しおりになる春、君をひらく季節。

第三章 窓際で本を読む横顔に、春の光だけが触れていた。

 彼女は今日も、本を読んでいた。
 四月も半ばを過ぎると、灯凪町の桜並木は、その姿を、少しずつ、変え始めていた。満開だった花は、いつの間にか、ほとんどが散ってしまい、代わりに、若々しい緑の葉が、枝を覆い始めている。惺は、通学路を歩きながら、その変化を、なんとなく、寂しく感じていた。桜の季節が終わるということは、何か、一つの区切りが訪れるような、そんな感覚があったからだ。
 それでも、風に舞う花びらの数は、まだ、完全にゼロになったわけではない。時折、思い出したように、ひらりと一枚、二枚と、宙を舞う花びらがあった。校庭の隅、体育館の裏、通学路の側溝。町のあちこちに、まだ春の名残が溜まっている。惺は、その一枚一枚を、目で追いかけるたびに、あの生徒手帳を拾った日のことを、自然と、思い出すようになっていた。
 惺は、あれから毎日というわけではないけれど、放課後になんとなく白灯文庫に足を向けるようになっていた。特に用事があるわけではない。本を借りるでもなく、勉強をするでもなく、ただ、あの窓際の席を確かめに行くような、そんな習慣だった。
 自分でも、その理由をうまく説明できなかった。友人に聞かれたら、きっと誤魔化してしまうだろう。けれど、放課後の廊下を歩いていると、足は自然と三階への階段に向かってしまう。まるで、そこに何か忘れ物をしてきたかのように。
 放課後の廊下は、部活動へ向かう生徒たちで、賑やかな活気に包まれていた。運動部の生徒たちが、大きな荷物を抱えながら、足早に、昇降口へと向かっていく。その合間を縫うように、惺は、三階への階段を、ゆっくりと、上っていった。
階段の窓からは、傾き始めた午後の光が、斜めに差し込んでいる。その光の帯の中を、埃が、きらきらと、小さな粒となって、舞っているのが見えた。惺は、その光景に、しばらく、見入ってしまった。何気ない日常の一コマなのに、なぜか、その瞬間が、とても、大切なものであるかのように、感じられたのだった。
 白灯文庫の扉を開けると、いつもと同じ静けさが惺を迎えた。紙の匂い、遠くで誰かがページをめくる音、窓の外から差し込む午後の光。そして、窓際の席には、今日も夜久望乃莉が座っていた。
彼女はいつも同じ姿勢で本を読んでいる。背筋を伸ばし、両手で文庫本をそっと支え、視線だけが静かにページの上を滑っていく。その様子はまるで、時間の流れが彼女の周りだけゆっくりになっているようだった。
 白灯文庫の書架は、天井近くまで、高く積み上げられていた。惺は、その本棚の間を、ゆっくりと、歩きながら、背表紙のタイトルを、一つ一つ、目で追っていった。見慣れない作家の名前、聞いたことのある物語のタイトル。その一冊一冊に、誰かの想いが、込められているのだと思うと、惺は、なんとなく、不思議な気持ちになった。
窓際の席に近づくにつれて、西日の温もりが、少しずつ、感じられるようになってきた。埃っぽい紙の匂いに混じって、微かに、望乃莉がいつも使っている、控えめな香りの柔軟剤の匂いが、漂ってくるような気がした。惺は、その匂いに、思わず、頬が緩むのを感じた。
 惺は、少し離れた書架の陰から、その横顔をなんとなく眺めていた。話しかける勇気はまだなかった。生徒手帳を届けたときの短いやり取り以来、彼女と言葉を交わしたことは一度もない。それでも、なぜかこの場所に来ると、少しだけ安心するような気持ちになった。
彼女が読んでいる本のタイトルは、いつも見えなかった。カバーがかかっていることもあれば、彼女の手のひらに隠れていることもある。ただ、表紙の色合いから、恋愛小説のようなものを好んで読んでいるらしいということだけは、なんとなく分かってきていた。
 「今日も見に来たのか」
 ある日の放課後、書架の陰から様子を窺っていた惺に、背後から声がかかった。振り返ると、一澄が呆れたような笑みを浮かべて立っていた。
 「見に来たわけじゃ、ない」
 「じゃあ何しに来たんだよ、お前。本、読まないじゃん」
図星を突かれて、惺は言葉に詰まった。一澄は肩をすくめて、惺の隣に並んだ。
 「まあ、いいけどさ。でも、そんなにじっと見てたら、そのうち気づかれるぞ」
 「別に、見てたわけじゃ」
言い訳をしている途中で、惺は自分の声が思ったより大きくなっていることに気づいた。慌てて口を噤む。図書室では静かにしなければならない。それくらいのことは、当然分かっているはずだったのに。
窓際の彼女が、ふとこちらを見た。
惺は心臓が跳ねるのを感じた。声が大きすぎたのだろうか。気まずさで顔が熱くなる。けれど、彼女はただ静かにこちらを一瞥しただけで、すぐにまた本の世界に戻っていった。まるで、何事もなかったかのように。
一澄が小さく笑いを堪えている気配がしたので、惺はその脇腹を軽く肘で小突いた。
 「笑うなよ」
 「いや、だって。お前、あんな顔すんだな」
 「どんな顔だよ」
 「必死な顔」
反論しようとしたけれど、うまい言葉が見つからなかった。惺は諦めて、書架から一冊、目についた本を適当に抜き取った。何かを読んでいるふりでもしていないと、この場に居続ける理由がなくなってしまう気がしたからだ。
 その本のページをめくりながら、惺は横目で窓際の席を窺い続けた。彼女の指先が、時折ページの端に触れる。めくる瞬間だけ、ほんの少し表情が動く。悲しい場面なのか、嬉しい場面なのか、惺には分からなかった。それでも、その小さな変化を見逃したくないと思ってしまう自分がいた。
 「あのさ」
一澄が、ふと真面目な声で言った。
 「気になるなら、話しかければいいのに」
 「そんな簡単に言うなよ」
 「簡単だろ。生徒手帳、届けたんだろ? もう接点あるじゃん」
惺は本のページを見つめたまま、何も言えなかった。一澄の言う通りだった。きっかけなら、もうある。生徒手帳を届けたときの「ありがとう」から続く何かを、自分から紡いでいけばいいだけの話だ。
けれど、実際にそれをしようとすると、途端に足がすくんでしまう。何を話せばいいのか分からない。彼女がどんな話題を好むのかも、どんな声で笑うのかも、惺は何一つ知らない。知らないことばかりが多すぎて、最初の一言をどこから探せばいいのか、見当もつかなかった。
 「別に、今すぐじゃなくてもいいと思うけどな」
一澄が、惺の心を見透かしたように言った。
 「ただ、気になってることは、隠さなくてもいいんじゃね。お前、隠すの下手だし」
そう言って、一澄は先に図書室を出ていった。惺はその後ろ姿を見送ってから、もう一度、窓際の席に目を向けた。
 書架の陰から、惺は、夜久望乃莉の横顔を、そっと、見つめ続けていた。彼女の周りだけ、時間の流れが、ゆっくりとしているように感じられる。西日が、彼女の頬を、柔らかく照らし、長い睫毛の影を、そっと、落としていた。
 図書室全体が、静かな午後の空気に包まれている中、時折、ページをめくる音や、椅子が軋む微かな音だけが、その静寂を、優しく、揺らしていた。惺は、その音の一つ一つに、耳を澄ませながら、望乃莉の存在を、より一層、強く、意識するようになっていった。
 やがて、彼女は静かに本を閉じた。栞を挟むこともなく、ページの角を折ることもなく、ただそっと閉じた本を鞄にしまい、席を立った。惺は思わず身を固くしたが、彼女はこちらに気づく様子もなく、静かにカウンターの方へ向かい、司書に本を返却してから図書室を出ていった。
 その後ろ姿を見送りながら、惺は自分の手の中にある、まだ一行も読んでいない本を見下ろした。何のために手に取ったのかも、もう思い出せなかった。
 窓の外では、夕方の光が少しずつ橙色を強めていた。灯凪町の空は、こうしてゆっくりと色を変えながら、一日を終えていく。惺は本を書架に戻し、鞄を肩にかけて、白灯文庫を出た。
廊下を歩きながら、惺は今日交わすことのなかった会話について考えていた。声をかけようと思えば、いくらでもタイミングはあったはずだ。彼女が本を閉じた瞬間、席を立った瞬間、廊下ですれ違った瞬間。それでも、結局は何も言えないまま、今日という日も終わろうとしている。
自転車置き場へ向かう道すがら、惺はふと足を止めて、三階の窓を振り返った。西日を反射する白灯文庫の窓は、もう誰もいない静けさに包まれているはずだった。
ページをめくる音だけが、まだ届かない会話だった。
 惺は、いつもとは違う道を選んで、帰路についた。商店街を抜けると、夕暮れの光が、道路に、長い影を落としている。魚屋の店先では、威勢の良い掛け声とともに、今日の売れ残りが、値引きされていく様子が見えた。
海沿いの道に出ると、潮の香りが、いっそう、強くなった。波の音が、遠くから、絶え間なく、聞こえてくる。惺は、その音に耳を傾けながら、自転車のペダルを、ゆっくりと、漕ぎ続けた。空の色は、橙色から、次第に、深い紫へと、移り変わっていく。
 窓際で本を読んでいた、あの静かな横顔。惺は、その姿を、もう一度、心の中に思い浮かべながら、家路を急いだ。今日、交わすことのできなかった言葉の分だけ、その横顔は、より一層、鮮明に、惺の記憶の中に、刻み込まれていくようだった。