その結婚、ロックンロールに抱きしめて

 ヒロくんの家に行く途中、東京でしこたま買い込んでやった。普段なら買えない高いブランドのニットやスカート、デニム、下着のほか、暮らしていくためのアイテムを全部。
 そして、ヒロくんの言うとおり区役所にも寄って婚姻届を出した。
 夜だから、区役所は閉まっているかと思っていたら、夜間窓口があって、いつでも提出できるらしい。係の職員は「ただいま受け付けました。おめでとうございます」と笑顔で話してくれて、私はこの結婚が仕事上のものであるにもかかわらず、涙が出そうになる。
 そして、ようやく車はヒロくんのマンションに着いた。
「家って、ここ?」
 車窓から見える大都会の中にある閑静な街並み。そこにある高層マンションを見上げていた。
「そう、ここの35階」
 そして、ヒロくんはマンションの地下駐車場に車を停めた。私は、胸を高鳴らせて車の外に出ようとすると、「待って」とヒロくんが呼び止める。
「キャップでもハットでもいいから、オレにみたいに深く被ってくれ。あと、マスクも。週刊誌のカメラマンに撮影されたら困るだろ」
 そうだ、この入籍は秘密にする約束だった。
「分かった」
 私は言われるままに、買ったばかりのキャップとマスクを鞄から取り出して身に着ける。
「サングラスはないのか?」
「……ないですけど。それに、そもそもサングラスって見た目にイカツイからかける勇気が出なくって、今までかけたことないもん」
「サングラスしたことないのか? マジで? じゃあ、これやるよ」
 ヒロくんは、今かけている真っ黒のサングラスを外し、運転席から身を乗り出して、助手席に座る私にそのサングラスをかけてくる。その時、ヒロくんの素顔の顔がすぐ近くにきた。
 唇もすぐそこにある! これってキスしそうな距離感……。
 やっぱり肌もキレイ。スターは美容にも気を付けているのかな。
 するのかな、キス。だって、形上は夫婦なんだからキスしたっておかしくないもんね。
 ……と妄想していたら、急に私の視界が暗くなった。
 サングラスをかけると、こんな視界になるの? サングラスのレンズは外から見ると真っ黒で何も見えないような印象があるけれど、かけてみると周りの景色は意外によく見える。
「お、よく似合ってんじゃん」と言って、私の頭をポンポンした。
 これが、噂に聞く、頭ポンポン。失礼だし、ムカつくところもたくさんあるけど、この人なら、まあ、許せる。っていうかもっとしてくれてもいいけど。
「このサングラス、やるよ」
 そう言うヒロくんはポケットから別のサングラスを取り出してかける。
「このサングラス、オシャレ。愛用の大切なものよね? いいの?」
「ああ。じゃあ、外に出るぞ。オレが先に一人でそこのエレベーターで35階に行ってるから、後から追いかけてきてほしい。上で待ってる」
 週刊誌にスクープされないために、こういう面倒な対応が日常で必要らしい。
 先にヒロくんが、周りをキョロキョロしながら車の外に出て、エレベーターに乗り込んだ。
 しばらくして、私は買ったばかりの嫁入り道具を詰め込んだボストンバッグを引いて、車の外に出た。そして、ヒロくんと同じように周りをキョロキョロしてエレベーターに乗り込む。
 人から見られる、ということをこんなに意識することなんて、これまでなかった。
 確かに、「トウヒロ、熱愛発覚!」みたいな見出しが踊って、週刊誌の写真がネットに出回ると、私の存在などすぐにバレて大変な目に遭ってしまう。
 35階でエレベーターを降りると、ヒロくんが待っていてくれた。
「今から部屋に入るけどさ、夫婦ってことを忘れないでくれ。ライブで地方を回った数年前に、オレはゆず香と出会って付き合うようになって、遠距恋愛だったけど、今日結婚した、という設定だ」
 私はうなづく。そうか、誰かに関係を説明する機会あって、ボロが出ると私が便利屋だってバレてしまう。
 あれ? いや、この関係は秘密だから、そもそも設定なんかどうでもいいんじゃないの?
「秘密の関係だけど、そんな細かい設定って必要なの?」
「必要だ」
「まあ、じゃあ、これからゆっくり設定は考えようよ」
「ダメだ」
「どうしてよ。仕事をしていたらヒロくんが私の職場に急に現れて、『付き合ってください』って花束を渡してお願いされた、みたいな設定でもいいじゃん。それで、一度は断ったけど、何度もヒロくんがお願いするから、仕方なく付き合い出したっていうのもいいわよね」
「そんなのオレが嫌だ。もういいから、入るぞ」
 そう言って、部屋の前に行くと、カードキーでドアを開錠する。
 開いたドアの向こうを見て、私は絶句した。玄関から伸びる廊下の先のリビングは、映画のワンシーンのようなパノラマ夜景が広がっている。
 玄関も寝そべれそうなほど広く、シューズボックスは棚状に幾つも並んでいた。
「すごい!」
「これ、ゆず香の分な」とヒロくんはカードを渡してくる。これって、合鍵!? 鉄の鍵ではないから、少女漫画っぽくはないけど、合鍵は合鍵だ。ヒロくんを独り占めしてるみたいで、気分がいい。でも、ファンの女の子に見つかったら、恐ろしい目に遭いそう。
 リビングはプール並みに広く、全面ガラス張りになっていて、宝石箱のような夜景の中にスカイツリーが見えた。
「ヤダ、ステキ」
「まあ、座ってよ」とヒロくんはソファに案内すると、冷蔵庫から瓶に入った黄金色のドリンクを持ってきて、グラスに注ぐ。
「何これ?」
「これは、オレが好きな杏スパークリング」
 雑誌で見たことがある。お取り寄せの人気商品だ。やわらかい甘さで、少し酸味を含んだフルーティーな香り。その泡立つソーダを口に含むと、高貴な甘酸っぱさが広がって、幸せな気持ちになった。
 どうしよう。こんな世界を一度知ってしまったら、元の地味な暮らしに戻れなくなってしまう。
「部屋の中は好きに使っていいから。そうだ、先に風呂に入る? それとも何か食べる?」
「キスがいい」
「は?」
「いいでしょ、夫婦なんだから。しかも、新婚でしょ?」
「あ、いや、その……」
 ヒロくんは顔を真っ赤にして、私の背後に目配せをする。
 私の後ろに誰がいるの?
 振り向くと、すぐ近くに高齢の女性の顔が目に飛び込んできて、私はソファから滑り落ちた。
「ギャー! 幽霊!!」
 すると、その女性は嬉しそうに笑う。
「すいませんね。さっきからずっと背後にいて挨拶したかったけど、ひろしとあなたが話し込んでいたから、黙って待っていたのよ」
 これ、誰? こわい。
「同居している、母さんだ」
 ええ! 私の姑ってこと!? しかも、姑さんと同居って聞いてない。
「あなたが、お相手の方ね。ひろしから聞いてるわ。母親の東松ゆきこです。よろしくね」
「ゆず香です。よろしくお願いします」
 ゆきこさんは小柄で細くて、ヒロくんそっくりな顔をしている。優しそうな方だ。
「じゃあ、挨拶が済んだから部屋に戻ります。後はキスでも何でもご自由にやってくださいね」
 恥ずかしい。ヒロくんにキスをねだっていたところをバッチリ聞かれていた。
「同居のお義母さんがいるなら先に言ってよ!」
「悪りぃ、悪りい」とヒロくんは笑う。笑い事じゃない!
「ヒロくんが仕事でいない時って、お義母さんと二人きりになるのよね? 大丈夫かな」
「今回、ゆず香に依頼したのは、母さんを安心させるためだ」
「安心?」
「そう。見た目には元気そうだけど、病気で余命はあと半年くらいだ。普段は、部屋の中からなかなか出てこない」
「え! そうなの?」
 そんなの、あんまりだ。ヒロくんが大活躍しているのを、これからも見守り続けたいだろうに、神様は何て酷いことをするのだろう。あんな元気そうで、入院もしていないのに、余命半年とは信じられない。
「前から早く結婚しなさい、って言われていてさ。それで、安心させたくてゆず香に依頼したんだ。オレが不在の時、もし容体が急変したらオレとかかりつけの世田谷病院に知らせてほしい」
 それで、ヒロくんは半年の契約結婚を依頼してきたのか……。
「分かった」
「それで、今更だけどさ、連絡先を交換しよ」
「うん」
 ヒロくんは売れっ子のスターだけど、私と同じような一般的なケータイを持っていて意外だった。しかも、私と同じように、フツーにSNSも使っている。ただ、セキュリティはかなり厳重にしてあった。
「それで、キスは?」
「ごめん、オレ、明日は朝から仕事が入っているから、寝る」
「えぇ〜」
「しかも、10日ほど帰ってこないからさ」
 いきなり、病気のお母さんと私を放置!?
「お腹すいた。何か食べようよ」
「オレ、近々でCDジャケット撮影があって太っちゃいけないから、食べられないんだ」
 そんな……。
「その代わり、勝手に冷蔵庫などにあるもの食べていいよ。ウーバー頼んでもいいし。じゃ、おやすみ」
「えぇ!」
 私の契約結婚初日は激動で、訳が分からないことばかり。明日から、無事やっていけるのだろうか?