その結婚、ロックンロールに抱きしめて

 お義母さんが起きてこない。
 いつもなら、朝食の準備ができる午前6時頃に、自分からリビングまで来るのに、一体どうしたんだろう。
 ここ数日、お義母さんの食べる量が減っているのも気にかかる。今夜はヒロくんが8日ぶりにレコーディングから帰ってくるから、このことを真っ先に伝えようとは思っていたが……。心配だ。
 お義母さんの部屋のドアをノックする。
「お義母さん、朝ご飯ですよ」
 呼びかけても返事がない。
 まさか。
 お義母さんの食べる量は減ったが、昨日もリビングで一緒にテレビを見たり、オヤツを食べたりとそれなりに元気だった。それなのに、急に何かが起こったらどうしよう?
 さらにノックをする。
「お義母さん、お義母さん! 聞こえますか?」
 心臓が高鳴り、額から汗が流れる。
「入りますよ!」
 思い切って、ドアを開けて中に入る。
「大丈夫ですか?」
 お義母さんは、顔を歪め、床にうずくまっていた。ずっと胸に手を当てて、かなり痛そうだ。そして、私の耳元で声をひねり出す。
「……救急車を呼んでもらっていい?」
「はい!」
 慌てて119番通報して、救急車を呼ぶ。すると、すぐにけたたましいサイレンを響かせて、やってきた。救急隊員3人がタンカーを持って、部屋の中に入ってくる。そして、お義母さんの状態を確認するとタンカーに乗せた。
「あなたは、娘さんですか?」
 隊員は早口で質問してくる。
「はい。義理の娘です」
「ご本人が小声で言ってましたが、癌だそうですね?」
「そうです」
「その癌は進行していますか?」
「進行性の癌らしいのですか、これまで治療はしていなくて、昨日まで元気でした」
「なるほど。これまで、急に病院に運ばれたことはありますか?」
「おそらく初めてです」
「分かりました。では、かかりつけの世田谷病院へ運びます。おそらくもう症状の改善は期待できませんから、緩和ケアになると思います」
 改めて症状の改善が期待できない、と言われるとやり切れない。
「今から、病院に行きますので同行してください」
「はい」
 タンカーで運ばれるお義母さんと一緒にエレベーターに乗り込むと、お義母さんは少し痛みがやわらいだのか、表情が穏やかになっている。
 よかった。
 救急隊員たちはマンション前に駐車した救急車の後部で、お義母さんをタンカーからキャスターの付いたストレッチャーに乗せ換えた。そして、救急車の後部へと運び込まれる。私も指示に従ってストレッチャーの隣に設置されたイスに座った。
「ごめんね」とお義母さんが謝る。部屋でうずくまっていた時よりも、随分声が出るようになっていた。
「謝らなくていいです。私は家族ですから。ちゃんと着いて行って手続きも全部やりますから、安心してくださいね」
「ありがとう。もう、自宅には戻れないだろうね」
「そんなことないです。痛みが落ち着いたら帰りましょう」
「自分の身体だから、分かるのよ」
「そんなの、……そんなの嫌です!」
 悲しくて、私が泣いてしまった。
「ゆずちゃん、泣かないで。大丈夫。お迎えは、もう少し先だと思うわ」
 それでも、悲しい。ヒロくんの活躍を見守りながら、自宅で最後まで過ごしたかっただろうに。私は自分の無力さに打ちのめされそうになる。
 ──お義母さんが痛みでうずくまっていたから、救急車で病院に向かってる。今は少し落ち着いて話せるようにはなってるよ。
 救急車で病院に運ばれる最中、SNSでヒロくんに状況を伝えた。
 ──救急車呼んでくれてありがとう。オレもすぐに病院に行く。
 すぐにヒロくんから返信がくる。
 病院に着いて、主治医の診察が終わると、お義母さんはそのまま入院となった。病室は有名人のヒロくんが出入りしやすいように、一番グレードの高い特別個室を選んだ。
 お義母さんは検査が終わると、病室で身体を色んな機器とつながされ、見ていて痛々しい。
「痛み止めが効いているから、すごく楽になったわ」とお義母さんは笑った。しかし、これは治療ではない。苦痛をしのぐためだけのものだから、もう、最後までこのまま、ということになる。
「母さん、大丈夫か?」
 その時、ドアをノックもせずにヒロくんが病室に入ってきた。そして、ベッドの側のイスに座る。
「うん。もう、今は痛み止めが効いて、すっかり落ち着いたわ。それよりあなたは仕事中だったんでしょ? ここにいていいの?」
「仕事なんて、どうにでもなるよ」とヒロくんは強がった。
「ゆず香、ありがとう。助かったよ」
 私はヒロくんに頼りにされるのが、嬉しい。
 お義母さんが落ち着いているので、ヒロくんと私は、一旦自宅に帰ることにした。
「オレ、ここまで車で来たから、ゆず香も一緒に乗って行けばいいよ」
「でも、二人で外に行くのはいけないって、春奈さんから厳しく言われてるけど……」
「いいって。状況が状況だからさ」
「う……ん」
「ごめん、母さん、オレとゆず香は帰るからな。何かあったら遠慮しないで連絡しろよ」
「はいはい。それより、ひろしは連日の仕事で疲れているから、運転、気を付けてね」
 お義母さんに手を振って、病室を出る。
 長い1日だった。
 朝から救急車でお義母さんとここまで来て、入院の手続きや準備などしてから付き添っていたら、もう、夜になっていた。
 エレベーターで1階まで降りて、病院の外へと出ると辺りは暗闇に包まれている。ヒロくんと駐車場へと歩いているその時、不意にフラッシュライトが私たちに向けられた。
 え? これって、撮影されてる……!?
「やった! スクープだ!!」と声を上げるカメラを持った記者らしき人が1人いた。
「週刊東西の記者です。東松さんですよね? 一緒にいるこの女性は、恋人ですか? 同居しているんですか?」
 記者は若い女性だ。カメラで撮影しながら早口で質問してくる。
「やめろ!」
 ヒロくんが怒鳴っても、その女性記者はひるまない。
「ゆず香は一般人だぞ。撮影するな」
 ヒロくんは私が撮影されないように前に立ちはだかる。
「お相手は一般人なんですね? しかも、呼び捨てで呼ぶということは、かなり深い仲なんですね」
「ちっ。ゆず香、逃げるぞ」
 ヒロくんに従って、その場を走って車まで逃げる。記者も追いかけてきた。
 あった! ヒロくんの車だ。
 私は、車の後部座席に乗り込むと、撮影されないように身体をかがめる。記者は車のすぐ横まで来て、車内を撮影しようとカメラを向ける。なんて執念なんだ。
「出発するぞ!」
 ヒロくんは、車を急発進させる。すると、あの記者は、もう追ってこなかった。
「どうして、バレたんだろう?」
 運転しながら、ヒロくんは困惑している。
「ごめんなさい」
 私は、後部座席から身を乗り出して話しかける。
「ゆず香は何も悪くないさ。それよりも、今日の時点で、病院に記者が張ってるってことは普通なら、ありえない。何でだろう?」
 確かに、あの記者はお義母さんのかかりつけの病院を知っていて、なおかつ今朝、119番通報したことまで把握していたことになる。そんなこと、ありえない話だ。
「まさか、あのマンションに盗聴器が仕込まれているとか?」
「ヒロくん、それはないよ」
 私は即答した。
「何で分かる?」
「私、便利屋だもん。いつも盗聴器発見機を持ってるの。あの部屋は全部、調査済だよ。設置されてない」
「そんなものを持っているのか?」
 私は、ポケットから発見機をヒロくんに見せた。
「うん、これ。清掃などの仕事を頼まれて誰かの自宅に入る時、無料サービスで盗聴器がないかチェックしてあげるの。その代わり、盗聴器が見つかった場合は別途で高い料金をもらって取り外すんだけどね」
「さすがだな。でも、盗聴でもないとなると、……」
「近い人の裏切ね」
「やっぱり、そうか。内部リークだな」
 何の証拠もないけれど、頭の中に春奈さんが浮かんだ。
「ヒロくんに、心当たりはある?」
「マネージャーの春奈さんかな」
 お互いの疑う相手が一致した。
「でも、もう、春奈さんはこの仕事を辞めたんだ」
「辞めた?」
 思いがけないことを聞いた。私を目の敵にしていたあの人が辞めるなんて……。
「オレ、告白されてさ。先週、断ったんだよ。それで、辞めちゃったみたい」
「じゃあ、復讐……?」
「うーん、確証はないけどな」
 その1週間後、私たちの写真が週刊東西のスクープ記事として掲載されてしまった。