第五章 同じ教室にいるのに、まだ遠い人だった。
毎日会っているのに、話したことはほとんどなかった。
公園での出来事から一週間が過ぎた。あの日を境に何かが劇的に変わったわけではない。惺と望乃莉は、相変わらず違うクラスで、廊下ですれ違うことがあっても、会釈をする程度の関係のままだった。
けれど、惺の中では、確かに何かが変わっていた。以前は名前も知らなかった相手が、今では、廊下の向こうに姿を見かけるだけで、心臓が少しだけ跳ねるようになっていた。
「今日もあっちの方、見てるな」
昼休み、教室で弁当を広げながら、一澄が惺の視線の先を追って言った。惺の席は窓際で、廊下の向こうに続く渡り廊下がちょうど見える位置にある。二年三組の教室は、その渡り廊下を挟んだ向かい側の棟にあった。
「見てないって」
「いや見てる。もう三回は箸止まってるぞ」
指摘されて、惺は慌てて卵焼きを口に運んだ。一澄は呆れたように笑いながら、自分の弁当をつつく。
「話しかけないのかよ、結局」
「話しかけるって言っても……クラス違うし、接点もそんなにないし」
「公園で花びら拾ったんだろ? それ、立派な接点じゃん」
一澄の言葉に、惺は返す言葉が見つからなかった。確かにあの日、二人は言葉を交わした。祖母の話も、本の話も聞いた。それなのに、あれから一週間、望乃莉と言葉を交わす機会は一度もなかった。
理由は分かっている。惺が、話しかける勇気を持てずにいるだけだ。廊下ですれ違うたびに、声をかけようと思う。けれど、その一歩がどうしても踏み出せない。何を話せばいいのか分からないというより、話しかけて、もし迷惑そうにされたらどうしよう、という恐れが、いつも惺の足を止めてしまう。
「なあ、坂本」
一澄が、箸を置いて真面目な顔をした。
「お前、そんなに難しく考えなくていいと思うけどな。『おはよう』でいいじゃん、最初は」
「おはよう、って、それだけ?」
「それだけでいいんだよ。毎日顔合わせてるのに一言も交わさない方が、逆に不自然だろ」
一澄の言うことは、いつも正しい。けれど、正しいと分かっていても、実行に移せないことはある。惺はため息をついて、弁当箱に視線を落とした。
その日の放課後、惺は白灯文庫には行かず、まっすぐ部活に向かった。走っている間も、頭のどこかで望乃莉のことを考えていた。走れば走るほど、体は疲れていくのに、頭の中の考えはちっとも整理されなかった。
翌日の朝、惺はいつもより少し早く家を出た。特に理由があったわけではない。ただ、少しだけ、通学路をゆっくり歩いてみたい気分だった。桜はほとんど散ってしまって、街路樹は青々とした葉を茂らせ始めている。季節は、確実に春の終わりへと向かっていた。
正門の近くまで来たとき、惺は前方に見覚えのある後ろ姿を見つけた。夜久望乃莉だった。彼女は俯きがちに、ゆっくりとした足取りで歩いている。
惺は迷った。追いついて声をかけるべきか、それとも、このまま少し距離を置いて歩くべきか。心臓が早鐘を打っている。
けれど、迷っているうちに、彼女の歩調が少し変わった。何かにつまずいたのか、足元を気にするような仕草を見せている。惺は思わず早足になって、彼女の隣に並んだ。
「おはよう」
一澄に言われた通りの言葉を、そのまま口にした。心臓が破裂しそうだった。
望乃莉は驚いたように顔を上げた。それから、ほんの一瞬、間を置いてから答えた。
「おはよう、ございます」
その声は、いつもと同じように小さかったけれど、惺の耳には確かに届いた。二人はしばらく、並んで歩いた。会話は続かなかった。何を話せばいいのか、惺には分からなかったし、望乃莉から話を切り出す様子もなかった。
それでも、その沈黙は、以前感じていた気まずさとは少し違っていた。隣を歩いているだけで、なんとなく満たされるような、そんな不思議な感覚があった。
正門をくぐったところで、望乃莉が立ち止まった。
「私、こっちなので」
彼女は、渡り廊下の方を指差した。二年三組の教室へ向かう道だった。惺は頷いた。
「うん、じゃあ、また」
「はい、また」
彼女はそう言って、小さく頭を下げてから、渡り廊下の方へ歩いていった。惺はその後ろ姿を見送りながら、自分の胸の中に残った温かいものを、確かめるように感じていた。
たった二言、三言の会話だった。特別なことは何も話していない。それでも、惺にとっては、大きな一歩だった。
教室に着くと、一澄がすぐに気づいた。
「なんか、今日、顔色いいな」
「そうか?」
「なんかあった?」
惺は少し迷ってから、小さく笑った。
「おはよう、って言えた」
一澄は一瞬きょとんとした顔をしたけれど、すぐに何かを察したように笑った。
「それだけで、そんな顔すんの? かわいいとこあるじゃん、お前」
からかわれて、惺は照れくさくなって視線を逸らした。それでも、心の中では、確かな達成感があった。
その日の放課後、惺は久しぶりに白灯文庫に足を向けた。窓際の席には、いつも通り望乃莉が座っていた。惺が入ってきたことに気づくと、彼女は本から視線を上げて、小さく会釈をした。惺も同じように会釈を返した。
言葉は交わさなかった。けれど、その小さな挨拶だけで、以前とは違う何かが二人の間に生まれているのを、惺は感じていた。それは友達と呼べるほどのものではないかもしれない。けれど、ただのクラスメイト以上の、何かではあった。
惺は書架から一冊の本を選んで、少し離れた席に腰を下ろした。今日は、ちゃんと読むつもりだった。ページをめくりながら、時折、窓際の彼女の様子を横目で確認する。彼女もまた、静かに本を読んでいる。
同じ空間にいるのに、まだ言葉を交わすことはほとんどない。それでも、確かに何かが少しずつ近づいている。惺はそう感じながら、窓の外を見た。夕方の光が、教室の隅々まで橙色に染めていく。
近くにいることと、届くことは違うらしい。
「おはよう」を、望乃莉は、何度も、飲み込んできた。
朝の交差点で、惺の後ろ姿を見つけるたびに、望乃莉の喉の奥には、小さな挨拶の言葉が、浮かんでは消えていった。声をかければいい。ただ、それだけのことだと、頭では分かっている。それなのに、いざ、その一歩を踏み出そうとすると、心臓が、驚くほど大きな音を立てて、望乃莉の勇気を、押し戻してしまうのだった。
ある朝、望乃莉は、いつもより少し早く、家を出た。理由は、自分でもよく分からなかった。ただ、なんとなく、今日こそは、自分から声をかけてみようという、小さな決意があった。
交差点に差し掛かると、案の定、惺の姿は、まだそこになかった。望乃莉は、電柱の陰に、そっと身を寄せて、彼が来るのを待った。
(おはよう、って、言うだけ。それだけでいい)
心の中で、何度も、その言葉を練習した。「おはよう」。たった四文字。それなのに、なぜか、その言葉は、望乃莉の口の中で、うまく形にならなかった。
やがて、遠くから、惺の自転車を押す音が聞こえてきた。望乃莉は、深く息を吸い込んで、電柱の陰から、一歩、踏み出そうとした。
けれど、実際に、惺の姿が視界に入った瞬間、望乃莉の足は、その場に、根が生えたように、止まってしまった。声をかけようとした言葉は、喉の奥で、静かに消えていった。
結局、望乃莉は、いつものように、惺の方から「おはよう」と声をかけられるのを、待つことしかできなかった。
「おはよう、望乃莉」
「おはよう、ございます」
いつもと同じ、控えめな返事。望乃莉は、心の中で、小さくため息をついた。今日も、自分からは、言えなかった。
一方、惺もまた、同じような葛藤を抱えていた。放課後、白灯文庫での時間を終えて、望乃莉と別れる瞬間、惺は、いつも、「また明日」という言葉を、自然に口にしていた。けれど、あるとき、惺は、その言葉の裏に、もっと違う想いがあることに、気づき始めていた。
「また明日」ではなく、本当は、「もっと一緒にいたい」と、言いたかった。けれど、そんな言葉を、いきなり口にする勇気は、惺にはなかった。
「じゃあ、また……」
ある日の放課後、惺は、いつものように、別れの言葉を口にしようとした。けれど、その日は、なぜか、いつもの「また明日」という言葉すら、うまく出てこなかった。
望乃莉は、少し不思議そうな表情で、惺の顔を見つめていた。
「惺くん?」
「あ、いや……その、また、明日」
結局、いつも通りの言葉で、その場を、取り繕ってしまった。惺は、自転車を押しながら、自分の不甲斐なさに、小さくため息をついた。
言いたいことは、いつも、たくさんある。それなのに、いざその瞬間になると、言葉は、するりと、指の間からこぼれ落ちてしまう。惺と望乃莉、二人とも、同じような不器用さを、それぞれの形で、抱え続けていた。
けれど、その「言えなかった一言」の積み重ねこそが、後に、二人の関係を、より深く、確かなものにしていく、大切な土台になっていくのだった。
毎日会っているのに、話したことはほとんどなかった。
公園での出来事から一週間が過ぎた。あの日を境に何かが劇的に変わったわけではない。惺と望乃莉は、相変わらず違うクラスで、廊下ですれ違うことがあっても、会釈をする程度の関係のままだった。
けれど、惺の中では、確かに何かが変わっていた。以前は名前も知らなかった相手が、今では、廊下の向こうに姿を見かけるだけで、心臓が少しだけ跳ねるようになっていた。
「今日もあっちの方、見てるな」
昼休み、教室で弁当を広げながら、一澄が惺の視線の先を追って言った。惺の席は窓際で、廊下の向こうに続く渡り廊下がちょうど見える位置にある。二年三組の教室は、その渡り廊下を挟んだ向かい側の棟にあった。
「見てないって」
「いや見てる。もう三回は箸止まってるぞ」
指摘されて、惺は慌てて卵焼きを口に運んだ。一澄は呆れたように笑いながら、自分の弁当をつつく。
「話しかけないのかよ、結局」
「話しかけるって言っても……クラス違うし、接点もそんなにないし」
「公園で花びら拾ったんだろ? それ、立派な接点じゃん」
一澄の言葉に、惺は返す言葉が見つからなかった。確かにあの日、二人は言葉を交わした。祖母の話も、本の話も聞いた。それなのに、あれから一週間、望乃莉と言葉を交わす機会は一度もなかった。
理由は分かっている。惺が、話しかける勇気を持てずにいるだけだ。廊下ですれ違うたびに、声をかけようと思う。けれど、その一歩がどうしても踏み出せない。何を話せばいいのか分からないというより、話しかけて、もし迷惑そうにされたらどうしよう、という恐れが、いつも惺の足を止めてしまう。
「なあ、坂本」
一澄が、箸を置いて真面目な顔をした。
「お前、そんなに難しく考えなくていいと思うけどな。『おはよう』でいいじゃん、最初は」
「おはよう、って、それだけ?」
「それだけでいいんだよ。毎日顔合わせてるのに一言も交わさない方が、逆に不自然だろ」
一澄の言うことは、いつも正しい。けれど、正しいと分かっていても、実行に移せないことはある。惺はため息をついて、弁当箱に視線を落とした。
その日の放課後、惺は白灯文庫には行かず、まっすぐ部活に向かった。走っている間も、頭のどこかで望乃莉のことを考えていた。走れば走るほど、体は疲れていくのに、頭の中の考えはちっとも整理されなかった。
翌日の朝、惺はいつもより少し早く家を出た。特に理由があったわけではない。ただ、少しだけ、通学路をゆっくり歩いてみたい気分だった。桜はほとんど散ってしまって、街路樹は青々とした葉を茂らせ始めている。季節は、確実に春の終わりへと向かっていた。
正門の近くまで来たとき、惺は前方に見覚えのある後ろ姿を見つけた。夜久望乃莉だった。彼女は俯きがちに、ゆっくりとした足取りで歩いている。
惺は迷った。追いついて声をかけるべきか、それとも、このまま少し距離を置いて歩くべきか。心臓が早鐘を打っている。
けれど、迷っているうちに、彼女の歩調が少し変わった。何かにつまずいたのか、足元を気にするような仕草を見せている。惺は思わず早足になって、彼女の隣に並んだ。
「おはよう」
一澄に言われた通りの言葉を、そのまま口にした。心臓が破裂しそうだった。
望乃莉は驚いたように顔を上げた。それから、ほんの一瞬、間を置いてから答えた。
「おはよう、ございます」
その声は、いつもと同じように小さかったけれど、惺の耳には確かに届いた。二人はしばらく、並んで歩いた。会話は続かなかった。何を話せばいいのか、惺には分からなかったし、望乃莉から話を切り出す様子もなかった。
それでも、その沈黙は、以前感じていた気まずさとは少し違っていた。隣を歩いているだけで、なんとなく満たされるような、そんな不思議な感覚があった。
正門をくぐったところで、望乃莉が立ち止まった。
「私、こっちなので」
彼女は、渡り廊下の方を指差した。二年三組の教室へ向かう道だった。惺は頷いた。
「うん、じゃあ、また」
「はい、また」
彼女はそう言って、小さく頭を下げてから、渡り廊下の方へ歩いていった。惺はその後ろ姿を見送りながら、自分の胸の中に残った温かいものを、確かめるように感じていた。
たった二言、三言の会話だった。特別なことは何も話していない。それでも、惺にとっては、大きな一歩だった。
教室に着くと、一澄がすぐに気づいた。
「なんか、今日、顔色いいな」
「そうか?」
「なんかあった?」
惺は少し迷ってから、小さく笑った。
「おはよう、って言えた」
一澄は一瞬きょとんとした顔をしたけれど、すぐに何かを察したように笑った。
「それだけで、そんな顔すんの? かわいいとこあるじゃん、お前」
からかわれて、惺は照れくさくなって視線を逸らした。それでも、心の中では、確かな達成感があった。
その日の放課後、惺は久しぶりに白灯文庫に足を向けた。窓際の席には、いつも通り望乃莉が座っていた。惺が入ってきたことに気づくと、彼女は本から視線を上げて、小さく会釈をした。惺も同じように会釈を返した。
言葉は交わさなかった。けれど、その小さな挨拶だけで、以前とは違う何かが二人の間に生まれているのを、惺は感じていた。それは友達と呼べるほどのものではないかもしれない。けれど、ただのクラスメイト以上の、何かではあった。
惺は書架から一冊の本を選んで、少し離れた席に腰を下ろした。今日は、ちゃんと読むつもりだった。ページをめくりながら、時折、窓際の彼女の様子を横目で確認する。彼女もまた、静かに本を読んでいる。
同じ空間にいるのに、まだ言葉を交わすことはほとんどない。それでも、確かに何かが少しずつ近づいている。惺はそう感じながら、窓の外を見た。夕方の光が、教室の隅々まで橙色に染めていく。
近くにいることと、届くことは違うらしい。
「おはよう」を、望乃莉は、何度も、飲み込んできた。
朝の交差点で、惺の後ろ姿を見つけるたびに、望乃莉の喉の奥には、小さな挨拶の言葉が、浮かんでは消えていった。声をかければいい。ただ、それだけのことだと、頭では分かっている。それなのに、いざ、その一歩を踏み出そうとすると、心臓が、驚くほど大きな音を立てて、望乃莉の勇気を、押し戻してしまうのだった。
ある朝、望乃莉は、いつもより少し早く、家を出た。理由は、自分でもよく分からなかった。ただ、なんとなく、今日こそは、自分から声をかけてみようという、小さな決意があった。
交差点に差し掛かると、案の定、惺の姿は、まだそこになかった。望乃莉は、電柱の陰に、そっと身を寄せて、彼が来るのを待った。
(おはよう、って、言うだけ。それだけでいい)
心の中で、何度も、その言葉を練習した。「おはよう」。たった四文字。それなのに、なぜか、その言葉は、望乃莉の口の中で、うまく形にならなかった。
やがて、遠くから、惺の自転車を押す音が聞こえてきた。望乃莉は、深く息を吸い込んで、電柱の陰から、一歩、踏み出そうとした。
けれど、実際に、惺の姿が視界に入った瞬間、望乃莉の足は、その場に、根が生えたように、止まってしまった。声をかけようとした言葉は、喉の奥で、静かに消えていった。
結局、望乃莉は、いつものように、惺の方から「おはよう」と声をかけられるのを、待つことしかできなかった。
「おはよう、望乃莉」
「おはよう、ございます」
いつもと同じ、控えめな返事。望乃莉は、心の中で、小さくため息をついた。今日も、自分からは、言えなかった。
一方、惺もまた、同じような葛藤を抱えていた。放課後、白灯文庫での時間を終えて、望乃莉と別れる瞬間、惺は、いつも、「また明日」という言葉を、自然に口にしていた。けれど、あるとき、惺は、その言葉の裏に、もっと違う想いがあることに、気づき始めていた。
「また明日」ではなく、本当は、「もっと一緒にいたい」と、言いたかった。けれど、そんな言葉を、いきなり口にする勇気は、惺にはなかった。
「じゃあ、また……」
ある日の放課後、惺は、いつものように、別れの言葉を口にしようとした。けれど、その日は、なぜか、いつもの「また明日」という言葉すら、うまく出てこなかった。
望乃莉は、少し不思議そうな表情で、惺の顔を見つめていた。
「惺くん?」
「あ、いや……その、また、明日」
結局、いつも通りの言葉で、その場を、取り繕ってしまった。惺は、自転車を押しながら、自分の不甲斐なさに、小さくため息をついた。
言いたいことは、いつも、たくさんある。それなのに、いざその瞬間になると、言葉は、するりと、指の間からこぼれ落ちてしまう。惺と望乃莉、二人とも、同じような不器用さを、それぞれの形で、抱え続けていた。
けれど、その「言えなかった一言」の積み重ねこそが、後に、二人の関係を、より深く、確かなものにしていく、大切な土台になっていくのだった。
