しおりになる春、君をひらく季節。

第六章 図書室の沈黙は、言葉より近くなれる場所だった。

白灯文庫では、静かな人ほど優しかった。
それに気づいたのは、五月に入ってすぐの、ある雨の日のことだった。灯凪町は海が近いせいか、雨が降ると一気に肌寒くなる。教室の窓を叩く雨音を聞きながら、惺は放課後、傘を持たずに来てしまったことを思い出して、少しだけ憂鬱な気持ちになっていた。
一澄は部活で残ると言っていたし、他の友人たちもそれぞれ用事があるようだった。惺は仕方なく、雨が弱まるまで時間を潰そうと、白灯文庫に向かった。
扉を開けると、いつもの静けさが惺を迎えた。雨の日は、いつもより人が少ないようだった。窓際の席には、今日も夜久望乃莉が座っている。傘を持たずに来たのは自分だけではなかったのかもしれない、と惺はぼんやり思った。
惺は書架から適当な本を選んで、彼女の席から少し離れた場所に腰を下ろした。ページをめくるふりをしながら、窓の外を流れる雨粒を眺める。図書室の窓に打ちつける雨音が、静かなBGMのように空間を満たしていた。
しばらくすると、司書の先生がカウンターの奥から声をかけてきた。
 「夜久さん、悪いんだけど、返却棚の整理、手伝ってもらえる? 今日は他の図書委員が来られなくて」
望乃莉は本を閉じて、静かに立ち上がった。惺はその様子を横目で見ながら、なんとなく気になって、自分も本を閉じた。
 「俺も、手伝います」
気づけば、そう口にしていた。司書の先生は少し驚いた顔をしたけれど、すぐに笑顔で頷いた。
 「あら、助かるわ。じゃあ、返却された本を、この棚のジャンルごとに戻してもらえる?」
惺は望乃莉と並んで、返却棚の本を一冊ずつ手に取り、本棚に戻していく作業を始めた。会話はほとんどなかった。けれど、隣で本を抱える彼女の気配を感じながら作業をするのは、不思議と心地よかった。
 「本、慣れてますね」
しばらくして、望乃莉がぽつりと言った。惺は驚いて手を止めた。
 「え、そう?」
 「棚の順番、迷わないので」
 「あ、いや、たまたまだと思う」
惺は照れ隠しに笑った。望乃莉は小さく首を振った。
 「私も、最初は迷いました。だから、そう見えます」
それは、彼女なりの褒め言葉だったのかもしれない。惺はそう受け取って、少し嬉しくなった。作業を続けながら、惺はふと、彼女に聞いてみたいことがあることに気づいた。
 「夜久さんって、いつも本読んでるけど、どんなジャンルが好きなの?」
彼女は少し考えるように手を止めた。
 「恋愛小説、が多いです。あとは、詩集とか」
 「詩集?」
 「言葉が少ない方が、伝わることもあるから」
その言葉に、惺は不思議な感覚を覚えた。彼女自身が、まさにそういう人だからだ。多くを語らないのに、時折こぼれる一言が、驚くほど心に残る。
 「俺は、あんまり本読まないんだ。読んでもスポーツ雑誌とか、そのくらいで」
 「それでも、いいと思います。読む人が、それぞれ違う本を好きになるのは、自然なことだから」
彼女の言葉には、押し付けがましさが全くなかった。ただ、静かに、そのままを受け入れているような響きがあった。惺はそのことに、なぜかほっとした。
作業を終えると、二人は返却棚の前に立って、しばらく黙っていた。雨は相変わらず窓を打っている。惺は何か話を続けたかったけれど、次の言葉が見つからなかった。
 「あの、傘、持ってきてる?」
惺が尋ねると、望乃莉は小さく首を振った。
 「持ってきてないです。天気予報、見てなくて」
 「俺も。今日、傘ないんだ」
二人は顔を見合わせて、どちらからともなく、少しだけ表情を緩めた。それは笑顔と呼べるほどのものではなかったけれど、確かに、何かが通じ合った瞬間だった。
 「雨、止むまで、ここにいてもいいですか」
望乃莉がそう言って、窓際の席に戻っていった。惺も少し離れた席に座り直した。二人とも、それぞれ本を開いたけれど、ページをめくる速度は、いつもよりずっとゆっくりだった。
沈黙が続いた。けれど、その沈黙は、以前感じていたものとは違っていた。気まずさではなく、むしろ安心できる静けさだった。同じ空間で、同じ雨音を聞きながら、それぞれの時間を過ごしている。それだけのことが、惺にはとても特別なことのように感じられた。
窓の外では、雨が少しずつ弱まってきていた。空の色も、灰色から、うっすらとした水色へと変わりつつある。惺はページをめくりながら、時折、窓際の彼女に視線を向けた。彼女は相変わらず、静かに本の世界に没頭しているようだった。
 「あの」
不意に、望乃莉が口を開いた。惺は驚いて顔を上げた。
 「はい?」
 「花びらの栞、まだ持ってますか」
思いがけない質問だった。惺はポケットの中に入れたままの、あの花びらのことを思い出した。制服を着替えるたびに、うっかり忘れずに移し替えていた。捨てられなかったのだ。
 「あ、うん。持ってる」
 「そう、ですか」
望乃莉はそれだけ言って、また本に視線を戻した。それ以上、何も聞いてこなかった。惺はその質問の意図が分からなかったけれど、なぜか、聞いてくれたこと自体が嬉しかった。
やがて、雨が完全に止んだ。窓の外には、薄い夕陽が差し込み始めていた。望乃莉が本を閉じて、鞄を手に取った。
 「そろそろ、帰ります」
 「うん、俺も」
二人は一緒に白灯文庫を出た。廊下を歩きながら、惺は今日交わした短い会話を、何度も心の中で反芻していた。棚の整理、傘の話、花びらの栞。どれも些細なやり取りだったけれど、それぞれが、確かに二人の距離を少しずつ縮めているような気がした。
昇降口で、望乃莉は惺の方を向いて、小さく頭を下げた。
 「今日は、ありがとうございました」
 「いや、俺こそ、なんか、ありがとう」
何に対してのお礼なのか、自分でもよく分からなかった。それでも、その言葉が自然に口をついて出た。望乃莉は少しだけ目を細めて、それから自転車置き場の方へ歩いていった。
惺はその後ろ姿を見送りながら、白灯文庫での時間を思い返していた。話したことは、それほど多くない。それでも、あの静かな空間で過ごした時間は、教室で交わす何気ない会話よりも、ずっと深く心に残っていた。
声はなくても、本はちゃんと誰かを紹介してくれる。