しおりになる春、君をひらく季節。

第十章 春に拾った花びらが、ふたりの未来を挟んでいた。

 春に拾った一枚は、まだ静かに残っていた。
 告白を交わした日から、一週間が過ぎていた。三月の灯凪町には、確かな春の気配が満ちていた。街路樹の蕾は、少しずつ膨らみを増し、海からの風にも、柔らかな暖かさが混じるようになっていた。
 卒業式の朝、惺は、いつもより早く目を覚ました。窓の外には、雲一つない、澄み渡った青空が広がっていた。春の柔らかな光が、カーテンの隙間から、部屋の中に、そっと、差し込んでいる。この一年間の、様々な出来事が、惺の頭の中を、次々と巡っていった。
 生徒手帳を拾った春の日。花びらを一緒に拾った公園。名前を呼び合った白灯文庫。缶ジュースをもらった朝。指先が触れた瞬間。花火に照らされた横顔。屋上で交わした、いくつもの約束。そして、ようやく伝えられた、あの言葉。
 すべての記憶が、今日という日を迎えるために、積み重ねられてきたのだと、惺は、改めて実感していた。
制服に袖を通し、惺は、机の引き出しを、もう一度、開けた。中には、望乃莉に渡したしおりと入れ替わるように、新しく、小さな包みが、入っていた。
 これは、惺が、この一週間、こっそりと準備していたものだった。あの日、屋上で伝えた「これからも、隣にいたい」という言葉を、形にして、もう一度、彼女に届けたいという想いから、生まれたものだった。
卒業式は、灯凪高校の体育館で、厳かに執り行われた。窓の外からは、春の訪れを告げるような、鳥のさえずりが、微かに、聞こえてきていた。校長先生の式辞、在校生代表の送辞、そして、卒業生代表の答辞。惺は、その一つ一つの言葉を、静かに、噛み締めながら聞いていた。惺は、この一年間の、様々な記憶を、静かに、辿り直していた。
 式が終わり、教室でのホームルームを終えると、生徒たちは、それぞれ、思い思いの場所で、別れを惜しみ始めた。写真を撮り合う生徒たち、涙を流しながら抱き合う友人たち、そして、これからの未来に向けて、希望に満ちた表情を浮かべる生徒たち。
 惺は、一澄と、簡単な挨拶を交わした後、望乃莉との約束の場所へと、向かった。あの、桜の木がある公園。一年前、初めて、二人が言葉を交わした場所だった。
 公園へと、向かう道すがら、街路樹には、いくつもの、小さな新芽が、その姿を、覗かせていた。春という季節が、確かに、この町に、戻ってきていることを、惺は、肌で、感じ取っていた。
 公園に着くと、桜の木は、もう、いくつかの花を咲かせ始めていた。まだ、満開には少し早いけれど、確かに、春の訪れを感じさせる、淡い色合いを、枝いっぱいに纏っている。
 望乃莉は、すでに、ベンチのそばで、惺を待っていた。卒業式の後の、彼女の制服姿を見て、惺は、この一年間の彼女との思い出を、また、鮮やかに、思い起こした。
「お疲れ様でした」
 望乃莉が、微笑みながら、そう言った。
「望乃莉も、お疲れ様。卒業、おめでとう」
「惺くんも」
 二人は、桜の木の下、ベンチに、並んで腰を下ろした。一年前、ここで、花びらを一緒に拾った日のことを、惺は、鮮明に思い出していた。惺と望乃莉が、並んで座る、そのベンチの上にも、時折、風に運ばれた、小さな花びらが、そっと、舞い落ちてきていた。
「あのさ、望乃莉」
 惺は、ポケットから、あの小さな包みを、取り出した。
「これ、渡したいものがあって」
 望乃莉は、少し驚いたような表情を見せながら、その包みを、受け取った。丁寧に、包み紙を開くと、中から、小さな栞が現れた。
 それは、惺が、この一週間かけて、丁寧に作った、新しいしおりだった。中には、去年、公園で一緒に拾った、あの日の花びらが、今度は、しっかりと、透明なラミネート加工で、きれいに保存されていた。桜の木から、また一枚、花びらが、風に乗って、舞い落ちてきていた。二人が、これからの未来について、静かに、語り合う、その時間の中で、灯凪町の春の陽光が、優しく、二人を、包み込んでいた。
「これって……」
 望乃莉が、驚いたように、そのしおりを見つめた。
「去年、一緒に拾った花びら、あのとき、実は、いくつか、こっそり、取っておいたんだ。望乃莉に渡した、あの不格好なしおりとは別に」
 惺は、少し照れくさそうに、続けた。
「これから、望乃莉と、新しい思い出を、たくさん作っていきたい。だから、今度は、ちゃんとした形で、渡したいと思って」
 望乃莉は、そのしおりを、大切そうに、両手で包み込んだ。彼女の目に、うっすらと、涙が浮かんでいた。
「ありがとう、ございます。大切に、します」
「望乃莉」
 惺は、彼女の名前を、もう一度、呼んだ。
「これから、離れ離れになっちゃう時間も、あるかもしれない。俺は、大学受験があるし、望乃莉は、まだ、一年、高校生活が残ってる。でも、どんなに離れても、この気持ちは、変わらないから」
 望乃莉は、涙を拭いながら、頷いた。
「私も、同じです。惺くんとの、この一年間の思い出、これからも、ずっと、大切にします」
 桜の木から、風に乗って、花びらが、一枚、二枚と、舞い落ちてきた。惺は、その光景を見つめながら、一年前の、あの日のことを、思い出していた。生徒手帳を拾った、あの春の朝。あのときは、まさか、こんな未来が待っているとは、想像もしていなかった。
「望乃莉と出会えて、本当に、よかった」
 惺が、素直な気持ちを口にすると、望乃莉は、優しく微笑んだ。
「私も、惺くんと出会えて、よかったです。惺くんのおかげで、伝えたいことを、ちゃんと、言葉にできる自分に、なれました」
 二人は、しばらくの間、桜の木の下で、これからの未来について、語り合った。惺の進路のこと、望乃莉が、これから過ごす、高校生活最後の一年のこと、そして、これからも、二人で、大切にしていきたい時間のこと。
 会話が途切れた瞬間、望乃莉は、そっと、あの新しいしおりを、鞄から取り出していた本のページに、挟んだ。惺は、その仕草を、静かに見守っていた。
「この本、また、いつか、続きを読みます。惺くんと、一緒に作ってきた、この一年の物語みたいに」
 望乃莉の言葉に、惺は、深く頷いた。
「うん。これからも、一緒に、新しいページ、作っていこう」
 桜の花びらが、二人の周りを、静かに、舞い続けていた。一年前、まだ名前も知らなかった二人が、こうして、たくさんの時間を積み重ね、想いを言葉にできるまでに、成長してきた。その軌跡のすべてが、今、この瞬間、桜の木の下で、静かに、実を結んでいた。
 あの日拾った花びらは、思い出ではなく、これからを開く栞になった。