第八章 「思い出してほしかった」それが最初の告白だった。
「好き」より先に伝えたい言葉があった。
しおりを渡した日から、一週間が過ぎていた。二月も後半に差しかかり、灯凪町には、まだ雪の残る場所も、ちらほらと見受けられた。それでも、日差しは、確実に、春の気配を帯び始めていた。
惺の中では、あの日、しおりを渡したことで、ある種の区切りがついたような感覚があった。けれど、それは、決してゴールではなく、むしろ、本当の意味での始まりの合図だった。まだ、いちばん大切な言葉が、伝えられずに残っている。惺は、そのことを、痛いほど、自覚していた。
部活は、正式に、後輩たちへの引き継ぎを終え、惺たち三年生は、部活動を引退することになった。最後の練習を終えた日、惺は、これまでのグラウンドでの時間を振り返りながら、ある種の感慨に浸っていた。同時に、これからの人生の中で、望乃莉との関係を、どう築いていきたいのか、真剣に考えるようになっていた。
引退の翌日、惺は、通学路を歩く道すがら、冬の弱い日差しが、それでも、確かに、春の気配を、少しずつ、帯び始めているのを、感じ取っていた。街路樹の枝先には、まだ、固い蕾が、わずかに、膨らみ始めている。
惺は、朝の交差点で、望乃莉と待ち合わせた。
「部活、お疲れ様でした」
望乃莉が、そう言って、微笑んだ。
「ありがとう。なんか、実感、まだ、湧かないけど」
「三年間、頑張りましたね」
望乃莉の優しい言葉に、惺は、素直に頷いた。二人は、並んで、通学路を歩き始めた。
「あのさ、望乃莉」
惺は、歩きながら、ふと、口を開いた。
「今日の放課後、時間ある?」
望乃莉は、少し驚いたような表情を見せてから、頷いた。
「はい、大丈夫です」
「屋上、行かない? あの日みたいに」
惺の提案に、望乃莉は、少し緊張したような表情を浮かべながらも、頷いた。
「はい、行きます」
その日一日、惺は、授業にも、あまり集中できなかった。今日こそ、伝えよう。その決意だけが、頭の中を、ずっと占め続けていた。
放課後、惺は、生徒会の担当教師から、屋上の鍵を借りた。望乃莉と、待ち合わせをした階段の下で、二人は合流し、一緒に、屋上へと続く階段を上った。冬の終わりを告げるような、柔らかな風が、階段の隙間から、吹き込んでいた。以前よりも、いくらか、和らいだ、その空気の温もりを、惺は、静かに、感じ取っていた。
扉を開けると、冬の終わりの、澄んだ風が、二人を迎えた。灯凪町の景色が、屋上から、広く見渡せる。海の青、町並みの色、そして、遠くに見える山々。惺は、その景色を、一度、深く目に焼き付けてから、望乃莉の方を向いた。
「望乃莉」
「はい」
彼女は、まっすぐに、惺を見つめていた。惺は、深く息を吸い込んだ。心臓が、これまでにないほど、激しく脈打っている。それでも、今日は、逃げないと、強く自分に言い聞かせていた。
「一年前、望乃莉の生徒手帳を拾ったとき」
惺は、ゆっくりと、言葉を紡ぎ始めた。
「正直、その日は、ただの偶然だと思ってた。名前も知らない誰かに、たまたま拾ったものを、届けただけだって」
望乃莉は、静かに、惺の言葉に耳を傾けていた。
「でも、あの日から、望乃莉のこと、ずっと、覚えてる。名前も、顔も、声も。忘れたことなんて、一度もなかった」
惺は、望乃莉の目を、まっすぐに見つめた。
「花びらを一緒に拾ったときも、缶ジュースをもらったときも、指先が触れたときも、花火を見たときも。全部、全部、覚えてる。望乃莉との思い出は、俺にとって、ずっと、大切なものだった」
望乃莉の目に、涙が、うっすらと浮かび始めていた。惺は、続けた。
「でも、俺、望乃莉に、いちばん伝えたかったのは、『好き』っていう言葉じゃなくて」
惺は、一度、言葉を止めた。屋上に広がる、灯凪町の景色は、冬の終わりの、澄んだ光の中で、静かに、輝いていた。海の青、町並みの色、そして、遠くに見える、うっすらとした、春の気配。深呼吸をして、もう一度、望乃莉の目を見つめた。
「『思い出してほしかった』っていう、気持ちだった」
望乃莉は、驚いたように、目を見開いた。
「俺、望乃莉の中に、ちゃんと、存在していたいって、ずっと、思ってた。忘れられたくない。ちゃんと、覚えていてほしい。そういう気持ちが、いちばん、強かったんだと思う」
惺の言葉は、次第に、震えを帯び始めていた。それでも、彼は、止まらずに、言葉を続けた。
「花びらの栞も、缶ジュースも、渡り廊下での沈黙も、全部、望乃莉が、俺との時間を、忘れないでいてくれたら、それだけで、十分だって、思ってた。でも、それだけじゃ、足りないって、最近、気づいたんだ」
望乃莉の頬を、涙が、一筋、伝った。屋上に吹く風は、冬の冷たさを、まだ、わずかに、残しながらも、確かに、春へと向かう、柔らかさを、帯び始めていた。彼女は、それを拭うこともなく、ただ、じっと、惺の言葉を聞き続けていた。
「望乃莉に、思い出してほしかった。俺のこと、俺との時間を。それが、俺の、いちばん最初の、本当の気持ちだった」
惺の言葉が、終わると、屋上には、しばらくの間、静寂が広がった。冬の終わりの風が、二人の間を、静かに通り抜けていく。
「惺くん」
望乃莉が、震える声で、口を開いた。
「私、忘れたことなんて、一度も、ありません。惺くんとの、全部の時間、ちゃんと、覚えてます。むしろ……」
望乃莉は、涙を拭いながら、続けた。屋上から見える、灯凪町の空は、冬の終わりの、柔らかな光に、静かに、包まれていた。二人は、その光の中で、しばらくの間、お互いの表情を、見つめ合っていた。
「忘れたくないって、いつも、思ってました。この時間が、ずっと、続いてほしいって」
その言葉に、惺の胸は、いっぱいになった。一年間、抱え続けてきた想いの、最初の部分が、ようやく、彼女に届いた瞬間だった。
「ありがとう、望乃莉」
惺が、そう言うと、望乃莉は、涙を浮かべたまま、優しく微笑んだ。その笑顔は、冬の終わりの、柔らかな光の中で、これまで見た、どんな表情よりも、美しく、惺の目に映った。
まだ、「好き」という言葉には、たどり着いていない。それでも、いちばん伝えたかった、根っこの想いは、確かに、彼女の心に、届いていた。
その一言で、一年間言えなかった想いがほどけていった。
「好き」より先に伝えたい言葉があった。
しおりを渡した日から、一週間が過ぎていた。二月も後半に差しかかり、灯凪町には、まだ雪の残る場所も、ちらほらと見受けられた。それでも、日差しは、確実に、春の気配を帯び始めていた。
惺の中では、あの日、しおりを渡したことで、ある種の区切りがついたような感覚があった。けれど、それは、決してゴールではなく、むしろ、本当の意味での始まりの合図だった。まだ、いちばん大切な言葉が、伝えられずに残っている。惺は、そのことを、痛いほど、自覚していた。
部活は、正式に、後輩たちへの引き継ぎを終え、惺たち三年生は、部活動を引退することになった。最後の練習を終えた日、惺は、これまでのグラウンドでの時間を振り返りながら、ある種の感慨に浸っていた。同時に、これからの人生の中で、望乃莉との関係を、どう築いていきたいのか、真剣に考えるようになっていた。
引退の翌日、惺は、通学路を歩く道すがら、冬の弱い日差しが、それでも、確かに、春の気配を、少しずつ、帯び始めているのを、感じ取っていた。街路樹の枝先には、まだ、固い蕾が、わずかに、膨らみ始めている。
惺は、朝の交差点で、望乃莉と待ち合わせた。
「部活、お疲れ様でした」
望乃莉が、そう言って、微笑んだ。
「ありがとう。なんか、実感、まだ、湧かないけど」
「三年間、頑張りましたね」
望乃莉の優しい言葉に、惺は、素直に頷いた。二人は、並んで、通学路を歩き始めた。
「あのさ、望乃莉」
惺は、歩きながら、ふと、口を開いた。
「今日の放課後、時間ある?」
望乃莉は、少し驚いたような表情を見せてから、頷いた。
「はい、大丈夫です」
「屋上、行かない? あの日みたいに」
惺の提案に、望乃莉は、少し緊張したような表情を浮かべながらも、頷いた。
「はい、行きます」
その日一日、惺は、授業にも、あまり集中できなかった。今日こそ、伝えよう。その決意だけが、頭の中を、ずっと占め続けていた。
放課後、惺は、生徒会の担当教師から、屋上の鍵を借りた。望乃莉と、待ち合わせをした階段の下で、二人は合流し、一緒に、屋上へと続く階段を上った。冬の終わりを告げるような、柔らかな風が、階段の隙間から、吹き込んでいた。以前よりも、いくらか、和らいだ、その空気の温もりを、惺は、静かに、感じ取っていた。
扉を開けると、冬の終わりの、澄んだ風が、二人を迎えた。灯凪町の景色が、屋上から、広く見渡せる。海の青、町並みの色、そして、遠くに見える山々。惺は、その景色を、一度、深く目に焼き付けてから、望乃莉の方を向いた。
「望乃莉」
「はい」
彼女は、まっすぐに、惺を見つめていた。惺は、深く息を吸い込んだ。心臓が、これまでにないほど、激しく脈打っている。それでも、今日は、逃げないと、強く自分に言い聞かせていた。
「一年前、望乃莉の生徒手帳を拾ったとき」
惺は、ゆっくりと、言葉を紡ぎ始めた。
「正直、その日は、ただの偶然だと思ってた。名前も知らない誰かに、たまたま拾ったものを、届けただけだって」
望乃莉は、静かに、惺の言葉に耳を傾けていた。
「でも、あの日から、望乃莉のこと、ずっと、覚えてる。名前も、顔も、声も。忘れたことなんて、一度もなかった」
惺は、望乃莉の目を、まっすぐに見つめた。
「花びらを一緒に拾ったときも、缶ジュースをもらったときも、指先が触れたときも、花火を見たときも。全部、全部、覚えてる。望乃莉との思い出は、俺にとって、ずっと、大切なものだった」
望乃莉の目に、涙が、うっすらと浮かび始めていた。惺は、続けた。
「でも、俺、望乃莉に、いちばん伝えたかったのは、『好き』っていう言葉じゃなくて」
惺は、一度、言葉を止めた。屋上に広がる、灯凪町の景色は、冬の終わりの、澄んだ光の中で、静かに、輝いていた。海の青、町並みの色、そして、遠くに見える、うっすらとした、春の気配。深呼吸をして、もう一度、望乃莉の目を見つめた。
「『思い出してほしかった』っていう、気持ちだった」
望乃莉は、驚いたように、目を見開いた。
「俺、望乃莉の中に、ちゃんと、存在していたいって、ずっと、思ってた。忘れられたくない。ちゃんと、覚えていてほしい。そういう気持ちが、いちばん、強かったんだと思う」
惺の言葉は、次第に、震えを帯び始めていた。それでも、彼は、止まらずに、言葉を続けた。
「花びらの栞も、缶ジュースも、渡り廊下での沈黙も、全部、望乃莉が、俺との時間を、忘れないでいてくれたら、それだけで、十分だって、思ってた。でも、それだけじゃ、足りないって、最近、気づいたんだ」
望乃莉の頬を、涙が、一筋、伝った。屋上に吹く風は、冬の冷たさを、まだ、わずかに、残しながらも、確かに、春へと向かう、柔らかさを、帯び始めていた。彼女は、それを拭うこともなく、ただ、じっと、惺の言葉を聞き続けていた。
「望乃莉に、思い出してほしかった。俺のこと、俺との時間を。それが、俺の、いちばん最初の、本当の気持ちだった」
惺の言葉が、終わると、屋上には、しばらくの間、静寂が広がった。冬の終わりの風が、二人の間を、静かに通り抜けていく。
「惺くん」
望乃莉が、震える声で、口を開いた。
「私、忘れたことなんて、一度も、ありません。惺くんとの、全部の時間、ちゃんと、覚えてます。むしろ……」
望乃莉は、涙を拭いながら、続けた。屋上から見える、灯凪町の空は、冬の終わりの、柔らかな光に、静かに、包まれていた。二人は、その光の中で、しばらくの間、お互いの表情を、見つめ合っていた。
「忘れたくないって、いつも、思ってました。この時間が、ずっと、続いてほしいって」
その言葉に、惺の胸は、いっぱいになった。一年間、抱え続けてきた想いの、最初の部分が、ようやく、彼女に届いた瞬間だった。
「ありがとう、望乃莉」
惺が、そう言うと、望乃莉は、涙を浮かべたまま、優しく微笑んだ。その笑顔は、冬の終わりの、柔らかな光の中で、これまで見た、どんな表情よりも、美しく、惺の目に映った。
まだ、「好き」という言葉には、たどり着いていない。それでも、いちばん伝えたかった、根っこの想いは、確かに、彼女の心に、届いていた。
その一言で、一年間言えなかった想いがほどけていった。

