存在証明

 この世界にはきっと僕の知らない一面があって、そんな一面を知りたいだけなのに。木々の成長する速度、砂の粒の数量、目に見えない電波、宇宙の広さ、知らないことが多いのにワクワクしない。知ってどうするんだという僕の思考が横入りしてくるせいで。いつからだろうか、この世界に安堵できなくなったのは。
子供の頃は違ったはずだ。図鑑のページをめくるたび、世界の裏側に隠された法則を見つけるたび、胸の奥が熱くなった記憶がある。けれど、成長するにつれて理解してしまった。世界をいくら解剖したところで、そこに「僕」という存在を肯定してくれる理由なんて落ちていないのだと。

知識が増えるほど世界は記号化され、無機質な無彩色へと褪せていった。
生きていること自体が、巨大な空白の時間をただ塗りつぶす作業のように思えてならない。どこにも居場所がないような薄い浮遊感と、いつ足元が崩れ去るかわからない微かな恐怖。それが、僕がこの世界に対して感じている「不安」の正体だった。
生きてきた分だけ世界が暗く見えるのは人間という特殊な生物にしか起きない摂理なのだろうか。


相沢蒼汰はそんな世界に存在していた。見上げるとそこには目を射抜くような若葉のモザイクが広がっていた。数日前まで硬い蕾だったはずの梢が、いつの間にやら惜しみなく命の色を広げ、重なり合う葉の隙間からやわらかな初夏の陽射しが零れ落ちてくる。それは鮮烈な生命の息吹そのもので、視界の隅々までがむせ返るような緑の匂いで満たされていく。寒々しかった冬の気配は完全に塗り潰され、吸い込んだ空気がそのまま瑞々しい新緑の血潮となって、全身の細胞を清涼に、そして心地よく潤していくようだった。

重い足取りでいつもの通学路を歩き出す。スニーカーの底が乾いた地面を蹴る規則的な音が、静かな住宅街に小さく響く。

すれ違う自転車のベルの音、朝露を弾かせる色とりどりの花々、遠くの幹線道路から届く微かな車の走行音。世界は確実に新しい季節へと更新され、圧倒的な生命の息吹を撒き散らしているというのに、僕の足元だけが乾涸びた影を引きずっていた。

住宅街を抜けると一気に開けた国道にたどり着く。先程の閑静な住宅街とは異なり、車の走行、工事地帯のこの慌しい景色は日常に良く溶け込まれており良い意味で季節を感じることはない。新緑のように鮮やかな息吹を、生命を感じることはなく蒼汰は少し安堵の息を漏らす。

「新緑の季節」――言葉にすれば美しいその響きも、僕にとってはただ、自分がこの眩しい世界に馴染めていないことを強調するだけの背景に過ぎない。鮮やかな緑を透過した光が僕の視界を掠めるたび、胸の奥が冷たくしびれるような感覚を覚える。

国道からわき道に入り緩やかな坂道を上りきると、木々の隙間から見慣れた校舎のシルエットが現れる。蒼汰は新緑の眩しさに思わず目を細める。学校は全日制のごく一般的な高等学校で創設65年昭和中期に開校した。特別な歴史があるわけでもなくただ校舎に残る錆びや綻びが時の流れを紡いでいた。

校舎の入り口へ近づくにつれ、登校する生徒たちの足音が重なり合い、甲高い笑い声や他愛もない雑談のノイズが波のように押し寄せてきた。靴箱の前で上履きに履き替えると、古い木床の匂いと制汗スプレーの香りが混ざり合った、学校特有の気が滅入るような空気が肺を満たしていく。

 
重い足取りで教室へ向かい教室の扉を開ける。開けた先にはいつもと変わり映えのない日常が広がっていた。昨日のテレビの話をする女子生徒、ゲームの話をする男子生徒。たわいもない会話が繰り広げられるこの教室に、日差しまでもが参加し、「朝の教室」という舞台を作り上げている。そんな舞台の邪魔にならないよう、僕は空気となり慎重に歩く。

席に着き、一限にある数学の小テストに向け昨日の復習を行っていた。勉強は好きだ。知見が広がるし、知ることで人生が豊かになる。勉強なんて意味がない、将来使うことはほとんどないと非難する者もいるが、勉強の真意はそこではない。全ては考え方なのだ。数学的思考による問題解決能力。文学、国語による読解力、解釈能力の向上など、実生活で役に立つような考え方につながっていると僕は思う。

そんなことを考えていると、教室の扉が勢いよく開く。
「おはよー」

まるで実力と名声を兼ね備えた主演俳優が現場入りしたかのような、皆が注目する空気感に包まれた。瀬戸美月。彼女を取り巻く状況は、どこからどう見ても高校の中では不自由一つない暮らしができるような、無敵のようにさえ感じる。

僕は窓へ視線を移す。そこには教室という舞台に光が一層強く差し込んできていた。舞台に入り込む自然照明に、僕は閃光弾を食らったような圧倒的な光量を目の当たりにした。太陽光までもが瀬戸美月をバックアップしているようにさえ見える。

眩しさに耐えきれず、僕はノートに視線を落とす。そこには数学という無機質な世界が広がっていた。
数学は嘘をつかない。
解を導き出せば、例外はあるもののそこには必ず答えがある。この数字や記号の羅列は記号であって感情ではない。だからこそ、彼女の眩しい姿とは相対する存在。僕にとっては常に答えのあるこの冷たい記号こそが正義であり、唯一の正解なのかもしれない。

教室の扉が再び開き、担任の先生が入ってくる。プツンとそれまで丈夫に張り巡らせていた僕の思考が途切れ、先生の話が外部から突如とやってくる予想外の問題のような思考の横入りを促す。
「みんなー席につけー、ホームルーム始めるぞー」

教室の中、皆が慌ただしく自席へと戻っていく。あれほどまでに完璧な劇として回っていた空間が、呆気なく終焉を迎えた。
いやむしろこの先生までもが劇の一部なのかもしれない。
「今日の1限の数学は小テストだからな。これがしっかりとれていれば定期テストの対策もできる。真面目に取り組むように」

担任の言葉にクラスが少しだけざわつく。担任の斎藤先生は数学の教師でもある。僕はただそのざわつきに傷をつけないように無機質に聞き流した。

ホームルームが終わり、問題用紙と解答用紙が配られる。テスト中は自身の鼓動が聞こえるほどに静寂が保たれている。この静寂が心地よいのだ。

この静寂が長く続くこともなく、終了の合図が響いた。
その瞬間、綺麗に保たれていた静寂は、演者たちによって無残にも踏み荒らされた。「今回のテスト、結構難しくなかった?」と談笑する声。状況に反するように、僕の心はまだ先ほどの静寂を求めていた。僕は内側に住まわせていた微かな静寂を呼び寄せ、呼吸を整えて落ち着きを取り戻そうとする。しかし、僕ができる小さな抵抗など無力だ。教室は生徒たちの日常という名のノイズで再び埋め尽くされていく
 
「そこまで。一番後ろの席から、解答用紙を集めて前に送れ」教卓を叩く硬質な声とともに、ピンと張り詰めていた教室の緊張が一気に弾けた。シャーペンを置くカチャカチャという粗い音、大きく吐き出される溜息、そしてパイプ椅子の脚が床を擦る嫌な重音。回収されるB4サイズのテスト用紙がパサリパサリと手から手へ渡っていくたび、クラス全体の体温と湿度がじわりと上がっていくのを感じる。

僕の後ろの席から回ってきた用紙を重ね、前の席の背中に差し出す。

「はい、じゃあ解説配るぞ。残り時間は特に難しかったと思われる大問三の解説と、次の単元の導入に入る」

黒板に白粉(おしろい)を撒き散らしながらチョークが走るカツカツという無機質な音が、静まり返った教室に規則正しく響き始める。テストが終わった解放感からか、周囲のクラスメイトたちの集中力はすでに散漫だった。頬杖をついて窓の外の揺れる新緑をボーッと見つめる者、机の下で教科書の陰に隠しながら指先を動かす者、鉛筆の芯をカッターで削る小さな音。先生が黒板に書くxやyの数式、三次元の立体図形。僕の目にはそれらが意味を持たない記号の羅列としてただ映り、滑り落ちていく。ノートの端に教科書通りの途中式を淡々と書き写しながら、僕の意識は再びこの部屋のノイズから離脱し、遠い場所へと漂い出していた。

教室内を満たす、チョークの粉の匂い、紙の匂い、そして解けない問いに対する諦念の空気、窓から差し込む初夏の強い陽射しが、黒板の文字の一部を白く反射して押し潰している。誰もが早く終わることを願っているこの退屈な授業の時間が、僕にとっては唯一、自分が「ただの風景」として誰からも邪魔されずに存在することを許される、安全で冷たい防波堤だった。



次の授業のため、僕は体育館に来ていた。肌に張り付くような独自の湿気と、没個性的な体操着に身を包まされている事実が、僕に「今は青春という名の義務の真っ盛りなのだ」と冷たく認識させる。

教師の笛の合図とともに、体育館の空気が一斉に張り詰めた。
床を蹴るスニーカーの摩擦音、バスケットボールが硬い木床を叩く乾いた低音、そして生徒たちの熱を帯びた歓声が、ドーム状の天井に向かって乱反射する。汗と微かな制汗剤の匂いが混ざり合った独特の澱みが、巨大な生き物の息吹のように空間全体を支配していた。

その中心で、彼女――瀬戸美月はひときわ異質な輝きを放っていた。

彼女がボールに触れるたび、体育館の照明の光が汗ばんだ髪の毛や白い肌に弾け、まるで周囲の喧騒を切り裂くような閃光を放つ。女子生徒たちが彼女を囲み、群がり、まるで引力に引かれるようにパスを回す。その光景は、完成された舞台の上で完璧に演じられるダンスのようだった。でもそれに対して決して滑稽だとは思わない。むしろこれこそが完成された青春だとは思う。試合のホイッスルが鳴り休憩に入る。人に好かれるような優生的な遺伝子が瀬戸美月を覆っているのか、それでしか考えられないほどに彼女の周囲には常に人がいる。あの時のあのプレーがすごかったと具体的な評価をするものなんていない。かっこよかった、とかその辺の抽象的な評価に過ぎない。もちろん具体的なプレーを褒めるものもわずかながらいた。そうなんだ、皆は瀬戸美月を見ているんだ、主語になる瀬戸美月しか見ていないんだ。

休憩が終了すると再び試合の合図が鳴り響いた。僕は見学。
こんな完成された舞台に、僕のような無色の傍観者が参入してはただの妨害に過ぎない。それを理解しているからこそ、僕は体育の輪には加わらない。いや、正確には加わりたくないのだ。

誰もが同じ方向を向き、誰かの期待通りの「役割」を完璧に全うする。その生き方は確かに波風を立てず、この学校という小さな社会においては無敵の得策なのだろう。けれど、その代償として失うものがあまりにも大きすぎることを、彼らは知る由もない。自分の感性を殺し、他人のための輪郭に自分を押し込んでいくのは、生きているようでいて、ただ時間を消費しているだけに等しいからだ。

僕はベンチの端、誰の視線も届かない影に身を潜め、バウンドするボールの音をただ数えていた。

ふと視線を上げる。みな楽しそうだ。それだけはわかるのかもしれない。それが僕にとってただ時間を消費するだけの行為だとわかってはいるけど、皆はそれが当たり前としてここまで生きているに違いない。青春なんて時間の消費が似合う唯一の時間帯なんだから、人生なんてそんなものでいいのかもしれない。
体育の授業の終わりを告げるキンコンカンコンというチャイムが、だだっぴろい体育館の天井に歪んで反響する。

ボールの後始末や器具の片付けを始めるクラスメイトたちのざわめきの中、僕は体育館の重いスライド扉をそっと押し開けた。外から吹き込むぬるい風が、汗で肌に張り付いた体育着の生地を撫でていく。

(……気のせい、か)

ボールを追っていた美月と一瞬だけ視線が交差した時の、あの氷のように冷ややかな無の瞳。
クラスの男子たちの冗談に軽やかに笑い声をあげていた太陽のような表情とは、およそ相容れない真空の気配。

後片付けをするふりをしながら横目で窺うと、彼女は何事もなかったかのように女子グループの中心に戻り、制汗スプレーのフローラルな香りを撒き散らしながら楽しそうに談笑していた。汗ばんだ額に張り付く前髪を直す仕草一つとっても、完璧な「ヒロイン」そのものだ。

やっぱり、ただの光の加減か僕の自意識過剰なのだろう。そう自分に言い聞かせ、僕は湿ったスニーカーの底を床に擦りつけながら、一人で着替え室へと向かった。

そして放課後。

夕闇が校舎の裾野から少しずつ這い上がってくる時間帯、図書室は昼間の喧騒から完全に切り離された異界のような静けさに包まれていた。

低い書架の隙間から斜めに差し込む西日が、空気中をゆっくりと漂う微細な埃を黄金色の光の粒へと変えている。重厚な木製カウンターの匂いと、古い紙が発する特有の酸っぱい香りが、僕の張り詰めた神経を静かに解きほぐしていく。ここだけが、僕が「呼吸をしても許される」場所だった。

カウンターの奥に積まれた段ボール箱から、まだインクの匂いが新しい新刊を取り出す。
図書委員の仕事であるラベル貼り作業だ。背表紙の底からちょうど一センチ上の位置を定規で測り、分類記号が印字された白いシールを慎重に貼り付ける。その上から保護用の透明なブッカーフィルムを空気が入らないように指の腹で空気を抜きながら撫でつけていく。淡々とした繰り返しの作業。指先に伝わるシールの粘着感と紙の硬さだけが、今の僕の現実だった。

そこへ、磨かれた床を叩く不規則な足音が静寂を破った。ペタ、ペタと、少し踵を引きずるような、どこか力のない足音。

顔を上げると、そこに立っていたのは瀬戸美月だった。

制服のスカートの丈も、少し崩した襟元も昼間と変わらないはずなのに、彼女が纏っている雰囲気が決定的に違っていた。教室の中心で眩い光を放っていたあの絶対的な「オーラ」が影を潜め、まるで色褪せた写真のように平坦で、乾いた空気を漂わせている。

「……相沢くん、今日、図書当番だよね」

彼女の口からこぼれ落ちた声は、教室を通り抜けるあの鈴を転がすような華やかさはなく、ガラス玉が冷たい床を転がるような、静かで無機質な音だった。

「あ、うん。瀬戸さんも……これ、分類ラベル貼るの、手伝ってもらえる?」

「うん」

それだけ言うと、彼女はカウンターの反対側に回り、黙々とハサミとフィルム用のヘラを取り出した。

僕たちの間に会話は生まれなかった。
彼女は細い指先でシールを剥がし、慣れた手つきで本の背表紙に貼っていく。けれど、その力加減がどこかぎこちなく、保護フィルムの中に小さな気泡がひとつ残った。彼女はそれを潰そうともせず、ただボーッと見つめている。

カサリと本が重なる音、透明なテープを剥がすピッと弾ける音、そして二人分の静かな呼吸音だけが、沈黙の時間を刻んでいく。窓の外では、橙色だった空が徐々に深く濃い紫紺へと色を変えつつある。

本棚の影が彼女の顔半分を覆い尽くした時、美月が不意に手を止めた。シールを指先にくっつけたまま、じっと自分の手元を見つめている。

「私、うまく生きれていると思う?」

「……え?」

作業の手を止め、僕は思わず彼女の横顔を見つめた。
美月は作業台の上に視線を落としたまま、その琥珀色の瞳を遠いどこか――ここではない別の次元へ向けているようだった。

「ううん、何でもないの。ただ、ふと気になっただけ。私、うまくこの世を生きれているのかなって」

どこか投げやりで、けれど縋るような響きを含んだ問いかけ。
僕は唾を飲み込み、選ぶべき言葉を慎重に脳内で探した。ボロを出さないよう、あくまで「クラスの傍観者」としての仮面をかぶり直す。

「僕の見る限り――いや、僕だけじゃなくクラス全員が、瀬戸さんはうまく生きられていると答えると思うよ。誰に対しても優しくて、華やかで……それほどまでに、瀬戸さんは輝いているように見えるから」

教科書通りの、無難で害のない回答。
それを聞いた美月は、鼻から小さく「ふっ」と息を漏らした。それは嘲笑のようでもあり、自嘲のようでもあった。彼女はゆっくりと顔を上げ、影の落ちた瞳をまっ直ぐに僕へと向けた。

そこには、太陽の光を反射していた昼間の完璧な美月はいなかった。

「……相沢くんってさ、いつもどこか別の場所を見ているみたいだよね」

「え……」

「誰もが望む通りの私を演じていれば、周りはそれを『うまく生きてる』って勝手に褒めてくれる。でもさ――」

一瞬、彼女の唇が何かを吐き出そうと大きく動いた。けれど、彼女はそれ以上言葉を紡ぐのをやめ、諦めたように視線を泳がせると、ふっと柔らかい……けれどどこか嘘くさい笑みを浮かべて見せた。

「……ううん、変なこと言ってごめんね。当番、終わらせちゃおっか」

核心に触れる直前で、彼女は器用に壁を作った。
それっきり、僕たちの間に言葉が交わされることはなかった。
カサリカサリと無機質な紙の音だけが静寂を埋め尽くし、窓の外の橙色は、完全に冷たい藍色の夜へと溶けていった。


家に帰り、自分の部屋の薄暗い天井を見つめていても、胸の奥にこびりついたあの放課後の「違和感」がどうしても消えなかった。あの時、美月が見せた一瞬の曇り。あれは何だったのか。

(……あ、プリント。図書室のカウンターに忘れてきた)

思い出したのは、明日提出の小テストの解き直しプリントだった。
正直、明日取りに行っても問題はない。けれど、ざわつく胸の騒ぎを静めるための理由が欲しかったのかもしかもしれない。「感傷に浸るついでに、忘れ物を取りに行く」――そんな言い訳を胸の中で反芻しながら、僕は夜の静寂へと踏み出した。

昼間の喧騒が嘘のように引いた夜の校舎は、不気味というより、どこか深海の底に沈んだ神殿のように神秘的だった。
キーキーと軋む下駄箱を開け、上履きに履き替える。足音を殺しながら廊下を進むと、窓ガラス越しに青白い月光が筋となって差し込んでいた。その光を踏みしめるたび、古い木床の匂いと、刺すような夜の冷気が肺の奥深くまで支配していった。

☆図書室でプリントを回収し、そのまま帰路につけばよかったのだ。
けれど、階段の踊り場まで来た時、一段と強い月光が上の階へと伸びているのが目に入った。

世界の歯車から外れてしまった僕を、昼間の太陽は誰も見つけてはくれない。だけど、この強い月光を屋上から全身に浴びれば、まるで透明人間のようになってしまった僕にも、ほんの一瞬だけ存在を許されるような輝く瞬間がやってくるんじゃないか――。

そんな淡い祈りのような、青くさい感傷に背中を押されるようにして、僕は吸い寄せられるように屋上への階段を上っていった。

錆びついた重い扉。汗ばんだ手でドアノブを回すと、ギィィという手応えとともに冷たい夜風が勢いよく吹き抜けた。

そして、そこに――一人の少女がいた。

コンクリートの床に直接体育座りをし、後ろに細い手を突いて月を見上げている影。
昼間、教室の中心で圧倒的な光量を振りまいていたあの「一軍のヒロイン」の面影は微塵もなかった。肩をすぼめ、夜風に長い髪を遊ばせている佇まいは、あまりに儚く、あまりに無防備な「ただの人間」だった。

一瞬、それがクラスメイトの瀬戸美月であるとは信じられなかった。月光に縁取られた彼女の側顔の輪郭は、まるで夜空に溶け出す直前の氷細工のように透明で、壊れてしまいそうなほど脆く見えた。

けれど、この静まり返った夜の屋上に彼女がいるという事実に、違和感はほとんど湧かなかった。むしろ、夜空に月がぽっかりと浮かんでいるのと同じくらい、この場所にはこの子がこうして存在していることが、世界の必然であるような気さえしていた。

「あれ、こんな時間に珍しいお客さんだ。君もこの月光を見に来たの?」

振り返った彼女の声は、鈴の音を転がしたような可憐さを残しつつも、まるで何光年しも離れた遠い星から届いたかのように途切れ途切れで、どこか浮世離れしていた。

「……感傷に浸りに来たんだ。この月光は感傷のトリガーなんだよ、多分」

動揺を隠すように僕がそう答えると、彼女はくすっと肩を揺らした。

「ふふっ、感傷のトリガーか、面白い表現だね。私が見ているのはその逆の世界かもね」

「逆って? 希望とか?」

「希望?」

彼女は可哀想なものを見るような目をして、小さく首を横に振った。

「そんな言葉、今の私には不釣り合いだよ。この広い世界で、私だけが取り残されて置いていかれているんだもん。だから――『残光』に近いかな。すでに消えてしまった光の、寂しい跡を見つめているようなもの」

「残光か。……でも、君はあの月光よりも眩しく輝いて見えるけどね。人には人の事情があるのかな」

「輝いてなんかないよ。輝いて『見せてる』だけね」

美月は膝に顔を埋めるようにして、重力から解き放たれたような仕草で俯いた。

少しの間、言葉が途切れた。
夜の静寂の中に、遠くの幹線道路を走る車のエンジン音、風がフェンスを揺らす金属音、そして遠くの街灯が発する微かなノイズが混ざり合う。すべてが、今この屋上にいる僕たち二人のためだけに用意された舞台装置であるかのような錯覚を覚える。

やがて、彼女がゆっくりと顔を上げた。

「こんな、夜に学校の屋上に足を運んじゃうような悪い子とは、意外と気が合うのかもなー」

「その理論で行くと、あなたもかなりの悪い子になるけど」

「私は多分、根っからの悪い子だし……こんな世界に、私がいかに願っていても……」

ふっと言葉を濁し、彼女は月光を背景に妖しく微笑んだ。

「あ、ごめんね、変なこと話しちゃった。私は美月。よろしくね」

「美月」――その名前を僕が知らないはずがない。けれど、目の前の少女の唇から零れ落ちたその音は、昼間の「瀬戸美月」という記号化されたアイドル的存在とは完全に剥離していた。まるで、今この場所で、真新しい生命体として初めて名前を教えられたかのような、不思議な錯覚と眩暈が僕を襲った。

彼女は月光のカーテンをしなやかに纏うようにして立ち上がり、僕の目の前までゆっくりと歩み寄ってきた。
間近で見る彼女の瞳。すべてを見透かすような、どこか狂気を孕んだ妖艶な笑みは、僕が必死に隠してきた胸の奥の絶望と孤独を、指先でつつくように揺さぶった。

「僕は蒼汰。……君のことは、よく知ってるよ。同じクラスだし、今日の図書当番も一緒だったしね。どう見ても一軍のトップだし、人生順調そのものに見えるよ。とてもじゃないけど『輝いて見えるだけ』だなんて、僕には信じられないな」

戸惑いを隠せずに僕が言葉を吐き捨てると、彼女は悪戯が成功した猫のように瞳を細めた。

「君が知っているのは『美月さん』ね。あれはぜーんぶ私の演技。こういうこと――秘密の夜更かしとかさ、一度してみたかったんだよね。そういう年頃だし」

あっけらかん言いはなつ彼女の横顔は、月光に照らされて恐ろしいほど美しかった。

「はい、もう今日は帰ろ。また今度。同じ時間に、同じ場所でね。それじゃ」

それだけ言うと、彼女は月光を切り裂くように翻り、小さく手を振った。
彼女が脇をすり抜けた瞬間、風に乗って微かに甘く、けれど刺すように冷たい香水とも髪の匂いともつかない香りが、僕の鼻腔をかすめた。

ガチャリ、バタン。
屋上の重い鉄の扉が閉まる音が、夜の校舎に低く重く響き渡る。

残されたのは、僕一人と、さっきよりも少しだけ温度を失った気がする青白い月光だけだった。

「同じ時間に、同じ場所で……」

彼女が言い残した言葉が、冷たいコンクリートの床にじわりと染み込んでいく。
明日になれば、太陽が昇れば、彼女はまた僕の手の届かない「きらきらした太陽のような女の子」に戻ってしまうのだろう。

けれど、僕の胸の奥深くには、月光と同化していたあの夜の彼女の妖艶な笑みが、消えない焦げ跡のような「残光」となって焼き付いて離れなくなっていた。


昨夜、屋上で交わした言葉の余韻。
そして、去り際に鼻腔をかすめたあの甘く冷たい香水の匂い。

それらが脳裏に焦げ付いたまま、一眠りもできないまま朝を迎えてしまった。
カーテンの隙間から部屋に差し込んでくる太陽の光は、昨夜の幻想的な月光とはまるで違う、容赦のない現実の白さを持っていた。

(……同じ時間に、同じ場所でね)

美月が言い残した言葉が、耳の奥で何度も繰り返し再生される。
あれは夢だったのだろうか。それとも、現実だったのか。自分の手で頬を強く叩いてみても、昨夜の感覚だけが異常な現実感をもって僕の皮膚に残っていた。

重い足取りで登校し、靴箱で上履きに履き替える。
廊下を歩く生徒たちの笑い声、階段を駆け上がる靴音、鞄が擦れる音。日常の雑音が容赦なく鼓膜を叩く。僕はいつものように下を向き、背景に溶け込むようにして教室のドアを開けた。

「あ、美月さーん! 今日の放課後、みんなでカラオケ行かない?」
「あはは、ごめん! 今日はちょっと用事があってさー。また今度誘って!」

教室に入った瞬間、飛び込んできたのは昨日と全く変わらない「いつも通りの光景」だった。

クラスの中心、太陽の光が一番強く降り注ぐ窓際の席で、美月は女子生徒たちに囲まれて花が咲いたような笑顔を振りまいていた。
バツグンのスタイル、完璧に作られたギャルメイク、弾けるようなリアクション。男子生徒たちが遠巻きに視線を送り、クラス全体が彼女という太陽を中心に回っている。

昨夜、月光の下で重力から解き放たれるように体育座りをし、「ぜーんぶ私の演技」と悲しげに呟いていたあの儚い少女の面影は、どこを探しても見当たらなかった。

(……演技? どこからどこまでが?)

僕は自分の席につき、鞄から教科書を取り出すフリをしながら、横目で彼女の様子を盗み見た。
本当に、昨夜のあれはただの僕の都合の良い幻覚だったんじゃないか。彼女にとっては、退屈しのぎに僕のような底辺の人間を少しからかっただけの、取るに足らない戯れだったのではないか。そんな嫌な思考が頭を支配し、胸の奥がじりじりと焼けるように焦がれていく。

その時だった。

女子グループとの会話の合間、ほんの一瞬、美月がふとこちらへ視線を投げた。

心臓が跳ね上がった。けれど――
彼女の瞳には、昨夜僕に見せたあの狂おしいほどの深みや妖艶さは微塵もなかった。ただの「同じクラスの相沢くん」を視界の端で捉えただけの、どこまでも平坦で、冷たい光。

彼女は僕と目が合っても眉一つ動かさず、何事もなかったかのように視線を外し、再び友達との楽しげな会話に戻っていった。

その徹底された「仮面」の完璧さに、僕は言葉を失った。
昨夜、二人きりで共有したはずのあの「特別」な時間が、まるで白昼夢のように太陽の光によって掻き消されていく。

胸の中に残ったのは、理由のわからない敗北感と、激しい不快感。
昼間の彼女は完璧すぎる偶像であり、僕の届かない場所にいる「瀬戸美月」そのものだった。

昼休みになっても、授業中も、そのモヤモヤとした不快な感情は消えなかった。
ノートの余白にシャープペンの芯を押し付け、意味のない真っ黒な丸を塗り潰していく。昨夜のあの子はどこへ行った? 今目の前で笑っているのは誰だ?

(確かめなきゃ、気が済まない――)

自分の内側でぐつぐつと沸き立つ熱い焦燥感を抱えたまま、僕は放課後のチャイムが鳴るのを、ただひたすら待っていた。

モヤモヤとした不快な焦燥感を胸に抱えたまま、放課後を迎えた。
今日も図書委員としての仕事があった。静寂の中その空間に存在していたのは僕と美月さんそして少しの気づまり。分類ラベルの新調とポップの作成だ。この空間にて僕の心臓は鼓動を鎮めることを知らない。知りたいことを知らないままで生きることは好奇心が許すことはなく、図書室のカウンターで分類ラベルを貼っている最中、背後を通り過ぎようとした彼女に向かって、僕は耐えきれずに声を投げかけた。

「……昨日の夜のあれ、『演技』ってどういうこと?」

ラベルの裏紙を剥がそうとしていた美月の指先がピタリと止まった。
ゆっくりと振り返った彼女の顔には、昼間の太陽のような笑顔でもなく、昨夜の儚い素顔でもない、どこかわざとらしい自嘲混じりの笑みが浮かんでいた。

「相沢くんって、案外オドオドしながら踏み込んでくるんだね」

「……っ、別にオドオドなんて」

「秘密は秘密のままだから綺麗なんだよ。箱を開けて中身を全部知っちゃったら、もうワクワクしないでしょ?」

僕の焦りをあざ笑うかのように、彼女は言葉を軽くいなした。そして、カウンターの狭い隙間を通り抜け、僕のすぐ脇をすり抜ける。

その刹那。
僕の耳元に、彼女の唇が触れそうなほどの距離で、掠れた甘い声が吹き込まれた。

「知りたいなら、今日の夜も来れば? ――まぁ、来ても教えてあげないけどね」

ハッと振り返った時には、彼女はフッと意味深に唇の端を持ち上げ不敵な笑みを浮かべる。何事もなかったかのように美月は作業に戻る。

「でも実際私のこと知ったとして、相沢君の人生になんの影響を及ぼすの?」

「そ、それは、正直言うと今はわからない。うまく言葉にできないんだよ。」

蒼汰は言葉にできないこの状況に下を向くことしかできなかった。

焦燥。

悔恨。

様々な感情が入り乱れるこの感覚に蒼汰はもはや感傷に浸る余裕すら生まれなかった。
二人は無言のまま作業に戻る。西日の差し込むこの図書室には僕と美月さん、それ以外にはなにも存在していなかった。




『知りたいなら、今日の夜も来れば? ――まぁ、来ても教えてあげないけどね』

家に帰るなり、彼女のあの掠れた声が脳裏を支配し、鼓膜の奥で幾度となくリフレインしていた。

自室のベッドに倒れ込み、暗い天井を見つめていても、図書室の夕暮れの中でニヤリと挑発するように笑った彼女の顔が歪んで浮かび上がってくる。なぜか徹底的に馬鹿にされ、遊ばれているような気がして、胸の奥からじりじりと熱い怒りと悔しさが込み上げてきた。

今日で確信したことが一つだけある。瀬戸美月は、確実に何か重大な秘密を隠している。そうでなければ、僕のような「背景の人間」に対してあのような剥き出しの二面性を見せつけ、揺さぶってくるはずがないのだ。

僕をからかって、底辺の人間が右往左往するのを高みの見物して楽しんでいるだけなのか?
思考がさらに黒い怒りと焦燥感で塗りつぶされ、気がついた時には、僕は部屋の上着をひっつかんで夜の街へと飛び出していた。

玄関のドアを開けた瞬間、冷たく湿った夜気が勢いよく肌を叩く。
街灯がポツリポツリと橙色の光を落とす夜の住宅街を、僕は狂ったように走り出した。普段なら静まり返っているはずの歩道。アスファルトを蹴る自分のスニーカーの音が、やけに高く夜の街に響く。

自動販売機の眩しい青白い光、遠くの幹線道路を走るトラックの排気音、電線で揺れる街灯の影。昼間は何の意味も持たなかった景色が、激しい心拍数とともに視界の後方へとすっ飛んでいく。そんなことなんてどうでもよかった。夜の淡い景色という静謐的な美さえも視界に明瞭に入らないほどに彼女に浸食されていた。

ハァ、ハァ、と荒い呼吸を吐き出すたびに、息が闇の中へ溶けて消えた。ドクドクと激しく肋骨を叩く心臓の鼓動が、耳の奥でうるさいほど大きな音を立てている。肺が酸素を求めて悲鳴を上げていたけれど、足を止めることなんてできなかった。

暗闇にそびえ立つ学校の校舎が見えてくる。
昼間の賑やかさをすっかり失ったそのシルエットは、まるで巨大な棺のように静まり返っていた。不気味なんてものでは到底表現できないような。憎悪のような狂気的な恐怖?こんなことを感じることも面倒に思えてくるほどに蒼汰は校舎に近付く。

裏門の低いフェンスに手をかけ、滑り込むように敷地内へ侵入する。砂利を踏む音を殺しながら、暗闇の昇降口を通り抜け、階段を駆け上がった。一段飛ばしで踏み込む足取りには、一回目の時のオドオドとした迷いは微塵もなかった。あるのはただ一つ、彼女のあの澄ました仮面を強引に剥ぎ取りたいという、狂おしいほどの執着だけだった。

一番上の踊り場に立ち、汗ばんだ手で錆びついた扉のハンドルを力任せに押し下げる。

キィィィィ、と鈍く手荒な金属音が、夜の静寂を切り裂いて屋上に響き渡った。

扉を押し開けた瞬間、強烈な夜風が僕の濡れた前髪を容赦なく煽る。
コンクリートの床の上、青白い月光に照らされたその場所に、彼女は昨日とまったく同じ体育座りの姿勢で収まっていた。

けれど、昨日と決定的に違っていたのは――彼女のすぐ脇に、白銀の月光を浴びて細かな水滴を輝かせている冷たいペットボトルのお茶が、二本、並べて置かれていたことだった。

「本当に来たんだ。……ふふ、悪い子だね」

美月がゆっくりとこちらを振り返り、クスッと悪戯っぽく笑った。
闇の中でも鮮明にわかる、圧倒的な心理的優位に立った余裕の笑み。最初から、僕がまんまと挑発に乗って息を切らして走ってくることを、すべて見透かしていたかのような態度。その仕草のすべてが、僕の胸の奥の焦燥感をさらに激しく燃え上がらせる。

「……っ、待ってたのかよ」

乱れた呼吸をどうにか整えながら、僕は掠れた声を絞り出した。

「さあ、どうだろ? たまたま喉が渇いてたから、二本買っちゃっただけかもよ?」

彼女は細くしなやかな指先で、一本のボトルを僕の方へと軽く転がした。
カラカラカラ……と、硬いコンクリートの床をプラスチックが不規則に転がる乾いた音が、妙に大きく夜空に響く。僕は足元に転がってきたボトルを拾い上げた。手のひらに、痛いほどの冷たさと湿り気がじわじわと染み込んでいく。それを指が白くなるほど強く握り締めながら、僕は彼女の正面へと踏み出した。

「美月の、隠し事について教えてもらいに来たんだ。昼間のあの態度は何なんだよ。演技って、一体どういうことなんだ?」

ストレートに叩きつけた僕の問いかけを、美月は「はぁ」と可愛らしく小さくため息をつくことで軽く受け流し、再び夜空の月を見上げた。

「蒼汰って、本当にせっかちだね。秘密は秘密のままだから綺麗って、お昼に教えてあげたじゃん」

「ぐっ……、でも……!」

「じゃあさ」

美月は体育座りした膝の上にチョコンと顎を乗せ、上目遣いで僕の目を真っ直ぐに捕らえた。
昼間、太陽の下で見たあの派手なギャルメイクの奥にある琥珀色の瞳が、夜の闇の中で怪しく、そして恐ろしいほど妖艶に光っている。

「蒼汰が、この世界をどれくらい嫌いか教えてくれたら――私の秘密も、一つだけ教えてあげないこともないよ」

ドクン、と心臓が嫌な音を立てて跳ね上がった。
脳味噌に直接氷水を浴びせられたような感覚。見透かされている。僕がこの世界に馴染めず、冷めた絶望と諦めを抱えて生息していることを、彼女は最初から、僕の全細胞から匂いとして嗅ぎ取っていたのだ。

自分の心の柔らかく脆い奥底を、冷たい素手で直接触られたような恐怖と、激しい動揺が波のように押し寄せる。

でも、ここで引き下がるわけにはいかなかった。ここで目を逸らして逃げ出したら、僕は一生、彼女の退屈な日常を埋めるためだけの「暇つぶしの玩具」として消費されて終わってしまう。

僕は深く、冷たい夜気を肺いっぱいに吸い込み、彼女の瞳を真っ向から睨み返した。

「……質問に質問で返さないでよ。世界がどうとか、僕のことはいい。それより――」

僕はドスドスと力強い足取りで一歩進み、彼女との距離を決定的に詰めた。僕の背丈がつくる大きな影が、床に座る彼女の華奢な身体をすっぽりと覆い隠す。

「美月って、本当は一軍にいるの、疲れるんじゃないの?」

ピクリ、と美月の肩が微かに強張った。
いつも完璧な歪みのない微笑みを浮かべていた彼女の顔から、一瞬だけ、本当に瞬きを一つするほどの刹那、すべての感情と表情が綺麗に消え失せた。血の気の引いたような、冷徹な無表情。それこそが、彼女が初めて見せた「仮面の裏側」だった。

勝った、と直感が告げた。彼女の絶対的な余裕を、僕の言葉が弾丸となって突き破ったのだ。

けれど、彼女はすぐに「……ふぅ」と深く息を漏らすと、いつもの妖艶な、けれどどこか世界の終わりを見つめているような寂しげな笑みに戻ってしまった。彼女は重力を感じさせない動作でしなやかに立ち上がり、僕の目の前、お互いの吐息が触れ合うほどの至近距離まで歩み寄ってくる。

「……ふーん。生意気。お昼はあんなにオドオドしてたクセにさ」

美月は下から僕の顔を覗き込み、いたずらが成功した子供のような邪気のない顔で小さく囁いた。彼女の体温と、甘く冷たい香りが僕の理性を狂わせそうになる。

「じゃあ、秘密の代わりに、一つだけ特別なルールを作ってあげよっか」

「ルール……?」

「うん。……夜だけは、私のこと『さん』付けで呼ぶの、禁止ね」

一瞬、耳に届いた言葉の意味が理解できず、僕は固まったまま立ちつくした。

「美月、って呼んで。お昼の私はみんなの『美月さん』だけど、夜の私は――美月、そして君だけのものだから」

冷たい夜風が、僕たちのわずかな隙間を激しくすり抜けていく。
彼女が提示した「夜だけのルール」。それは、秘密を暴くことよりも甘美で、そして残酷なほどに僕の心を縛りつける、二人だけの消えない境界線だった。

「一軍にいるのが疲れるか?だっけ。疲れないよ。だってこれが私の仮面。蒼汰にもあるでしょ仮面。」

美月の視線は月だけを捉えていた。その横顔は変わらず美しくも無機質なものだった。

「クラスで目立たないように、誰の記憶にも残らないように『背景』のふりをしているそれ。傷つかない場所から人を観察して、分かったような気になってるそれ。……それだって、立派な仮面じゃない?」

頭の奥を冷たい針で突かれたような錯覚。
息が止まる。僕が「冷めた傍観者」を気取ることで守ってきた泥臭い自尊心、この狂った学校生活をやり過ごすために貼り付けていた「背景という名の仮面」を、彼女は僕の顔を見ることすら息をするように易々と暴いてみせたのだ。

「そうかも、僕はこの仮面を通して世界を傍観者として観測したいんだ。夜の美月さんはいまだに体感したことのない覇気を感じ取れたんだ。この仮面で初めて人生に色のついたフィルターが僕の視界を彩ったんだよ」

「正直で偉いね、放課後は蒼汰を少し挑発することでここへ呼び出したかっただけなんだ」

「……僕を、呼び出したかった……?」

掠れた声で問い返す僕に、美月はふっと息を漏らすと、ようやく月真下から僕へとその瞳を滑らせた。夜の闇の中でもなお惹きつけられる琥珀色の瞳。そこには、昼間の太陽のような虚飾も、昨夜の消えてしまいそうな淡さもなく、ただ僕という存在だけを真っ直ぐに映し出していた。

「だって、昼間のあんな騒がしい世界で『私』を分析していたのは、蒼汰だけでしょ?」

「……っ」

「みんなが欲しいのは『完璧な美月さん』っていう記号だけ。でも蒼汰は違った。私を観察して、勝手に失望して、勝手に探ろうとしてた。……だから試してみたくなったの。この夜の暗闇に、私と同じような無機質な仮面を持った男の子を引っ張り込んだら、どうなるのかなって」

「僕は瀬戸美月を取り巻くあの舞台に少し興味があっただけ。君がまさかこんなにも艶麗を含む人物だとは思わなかった。あの美月さんというのは何となく虚像であるような気はしていたけどまさかここまでとは思ってもみなかったよ」

人を褒めた。君は美しい存在だと無意識に発している自分に嫌気を感じるわけでもない。
どこか焦燥感の他には儚さの湿り気のような濃密な感覚も介在していた。月光に照らされる夜の屋上、向かい合う僕ら、人間に一切の抵抗がなくなりここまで心開くことは初めてのことだった。普段の僕では到底考えられないほどに。
何なんだこの人物は。艶やかな笑みは僕に何を訴えているんだ。本当に笑ってはいないだろうか、それほどに謎めいた人物。

「ありがとう、ずいぶん混乱してるみたいだね。今蒼汰に見せているこの性格も仮面なのではないかって思ってる?」

僕は沈黙を貫く。生ぬるく肌に張り付く湿った風が全身を覆う。

「秘密は秘密のままだから美しいんだよ、今なら納得してくれるはず。私はもう帰るから。また同じ時間に、同じ場所でね。合図は私が出すから。それじゃ」

この空間を切り裂くかのように扉の重い音が鳴り彼女は暗闇へと姿を消した。僕はしばらくその場に硬直し動くことはできなかった。
彼女の光跡が今もここには存在している。それを眺めながら僕は彼女の言動を反芻することしかできなかった。
虫の声すら聞こえていなかったこの空間に、世界が今あの空間が終わったことに気が付いたかのようにただ車の走行音という環境音を奏でる。僕はコンクリートに転がったペットボトルを拾い暗闇に象徴的に光るテールランプをただ眺めていた。