第四章 落ちた花びらを拾う指先に、言えない願いが宿る。
桜は散るためじゃなく、誰かに拾われるために咲くのかもしれない。
そんなことを考えたのは、通学路の途中、灯凪町の商店街を抜けたところにある小さな公園でのことだった。もう四月も終わりに近づき、桜の木々はほとんど葉桜になりかけていたけれど、その公園の隅にある一本だけは、まだ意地を張るように花を残していた。
土曜日の朝は、平日とは違う、ゆったりとした空気に包まれていた。惺は、朝練を終えて、いつもより軽やかな足取りで、自転車を押していた。空には、薄い雲が、ところどころに浮かんでいるだけで、初夏を思わせる、柔らかな日差しが、町全体を、優しく包み込んでいる。
商店街を抜ける途中、八百屋の店先には、色とりどりの春野菜が、所狭しと並べられていた。惺は、その鮮やかな色合いを、横目に見ながら、公園へと続く道を、ゆっくりと歩いていった。土曜日の朝特有の、どこかのんびりとした町の空気が、汗ばんだ体に、心地よく感じられた。
惺は部活の朝練を終えた帰り道、その公園を通りかかった。汗をかいた体に、朝の風が心地よかった。自転車を押しながら歩いていると、ふと視界の端に、見覚えのある人影が映った。
ベンチに座って、地面を見つめている人がいる。
夜久望乃莉だった。
制服ではなく、私服姿の彼女を見るのは初めてだった。淡いブルーのカーディガンに、白いスカート。いつも教室や図書室で見る姿とは違って、どこか無防備な雰囲気があった。彼女は膝の上に何かを乗せているようだったが、遠目にはよく見えなかった。
惺は少し迷ってから、自転車を押したまま、公園の入り口に近づいた。
公園に足を踏み入れると、桜の木々は、もう、ほとんどが葉桜へと姿を変えていた。それでも、一本だけ、まだ、いくらかの花を残している木があり、その周りには、地面いっぱいに、散り落ちた花びらが、まるで、薄紅色の絨毯のように、広がっていた。
公園の隅にある水飲み場からは、蛇口から滴る水音が、小さく、規則正しく、響いている。近くの茂みからは、鳥のさえずりが、聞こえてきた。惺は、その穏やかな音の重なりに、しばらくの間、耳を澄ませていた。土曜日の公園には、平日よりも、いくらか、子供連れの家族の姿が、見受けられた。
声をかけるべきか、それとも見なかったふりをして通り過ぎるべきか。心臓が妙に速く動いている。
けれど、彼女の様子に気づいて、惺は足を止めた。
彼女は、地面に落ちた花びらを一枚一枚、丁寧に拾い集めていた。膝の上に置かれていたのは、小さなノートのようなものだった。拾った花びらを、そのページの間にそっと挟んでいく。まるで、何かとても大切な儀式をしているかのように。
惺はその光景に見入ってしまい、しばらく声をかけることができなかった。花びらを拾う指先は、驚くほど丁寧だった。乱暴に掴むのではなく、壊れ物を扱うように、そっと、そっと。
やがて、彼女がふと顔を上げた。惺と目が合う。
「あ……」
彼女の口から、小さな声が漏れた。惺は慌てて頭を下げた。
「ごめん、見てたわけじゃ、いや、見てたんだけど」
しどろもどろになる惺を見て、彼女は少しだけ目を丸くした。それから、ほんの少しだけ、口元が緩んだような気がした。笑ったわけではない。けれど、確かに何かが和らいだ表情だった。
「大丈夫、です」
彼女はそう言って、また花びらに視線を戻した。惺はどうしていいか分からず、その場に立ち尽くしていたけれど、やがて意を決して、公園のベンチの方へ近づいた。
「その、花びら、集めてるの?」
我ながら間の抜けた質問だと思ったけれど、他に言葉が見つからなかった。彼女は頷いた。
「栞にするんです」
「栞?」
「桜の花びらを、本のページに挟むと、押し花みたいになって。しばらくすると、色が薄くなって、透けるようになるんです」
彼女の声は相変わらず小さかったけれど、今までよりも少しだけ、言葉数が多かった。惺はその変化を、逃したくないと思った。
「へえ……そんなの、初めて聞いた」
「毎年、この時期だけ、やってます」
そう言って、彼女はまた地面に視線を落とし、花びらを一枚、指先でつまみ上げた。惺は思い切って、彼女の隣、少し距離を空けたベンチの端に腰を下ろした。
ベンチに並んで座る二人の頭上では、桜の枝が、風に揺れるたびに、さらさらと、乾いた音を立てていた。時折、その音に紛れて、新しい花びらが、一枚、また一枚と、ひらひらと、舞い落ちてくる。惺は、その様子を、望乃莉と一緒に、目で追いかけながら、地面の花びらを、丁寧に、拾い集め続けた。
公園の向こうには、灯凪町の住宅街が、緩やかな坂道に沿って、広がっていた。屋根の色、庭木の緑、そして、遠くにうっすらと霞む、海の青。その景色全体が、まるで、一枚の絵画のように、穏やかに、二人を見守っているようだった。
「俺も、手伝っていい?」
彼女は驚いたように惺を見た。しばらく何も言わなかったので、惺は少し後悔しかけたけれど、やがて彼女は小さく頷いた。
「はい」
その一言だけで、惺の胸に温かいものが広がった。二人は並んで、地面に落ちた花びらを拾い始めた。会話はほとんどなかった。けれど、その沈黙は気まずいものではなく、どこか穏やかな時間だった。
花びらを一枚拾うたびに、惺はちらりと彼女の横顔を見た。真剣な表情で、地面を見つめている。時折、風が吹くと、新しい花びらが舞い落ちてくる。彼女はそれを目で追いかけて、落ちる場所を予測するように、手を伸ばした。
「上手だね」
惺がそう言うと、彼女は少し首を傾げた。
「毎年やってるから、慣れてるだけです」
「毎年って、いつから?」
「小学生の頃から、です。おばあちゃんが、教えてくれました」
彼女がぽつりぽつりと話し始めたのは、そのおばあさんのことだった。灯凪町の外れに住んでいた祖母が、毎年この時期になると、桜の花びらを栞にして、本に挟んでいたのだという。彼女はその習慣を、今も続けているらしい。
「おばあさん、今は?」
惺が尋ねると、彼女は一瞬、言葉を止めた。
「三年前に、亡くなりました」
「あ……ごめん」
「いいんです。だから、余計に、この時期はちゃんとやりたくて」
彼女はそう言って、また花びらを拾う手を動かした。惺はその横顔を見つめながら、彼女が抱えている何かの重さを、少しだけ感じ取った気がした。無口なのは、話すことがないからではなく、話さないことで守っているものがあるからなのかもしれない。そんな風に思った。
しばらくして、彼女のノートの中には、たくさんの花びらが挟まれていた。惺が拾ったものも、いくつか混ざっている。
「ありがとう、ございました」
彼女は丁寧に頭を下げた。惺は照れくさくなって、頭を掻いた。
「いや、俺は別に、ただ拾っただけだし」
「それでも、です」
彼女はそう言って、ノートを閉じた。そのとき、惺はふと気づいた。彼女の鞄からはみ出している文庫本の表紙が、少しだけ見えている。惺が見たことのないタイトルだった。
「それ、今読んでる本?」
惺が尋ねると、彼女は少し驚いたように鞄を見下ろし、それから小さく頷いた。
「はい」
「どんな話?」
彼女は少し考えるように視線を上げた。空を見上げるような仕草だった。
公園には、ちょうど、心地よい風が吹き抜けていった。その風に乗って、遠くの木々から、若葉の匂いが、微かに、漂ってくる。惺は、その匂いを、深く吸い込みながら、望乃莉の言葉に、耳を傾けていた。
「うまく、説明できないです。でも……大切な人に、想いを伝えられない人の話、です」
その言葉が、惺の胸にすっと入り込んできた。なぜだろう、その一言だけで、今の自分たちのことを言われているような気がしてしまった。
「そっか」
彼女が語る、本の中の物語。その静かな声は、公園の穏やかな空気に、まるで、溶け込んでいくかのようだった。惺は、その声の余韻を、いつまでも、耳の奥に、留めておきたいと思った。それ以上、何も聞けなかった。彼女もそれ以上は語らず、鞄を肩にかけて立ち上がった。
「じゃあ、私、行きます」
「あ、うん」
彼女は小さく頭を下げて、公園を後にした。惺はその後ろ姿を、しばらく見送っていた。彼女が角を曲がって見えなくなるまで、目を離すことができなかった。
望乃莉が公園を後にした後、惺は、しばらくの間、一人、ベンチに座り続けていた。風が吹くたびに、まだ、いくつかの花びらが、ひらひらと、舞い落ちてくる。惺は、その一枚を、そっと、手のひらに、受け止めた。
公園を包む午前の光は、少しずつ、その角度を変え始めている。惺は、ポケットにしまった花びらの、かすかな重みを感じながら、ゆっくりと、自転車のもとへと、歩いていった。空には、まだ、明るい水色が、広がっている。
町全体が、土曜日の午前の、穏やかな空気に、包まれていた。惺は、その空気を、深く吸い込みながら、家路につく前に、もう一度だけ、桜の木を、振り返った。
自転車のハンドルを握りながら、惺は今日の出来事を振り返った。花びらを拾う指先、小さな声、祖母の話、そして「大切な人に、想いを伝えられない人の話」という一言。どれも、ほんの些細なことのはずなのに、惺の心の中には、確かな重さを持って残っていた。
ベンチの上に、まだいくつかの花びらが残っていた。惺はそれをまた一枚、そっと拾い上げた。栞にする本も持っていないのに、なぜかそのまま捨てることができなかった。惺はその花びらを、そっと制服のポケットにしまった。
花びらは、本より先に想いを挟んでいた。
桜は散るためじゃなく、誰かに拾われるために咲くのかもしれない。
そんなことを考えたのは、通学路の途中、灯凪町の商店街を抜けたところにある小さな公園でのことだった。もう四月も終わりに近づき、桜の木々はほとんど葉桜になりかけていたけれど、その公園の隅にある一本だけは、まだ意地を張るように花を残していた。
土曜日の朝は、平日とは違う、ゆったりとした空気に包まれていた。惺は、朝練を終えて、いつもより軽やかな足取りで、自転車を押していた。空には、薄い雲が、ところどころに浮かんでいるだけで、初夏を思わせる、柔らかな日差しが、町全体を、優しく包み込んでいる。
商店街を抜ける途中、八百屋の店先には、色とりどりの春野菜が、所狭しと並べられていた。惺は、その鮮やかな色合いを、横目に見ながら、公園へと続く道を、ゆっくりと歩いていった。土曜日の朝特有の、どこかのんびりとした町の空気が、汗ばんだ体に、心地よく感じられた。
惺は部活の朝練を終えた帰り道、その公園を通りかかった。汗をかいた体に、朝の風が心地よかった。自転車を押しながら歩いていると、ふと視界の端に、見覚えのある人影が映った。
ベンチに座って、地面を見つめている人がいる。
夜久望乃莉だった。
制服ではなく、私服姿の彼女を見るのは初めてだった。淡いブルーのカーディガンに、白いスカート。いつも教室や図書室で見る姿とは違って、どこか無防備な雰囲気があった。彼女は膝の上に何かを乗せているようだったが、遠目にはよく見えなかった。
惺は少し迷ってから、自転車を押したまま、公園の入り口に近づいた。
公園に足を踏み入れると、桜の木々は、もう、ほとんどが葉桜へと姿を変えていた。それでも、一本だけ、まだ、いくらかの花を残している木があり、その周りには、地面いっぱいに、散り落ちた花びらが、まるで、薄紅色の絨毯のように、広がっていた。
公園の隅にある水飲み場からは、蛇口から滴る水音が、小さく、規則正しく、響いている。近くの茂みからは、鳥のさえずりが、聞こえてきた。惺は、その穏やかな音の重なりに、しばらくの間、耳を澄ませていた。土曜日の公園には、平日よりも、いくらか、子供連れの家族の姿が、見受けられた。
声をかけるべきか、それとも見なかったふりをして通り過ぎるべきか。心臓が妙に速く動いている。
けれど、彼女の様子に気づいて、惺は足を止めた。
彼女は、地面に落ちた花びらを一枚一枚、丁寧に拾い集めていた。膝の上に置かれていたのは、小さなノートのようなものだった。拾った花びらを、そのページの間にそっと挟んでいく。まるで、何かとても大切な儀式をしているかのように。
惺はその光景に見入ってしまい、しばらく声をかけることができなかった。花びらを拾う指先は、驚くほど丁寧だった。乱暴に掴むのではなく、壊れ物を扱うように、そっと、そっと。
やがて、彼女がふと顔を上げた。惺と目が合う。
「あ……」
彼女の口から、小さな声が漏れた。惺は慌てて頭を下げた。
「ごめん、見てたわけじゃ、いや、見てたんだけど」
しどろもどろになる惺を見て、彼女は少しだけ目を丸くした。それから、ほんの少しだけ、口元が緩んだような気がした。笑ったわけではない。けれど、確かに何かが和らいだ表情だった。
「大丈夫、です」
彼女はそう言って、また花びらに視線を戻した。惺はどうしていいか分からず、その場に立ち尽くしていたけれど、やがて意を決して、公園のベンチの方へ近づいた。
「その、花びら、集めてるの?」
我ながら間の抜けた質問だと思ったけれど、他に言葉が見つからなかった。彼女は頷いた。
「栞にするんです」
「栞?」
「桜の花びらを、本のページに挟むと、押し花みたいになって。しばらくすると、色が薄くなって、透けるようになるんです」
彼女の声は相変わらず小さかったけれど、今までよりも少しだけ、言葉数が多かった。惺はその変化を、逃したくないと思った。
「へえ……そんなの、初めて聞いた」
「毎年、この時期だけ、やってます」
そう言って、彼女はまた地面に視線を落とし、花びらを一枚、指先でつまみ上げた。惺は思い切って、彼女の隣、少し距離を空けたベンチの端に腰を下ろした。
ベンチに並んで座る二人の頭上では、桜の枝が、風に揺れるたびに、さらさらと、乾いた音を立てていた。時折、その音に紛れて、新しい花びらが、一枚、また一枚と、ひらひらと、舞い落ちてくる。惺は、その様子を、望乃莉と一緒に、目で追いかけながら、地面の花びらを、丁寧に、拾い集め続けた。
公園の向こうには、灯凪町の住宅街が、緩やかな坂道に沿って、広がっていた。屋根の色、庭木の緑、そして、遠くにうっすらと霞む、海の青。その景色全体が、まるで、一枚の絵画のように、穏やかに、二人を見守っているようだった。
「俺も、手伝っていい?」
彼女は驚いたように惺を見た。しばらく何も言わなかったので、惺は少し後悔しかけたけれど、やがて彼女は小さく頷いた。
「はい」
その一言だけで、惺の胸に温かいものが広がった。二人は並んで、地面に落ちた花びらを拾い始めた。会話はほとんどなかった。けれど、その沈黙は気まずいものではなく、どこか穏やかな時間だった。
花びらを一枚拾うたびに、惺はちらりと彼女の横顔を見た。真剣な表情で、地面を見つめている。時折、風が吹くと、新しい花びらが舞い落ちてくる。彼女はそれを目で追いかけて、落ちる場所を予測するように、手を伸ばした。
「上手だね」
惺がそう言うと、彼女は少し首を傾げた。
「毎年やってるから、慣れてるだけです」
「毎年って、いつから?」
「小学生の頃から、です。おばあちゃんが、教えてくれました」
彼女がぽつりぽつりと話し始めたのは、そのおばあさんのことだった。灯凪町の外れに住んでいた祖母が、毎年この時期になると、桜の花びらを栞にして、本に挟んでいたのだという。彼女はその習慣を、今も続けているらしい。
「おばあさん、今は?」
惺が尋ねると、彼女は一瞬、言葉を止めた。
「三年前に、亡くなりました」
「あ……ごめん」
「いいんです。だから、余計に、この時期はちゃんとやりたくて」
彼女はそう言って、また花びらを拾う手を動かした。惺はその横顔を見つめながら、彼女が抱えている何かの重さを、少しだけ感じ取った気がした。無口なのは、話すことがないからではなく、話さないことで守っているものがあるからなのかもしれない。そんな風に思った。
しばらくして、彼女のノートの中には、たくさんの花びらが挟まれていた。惺が拾ったものも、いくつか混ざっている。
「ありがとう、ございました」
彼女は丁寧に頭を下げた。惺は照れくさくなって、頭を掻いた。
「いや、俺は別に、ただ拾っただけだし」
「それでも、です」
彼女はそう言って、ノートを閉じた。そのとき、惺はふと気づいた。彼女の鞄からはみ出している文庫本の表紙が、少しだけ見えている。惺が見たことのないタイトルだった。
「それ、今読んでる本?」
惺が尋ねると、彼女は少し驚いたように鞄を見下ろし、それから小さく頷いた。
「はい」
「どんな話?」
彼女は少し考えるように視線を上げた。空を見上げるような仕草だった。
公園には、ちょうど、心地よい風が吹き抜けていった。その風に乗って、遠くの木々から、若葉の匂いが、微かに、漂ってくる。惺は、その匂いを、深く吸い込みながら、望乃莉の言葉に、耳を傾けていた。
「うまく、説明できないです。でも……大切な人に、想いを伝えられない人の話、です」
その言葉が、惺の胸にすっと入り込んできた。なぜだろう、その一言だけで、今の自分たちのことを言われているような気がしてしまった。
「そっか」
彼女が語る、本の中の物語。その静かな声は、公園の穏やかな空気に、まるで、溶け込んでいくかのようだった。惺は、その声の余韻を、いつまでも、耳の奥に、留めておきたいと思った。それ以上、何も聞けなかった。彼女もそれ以上は語らず、鞄を肩にかけて立ち上がった。
「じゃあ、私、行きます」
「あ、うん」
彼女は小さく頭を下げて、公園を後にした。惺はその後ろ姿を、しばらく見送っていた。彼女が角を曲がって見えなくなるまで、目を離すことができなかった。
望乃莉が公園を後にした後、惺は、しばらくの間、一人、ベンチに座り続けていた。風が吹くたびに、まだ、いくつかの花びらが、ひらひらと、舞い落ちてくる。惺は、その一枚を、そっと、手のひらに、受け止めた。
公園を包む午前の光は、少しずつ、その角度を変え始めている。惺は、ポケットにしまった花びらの、かすかな重みを感じながら、ゆっくりと、自転車のもとへと、歩いていった。空には、まだ、明るい水色が、広がっている。
町全体が、土曜日の午前の、穏やかな空気に、包まれていた。惺は、その空気を、深く吸い込みながら、家路につく前に、もう一度だけ、桜の木を、振り返った。
自転車のハンドルを握りながら、惺は今日の出来事を振り返った。花びらを拾う指先、小さな声、祖母の話、そして「大切な人に、想いを伝えられない人の話」という一言。どれも、ほんの些細なことのはずなのに、惺の心の中には、確かな重さを持って残っていた。
ベンチの上に、まだいくつかの花びらが残っていた。惺はそれをまた一枚、そっと拾い上げた。栞にする本も持っていないのに、なぜかそのまま捨てることができなかった。惺はその花びらを、そっと制服のポケットにしまった。
花びらは、本より先に想いを挟んでいた。
