「ゆずちゃん、そんなことできるの? すごい人だね」
リビングでエアコンの清掃をしていたら、お義母さんが近付いてきた。
「こういう作業、得意なんです」
床が汚れないようにビニールのシートを広げ、脚立に乗って、エアコンの上部カバーを開けた。やっぱり、汚れが溜まっている。夏が近付くこれからの時期は冷房を使うことが多いから、今のうちに清掃はしておきたい。
私は便利屋の仕事でエアコンの清掃をたくさん受けてきたから、慣れている。清掃道具は、近くのホームセンターで昨日買っておいた。
まず、エアコンのコンセントを抜いてスイッチが入らないようにする。そして、フィルターを外して掃除機で誇りを吸い取ると、水洗いをして、バルコニーで乾かす。吹き出し口やルーバーはクエン酸配合の中性洗剤を含ませた布で丁寧に拭いていった。
ここまでが一般的な家庭がするエアコン清掃だが、私はプロだからさらにエアコン内部の、熱交換機も清掃する。歯ブラシで熱交換機を傷付けないように表面の汚れを取ると、専用の洗浄剤を吹きかけ、汚れを染み出していった。
さらに、熱交換機から水滴を吐き出すドレーンも詰まりがないか確認し、洗浄剤を流して完了だ。
これでいい。
「ひろしはいい人と結婚したもんだ」
「数日かけてエアコンを全部、清掃しますね」
「それはありがたいね。ケガをしないでね」
「はい」
お義母さんは、いつも優しい。
エアコンのフィルターを戻し、カバーを閉める。これで、今シーズンは順調に作動するだろう。一番大きなリビングのエアコンが終われば、後は各部屋の小さなエアコンばかりだから、後は簡単だ。
リビングの後片付けを終えようとした時、ヒロくんから電話がかかってきた。
「どうしたの? 今日はレコーディングで都内にいるんじゃなかったっけ?」
「うん。オレ、スタジオに持ってくるギターを間違えちまってさ」
「それ、大変じゃない?」
「うん。それで、悪いけど、スタジオまで持ってきてくれないかな?」
「え? ヒロくんの作業部屋にいっぱい立てかけてあるあのギターの中で、どれが必要がものか私に分かるかな?」
通話をしながら、ヒロくんの作業部屋に入る。部屋の中には20本くらい、ギターがスタンドに立てかけた状態で並んでいた。
「今、ヒロくんの作業部屋に入ったけどさ。この中から見つけるの? 素人の私に無理じゃない?」
「大丈夫。形が特徴的だから、すぐ分かると思う。持ってきてほしいのはフライングVっていうギターで、アルファベットのVを逆さにしたようなボディのギターが、その中に1本だけあるよね?」
私は、並んだギターを見回して形を確認する。
「あった! これ、音楽番組でギタリストが弾いてるのを見たことがある」
「それをギターケースに入れて持ってきてほしいんだ」
「フライングVを入れるケースは、部屋に置いてあるどれを使ってもいいの?」
ややこしいことに、ケースもたくさん棚に並んでいて、もう訳が分からない。
「いや、専用のケースが一つあるんだけど……」
通話しながら、私はケースを探す。見つからずに困っていたら「これよ」と背後から声がした。振り向くと、お義母さんが一つのケースを指さしている。
「フライングVのケースでしょ。これで間違いないわ」
お義母さん、すごっ。
「ヒロくん、お義母さんが教えてくれたから分かった」
「よかった。スタジオの場所は今からSNSで送るな。20分もかからないと思う」
「はーい」
電話を切ると、お義母さんは微笑んていた。
「ひろしは昔から忘れ物が多くてね。ゆずちゃん、ごめんね」
「いえいえ。それより、お義母さんはエレキギターやケースのこと、詳しくてビックリしました」
「本当は興味ないのよ。ただ、ひろしが演奏するから覚えただけ。これからも、あの子、こういう忘れ物すると思うの。私がこの世からいなくなっても、すまないけど助けてあげてください」
「もちろんですよ。っていうか、お義母さん。そんな淋しいこと言わないでください」
「私は、もう、死ぬ覚悟はできているけど、あの子のことだけが気がかりでね。あの子は誰かが側で支えないと生きていけないから……」
お義母さんは泣いていた。
それを見て、私まで涙が出てくる。私は思わず、お義母さんを抱きしめた。
「大丈夫です。頼りない私ですけど、それでもちゃんとヒロくんを支えますから。約束します」
「ありがとう」
力なく頭を下げるお義母さんが、不憫で仕方がない。私はヒロくんというよりも、お義母さんを支えたかった。神様はどうして、こんないい人の寿命を短くしたのだろう。
手早くギターをケースに入れると、それを肩にかけてマンションを出た。思っていたよりもギターは重い。ギタリストはいつもこんな重いものを肩にかけて演奏しているのか。私には無理だ。
ヒロくんの送ってくれたスタジオの場所をケータイのアプリで確認しながら、地下鉄の駅を目指す。
ヒロくんがレコーディングしているスタジオに行けるなんて、ドキドキする。
きっと、このギターは有名なだけあって高級品なのだろう。途中でギターが電車内の手すりや窓などにぶつからないように注意した。
そういえば、あの偶然のキス以来、何もしていない。むしろお互いがよそよそしくなって、何ともやり切れない状態だ。
でも、冷静に考えれば、半年だけの結婚生活だ。
信じてくれているお義母さんには悪いけど、私は期間が過ぎれば、ただの独身の便利屋に戻る。だから、変に情を持たない方が楽だ。
そんなことは頭では分かっているのだけど……。
モヤモヤしながら、ヒロくんが待つスタジオに着いた。レコード会社の専用スタジオのようで、入口には「関係者以外立入禁止」と表示されている。
私はドアを開け、中へと入ると、キツイ目をした女子が私を睨んでいた。
春奈さんだ。
「ありがとう。ここで私がギターを受け取るから、もう帰って」
届けたというのに、ホント失礼なヤツだ。3日間会っていないから、一目でもヒロくんを見たいのに。
春奈さんの背後にあるスタジオには珍しい機器がいっぱい並んでいる。そして、ヒロくんの歌声が響いていた。
「これも、ヒロくんに渡してください」
私は、途中のお菓子屋さんで買った揚げせんべいを春奈さんに押し付ける。これはヒロくんの大好物らしい。お義母さんから聞いたから間違いない。
「何よ、この貧相なお菓子は」
「すいません、これはゆきこさんからの差し入れなんです」
お義母さんの名前を出すと、春奈さんは途端に態度が変わった。
「それはありがたいわね。ひろしさんにちゃんと渡しておきます」
「ありがとうございます。失礼します」
立ち去ろうとすると、春奈さんは「待って」と呼び止めた。
「私も、ひろしさんのこと、好きだから!」
え? マネージャーなのに、タレントを好きになってもいいの?
「いいよね? あなたは雇われだから、関係ないでしょ? だから邪魔しないでね」
「そんなことを私に言われても……」
「邪魔してないって言うの? あざとい女ね」
「私が、あざとい?」
「ひろしさんは、ここ数日、レコーディング中もどこか上の空で、きっと、あなたのことを意識し始めている。それが許せないのよ」
本当に? そうだったらいいけど。
「それは気のせいじゃないですか? ヒロくんは私に対していつも、ただの業者扱いですよ」
「ふん。じゃあいいけど、二人きりになったタイミングで、変な色気出さないでね」
「私にどうのこうの言うのではなくて、……あなたが正々堂々と告白すればいいじゃない」
「そうよ。近々、告白するつもり。あなたには伝えておくわ」
「勝手にしてください。雇われの私は帰ります」
スタジオを背に、私は来た道を戻った。
そうだ、これでいい。
雇われの私は、こういう身分なんだ。春奈さんは私よりも長い時間、ヒロくんと一緒にいて、あんなにかわいいから、きっとすぐに心を奪われるだろう。
涙を流して、私は歩き続けた。
リビングでエアコンの清掃をしていたら、お義母さんが近付いてきた。
「こういう作業、得意なんです」
床が汚れないようにビニールのシートを広げ、脚立に乗って、エアコンの上部カバーを開けた。やっぱり、汚れが溜まっている。夏が近付くこれからの時期は冷房を使うことが多いから、今のうちに清掃はしておきたい。
私は便利屋の仕事でエアコンの清掃をたくさん受けてきたから、慣れている。清掃道具は、近くのホームセンターで昨日買っておいた。
まず、エアコンのコンセントを抜いてスイッチが入らないようにする。そして、フィルターを外して掃除機で誇りを吸い取ると、水洗いをして、バルコニーで乾かす。吹き出し口やルーバーはクエン酸配合の中性洗剤を含ませた布で丁寧に拭いていった。
ここまでが一般的な家庭がするエアコン清掃だが、私はプロだからさらにエアコン内部の、熱交換機も清掃する。歯ブラシで熱交換機を傷付けないように表面の汚れを取ると、専用の洗浄剤を吹きかけ、汚れを染み出していった。
さらに、熱交換機から水滴を吐き出すドレーンも詰まりがないか確認し、洗浄剤を流して完了だ。
これでいい。
「ひろしはいい人と結婚したもんだ」
「数日かけてエアコンを全部、清掃しますね」
「それはありがたいね。ケガをしないでね」
「はい」
お義母さんは、いつも優しい。
エアコンのフィルターを戻し、カバーを閉める。これで、今シーズンは順調に作動するだろう。一番大きなリビングのエアコンが終われば、後は各部屋の小さなエアコンばかりだから、後は簡単だ。
リビングの後片付けを終えようとした時、ヒロくんから電話がかかってきた。
「どうしたの? 今日はレコーディングで都内にいるんじゃなかったっけ?」
「うん。オレ、スタジオに持ってくるギターを間違えちまってさ」
「それ、大変じゃない?」
「うん。それで、悪いけど、スタジオまで持ってきてくれないかな?」
「え? ヒロくんの作業部屋にいっぱい立てかけてあるあのギターの中で、どれが必要がものか私に分かるかな?」
通話をしながら、ヒロくんの作業部屋に入る。部屋の中には20本くらい、ギターがスタンドに立てかけた状態で並んでいた。
「今、ヒロくんの作業部屋に入ったけどさ。この中から見つけるの? 素人の私に無理じゃない?」
「大丈夫。形が特徴的だから、すぐ分かると思う。持ってきてほしいのはフライングVっていうギターで、アルファベットのVを逆さにしたようなボディのギターが、その中に1本だけあるよね?」
私は、並んだギターを見回して形を確認する。
「あった! これ、音楽番組でギタリストが弾いてるのを見たことがある」
「それをギターケースに入れて持ってきてほしいんだ」
「フライングVを入れるケースは、部屋に置いてあるどれを使ってもいいの?」
ややこしいことに、ケースもたくさん棚に並んでいて、もう訳が分からない。
「いや、専用のケースが一つあるんだけど……」
通話しながら、私はケースを探す。見つからずに困っていたら「これよ」と背後から声がした。振り向くと、お義母さんが一つのケースを指さしている。
「フライングVのケースでしょ。これで間違いないわ」
お義母さん、すごっ。
「ヒロくん、お義母さんが教えてくれたから分かった」
「よかった。スタジオの場所は今からSNSで送るな。20分もかからないと思う」
「はーい」
電話を切ると、お義母さんは微笑んていた。
「ひろしは昔から忘れ物が多くてね。ゆずちゃん、ごめんね」
「いえいえ。それより、お義母さんはエレキギターやケースのこと、詳しくてビックリしました」
「本当は興味ないのよ。ただ、ひろしが演奏するから覚えただけ。これからも、あの子、こういう忘れ物すると思うの。私がこの世からいなくなっても、すまないけど助けてあげてください」
「もちろんですよ。っていうか、お義母さん。そんな淋しいこと言わないでください」
「私は、もう、死ぬ覚悟はできているけど、あの子のことだけが気がかりでね。あの子は誰かが側で支えないと生きていけないから……」
お義母さんは泣いていた。
それを見て、私まで涙が出てくる。私は思わず、お義母さんを抱きしめた。
「大丈夫です。頼りない私ですけど、それでもちゃんとヒロくんを支えますから。約束します」
「ありがとう」
力なく頭を下げるお義母さんが、不憫で仕方がない。私はヒロくんというよりも、お義母さんを支えたかった。神様はどうして、こんないい人の寿命を短くしたのだろう。
手早くギターをケースに入れると、それを肩にかけてマンションを出た。思っていたよりもギターは重い。ギタリストはいつもこんな重いものを肩にかけて演奏しているのか。私には無理だ。
ヒロくんの送ってくれたスタジオの場所をケータイのアプリで確認しながら、地下鉄の駅を目指す。
ヒロくんがレコーディングしているスタジオに行けるなんて、ドキドキする。
きっと、このギターは有名なだけあって高級品なのだろう。途中でギターが電車内の手すりや窓などにぶつからないように注意した。
そういえば、あの偶然のキス以来、何もしていない。むしろお互いがよそよそしくなって、何ともやり切れない状態だ。
でも、冷静に考えれば、半年だけの結婚生活だ。
信じてくれているお義母さんには悪いけど、私は期間が過ぎれば、ただの独身の便利屋に戻る。だから、変に情を持たない方が楽だ。
そんなことは頭では分かっているのだけど……。
モヤモヤしながら、ヒロくんが待つスタジオに着いた。レコード会社の専用スタジオのようで、入口には「関係者以外立入禁止」と表示されている。
私はドアを開け、中へと入ると、キツイ目をした女子が私を睨んでいた。
春奈さんだ。
「ありがとう。ここで私がギターを受け取るから、もう帰って」
届けたというのに、ホント失礼なヤツだ。3日間会っていないから、一目でもヒロくんを見たいのに。
春奈さんの背後にあるスタジオには珍しい機器がいっぱい並んでいる。そして、ヒロくんの歌声が響いていた。
「これも、ヒロくんに渡してください」
私は、途中のお菓子屋さんで買った揚げせんべいを春奈さんに押し付ける。これはヒロくんの大好物らしい。お義母さんから聞いたから間違いない。
「何よ、この貧相なお菓子は」
「すいません、これはゆきこさんからの差し入れなんです」
お義母さんの名前を出すと、春奈さんは途端に態度が変わった。
「それはありがたいわね。ひろしさんにちゃんと渡しておきます」
「ありがとうございます。失礼します」
立ち去ろうとすると、春奈さんは「待って」と呼び止めた。
「私も、ひろしさんのこと、好きだから!」
え? マネージャーなのに、タレントを好きになってもいいの?
「いいよね? あなたは雇われだから、関係ないでしょ? だから邪魔しないでね」
「そんなことを私に言われても……」
「邪魔してないって言うの? あざとい女ね」
「私が、あざとい?」
「ひろしさんは、ここ数日、レコーディング中もどこか上の空で、きっと、あなたのことを意識し始めている。それが許せないのよ」
本当に? そうだったらいいけど。
「それは気のせいじゃないですか? ヒロくんは私に対していつも、ただの業者扱いですよ」
「ふん。じゃあいいけど、二人きりになったタイミングで、変な色気出さないでね」
「私にどうのこうの言うのではなくて、……あなたが正々堂々と告白すればいいじゃない」
「そうよ。近々、告白するつもり。あなたには伝えておくわ」
「勝手にしてください。雇われの私は帰ります」
スタジオを背に、私は来た道を戻った。
そうだ、これでいい。
雇われの私は、こういう身分なんだ。春奈さんは私よりも長い時間、ヒロくんと一緒にいて、あんなにかわいいから、きっとすぐに心を奪われるだろう。
涙を流して、私は歩き続けた。



