第九章 君は本を閉じて、まっすぐ俺を見た。
その日、君は初めて本より先に僕を見た。
「思い出してほしかった」という言葉を伝えてから、惺と望乃莉の間には、これまでとは違う、確かな親密さが生まれていた。まだ、「好き」という言葉には、たどり着いていない。それでも、二人とも、その言葉が、近いうちに交わされることを、なんとなく、予感していた。
三月に入り、灯凪町には、本格的な春の気配が漂い始めていた。街路樹には、小さな蕾が膨らみ始め、風の中にも、わずかながら、暖かさが混じるようになっていた。
惺たち三年生にとって、卒業式が近づいていることは、大きな意味を持っていた。高校生活の終わりが、確実に迫っている。惺は、その事実を意識するたびに、望乃莉との関係に、しっかりと、区切りをつけたいという想いを、強くしていた。
卒業式を一週間後に控えたある日、惺は、放課後、白灯文庫に向かった。灯凪高校には、確かな春の気配が、少しずつ、漂い始めていた。窓の外の街路樹には、小さな蕾が、日ごとに、その膨らみを、増している。冬の間、閉ざされていた窓も、時折、少しだけ、開けられるようになっていた。窓際の席には、いつも通り、望乃莉が座っていた。彼女の膝の上には、あの本が置かれていた。『春をしおりにして』。窓から差し込む、午後の光は、冬のそれよりも、いくらか、柔らかく、暖かな色合いを、帯びていた。彼女が、そのページを、そっと、撫でる仕草を、惺は、静かに、見つめていた。惺が、一年前に読んだ、あの恋愛小説だった。
「また、読んでるの?その本」
惺が尋ねると、望乃莉は、小さく頷いた。
「時々、読み返したくなるんです。特に、この時期は」
「この時期?」
「春が近づくと、なんとなく」
望乃莉は、そう言いながら、本のページを、そっと撫でた。惺は、彼女の隣に、腰を下ろした。
「もうすぐ、卒業式だね」
惺がそう言うと、望乃莉は、頷いた。
「早いですね。惺くんが、卒業しちゃうなんて、まだ、実感が湧かないです」
「俺も」
二人は、しばらくの間、無言で、それぞれの時間を過ごしていた。窓の外では、午後の柔らかな光が、白灯文庫全体を、優しく照らしている。惺は、その静かな時間の中で、これまで、何度も、何度も、伝えようとしては、言えなかった、あの言葉のことを、考えていた。
もう、時間がない。惺は、そう、強く感じていた。卒業式が終われば、望乃莉とは、別々の学年生活を送ることになる。今まで以上に、会う機会は、減ってしまうかもしれない。だからこそ、今、この瞬間に、ちゃんと、伝えなければならないと、惺は、心の中で、強く決意していた。
「望乃莉」
惺は、声をかけた。彼女は、本から視線を上げて、こちらを見た。惺は、その目を、まっすぐに見つめ返した。
「今日、放課後、少し、時間もらえる?話したいことがあって」
望乃莉は、少し驚いたような表情を見せてから、静かに頷いた。
「はい、大丈夫です」
放課後、二人は、あの屋上へと向かった。三月の風は、まだ、冷たさを残していたけれど、確かに、以前よりも、柔らかくなっていた。屋上から見える灯凪町の景色は、春の訪れを感じさせる、うっすらとした緑を、街のあちこちに、映し出していた。
「望乃莉」
惺は、深呼吸をして、彼女に向き合った。心臓が、これまでにないほど、激しく脈打っている。それでも、今日は、絶対に、逃げないと、惺は、強く自分に言い聞かせていた。
「一年前、望乃莉の生徒手帳を拾った日から、今日まで、たくさんの時間を、一緒に過ごしてきた」
惺の言葉に、望乃莉は、静かに、耳を傾けていた。
「花びらを一緒に拾ったこと、白灯文庫で名前を呼び合ったこと、缶ジュースをもらったこと、渡り廊下での沈黙、指先が触れた瞬間、花火を見た夜、屋上で交わした約束、しおりを渡した日。全部、俺にとって、かけがえのない時間だった」
惺は、望乃莉の目を、まっすぐに見つめ続けた。
「望乃莉のことが、好きです」
屋上に吹く風は、春に向かう、確かな暖かさを、静かに、運んでいた。灯凪町の景色全体が、その言葉を、優しく、見守っているかのようだった。その言葉は、これまでの、どんな瞬間よりも、静かに、けれど、確かな重みを持って、屋上の空気の中に、響き渡った。
望乃莉は、しばらくの間、何も言わずに、惺の顔を見つめていた。その目に、うっすらと、涙が浮かび始めていた。
「これからも、望乃莉の隣にいたい。友達としてじゃなくて、もっと、特別な存在として。もし、望乃莉が、同じ気持ちを持ってくれるなら、俺は、これからも、ずっと、望乃莉のそばにいたい」
惺の言葉が、終わると、屋上には、しばらくの間、静寂が広がった。望乃莉は、手に持っていた文庫本を、そっと、閉じた。
これまで、彼女は、いつも、何かに気持ちを託してきた。本を貸すことで、付箋を書くことで、花びらを挟むことで。けれど、今、彼女は、その本を、静かに閉じて、鞄の中にしまった。
そして、まっすぐに、惺を見つめた。屋上に差し込む、三月の柔らかな光が、二人の姿を、静かに、包み込んでいた。
何も持たずに。何にも頼らずに。ただ、自分自身の言葉で。
「……好きです」
その一言は、たった四文字だったけれど、望乃莉が、これまで、一年間、抱え続けてきた、すべての想いが、詰まっているように、惺には、感じられた。「……好きです」という、その一言が、屋上の静かな空気の中に、確かな、重みを持って、響き渡っていた。
「惺くんのことが、ずっと、好きでした。でも、うまく、言葉にできなくて。本や、付箋や、花びらに、想いを託すことしか、できなくて」
望乃莉の目から、涙が、静かに、頬を伝った。それでも、彼女は、言葉を止めなかった。
「でも、今は、ちゃんと、自分の言葉で、伝えたいです。惺くんのことが、好きです。これからも、ずっと、隣にいたいです」
惺は、その言葉を聞きながら、これまでの一年間の、すべての記憶が、一気に、心の中に溢れ出してくるのを感じていた。生徒手帳を拾ったあの春の日から、今日、この瞬間まで。すべての時間が、この告白のために、積み重ねられてきたのだと、惺は、強く実感していた。
「望乃莉」
惺は、彼女の名前を、もう一度、呼んだ。彼女は、涙を浮かべたまま、こちらを見つめている。
「ありがとう。俺も、これからも、ずっと、望乃莉の隣にいたい」
二人は、しばらくの間、屋上で、お互いの気持ちを、確かめ合うように、見つめ合っていた。三月の柔らかな風が、二人の間を、静かに、通り抜けていく。
もう本に代わりを頼まなくても、言葉はちゃんと届いた。
その日、君は初めて本より先に僕を見た。
「思い出してほしかった」という言葉を伝えてから、惺と望乃莉の間には、これまでとは違う、確かな親密さが生まれていた。まだ、「好き」という言葉には、たどり着いていない。それでも、二人とも、その言葉が、近いうちに交わされることを、なんとなく、予感していた。
三月に入り、灯凪町には、本格的な春の気配が漂い始めていた。街路樹には、小さな蕾が膨らみ始め、風の中にも、わずかながら、暖かさが混じるようになっていた。
惺たち三年生にとって、卒業式が近づいていることは、大きな意味を持っていた。高校生活の終わりが、確実に迫っている。惺は、その事実を意識するたびに、望乃莉との関係に、しっかりと、区切りをつけたいという想いを、強くしていた。
卒業式を一週間後に控えたある日、惺は、放課後、白灯文庫に向かった。灯凪高校には、確かな春の気配が、少しずつ、漂い始めていた。窓の外の街路樹には、小さな蕾が、日ごとに、その膨らみを、増している。冬の間、閉ざされていた窓も、時折、少しだけ、開けられるようになっていた。窓際の席には、いつも通り、望乃莉が座っていた。彼女の膝の上には、あの本が置かれていた。『春をしおりにして』。窓から差し込む、午後の光は、冬のそれよりも、いくらか、柔らかく、暖かな色合いを、帯びていた。彼女が、そのページを、そっと、撫でる仕草を、惺は、静かに、見つめていた。惺が、一年前に読んだ、あの恋愛小説だった。
「また、読んでるの?その本」
惺が尋ねると、望乃莉は、小さく頷いた。
「時々、読み返したくなるんです。特に、この時期は」
「この時期?」
「春が近づくと、なんとなく」
望乃莉は、そう言いながら、本のページを、そっと撫でた。惺は、彼女の隣に、腰を下ろした。
「もうすぐ、卒業式だね」
惺がそう言うと、望乃莉は、頷いた。
「早いですね。惺くんが、卒業しちゃうなんて、まだ、実感が湧かないです」
「俺も」
二人は、しばらくの間、無言で、それぞれの時間を過ごしていた。窓の外では、午後の柔らかな光が、白灯文庫全体を、優しく照らしている。惺は、その静かな時間の中で、これまで、何度も、何度も、伝えようとしては、言えなかった、あの言葉のことを、考えていた。
もう、時間がない。惺は、そう、強く感じていた。卒業式が終われば、望乃莉とは、別々の学年生活を送ることになる。今まで以上に、会う機会は、減ってしまうかもしれない。だからこそ、今、この瞬間に、ちゃんと、伝えなければならないと、惺は、心の中で、強く決意していた。
「望乃莉」
惺は、声をかけた。彼女は、本から視線を上げて、こちらを見た。惺は、その目を、まっすぐに見つめ返した。
「今日、放課後、少し、時間もらえる?話したいことがあって」
望乃莉は、少し驚いたような表情を見せてから、静かに頷いた。
「はい、大丈夫です」
放課後、二人は、あの屋上へと向かった。三月の風は、まだ、冷たさを残していたけれど、確かに、以前よりも、柔らかくなっていた。屋上から見える灯凪町の景色は、春の訪れを感じさせる、うっすらとした緑を、街のあちこちに、映し出していた。
「望乃莉」
惺は、深呼吸をして、彼女に向き合った。心臓が、これまでにないほど、激しく脈打っている。それでも、今日は、絶対に、逃げないと、惺は、強く自分に言い聞かせていた。
「一年前、望乃莉の生徒手帳を拾った日から、今日まで、たくさんの時間を、一緒に過ごしてきた」
惺の言葉に、望乃莉は、静かに、耳を傾けていた。
「花びらを一緒に拾ったこと、白灯文庫で名前を呼び合ったこと、缶ジュースをもらったこと、渡り廊下での沈黙、指先が触れた瞬間、花火を見た夜、屋上で交わした約束、しおりを渡した日。全部、俺にとって、かけがえのない時間だった」
惺は、望乃莉の目を、まっすぐに見つめ続けた。
「望乃莉のことが、好きです」
屋上に吹く風は、春に向かう、確かな暖かさを、静かに、運んでいた。灯凪町の景色全体が、その言葉を、優しく、見守っているかのようだった。その言葉は、これまでの、どんな瞬間よりも、静かに、けれど、確かな重みを持って、屋上の空気の中に、響き渡った。
望乃莉は、しばらくの間、何も言わずに、惺の顔を見つめていた。その目に、うっすらと、涙が浮かび始めていた。
「これからも、望乃莉の隣にいたい。友達としてじゃなくて、もっと、特別な存在として。もし、望乃莉が、同じ気持ちを持ってくれるなら、俺は、これからも、ずっと、望乃莉のそばにいたい」
惺の言葉が、終わると、屋上には、しばらくの間、静寂が広がった。望乃莉は、手に持っていた文庫本を、そっと、閉じた。
これまで、彼女は、いつも、何かに気持ちを託してきた。本を貸すことで、付箋を書くことで、花びらを挟むことで。けれど、今、彼女は、その本を、静かに閉じて、鞄の中にしまった。
そして、まっすぐに、惺を見つめた。屋上に差し込む、三月の柔らかな光が、二人の姿を、静かに、包み込んでいた。
何も持たずに。何にも頼らずに。ただ、自分自身の言葉で。
「……好きです」
その一言は、たった四文字だったけれど、望乃莉が、これまで、一年間、抱え続けてきた、すべての想いが、詰まっているように、惺には、感じられた。「……好きです」という、その一言が、屋上の静かな空気の中に、確かな、重みを持って、響き渡っていた。
「惺くんのことが、ずっと、好きでした。でも、うまく、言葉にできなくて。本や、付箋や、花びらに、想いを託すことしか、できなくて」
望乃莉の目から、涙が、静かに、頬を伝った。それでも、彼女は、言葉を止めなかった。
「でも、今は、ちゃんと、自分の言葉で、伝えたいです。惺くんのことが、好きです。これからも、ずっと、隣にいたいです」
惺は、その言葉を聞きながら、これまでの一年間の、すべての記憶が、一気に、心の中に溢れ出してくるのを感じていた。生徒手帳を拾ったあの春の日から、今日、この瞬間まで。すべての時間が、この告白のために、積み重ねられてきたのだと、惺は、強く実感していた。
「望乃莉」
惺は、彼女の名前を、もう一度、呼んだ。彼女は、涙を浮かべたまま、こちらを見つめている。
「ありがとう。俺も、これからも、ずっと、望乃莉の隣にいたい」
二人は、しばらくの間、屋上で、お互いの気持ちを、確かめ合うように、見つめ合っていた。三月の柔らかな風が、二人の間を、静かに、通り抜けていく。
もう本に代わりを頼まなくても、言葉はちゃんと届いた。

