しおりになる春、君をひらく季節。

第七章 しおりを渡せないまま、桜だけが散っていく。

作ったしおりは、机の引き出しから出られなかった。
きっかけは、些細なことだった。五月の連休が明けたある夜、惺は自分の部屋で、ふと机の引き出しを整理していた。教科書やプリントの間に、あの日ポケットにしまったままだった桜の花びらが、しわくちゃになりかけているのを見つけたのだ。
このままでは、いつか粉々に崩れてしまう。そう思った惺は、思いつきで、使わなくなったノートの厚紙を切り取り、花びらをその上に貼り付けてみることにした。透明なセロハンテープで丁寧に押さえ、簡単なしおりのようなものを作った。
出来上がったものを見て、惺は少し照れくさくなった。器用な方ではないから、お世辞にも上手な出来とは言えない。花びらは少し歪んでいるし、テープの跡も目立っている。それでも、自分なりに時間をかけて作ったものだった。
これを、渡そう。
そう決めたのは、深夜、ベッドに入る直前のことだった。翌朝になれば、きっと今夜感じている勢いは失われてしまうだろう。それでも、その夜の惺は、なぜか妙に前向きな気持ちになっていた。
けれど、翌朝になると、案の定、その勢いはすっかりしぼんでしまっていた。鞄にしおりを入れたまま家を出たものの、通学路を歩く間中、惺はずっと迷い続けていた。
こんなものを渡して、変に思われないだろうか。花びらの栞の話をしたのは、あくまで彼女の趣味の話であって、自分が作って渡すことを望んでいるわけではないかもしれない。そもそも、まだそんなに親しい関係でもないのに、手作りのものを渡すなんて、重く受け取られてしまうのではないか。
そんな考えが、次から次へと惺の頭に浮かんでは消えていった。
教室に着いても、惺の気持ちは落ち着かなかった。鞄の中のしおりの存在を、一日中ずっと意識してしまう。休み時間のたびに、それを取り出して渡す機会を窺おうとしたけれど、いざその瞬間になると、決まって足がすくんでしまった。
 「今日、なんか変だぞ」
昼休み、一澄が惺の様子を見て、眉をひそめた。
 「変って、何が」
 「そわそわしてる。忘れ物でもしたか?」
惺は一瞬、鞄の中のしおりのことを話そうか迷った。けれど、話してしまえば、渡さなければならないという焦りがさらに強まる気がして、結局は誤魔化すことにした。
 「別に、何もないよ」
一澄はしばらく惺の顔を見ていたけれど、それ以上は追及してこなかった。ただ、去り際に一言だけ、こう言った。
 「あんまり考えすぎんなよ。渡したいものがあるなら、渡しちゃえばいいじゃん」
その言葉が、放課後まで惺の頭の中に残り続けた。
放課後、惺は白灯文庫に向かった。窓際の席には、いつも通り望乃莉が座っていた。惺は少し離れた席に腰を下ろし、鞄からしおりを取り出しては、また戻すという行為を、何度も繰り返した。
彼女に気づかれていないだろうか。惺はそう思いながら、ちらりと窓際に視線を向けた。望乃莉は静かに本を読んでいて、こちらの様子には気づいていないようだった。
今しかない。何度も、そう自分に言い聞かせた。立ち上がって、彼女の席に近づき、しおりを差し出せばいい。それだけのことなのに、心臓は痛いくらいに早鐘を打っていた。
けれど、いざ立ち上がろうとしたとき、望乃莉が本を閉じて、席を立ってしまった。惺は座ったまま、その様子を見送ることしかできなかった。彼女はカウンターに本を返却して、そのまま図書室を出ていった。
タイミングを逃した。惺は小さくため息をついて、鞄の中のしおりをそっと押し込んだ。
その日から、惺は何度も同じことを繰り返した。しおりを渡そうと決意しては、いざ彼女を前にすると、勇気が出せずに引き下がってしまう。図書室で隣り合わせになったときも、廊下ですれ違ったときも、通学路で並んで歩いたときも、渡す機会は何度もあったはずなのに、そのたびに惺は言葉を飲み込んでしまった。
理由は、自分でもよく分かっていた。渡すという行為が、ただの親切心以上の何かを意味してしまう気がしたからだ。もし彼女に、この気持ちの意味を悟られてしまったら。もし迷惑そうな顔をされたら。そう考えるだけで、惺の手は止まってしまう。
桜はすでにすっかり散ってしまい、街路樹は青々とした夏の気配を纏い始めていた。季節は確実に進んでいるのに、惺の中の一歩だけが、いつまでも止まったままだった。
ある日の放課後、惺は白灯文庫で、いつものように望乃莉の様子を眺めていた。彼女は今日も静かに本を読んでいる。その横顔を見ながら、惺はふと、鞄の中のしおりのことを思い出した。もう何日、渡せずにいるだろう。
 「あの」
気づけば、惺は席を立って、彼女の方へ歩み寄っていた。心臓が痛いくらいに脈打っている。望乃莉が顔を上げて、惺を見た。
 「はい?」
惺は鞄の中に手を入れた。指先が、しおりの端に触れる。今度こそ、渡そう。そう思った瞬間、廊下の方から賑やかな声が聞こえてきた。数人の生徒たちが、談笑しながら図書室の前を通り過ぎていく。その声に、惺の集中は一瞬で途切れてしまった。
 「あ、いや……なんでも、ない」
結局、惺は鞄から手を出せないまま、そう言ってしまった。望乃莉は少し不思議そうな顔をしたけれど、それ以上は何も聞かず、また本に視線を戻した。
惺は自分の席に戻り、深いため息をついた。情けなさで、顔が熱くなる。せっかくの機会だったのに、また逃してしまった。
その夜、家に帰った惺は、机の引き出しにしおりをそっとしまった。今日渡せなかったものは、また明日渡せばいい。そう自分に言い聞かせたけれど、心のどこかで、その「明日」が本当に来るのか、少し不安になっていた。
引き出しを閉じる音が、部屋の中に小さく響いた。窓の外では、初夏の夜風が、静かに木々を揺らしていた。
渡せなかった栞は、今日も春を閉じ込めたままだった。