しおりになる春、君をひらく季節。

第七章 渡せなかったしおりを、ようやく取り出した。

 一年間しまい続けた栞は、少しだけ色褪せていた。
 二月に入り、灯凪町には、まだ冬の寒さが色濃く残っていた。それでも、日は少しずつ長くなり始め、空気の中に、わずかながら、春の気配が混じり始めているようにも感じられた。
 惺は、あれから何度も、機会を窺っていた。あのしおりを渡すこと。そして、まだ言葉にできていない、あの想いを伝えること。屋上で交わした約束を、果たすべきときが、近づいているのを、惺は強く感じていた。
 けれど、日常は、いつも通り、忙しく過ぎていった。部活の引退が近づき、後輩たちへの引き継ぎの準備、三年生に向けての進路相談、そして、二月末に控えた期末試験の勉強。惺の時間は、様々な用事で、埋め尽くされていた。
 それでも、朝の交差点での「おはよう」と、時折の白灯文庫での時間だけは、変わらず続いていた。望乃莉は、いつも通り、惺のペースを尊重してくれていた。急かすことも、催促することもなく、ただ、静かに、その日が来るのを待ってくれていた。
 その優しさが、逆に、惺の中の決意を、より一層、強くさせていた。彼女に、これ以上、待たせるわけにはいかない。惺は、そう、強く思い始めていた。
 二月の半ば、灯凪町には、久しぶりに雪が降った。その朝、町全体は、いつもとは、違う、静かな、白い世界に、包まれていた。海に近いこの町では、めったに見られない、雪の積もる光景に、惺は、しばらくの間、見入ってしまった。
 「珍しいですね、雪」
 朝の交差点で、望乃莉が、空を見上げながら言った。惺も、その景色に見入っていた。
 「うん、灯凪町で雪って、あんまり見ない気がする」
雪片が、二人の間を、ゆっくりと、舞い落ちていた。
 「小さい頃、雪が降ると、おばあちゃんと、一緒に、雪だるま作りました」
 望乃莉が、懐かしそうに、そう言った。惺は、その言葉に、少し胸が温かくなるのを感じた。彼女が、こうして自然に、祖母との思い出を語ってくれるようになったことに、確かな信頼の積み重ねを、感じることができたからだ。彼女が語る、祖母との、雪だるま作りの思い出が、その白い景色と、重なり合うように、惺の心に、静かに、染み渡っていった。
 その日は、一日中、雪がちらつき続けていた。放課後、惺は、白灯文庫に向かった。窓の外に見える雪景色は、灯凪町の海の青と、白い雪が、静かに溶け合うような、幻想的な光景を作り出していた。
 望乃莉は、いつもの窓際の席で、その景色を眺めていた。惺が近づくと、彼女は、微笑んで振り返った。
 「惺くん。雪、まだ、降ってますね」
 「うん、珍しく積もりそう」
 惺は、彼女の隣に座った。白灯文庫の暖房の温もりが、その静かな景色と、対照的に、心地よく、二人を、包み込んでいた。鞄の中には、今日も、あのしおりが入っている。もう、随分と長い間、渡せずにいた。花びらは、すっかり色を失い、茶色く変色してしまっていた。それでも、惺は、そのしおりを、大切に持ち続けていた。
 窓の外の雪景色を、二人は、しばらくの間、無言で眺めていた。図書室の中は、暖房で暖かく保たれていて、その静かな暖かさが、二人の間の空気を、さらに、穏やかなものにしていた。
 「望乃莉」
 惺は、意を決して、声をかけた。心臓が、いつものように、早鐘を打ち始める。それでも、今日は、これまでとは違う、確かな決意が、惺の中にあった。
 「はい?」
望乃莉が、こちらを向いた。惺は、鞄の中に手を入れて、あのしおりを、そっと取り出した。窓の外の雪は、相変わらず、静かに、降り続けていた。色あせた花びらの、その繊細な形を、冬の柔らかな光が、優しく、照らし出している。
 「これ、渡したかったもの」
 惺は、そのしおりを、彼女の前に、差し出した。望乃莉は、驚いたように、そのしおりを見つめた。手作りの、不格好なしおり。中には、色あせた桜の花びらが、一枚、大切に挟まれていた。
 「これ……」
 「去年の春、公園で、望乃莉と一緒に、花びら拾ったの、覚えてる?」
 「はい、もちろん」
 「あのとき、拾った花びらで、作ったんだ。ずっと、渡そうと思ってたんだけど、なかなか、勇気が出なくて」
 望乃莉は、そのしおりを、そっと、両手で受け取った。彼女の目に、うっすらと、涙が浮かんでいるのが、惺の目にも見えた。
 「一年間、ずっと、持っててくれたんですか」
 「うん。ずっと、渡すタイミング、探してた」
 望乃莉は、そのしおりを、大切そうに、胸に抱きしめた。
 「嬉しい、です。すごく」
 彼女の声は、震えていた。惺は、その様子を見て、ようやく、この一年間、抱え続けてきた想いの一部が、報われたような気持ちになった。
 「不格好で、ごめん。あんまり、器用じゃないから」
 惺が、照れくさそうに言うと、望乃莉は、首を振った。
 「不格好だから、いいんです。惺くんが、一生懸命作ってくれたのが、伝わってきます」
 窓の外では、雪が、相変わらず、静かに降り続けていた。図書室の暖かな空間の中で、二人は、その一年間、積み重ねてきた、たくさんの想いを、確かめ合うように、しばらくの間、見つめ合っていた。
 「これで、全部じゃないんだ」
 惺は、そう続けた。
 「まだ、ちゃんと、言葉で伝えたいことがある。もう少しだけ、待っててほしい」
 望乃莉は、静かに頷いた。
 「はい。待ってます」
 その言葉に、惺は、深く安堵した。しおりを渡すという、一年越しの約束を、ようやく果たすことができた。そして、その先にある、もう一つの、もっと大切な約束を、惺は、近いうちに、必ず果たすと、心の中で、強く誓った。
 雪は、その日の夕方には、静かに止んでいた。灯凪町の町並みは、うっすらと、白く染まっている。惺は、望乃莉と並んで、その雪景色の中を、家路につきながら、この一年間の、様々な思い出を、静かに、噛み締めていた。
 渡せなかった時間まで、一緒に手渡した。