第九章 偶然すれ違うたび、運命みたいに息を止めた。
偶然は、毎日続くと少しだけ期待になる。
名前を呼び合うようになってから、惺と望乃莉の間には、以前とは違う空気が流れ始めていた。それでも、二人がクラスメイトとして自然に会話を交わすようになったかというと、そういうわけでもなかった。相変わらず教室は別々で、一緒に登校する約束をしているわけでもない。それなのに、なぜか、二人はよくすれ違った。
朝、校門をくぐるタイミング。渡り廊下を歩く途中。購買に向かう道すがら。昼休みの中庭。そして、放課後の白灯文庫。まるで、町全体が二人を引き合わせようとしているかのように、偶然の遭遇は日を追うごとに増えていった。
最初のうちは、本当にただの偶然だと惺は思っていた。同じ学校に通っているのだから、動線が重なることもあるだろう。けれど、そのすれ違いがあまりにも頻繁になってくると、惺の中には、ある種の期待が芽生え始めていた。
今日も、会えるだろうか。
そんな考えが、朝、家を出る瞬間から、頭のどこかにこびりついている自分に気づいたのは、六月に入ってすぐのことだった。
六月に入った灯凪町の朝は、湿り気を帯びた空気が、少しずつ、その存在感を、増し始めていた。紫陽花の花は、あちこちで、薄紫や、青の色を、鮮やかに、咲かせている。惺は、その色合いの変化に、季節の移ろいを、確かに、感じ取っていた。
交差点に差し掛かる手前、街路樹の緑は、初夏の日差しを受けて、いっそう、深い色合いを、帯び始めている。惺は、自転車を停めて、その場に佇みながら、時折、腕時計に、視線を落としていた。
いつも、望乃莉とすれ違うのは、この交差点の近くだった。時間にして、七時四十五分前後。今日はまだその時間には少し早い。惺は自転車を停めて、なんとなく、その場で時間を潰すことにした。
理由は分かっていた。彼女とすれ違うのを、待っているのだ。自分でもその行動に気づいたとき、少し恥ずかしくなった。まるで、ドラマの登場人物のような真似をしている自分が、滑稽に思えた。
けれど、数分後、望乃莉の姿が交差点の向こうに見えたとき、惺の胸は、確かに高鳴った。
「おはよう」
自然に、声をかけられた。望乃莉も、小さく頭を下げて挨拶を返す。
「おはよう、ございます」
望乃莉の姿が見えたとき、街路樹の葉の隙間から、朝の光が、こぼれ落ちるように、差し込んでいた。二人が、並んで歩き始めると、通学路を行き交う、他の生徒たちの姿も、次第に、増えていく。誰もが、それぞれの一日を始めるために、それぞれの速度で、歩いていた。
「今日、暑くなりそうですね」
望乃莉の一言に、惺が空を見上げたとき、雲一つない青空の中、一羽のとんびが、悠々と、旋回しているのが、見えた。その鳥の姿を、二人は、しばらくの間、無言で、目で追いかけていた。
「うん、そうだね。もう夏、近いんだな」
「そうですね」
たったそれだけの会話。天気の話。特別な意味なんて何もない、ありふれたやり取り。それでも、惺はこの何気ない時間を、大切に抱きしめたいような気持ちになっていた。
正門をくぐったところで、望乃莉が渡り廊下の方へ足を向けた。
「じゃあ、また」
「うん、また」
その「また」という言葉が、以前よりも自然に、二人の間で交わされるようになっていた。惺はその後ろ姿を見送りながら、今日一日が、少しだけ良い日になりそうな予感を感じていた。
けれど、その日の放課後、惺は白灯文庫に行くことができなかった。部活の試合が近づいていて、居残り練習を命じられたのだ。日が暮れるまでグラウンドを走り続け、家に帰り着く頃には、体はくたくたに疲れていた。
その後、数日間続いた、部活の居残り練習では、グラウンドに、初夏の強い日差しが、容赦なく、照りつけていた。汗が、絶えず、額から、滴り落ちていく。惺は、その汗を拭う間もなく、ひたすら、走り続けていた。
練習が終わる頃には、空は、すでに、夕暮れの色に、染まり始めている。校舎の窓には、いくつか、明かりが灯り始めていた。惺は、その明かりの一つが、白灯文庫のものであることを、なんとなく、意識しながら、家路についていた。
その翌日も、また別の日も、部活の忙しさで、惺は望乃莉に会う機会を逃してしまった。朝の交差点でのすれ違いだけが、唯一の接点になっていた。
「最近、あんまり図書室来ないな」
一週間ほど経ったある日、一澄が惺にそう言った。
「部活が忙しくて」
「そっか。夜久さん、ちょっと寂しそうだったぞ」
その瞬間、教室の窓の外では、夕立の気配を感じさせる、灰色の雲が、少しずつ、空を覆い始めていた。遠くから、微かな、雷鳴のような音も、聞こえてくる。
惺は、その不穏な空模様と、一澄の言葉が、なぜか、重なって、心の中に、小さな焦りを、生み出していくのを、感じていた。
「え、そんなこと言ってたのか?」
「言ってないけど、なんとなく、そう見えた」
一澄の言葉が、本当なのか、単なる推測なのか、惺には分からなかった。それでも、その言葉は、惺の胸に小さな棘のように刺さった。
その日の放課後、練習が早く終わり、惺が、白灯文庫を訪れたとき、窓の外の空は、夕立の後の、澄み渡った、鮮やかな茜色に、染まっていた。雨上がり特有の、涼しい風が、開いた窓から、そっと、吹き込んでくる。窓際の席には、いつも通り望乃莉が座っていた。惺が入ってきたことに気づくと、彼女は本から視線を上げて、小さく笑った。望乃莉が、微笑みかけてくれた瞬間、その茜色の光が、彼女の横顔を、いっそう、優しく、照らし出していた。惺は、その光景を、深く、目に焼き付けながら、これまでの数日間の、忙しさの中で、感じていた、小さな寂しさが、少しずつ、溶けていくのを、感じていた。
「久しぶり、です」
その一言に、惺の胸は温かくなった。
「うん、部活忙しくて。ごめん」
「謝らなくても、いいです。忙しいのは、仕方ないですから」
そう言いながらも、彼女の表情には、どこか安堵したような色が浮かんでいるように、惺には見えた。もしかしたら、一澄の言った通り、彼女なりに寂しさを感じていたのかもしれない。そう思うと、胸の奥が締め付けられるような気持ちになった。
惺は彼女の近くの席に腰を下ろした。しばらくの間、二人は特に会話をすることもなく、それぞれの時間を過ごした。けれど、その静けさは、以前よりもずっと心地よいものになっていた。
惺はページをめくりながら、ふと、朝の交差点でのすれ違いのことを思い出した。あの短い時間だけが、忙しい毎日の中で、唯一心が安らぐ瞬間になっている。
窓の外では、雨上がりの空に、うっすらと、虹が、かかり始めていた。二人は、その虹を、しばらくの間、並んで、静かに、見つめ続けていた。
何も特別なことは起きていない日々。それでも、その積み重ねの中で、惺の心は確実に、望乃莉という存在へと引き寄せられていた。
何も起きなかった日ほど、心は少しだけ動いていた。
偶然は、毎日続くと少しだけ期待になる。
名前を呼び合うようになってから、惺と望乃莉の間には、以前とは違う空気が流れ始めていた。それでも、二人がクラスメイトとして自然に会話を交わすようになったかというと、そういうわけでもなかった。相変わらず教室は別々で、一緒に登校する約束をしているわけでもない。それなのに、なぜか、二人はよくすれ違った。
朝、校門をくぐるタイミング。渡り廊下を歩く途中。購買に向かう道すがら。昼休みの中庭。そして、放課後の白灯文庫。まるで、町全体が二人を引き合わせようとしているかのように、偶然の遭遇は日を追うごとに増えていった。
最初のうちは、本当にただの偶然だと惺は思っていた。同じ学校に通っているのだから、動線が重なることもあるだろう。けれど、そのすれ違いがあまりにも頻繁になってくると、惺の中には、ある種の期待が芽生え始めていた。
今日も、会えるだろうか。
そんな考えが、朝、家を出る瞬間から、頭のどこかにこびりついている自分に気づいたのは、六月に入ってすぐのことだった。
六月に入った灯凪町の朝は、湿り気を帯びた空気が、少しずつ、その存在感を、増し始めていた。紫陽花の花は、あちこちで、薄紫や、青の色を、鮮やかに、咲かせている。惺は、その色合いの変化に、季節の移ろいを、確かに、感じ取っていた。
交差点に差し掛かる手前、街路樹の緑は、初夏の日差しを受けて、いっそう、深い色合いを、帯び始めている。惺は、自転車を停めて、その場に佇みながら、時折、腕時計に、視線を落としていた。
いつも、望乃莉とすれ違うのは、この交差点の近くだった。時間にして、七時四十五分前後。今日はまだその時間には少し早い。惺は自転車を停めて、なんとなく、その場で時間を潰すことにした。
理由は分かっていた。彼女とすれ違うのを、待っているのだ。自分でもその行動に気づいたとき、少し恥ずかしくなった。まるで、ドラマの登場人物のような真似をしている自分が、滑稽に思えた。
けれど、数分後、望乃莉の姿が交差点の向こうに見えたとき、惺の胸は、確かに高鳴った。
「おはよう」
自然に、声をかけられた。望乃莉も、小さく頭を下げて挨拶を返す。
「おはよう、ございます」
望乃莉の姿が見えたとき、街路樹の葉の隙間から、朝の光が、こぼれ落ちるように、差し込んでいた。二人が、並んで歩き始めると、通学路を行き交う、他の生徒たちの姿も、次第に、増えていく。誰もが、それぞれの一日を始めるために、それぞれの速度で、歩いていた。
「今日、暑くなりそうですね」
望乃莉の一言に、惺が空を見上げたとき、雲一つない青空の中、一羽のとんびが、悠々と、旋回しているのが、見えた。その鳥の姿を、二人は、しばらくの間、無言で、目で追いかけていた。
「うん、そうだね。もう夏、近いんだな」
「そうですね」
たったそれだけの会話。天気の話。特別な意味なんて何もない、ありふれたやり取り。それでも、惺はこの何気ない時間を、大切に抱きしめたいような気持ちになっていた。
正門をくぐったところで、望乃莉が渡り廊下の方へ足を向けた。
「じゃあ、また」
「うん、また」
その「また」という言葉が、以前よりも自然に、二人の間で交わされるようになっていた。惺はその後ろ姿を見送りながら、今日一日が、少しだけ良い日になりそうな予感を感じていた。
けれど、その日の放課後、惺は白灯文庫に行くことができなかった。部活の試合が近づいていて、居残り練習を命じられたのだ。日が暮れるまでグラウンドを走り続け、家に帰り着く頃には、体はくたくたに疲れていた。
その後、数日間続いた、部活の居残り練習では、グラウンドに、初夏の強い日差しが、容赦なく、照りつけていた。汗が、絶えず、額から、滴り落ちていく。惺は、その汗を拭う間もなく、ひたすら、走り続けていた。
練習が終わる頃には、空は、すでに、夕暮れの色に、染まり始めている。校舎の窓には、いくつか、明かりが灯り始めていた。惺は、その明かりの一つが、白灯文庫のものであることを、なんとなく、意識しながら、家路についていた。
その翌日も、また別の日も、部活の忙しさで、惺は望乃莉に会う機会を逃してしまった。朝の交差点でのすれ違いだけが、唯一の接点になっていた。
「最近、あんまり図書室来ないな」
一週間ほど経ったある日、一澄が惺にそう言った。
「部活が忙しくて」
「そっか。夜久さん、ちょっと寂しそうだったぞ」
その瞬間、教室の窓の外では、夕立の気配を感じさせる、灰色の雲が、少しずつ、空を覆い始めていた。遠くから、微かな、雷鳴のような音も、聞こえてくる。
惺は、その不穏な空模様と、一澄の言葉が、なぜか、重なって、心の中に、小さな焦りを、生み出していくのを、感じていた。
「え、そんなこと言ってたのか?」
「言ってないけど、なんとなく、そう見えた」
一澄の言葉が、本当なのか、単なる推測なのか、惺には分からなかった。それでも、その言葉は、惺の胸に小さな棘のように刺さった。
その日の放課後、練習が早く終わり、惺が、白灯文庫を訪れたとき、窓の外の空は、夕立の後の、澄み渡った、鮮やかな茜色に、染まっていた。雨上がり特有の、涼しい風が、開いた窓から、そっと、吹き込んでくる。窓際の席には、いつも通り望乃莉が座っていた。惺が入ってきたことに気づくと、彼女は本から視線を上げて、小さく笑った。望乃莉が、微笑みかけてくれた瞬間、その茜色の光が、彼女の横顔を、いっそう、優しく、照らし出していた。惺は、その光景を、深く、目に焼き付けながら、これまでの数日間の、忙しさの中で、感じていた、小さな寂しさが、少しずつ、溶けていくのを、感じていた。
「久しぶり、です」
その一言に、惺の胸は温かくなった。
「うん、部活忙しくて。ごめん」
「謝らなくても、いいです。忙しいのは、仕方ないですから」
そう言いながらも、彼女の表情には、どこか安堵したような色が浮かんでいるように、惺には見えた。もしかしたら、一澄の言った通り、彼女なりに寂しさを感じていたのかもしれない。そう思うと、胸の奥が締め付けられるような気持ちになった。
惺は彼女の近くの席に腰を下ろした。しばらくの間、二人は特に会話をすることもなく、それぞれの時間を過ごした。けれど、その静けさは、以前よりもずっと心地よいものになっていた。
惺はページをめくりながら、ふと、朝の交差点でのすれ違いのことを思い出した。あの短い時間だけが、忙しい毎日の中で、唯一心が安らぐ瞬間になっている。
窓の外では、雨上がりの空に、うっすらと、虹が、かかり始めていた。二人は、その虹を、しばらくの間、並んで、静かに、見つめ続けていた。
何も特別なことは起きていない日々。それでも、その積み重ねの中で、惺の心は確実に、望乃莉という存在へと引き寄せられていた。
何も起きなかった日ほど、心は少しだけ動いていた。
