しおりになる春、君をひらく季節。

第八章 名前を呼ぶ練習を、心の中で何度もした。

 朝の通学電車は、いつもと変わらず、多くの乗客で、混み合っていた。窓の外には、灯凪町の海が、朝の光を受けて、きらきらと、輝いているのが、見える。電車が、緩やかにカーブを曲がるたびに、車窓に映る景色も、少しずつ、その角度を、変えていった。
惺は、吊り革に掴まりながら、窓の外の景色に、視線を向けているふりをして、心の中で、あの名前を、繰り返し、練習していた。周りの乗客たちの、話し声や、電車の走行音に紛れて、その小さな呟きは、誰にも、気づかれることはなかった。
 名前は、たった三文字なのに難しかった。
夜久望乃莉。何度も心の中で繰り返してきた名前なのに、いざ本人を目の前にすると、惺はその三文字をどうしても口にすることができなかった。
「夜久さん」とすら、まだ呼んだことがない。生徒手帳を届けたときも、公園で花びらを拾ったときも、白灯文庫で言葉を交わすときも、惺はいつも「あの」とか「その」とか、名前を避けるような言い方ばかりを選んでいた。
理由は、自分でもうまく説明できなかった。ただ、名前を呼ぶという行為が、これまでの会釈や短い挨拶よりも、もっと踏み込んだ何かのように感じられてしまうのだった。名前を呼べば、彼女との距離が、今よりも近くなってしまう。そんな予感が、惺の中にあった。
近くなることが怖いのか、それとも、近くなりたいという気持ちが強すぎて、その一歩を踏み出すのが怖いのか。惺自身にも、その境目はよく分からなかった。
五月も後半に差しかかったある日、惺は登校中の電車の中で、こっそりと練習をしていた。もちろん、声には出さない。心の中で、その名前を何度も呟いてみるのだ。
 (夜久さん)
 (夜久望乃莉さん)
 (望乃莉さん)
最後の呼び方を思い浮かべた瞬間、惺は自分の頬が熱くなるのを感じて、慌てて窓の外に視線を逸らした。周りに誰かいるわけでもないのに、まるで心の声が聞こえてしまったかのような気恥ずかしさがあった。
そんな練習を何日も続けていたけれど、実際に彼女を前にすると、練習の成果はまるで役に立たなかった。頭の中では滑らかに呼べていたはずの名前が、いざ声に出そうとすると、喉の奥で固まってしまう。
 購買のパンを買いに向かう廊下は、昼休み特有の、賑やかな喧騒に、包まれていた。生徒たちの笑い声、教室から漏れる、談笑の声。惺は、その活気の中を、一澄と並んで、歩いていった。
窓の外には、初夏の日差しを受けて、深く色づいた新緑が、校庭の木々を、彩っている。その緑の眩しさに、目を細めながら、惺は、一澄との、他愛のない会話に、耳を傾けていた。
 「なあ、坂本」
昼休み、購買のパンを頬張りながら、一澄がふと言った。
 「お前、夜久さんのこと、なんて呼んでんの?」
不意打ちの質問に、惺は喉に詰まらせそうになった。
 「な、なんでそんなこと聞くんだよ」
 「いや、この前、廊下ですれ違ったとき見てたけど、お前『あの』としか言ってなかったから」
一澄は鋭い。惺は観念して、正直に答えることにした。
 「まだ、呼んだこと、ない」
 「マジで? もう何回も話してるのに?」
 「別に、避けてるわけじゃ、ないんだけど」
 「呼べばいいじゃん、普通に。『夜久さん』でいいだろ」
一澄はあっさりとそう言ったけれど、惺にとっては、そのあっさりとした一言が、途方もなく難しいことのように感じられた。
 「簡単に言うなよ」
 「簡単だろ。名前なんだから」
一澄は笑いながら、また自分のパンにかじりついた。惺はその横顔を見ながら、ため息をついた。友人には、この感覚がうまく伝わらないのかもしれない。それとも、自分が過剰に意識しすぎているだけなのだろうか。
 放課後、惺は白灯文庫に向かった。初夏の柔らかな光が、窓から、たっぷりと、差し込んでいた。窓際の席には、今日も望乃莉が座っている。惺は少し離れた席に腰を下ろし、鞄から教科書を取り出した。今日は宿題を片付けるつもりだった。惺は、教科書を広げながら、時折、望乃莉の様子を、横目で、確認していた。白灯文庫の空調が、微かに、作動する音が、静かな空間に、規則正しく、響いている。
 窓の外の校庭では、下校を急ぐ生徒たちの姿が、次第に、少なくなっていく。夕方に近づくにつれて、図書室に差し込む光の角度も、少しずつ、変化していった。その光の移ろいを、惺は、望乃莉の横顔と共に、静かに、見つめ続けていた。
しばらくすると、望乃莉が本を閉じた。席を立ち、返却棚へと向かう、その一連の動作を、惺は、息を潜めるようにして、見守っていた。図書室の中は、いつもより、静まり返っているように、感じられた。他の生徒たちの、ページをめくる音だけが、時折、その静けさを、優しく、揺らしている。
望乃莉が、返却棚から戻ってくる、その足音が、少しずつ、近づいてくる。惺は、その足音のリズムに合わせるように、自分の心臓の鼓動も、次第に、速まっていくのを、感じていた。惺は今日こそは、と心の中で自分を鼓舞した。
彼女が返却棚から戻ってくるタイミングで、惺は思い切って声をかけることにした。
 「あの……」
いつもと同じ、名前を避けた呼びかけになってしまった。惺は自分の不甲斐なさに、心の中でため息をついた。望乃莉が足を止めて、こちらを見た。
 「はい?」
 「その……宿題、分からないところがあって。夜久さんは、数学得意?」
言ってしまった。惺は自分でも驚いた。ようやく、彼女の名前を口にすることができた。たった「夜久さん」という四文字だけれど、惺にとっては、大きな一歩だった。
望乃莉は少し目を丸くしたけれど、すぐに小さく頷いた。
 「得意ってほどじゃ、ないですけど。見てみます」
彼女は惺の席の近くに来て、隣に座った。惺はノートを広げながら、心臓がまだ早鐘を打っているのを感じていた。名前を呼んだだけで、こんなにも動揺してしまう自分に、少し呆れる気持ちもあった。
 「ここ、二次関数の応用問題なんだけど」
 「ああ、これは……」
望乃莉が説明を始めると、惺は必死にノートに視線を落として、内容を理解しようとした。けれど、正直なところ、頭の中は説明の内容よりも、隣に座っている彼女の存在の方に、ずっと多くを占められていた。
彼女の声は、静かだけれど、丁寧だった。分からないところがあれば、何度でも言葉を変えて説明してくれる。押し付けがましさは全くなく、ただ、惺が理解できるまで、根気強く付き合ってくれた。
 「分かった、ありがとう、望乃莉さん」
説明が終わったとき、惺は自然にそう言っていた。言ってから、自分の言葉に驚いた。「夜久さん」ではなく、「望乃莉さん」と、下の名前で呼んでしまったのだ。
望乃莉も、一瞬驚いたような表情を見せた。惺は慌てて訂正しようとしたけれど、言葉が出てこなかった。
 「あ、いや、その……」
 「いいです」
望乃莉が、静かにそう言った。
 「望乃莉、で。呼びやすい方で」
その言葉に、惺は胸の中が温かくなるのを感じた。名前を呼ぶことを許された。それだけのことなのに、惺にとっては、何よりも嬉しい瞬間だった。
 「じゃあ、望乃莉」
もう一度、名前を呼んでみた。今度は、少しだけ自然に口から出た。望乃莉は小さく頷いて、また本の続きを読み始めた。
 その日の帰り道、惺は、自転車を漕ぎながら、海沿いの道を、選んで進んだ。夕暮れの潮風が、頬を撫でていく感触は、いつもより、いくらか、心地よく感じられた。波の音に混じって、遠くの漁港から、船のエンジン音が、微かに、聞こえてくる。
 空の色は、次第に、鮮やかな橙色から、深い紫へと、移り変わっていった。惺は、その移ろう色を、目で追いながら、望乃莉という名前を、もう一度、そっと、口の中で、転がしてみた。今日、ようやく口にできた、その響きを、惺は、いつまでも、大切に、抱きしめていたいと、思っていた。何度も心の中でその名前を繰り返していた。望乃莉。望乃莉。声に出さなくても、その響きだけで、胸の奥が温かくなる。
 けれど同時に、まだ呼べていない言葉があることにも、惺は気づいていた。しおりのこと、花びらのこと、そして、まだ言葉にできていない、この胸の中にある感情のこと。
名前は呼べた。それでも、まだまだ、伝えたいことの方が、ずっと多く残っている。
呼べなかった名前が、一日中胸の中に残った。