、新月みたいに姿を消したっていいんだ。みんなは太陽の光を反射した表側の『美月さん』しか見ないかもしれない。でも、誰も見ようとしないその冷たい裏側(暗闇)こそが、僕にとっては本物の美月だよ。……空っぽな月の中身なら、なおさら知りたい。僕も同じように、昼間は空っぽな背景として生きているんだから」
いつもの日常が、静かに、けれど決定的に壊れ始めていた。
自分が体験したあの出来事は、本当に現実だったのだろうか。それとも、日頃の孤独と疲労が見せた歪んだ白昼夢だったのか。夢と現実の境界線がひどく曖昧なまま、僕は重い身体を起こし、いつものように機械的に身支度を整えて家を出た。
朝の通学路は、いつもと何も変わらない。
太陽の光が無遠慮に街を照らし、アスファルトの熱気が揺れている。電線にとまったカラスの鳴き声、遠くを走る電車の踏切の音、そして同じ制服を着た生徒たちの足音。
けれど、僕の目を通す世界は、どこか一枚の薄いフィルムを挟んだように色を失っていた。街の喧騒も、生徒たちの笑い声も、すべてが遠い世界の出来事のように響く。
学校の敷地に入り、昇降口へ近づくにつれて、そのノイズは波のように密度を増していく。
古い木製の靴箱の前で上履きに履き替えると、湿気を含んだ木の匂いと、誰かが撒いた甘ったるい制汗スプレーの香りが混ざり合った、学校特有の息が詰まる空気が肺を満たした。これもいつも通り。
「おはよう!」
「昨日のドラマ見たー?」
「マジでヤバい、課題終わってないんだけど!」
無邪気で、無意味で、幸福な日常の会話。
普段なら、僕はそれらの音をただの雑音(BGM)として処理し、自らを風景の一部――何の色も持たない背景として消し去ることで、己の平穏を守ってきた。
けれど、教室の引き戸を開けた瞬間、その静かな諦念はあっけなく粉砕された。
「美月さーん! 今日の放課後、カラオケ行こうよ!」
「あはは、ごめんねー! 今日もちょっと先約があってさ。今度絶対行こ!」
教室の最前線、太陽の光が最も強く降り注ぐ窓際の席。その中心で、花が咲いたような完璧な笑顔を振りまいている少女がいた。
瀬戸美月。
クラスの真ん中で、光を独占するように輝く絶対的な一軍ヒロイン。
制服の衿元のくずし方ひとつ、前髪をかき揚げる指先の仕草ひとつとっても、計算し尽くされた可憐さがある。男子たちの下品な冗談には鈴を転がすような愛想笑いで返し、女子たちの輪の中では気さくで優しい理想の友人を演じきっている。
青白い月光の下で「ぜーんぶ私の演技」と囁いていた、あのか細く壊れそうな少女の面影は、どこを探しても見当たらなかった。
胸の奥をじりじりと焼くような不快感と、冷めた焦燥感を抱えながら、僕は一番後ろの自分の席へと歩を進める。
誰も僕のことなど見ていない。僕もまた、誰も見ない。いつも通りの、無味乾燥な学校生活のはずだった。
昨日も一昨日も同じ日常のはずなのに、この胸の焦燥感は何だろう、、
見慣れた景色に見慣れた動き、なのにいつもとは違うような、この刺激は僕の人生にとって必要な気がする。
観測者としてのこの今の人生に無意識に刺激を求めてしまっていたのかもしれない。
これこそが僕の素なのかはわからないが仮面を被っている事実だけはわかった。
鞄を机の横にかけ、第一限の授業の準備をしようと引き出しに手を突っ込んだ、その時だった。
指先に、カサリと不揃いな紙片の感触が触れた。
……?
引き出してみると、それは昨日の数学の小テストの解き直しプリントの端を、無造作に破り取った小さなメモ切れだった。
折り畳まれたそれを解くと、そこには彼女の几帳面で整った筆跡で、たった一行だけ、こう記されていた。
『今夜、満ちる前の月が綺麗だよ』
心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
思わず視線を上げる。
教室の真ん中で、女子グループの中心にいた美月が、ほんの一瞬――コンマ数秒だけ、こちらへ視線を滑らせていた。
その瞳の奥にあったのは、クラスメイトたちに向けられている優等生の笑顔ではない。
昨夜の屋上と同じ。すべてを見透かし、僕の平穏を嘲笑うような、冷たい狂気。
彼女は僕と目が合うと、誰にも気づかれないほど微かに唇の端を吊り上げ、すぐに何事もなかったかのように友達との会話へと戻っていった。
背筋に、ゾクッとした冷たい鳥肌が走る。
教室という空間。誰もが彼女に群がり、彼女という太陽の周りを無邪気に回っているこの滑稽な舞台の上で、僕だけが彼女の裏側のコードを受け取っている。
自分を風景と同化させて生きてきたはずの僕が、彼女の気まぐれな罠によって、強制的に共犯者の舞台へと引きずり降ろされていく。
その異常な優越感と、底知れない不気味さに、僕の手指は微かに震えていた。
いつもの日常は、もうどこにも存在しなかった。
一限のチャイムが、重苦しく教室に響き渡った。
教卓に立った国語教師が、黒板に白粉を撒き散らしながらチョークを走らせる。カツカツという無機質な音が、静まり返った教室に規則正しく刻まれていく。
周囲のクラスメイトたちは、退屈そうに頬杖をついて窓の外の若葉を眺めたり、教師の目を盗んでスマホを弄ったり、必死に眠気と戦ったりしている。
いつもなら、僕もその退屈な空気の一部になりきっていたはずだった。
教科書の隅に無意味な落書きをし、思考を半ば麻痺させ、ただ放課後という終わりの時間が訪れるのを待つだけの透明な存在。
けれど、今の僕の意識は、教科書に並ぶ文章をすべり落ち、ただ指先に残るあのメモ切れの感触と、そこに書かれた今夜という二文字だけに支配されていた。
(何のために、こんな真似をした?)
チラリと、前方へ視線をやる。
美月の背中は、少しの隙も見せずにまっすぐに伸びていた。教師の問いかけに完璧なタイミングで頷き、ノートにペンを走らせるその姿は、どこからどう見ても真面目で可憐な女子生徒そのものだ。
誰も気づいていない。
隣の席の男子も、後ろの席の女子も、教壇に立つ教師でさえも。
いま自分たちが受けている授業のすぐ目と鼻の先で、あの一軍のヒロインが、クラスで最も陰薄い男の引き出しに秘密の暗号を忍ばせたことなんて。
世界から取り残されたような錯覚と、自分だけが彼女の本当の姿――あの底知れない闇を知っているという歪んだ全能感が、胸の奥でドロドロと混ざり合っていく。
二限の国語、三限の英語、四限の物理。
時間は淡々と、けれど確実に過ぎていった。
僕の思考はずっと過熱したままで、ノートに取った文字は自分でも読めないほど乱れていた。
「――はい、じゃあ今日ははここまで。昼休みに入ってください」
四限終了のチャイムとともに、 教室 は一気に爆発したような喧騒に包まれた。
「美月ちゃん、一緒にお弁当食べよー!」
「うん! 今日の玉子焼き、ちょっと失敗しちゃったんだけど食べてくれる?」
美月は可愛らしく首をかしげながら、色鮮やかな弁当箱を取り出した。たちまち彼女の周りには人が集まり、華やかな輪が形成される。
僕は購買で買ってきた、パサついた焼きそばパンの袋を静かに破り、自分のデスクで黙々と口に運んだ。
咀嚼するたびに、パサついたパン生地が喉に突っかかる。味がしない。
すぐ目の前で繰り広げられているのは、徹底された演劇だ。
彼女の笑顔、声のトーン、相槌の打ち方。そのすべてが、周囲の人間が求めている瀬戸美月というアイコンを完璧に満たすために計算されている。
(狂ってる……)
そう思いながら、ふと気づく。
狂っているのは彼女だけだろうか。
その嘘にまんまと騙され、彼女という太陽の光を浴びて気持ちよさそうに笑っているクラスメイトたちも、そしてその完璧な演技の裏側に魅せられ、目を離せずにいる僕自身も、等しく狂っているのではないか。何度もあれを演技だと嘲るのは無理な話なのかもしれない。以前の美月の発言を思い出す。
「クラスで目立たないように、誰の記憶にも残らないように背景のふりをしているそれ。傷つかない場所から人を観察して、分かったような気になってるそれ。……それだって、立派な仮面じゃない?」
僕のこの視点は仮面なんだ。みんなこの社会を生きるのに必死なんだ。仮面を被らなければこの日本では生きていくことはできない。
みんなそれを知っているんだ。いつからだろうか、この世界が暗いと感じるようになったのは。
窓の外を眺める。風に揺れる木々は蒼汰の心に賛同しているようだった。
昼休みが終わり、午後の授業が始まり、やがて放課後を告げる終わりのチャイムが鳴り響いた。
「じゃあなー、部活行ってくる!」
「バイバーイ、また明日ね!」
生徒たちがゾロゾロと教室を去っていく。夕陽が斜めに差し込み、誰もいなくなった教室の机と椅子が長い影を床に落とし始める。
美月もまた、友人たちに手を振りながら、一度も僕の方を振り返ることなく教室を出て行った。
残されたのは、僕と少し離れたところに女子の三人グループが一つ形成され、三人は雑談に花を咲かせていた
その子らの声以外は聞こえない静まり返った教室で、僕はもう一度ポケットからあのメモ切れを取り出し、指先でギュッと握りしめた。
確かめなければならない。
彼女が僕に何を求めているのか。
僕をどう壊そうとしているのか。
そして――あの冷たい月光の下でしか息ができない彼女の本当の顔を。
カバンを肩にかけ、僕は一人、放課後のはじまりと同時に訪れる夜を待ち始めた。
――一度、家に帰ろう。
こんな場所に留まっていたら、頭がおかしくなりそうだった。冷たい水道水で顔を洗い、自分の部屋という安全地帯に戻れば、あのアホらしいメモのことなんて忘れて、いつもの背景としての平穏を取り戻せるはずだ。そう自分に言い聞かせながら、急ぎ足で下校路を辿った。
夕暮れの街を歩き、家の玄関をくぐる。
家族に短く声をかけ、自分の部屋に入り、重い扉を閉める。制服のポケットから握りつぶしたメモを取り出し、机の上にぽんと放り投げた。
ベッドに倒れ込み、天井の模様を眺める。
静かだった。部屋にはエアコンの低い稼働音と、僕の不規則な息遣いしか存在しない。いつもの、慣れ親しんだ無機質な日常。
(……行かなきゃいいだけの話だ)
あんな気まぐれなメモに付き合う必要なんてない。僕と彼女は関わるべきじゃない。学校という舞台の主演と背景。交わるはずのない二人が、夜の屋上で顔を合わせるなんて異常だ。無視して寝てしまえば、明日にはまたあの完璧で退屈な日常が続いていく。
そう思って目を閉じる。
――だが、暗闇の中で浮かんできたのは、部屋の静寂ではなく、昨夜の屋上で見たあの瞳だった。
狂気を孕んだ、真空のような冷たい瞳。
『ぜーんぶ私の演技』と囁いた掠れた声。
息が詰まる。
机の上に放り投げた小さな紙片が、まるで生き物のように僕を嘲笑っている気がした。冷たい水道水で顔を洗っても、胸の奥でくすぶる熱い不快感と焦燥感は一向に消えてくれない。
(確かめなければ、僕の平穏は戻らない――)
結局、僕は自分を誤魔化しきれなかった。結局僕が求めているのは退屈な日常なんかではなかった。
退屈ではないとしたら刺激的な人生を求めているのだろうか。
時計の針が夜の九時を回った頃。母が静まり返ったのを見計らい、僕は足音を殺して部屋を抜け出した。夜の冷たい空気が、火照った頬を撫でる。私服の上に羽織った薄手のパーカーのポケットに手を突っ込み、暗闇に包まれた通学路を、今度は自分自身の意志で引き返していった。
昼間の喧騒が嘘のように消え去った夜の学校は、まるで巨大な生き物の死骸のようだった。
施錠された裏門の隙間をすり抜け、忍び足で校舎の裏手へと回る。非常階段の前に立ち、暗がりの中で冷たい手すりを握りしめた。
踏み出す一歩ごとに、スニーカーが金属のステップを叩く乾いた音が夜の静寂に響く。
一段、また一段。
街灯の光も届かない闇を上り詰め、屋上へと続く重い鉄の扉の前に立った。
隙間からヒュウヒュウと冷たい夜風が吹き抜ける低い音が聞こえてくる。
汗ばんだ手で錆びついた金属のハンドルを握りしめ、体重をかけて一気に押し下げた。
ギギギ……と鈍い金属音を立てて、扉が開く。
その瞬間、冷気を含んだ夜風が正面から吹きつけ、僕の前髪を激しく煽った。
視界が開けた先――そこは、青白い月光のカーテンに満たされた屋上だった。
コンクリートの床の中央。体育座りの姿勢で夜空を見上げている少女のシルエットがあった。
あの時のままだった。最初美月と話したあの夜の会と。
私服に着替えてきた僕とは違い、彼女は学校の制服のままだった。ただし、ブレザーは脱ぎ捨てられ、白いブラウスの袖を少しだけ捲り上げている。
昼間、クラスの真ん中で太陽の光を独占していた一軍の美月さんの煌びやかさは完全に削ぎ落とされ、そこには今にも月光の中に溶けて消えてしまいそうなほど、透明で脆い何かが座っていた。
扉が開いた重い音に、彼女はゆっくりと首を巡らせた。
「……本当に来たんだ」
月光を浴びた美月の琥珀色の瞳が、夜の闇の中で怪しく揺らめく。
その薄い唇が、昨夜と同じ、すべてを見透かすような冷ややかな微笑みを象った。もちろん彼女が座っているのは理解していた。やはり昼とのギャップが強すぎて座っている人が一瞬誰かわからなかった
「……一度家に帰ったのに、わざわざ戻ってきてくれたんだね。約束を守る、いい子だね。蒼汰」
昼間の「クラスメイト」としての距離感をあっさりと投げ捨て、彼女は僕の名を呼ぶ。
一度家に帰ったことまで見透かされているようなその口ぶりに、背筋がヒヤリと冷えた。
「……あのメモは何なんだよ」
僕は努めて冷静なトーンを保ちながら、コンクリートを踏みしめて数歩前に踏み出した。
「教室であんな真似して……誰かに見られたらどうするつもりだ。僕と君が関わってるなんて噂が立ったら、君のあの完璧な『日常』が壊れるぞ」
「見られないよ」
美月は即座に言い切った。その声には、微かな嘲笑が混ざっている。
「だってあいつらは『完璧な美月さん』しか見てないもん。背景と同化してる蒼汰と、私があとでここで落ち合ってるなんて……誰も、逆立ちしたって想像すらしないよ」
彼女はくすくすとお腹を抱えるようにして笑うと、自分の隣の冷たいコンクリート床を、小さな手でポンポンと叩いた。
「そんなところで立ちすくんでないで、座りなよ。今日の月……すごく冷たくて、綺麗だよ」
☆錆びついた屋上の重い扉を背にして、僕たちはどちらからともなく「ちょっと下に降りてみない?」と、暗い校舎へ探検に出かけることにした。
昼間なら、学校という場所は僕たちを明確に隔てる残酷な檻だ。カーストの頂点に君臨する一軍の美月と、日陰の底で息を潜める僕。けれど、すべての光が引き揚げた夜の校舎は、僕たち二人だけのものだった。
運動靴から履き替えたスリッパの底が、リノリウムの床を擦るかすかな音が、やけに鼓膜を震わせる。
静まり返った校舎では、自分の心臓の音すら美月に聞こえてしまうのではないかと錯覚し、胸の奥が不自然に弾んだ。一歩進むたびに、夜の冷気が靴底を通して足の裏からじわじわと体温を奪っていく。
階段を下り、長い廊下を歩く。昼間は何百人もの生徒が行き交うその通路は、今や深海の底に沈んだ回廊のように不気味で、同時に狂おしいほどに神秘的だった。
たどり着いたのは、僕たちの教室だった。
ガラ、と音を立てないように引き戸を開けると、鼻腔を突いたのは昼間の熱気の残り香だった。クラスメイトたちの汗や制服の柔軟剤、チョークの粉の匂いが、夜の冷たい空気と混ざり合って、澱のように床に沈んでいる。
月光が差し込む窓際の席だけが、まるで劇場の舞台のように白銀に発光していた。
「昼間の私はここに座って、ずっと演技してるんだよ」
美月は、昼間なら僕が近づくことすら許されない一軍の特等席――彼女自身の机の上に、ふわりとローファーを滑らせて腰掛けた。
影になって、彼女の表情はよく見えない。けれど、組み替えられた彼女の細い足首が、僕の制服の袖に触れそうなほど近くで揺れていた。昼間の彼女の残像が、目の前にいる夜の美月のしなやかさに、静かに上書きされていく。
「……本当の美月は、ここにいないみたいだね」
僕がぽつりと呟くと、彼女は小さく喉を鳴らして笑った。その笑い声すら、昼間の高いトーンとは違い、夜の闇に深く吸い込まれていく。
交わることのないはずの場所で、僕たちはしばらく言葉をなくし、月光に照らされた無人の教室を見つめていた。胸を締め付けるような背徳感と、奇妙な全能感が、僕たちの呼吸を少しずつ速めていく。
「ねえ、ちょっと喉渇かない?」
美月が机から飛び降りた。ローファーが床を叩く小さな音が、静寂に波紋を広げる。
僕たちは教室を後にし、さらに奥の薄暗いピロティへと向かった。
闇の隅で、自動販売機だけがまるで深海の巨大な発光生物のように、怪しく青白い蛍光灯の光を放っている。美月が小銭を入れると、チャリン、という金属音が鋭く夜を切り裂いた。
ボタンを押した瞬間、ガコン、と腹に響くような重低音でお茶のペットボトルが落ちてきた。
「はい、蒼汰の分」
手渡されたペットボトルは、痛いほどに冷えていた。表面に結露した水滴が指先を濡らし、ぽたぽたと床に滴り落ちる。
キャップをひねると、プシュ、と微かな音が静寂に溶けた。一口含むと、冷たい緑茶の苦味が、緊張と興奮で渇ききっていた喉をじりじりと潤していく。美月はそのボトルを自分の火照った頬にわざと押し当てて、「つめたっ」と悪戯っぽく身を震わせた。その些細な仕草ひとつに、僕は目を奪われてしまう。
「……そろそろ、上に戻ろっか」
スリル満点の探検を終え、僕たちは再び屋上へと戻ってきた。
そこには、僕たちを閉じ込める壁も天井もなかった。世界がすべて色を失い、モノクロームのグラデーションだけで再構成されたような夜。天空に君臨する月は、狂おしいほどの白銀の光をコンクリートの床に焼き付けている。
心地よい疲労感と興奮の余韻のなかで、僕たちは並んで床に腰を下ろした。
静寂が完全に戻ってきたところで、僕は、ずっと胸の奥で温めていた言葉を口にした。
「月は、夜を照らしてくれる存在だよね」
「……ん?」
「一見きれいだし、みんなが視認できていて、注目も集まりやすい。なんたって夜のシンボルだからね。でも、月は決して裏側を見せることはない。その二面性が、美月なんだと思う。太陽で同じことを語れないのは、そういうことなんだろうな。だから僕は、月を美月に重ね合わせてしまうんだと思う」
僕の言葉を聞いた美月は、お茶のペットボトルを床に置くと、ふっと小さく自嘲気味に笑った。
「二面性ねー……」
彼女はしなしなとした細い両手の指を丸めて小さな筒を作ると、それを右目に当てて月を覗き込んだ。実際には何も拡大なんてされない、ただの手製の頼りない望遠鏡。
視界から余計な夜を切り落とし、ただ一つの月だけを閉じ込めるようなその仕草のまま、彼女は諦めの表情で、淡々と語り始めた。
「私だって、本当の自分をさらけ出したいさ。でも、それを許してくれないんだ。周りがね」
手作りの望遠鏡を覗いたまま、彼女の声が夜の空気にほどけていく。
「『普通』に囚われた今の人間には、よっぽどの変わり者でない限り、さらけ出すことなんてできないんだよ。だから私は、ずっと個性を出すことのできない『暗闇の人間』だと思ってた。そんな私を、あの光り輝く月だと形容してくれたことは、とても嬉しいかな」
美月はゆっくりと手を下ろし、僕の方を振り返った。その小さな覗き穴から解き放たれた彼女の瞳は、琥珀色の光を吸い込んで、壊れたガラス細工のようにきらきらと揺れている。
「ただ、暗闇しか存在しない夜という不思議な時間帯が成り立つのは、やっぱり月があるからだよね。月によって、物の輪郭がうっすらと確認できるんだもん。そういう、夜ならではの『淡さ』みたいなものに、みんな無意識に惹かれているんだと思う」
物の輪郭を曖昧にする、夜の淡さ。
諦めを孕んだそのしなやかな横顔を見つめながら、僕は、喉の奥が引き締まるような切なさを覚えていた。彼女の秘密に触れたい。いや、この夜の淡さの中に、ずっと二人で溺れていたいと、強く願ってしまっていた。
「美月はこの月ってどう思う?」
美月は再び前を向き月を見上げる。
「蒼汰が言ったように決して裏側を見せることはないし月って恒星じゃないから自らが光を発してるわけではないよね。太陽の光を反射してみんなの言う月に化けているんだ。太陽っていう自然のスポットライトが当たって光輝くようにしてくれてる。皆には完璧な美月さんに見えるけど常に美月という裏側も隣り合わせているんだ。そう考えると月って私なんだなって思う」
「もし月が太陽の光を反射するのをやめたら、ただの暗闇の塊に戻る。私も同じ。演技をやめたら、何もない空っぽな人間になっちゃうんだよ。……ねえ蒼汰、それでも君は、この空っぽな月の中身が知りたい?」
月光の下で妖しく揺れる彼女の微笑み。それは、僕が必死に隠してきた孤独と絶望の輪郭を、冷たい指先でそっとなぞられるような、甘美で恐ろしい誘惑だった。
「月はね、毎日形を変えるんだよ。欠けたり、満ちたり、時には新月みたいに完全に姿を消したりする。……なのに、クラスのみんなが私に求める『瀬戸美月』は、一年中ずっと満月のままでいなきゃいけない。欠けることも、暗闇に隠れることも許されない。それって、月にとっても人間にとっても、一番不自然で苦しいことなんだよ」
美月の言葉は、甘い毒のように僕の鼓膜から脳の奥へと浸透していった。
「……空っぽなんかじゃないよ」
僕はゆっくりと首を振った。考えなしに言葉を出す。冷えたお茶を固く握りしめながら、彼女の琥珀色の瞳をまっすぐに見つめ返す。
「昼間の太陽は傲慢だ。世界を隅々まで照らし出して、僕たちに『正しさ』や『立ち位置』を押し付けて境界線を作る。……でも、月の光は違う。色の違いも、クラスのカーストも、僕たちの間の境界線も、全部同じ夜の影の中に溶かしてくれる」
風が吹き抜け、彼女のブラウスの裾を揺らした。美月は息を呑み、言葉を失ったように僕を見つめている。
「満ち欠けを無視して、ずっと眩しい満月でいることを強制されるのが昼間の学校なら……ここでの美月は、新月みたいに姿を消したっていいんだ。みんなは太陽の光を反射した表側の『美月さん』しか見ないかもしれない。でも、誰も見ようとしないその冷たい裏側(暗闇)こそが、僕にとっては本物の美月だよ。……空っぽな月の中身なら、なおさら知りたい。僕も同じように、昼間は空っぽな背景として生きているんだから」


