「ただいま」
10日後に、ヒロくんは帰ってきた。しかも、深夜の11時過ぎに。玄関に出迎えると、ヒロくんの背後にはメガネをかけた若い女の子がいる。
「お、か……えり」
その女の子の視線が厳しくて、動揺してしまう。
この女子、誰? 美人なんだけど。まさか、本物の恋人とかじゃないよね?
思わず凝視していると、ヒロくんは笑った。
「ゆず香、紹介するよ。マネージャーの春奈さんだ」
「マネージャー?」
「和南春奈です。よろしくお願いします」
春奈さんというマネージャーは、頭を下げて挨拶するがまったく笑わない。
「妻のゆず香です」
つい、マウントを取ろうと、「妻の」というフレーズを入れてしまった。
「妻、とおっしゃっていますが、アレですよね」と、春奈さんは小声で言う。
え? 私が便利屋だということを知ってるの?
「マネージャーには、ゆず香のことを全部伝えてあるよ」
「そう……」
「ちょっと、ゆず香さん、いいかしら」
春奈さんはメガネのフレームを指で上げ、厳しい目で私を見る。
「東松さんとあなたのことがバレたら、大変な損害が発生します。そこを十分に理解していただきたいです」
「はい」
ずい分な言い方だ。何でこの人は、こんなに偉そうな態度を取るのだろう。
「今後、外部の人に連絡したり、接触したりする場合は、細心の注意を払ってください。東松さんと二人きりで外出するのは、基本的に禁止です。それと個人のSNSを公開する際は、画像の添付はやめてください」
「え? そんなことまで口出しされるんですか? 私の勝手よね?」
「いいえ、ダメです」
「いくら何でも、SNSの画像くらいは何を公開しようが私の自由でしょ?」
「その画像に映り込んでいる背景やモノ、ガラスの反射などでスキャンダルを特定されたケースがいっぱいあります。webの特定班のリサーチ力は異常ですので、控えてください」
「そんな……」
険悪な状況を見て、ヒロくんは「まあまあ」と声をかけてくる。
「マネージャー、いきなりゆず香に全部を完璧にこなさせるのは無理だよ。少しずつでいいだろ?」
「でも……」
春奈さんは、ヒロくんに言われると弱々しく態度が変わる。ヤなヤツだ。
「じゃあ、せめてゆず香さんがSNSを公開する場合は、私に事前チェックをさせてください。それと、二人きりでどこかに行くなら、ゆず香さんが私に事前連絡をしてください」
「うーん」
ヒロくんも困っている。何て強情な女。
「ゆず香さん、ゆきこさんは、もう寝ていますね」
「はい。この時間はいつも起きていません」
「じゃあ。ゆきこさんに聞かれないから、言わせてもらいます。あなたは、雇われでしょ? カン違いしないでね」
私は悔しくて、涙があふれる。そのとおり、私はただの「雇われ」だ。そんなのは分かっているけれど、このマネージャーに言われたくない。
「おい、マネージャー。それはいくら何でも言っちゃダメだろ」
「いいえ。本当の奥さんならこんなことは言いません。雇われは雇われ。私と同じです。もし、偽りの関係とはいえ、バレたら、あなたが一生かかっても負えないくらいの損害が出るのよ」
私は言葉が出なかった。
「嫌なら、田舎に帰りなさいよ」
「私はプロの便利屋です。依頼者の依頼は、何が何でもやり遂げます」
「じゃあ、約束守ってね。失礼します」
最後の最後までヤな感じでマネージャーの春奈は立ち去った。
「事務所のことが心配だから最初に厳しく言ったんだろうけど、まあ、気にすんな」とヒロくんは言う。
「あの人の言ってることは間違ってない。全部、正論だよ」
「そうか?」
正論だから、ここまで傷付くのだ。私は涙を拭ってリビングに戻る。
ヒロくんはお風呂に入って、出たらリビングで私の隣に座ってビールを飲み始めた。
「何か食べるもの、つくろうか?」と聞くと、「太るといけないから、このビールだけでいいや」と答える。
スターは常に体型を気にしなければいけないから大変だ。私なんて、うっかり2キロ太るなんて、ザラにあるのに。
「一緒に飲む?」
「うん」
今夜は飲みたい気分になった。ヒロくんは、冷蔵庫から缶ビールを6本も持ってきてくれる。スーパーやコンビニで見たこともない銘柄のビールだ。
「こんなにたくさん飲むの?」
「ゆず香、飲もうよ。これくらい飲める」
私は、ヒロくんの隣に座ると缶のプルタブを開け、勢いよく口の中に注ぎ込む。とてもフルーティな味わいで、一気に体に染み渡った。
「ごめんな」
「何で謝るのよ」
「いや、これじゃ、ゆず香の自由がなくてあんまりだからさ。オレ、マネージャーにはゆず香に口を出さないように言うよ」
「いいよ。だってこれ、仕事だもん。……そうでしょ?」
「……そうだけど」
「お義母さんとはうまくやってるから、安心して」
「ああ、それが一番助かる」
「私ね、実は、便利屋の仕事は、もうほぼほぼ破産寸前だったんだ」
「え? 口コミサイトでは優良な店って書いてあったぞ」
「そりゃ、お客さんに喜んでもらおうとがんばってきたから、依頼者の印象はいいかも。でも採算が全然取れてなかった。私、経営のセンス、ないのよね」
「そんなことないって」
「だから、ヒロくんに会っていなかったら今頃、銀行から見放されて、倒産してたな。だからヒロくんには感謝している。昔からそうなのよ。困っている人がいたら、お金に関係なく助けたくなるっていうか、……」
「それって、カッコいいぞ」
「そう?」
「おう。ロックな精神がある」
「この仕事が終わったら、また、岐阜に戻って便利屋の仕事を一から頑張ってみる」
「羨ましいな」
「そう?」
「うん。オレも実は、落ち着いたら今の仕事辞めたいんだよね」
「ヒロくんが? どうして?」
「こういう目立つ仕事は好きじゃない。それこそ、オレもゆず香について行って、便利屋をしてみたい」
本気で言っているのだろうか? こんなに売れていて、お金も知名度もあって誰もが羨むような存在なのに。
信じられない。
「それはもったいないよ」
「オレは、ゆず香が羨ましい」
ヒロくんに愚痴を言いながらビールを飲んでいるうちに、気が付いたら、二人で6本飲み干していた。
「かなり酔っぱらっちゃった。水、持ってくるね」
私は立ち上がると、足元がふらついて、倒れかかった。それをヒロくんは慌てて腕を出して支えようとするが、私の倒れ込む勢いに負けて、二人とも床に倒れる。
その瞬間、視界が真っ暗になり、唇に何かの感触があった。
温かい……。ヒロくんの香水の匂いが私を包む。
気が付けば、ヒロくんが私の上に覆いかぶさっていて、すぐ近くに顔があった。
ええ!? ひょっとして、……キス、した?
あの感触、ヒロくんの唇だよね?
「今さ、……いや、何でもない」と、ヒロくんはごまかそうとする。
「キスしましたけど……」
「え? やっぱり、した?」
「うん。しかも、私、……キスするのは初めてです」
「えぇ! 初めて?」
「何よ、バカにするの?」
「いや、あのっ、……実はオレも……」
ヒロくんは、また信じられないことを言う。そんな訳ない。
「嘘つき。この前、映画の撮影で女優の森川さんとキスしてたじゃない。それに今までもドラマで何度かしてるんじゃないの?」
「仕事ではキスしたことあるけど、それだけだ。むしろ、仕事でしか、キスしたことないんだ」
「ホントに?」
「うん」
そして、私たちは床に重なったまま、お互い見つめ合って笑った。
「ゆず香が初めてって聞いて、嬉しいんだけど」
「私も、……嬉しい」
ずっと、こうしていたい。もう一度、キスしたいな。
すると、ヒロくんが両手で私の顔を覆い。親指で私の目をさする。
私は勇気を出して、目を閉じた。
「ゆず香……」
目をつむっていても、唇が近付いてきているのが分かる。もう、好きにしてほしい。
その時、ケータイの着信音がけたたましく鳴り響き、私とヒロくんを引き裂いた。
誰? こんな夜中なのに。鳴ったのは私のケータイではなかった。
「あぁ、マネージャーか。もしもし」
ヒロくんは立ち上がると、ポケットからケータイを取り出して、電話に出る。
あのマネージャーの春奈さんからの電話? 何でよ。
「分かってるって。近付いていないから」とヒロくんは答える。
こんな時間にわざわざ近付いているかどうかを電話で確認するって、何に対して? ひょっとして、私?
「今? これから寝ようとしてる。そうだよ。ゆず香とは別々の部屋だからさ」
部屋が別々かどうかなんて、マネージャーに関係ないでしょ! あの女、やっぱりムカつく。
「ああ、もういいだろ? 寝るから切るぞ」
せっかく、床で重なり合っていたのに。
「ごめん。じゃあ、寝る」
ヒロくんは、何もなかったように缶を集めてキッチンに持っていくと、そのまま奥の寝室に行く。
私は手前の別の部屋。
私とヒロくんを夢から覚めさせた、マネージャーの春奈さんは恐ろしい。
やっぱり、私はどこまでいっても、雇われなのだ。
10日後に、ヒロくんは帰ってきた。しかも、深夜の11時過ぎに。玄関に出迎えると、ヒロくんの背後にはメガネをかけた若い女の子がいる。
「お、か……えり」
その女の子の視線が厳しくて、動揺してしまう。
この女子、誰? 美人なんだけど。まさか、本物の恋人とかじゃないよね?
思わず凝視していると、ヒロくんは笑った。
「ゆず香、紹介するよ。マネージャーの春奈さんだ」
「マネージャー?」
「和南春奈です。よろしくお願いします」
春奈さんというマネージャーは、頭を下げて挨拶するがまったく笑わない。
「妻のゆず香です」
つい、マウントを取ろうと、「妻の」というフレーズを入れてしまった。
「妻、とおっしゃっていますが、アレですよね」と、春奈さんは小声で言う。
え? 私が便利屋だということを知ってるの?
「マネージャーには、ゆず香のことを全部伝えてあるよ」
「そう……」
「ちょっと、ゆず香さん、いいかしら」
春奈さんはメガネのフレームを指で上げ、厳しい目で私を見る。
「東松さんとあなたのことがバレたら、大変な損害が発生します。そこを十分に理解していただきたいです」
「はい」
ずい分な言い方だ。何でこの人は、こんなに偉そうな態度を取るのだろう。
「今後、外部の人に連絡したり、接触したりする場合は、細心の注意を払ってください。東松さんと二人きりで外出するのは、基本的に禁止です。それと個人のSNSを公開する際は、画像の添付はやめてください」
「え? そんなことまで口出しされるんですか? 私の勝手よね?」
「いいえ、ダメです」
「いくら何でも、SNSの画像くらいは何を公開しようが私の自由でしょ?」
「その画像に映り込んでいる背景やモノ、ガラスの反射などでスキャンダルを特定されたケースがいっぱいあります。webの特定班のリサーチ力は異常ですので、控えてください」
「そんな……」
険悪な状況を見て、ヒロくんは「まあまあ」と声をかけてくる。
「マネージャー、いきなりゆず香に全部を完璧にこなさせるのは無理だよ。少しずつでいいだろ?」
「でも……」
春奈さんは、ヒロくんに言われると弱々しく態度が変わる。ヤなヤツだ。
「じゃあ、せめてゆず香さんがSNSを公開する場合は、私に事前チェックをさせてください。それと、二人きりでどこかに行くなら、ゆず香さんが私に事前連絡をしてください」
「うーん」
ヒロくんも困っている。何て強情な女。
「ゆず香さん、ゆきこさんは、もう寝ていますね」
「はい。この時間はいつも起きていません」
「じゃあ。ゆきこさんに聞かれないから、言わせてもらいます。あなたは、雇われでしょ? カン違いしないでね」
私は悔しくて、涙があふれる。そのとおり、私はただの「雇われ」だ。そんなのは分かっているけれど、このマネージャーに言われたくない。
「おい、マネージャー。それはいくら何でも言っちゃダメだろ」
「いいえ。本当の奥さんならこんなことは言いません。雇われは雇われ。私と同じです。もし、偽りの関係とはいえ、バレたら、あなたが一生かかっても負えないくらいの損害が出るのよ」
私は言葉が出なかった。
「嫌なら、田舎に帰りなさいよ」
「私はプロの便利屋です。依頼者の依頼は、何が何でもやり遂げます」
「じゃあ、約束守ってね。失礼します」
最後の最後までヤな感じでマネージャーの春奈は立ち去った。
「事務所のことが心配だから最初に厳しく言ったんだろうけど、まあ、気にすんな」とヒロくんは言う。
「あの人の言ってることは間違ってない。全部、正論だよ」
「そうか?」
正論だから、ここまで傷付くのだ。私は涙を拭ってリビングに戻る。
ヒロくんはお風呂に入って、出たらリビングで私の隣に座ってビールを飲み始めた。
「何か食べるもの、つくろうか?」と聞くと、「太るといけないから、このビールだけでいいや」と答える。
スターは常に体型を気にしなければいけないから大変だ。私なんて、うっかり2キロ太るなんて、ザラにあるのに。
「一緒に飲む?」
「うん」
今夜は飲みたい気分になった。ヒロくんは、冷蔵庫から缶ビールを6本も持ってきてくれる。スーパーやコンビニで見たこともない銘柄のビールだ。
「こんなにたくさん飲むの?」
「ゆず香、飲もうよ。これくらい飲める」
私は、ヒロくんの隣に座ると缶のプルタブを開け、勢いよく口の中に注ぎ込む。とてもフルーティな味わいで、一気に体に染み渡った。
「ごめんな」
「何で謝るのよ」
「いや、これじゃ、ゆず香の自由がなくてあんまりだからさ。オレ、マネージャーにはゆず香に口を出さないように言うよ」
「いいよ。だってこれ、仕事だもん。……そうでしょ?」
「……そうだけど」
「お義母さんとはうまくやってるから、安心して」
「ああ、それが一番助かる」
「私ね、実は、便利屋の仕事は、もうほぼほぼ破産寸前だったんだ」
「え? 口コミサイトでは優良な店って書いてあったぞ」
「そりゃ、お客さんに喜んでもらおうとがんばってきたから、依頼者の印象はいいかも。でも採算が全然取れてなかった。私、経営のセンス、ないのよね」
「そんなことないって」
「だから、ヒロくんに会っていなかったら今頃、銀行から見放されて、倒産してたな。だからヒロくんには感謝している。昔からそうなのよ。困っている人がいたら、お金に関係なく助けたくなるっていうか、……」
「それって、カッコいいぞ」
「そう?」
「おう。ロックな精神がある」
「この仕事が終わったら、また、岐阜に戻って便利屋の仕事を一から頑張ってみる」
「羨ましいな」
「そう?」
「うん。オレも実は、落ち着いたら今の仕事辞めたいんだよね」
「ヒロくんが? どうして?」
「こういう目立つ仕事は好きじゃない。それこそ、オレもゆず香について行って、便利屋をしてみたい」
本気で言っているのだろうか? こんなに売れていて、お金も知名度もあって誰もが羨むような存在なのに。
信じられない。
「それはもったいないよ」
「オレは、ゆず香が羨ましい」
ヒロくんに愚痴を言いながらビールを飲んでいるうちに、気が付いたら、二人で6本飲み干していた。
「かなり酔っぱらっちゃった。水、持ってくるね」
私は立ち上がると、足元がふらついて、倒れかかった。それをヒロくんは慌てて腕を出して支えようとするが、私の倒れ込む勢いに負けて、二人とも床に倒れる。
その瞬間、視界が真っ暗になり、唇に何かの感触があった。
温かい……。ヒロくんの香水の匂いが私を包む。
気が付けば、ヒロくんが私の上に覆いかぶさっていて、すぐ近くに顔があった。
ええ!? ひょっとして、……キス、した?
あの感触、ヒロくんの唇だよね?
「今さ、……いや、何でもない」と、ヒロくんはごまかそうとする。
「キスしましたけど……」
「え? やっぱり、した?」
「うん。しかも、私、……キスするのは初めてです」
「えぇ! 初めて?」
「何よ、バカにするの?」
「いや、あのっ、……実はオレも……」
ヒロくんは、また信じられないことを言う。そんな訳ない。
「嘘つき。この前、映画の撮影で女優の森川さんとキスしてたじゃない。それに今までもドラマで何度かしてるんじゃないの?」
「仕事ではキスしたことあるけど、それだけだ。むしろ、仕事でしか、キスしたことないんだ」
「ホントに?」
「うん」
そして、私たちは床に重なったまま、お互い見つめ合って笑った。
「ゆず香が初めてって聞いて、嬉しいんだけど」
「私も、……嬉しい」
ずっと、こうしていたい。もう一度、キスしたいな。
すると、ヒロくんが両手で私の顔を覆い。親指で私の目をさする。
私は勇気を出して、目を閉じた。
「ゆず香……」
目をつむっていても、唇が近付いてきているのが分かる。もう、好きにしてほしい。
その時、ケータイの着信音がけたたましく鳴り響き、私とヒロくんを引き裂いた。
誰? こんな夜中なのに。鳴ったのは私のケータイではなかった。
「あぁ、マネージャーか。もしもし」
ヒロくんは立ち上がると、ポケットからケータイを取り出して、電話に出る。
あのマネージャーの春奈さんからの電話? 何でよ。
「分かってるって。近付いていないから」とヒロくんは答える。
こんな時間にわざわざ近付いているかどうかを電話で確認するって、何に対して? ひょっとして、私?
「今? これから寝ようとしてる。そうだよ。ゆず香とは別々の部屋だからさ」
部屋が別々かどうかなんて、マネージャーに関係ないでしょ! あの女、やっぱりムカつく。
「ああ、もういいだろ? 寝るから切るぞ」
せっかく、床で重なり合っていたのに。
「ごめん。じゃあ、寝る」
ヒロくんは、何もなかったように缶を集めてキッチンに持っていくと、そのまま奥の寝室に行く。
私は手前の別の部屋。
私とヒロくんを夢から覚めさせた、マネージャーの春奈さんは恐ろしい。
やっぱり、私はどこまでいっても、雇われなのだ。



