しおりになる春、君をひらく季節。

第六章 町の灯りが増えるほど、迷いは減っていく。

 夕暮れの灯凪町は、帰る場所を教えてくれる。
 屋上での出来事から数日が経った。あの日交わした言葉は、惺の中で、確かな支えとなっていた。「もうすぐ、ちゃんと言葉にしたい」と伝えたあの約束を、惺は、これまで以上に強く意識するようになっていた。
 けれど、実際に「好き」という一言を伝えることの重みは、依然として、惺の前に立ちはだかっていた。何度も、そのタイミングを窺いながら、結局は、言葉を飲み込んでしまう日々が続いていた。
 一月の終わりのある日、惺は、部活の練習が長引いて、いつもより遅い時間に、学校を出ることになった。冬の日は短く、午後五時を過ぎると、すでに、あたりはすっかり暗くなっていた。校舎を出た惺は、その日の冷たさに、思わず、身を、縮めていた。
 自転車を押しながら、惺は、灯凪町の夕暮れの道を歩いていた。商店街に差し掛かると、街灯や店先の明かりが、一つ、また一つと、灯り始めているのが見えた。冬の早い日暮れの中で、その暖かな光の連なりは、通りを、優しく、照らし出している。惺は、その光景に、なんとなく、心が、和らぐのを、感じていた。どこか、ほっとするような安心感を、惺に与えてくれた。
商店街の途中、古書店「栞灯舎」の前を通りかかったとき、惺は、店先に、見覚えのある人影を見つけた。
 望乃莉だった。古書店特有の、柔らかな明かりが、彼女の姿を、静かに、照らしていた。冬の冷たい風が、二人の間を、そっと、通り抜けていく。彼女は、店のガラス越しに、中の様子を眺めていた。惺は、思わず、声をかけた。
 「望乃莉、こんなところで何してるの?」
 望乃莉は、振り返って、少し驚いたような表情を見せた。
 「惺くん。ちょっと、探してた本があって、寄ってみたんですけど、もう閉まってて」
 見ると、確かに、店の扉には「本日終了」の札がかかっていた。惺は、少し残念そうな望乃莉の表情を見て、何か、彼女のために、できることはないか、と考えた。
 「一緒に、帰ろうか」
 惺が提案すると、望乃莉は、頷いた。二人は、並んで、夕暮れの商店街を歩き始めた。
 「探してた本、なんだったの?」
 惺が尋ねると、望乃莉は、少し考えるような表情を浮かべた。
 「詩集です。おばあちゃんが、好きだった詩人の」
 「そっか」
 「今度、また、来てみます」
 望乃莉の言葉に、惺は、小さく頷いた。二人は、しばらくの間、無言で、商店街を歩き続けた。夕暮れの町は、次第に、夜の色へと変わっていく。街灯の明かりが、一つ、また一つと灯る様子は、まるで、町全体が、静かに息を吹き返していくかのようだった。
 「灯凪町の夕方って、きれいだね」
 惺が、ふと、そう漏らした。望乃莉も、頷いた。
 「はい。この時間の町、私も、好きです」
 「なんでだろう。灯りが増えていくと、なんか、安心する」
 惺の言葉に、望乃莉は、少し考えるような表情を浮かべてから、静かに答えた。
 「灯りって、誰かが、そこにいる証拠だから、かもしれません。お店の人が、まだ、そこで働いてる。誰かの家族が、夕飯の準備をしてる。そういう、人の気配が、灯りになって、見えてる気がします」
 その言葉に、惺は、深く感銘を受けた。望乃莉の考え方には、いつも、独特の優しさが、宿っている。惺は、商店街に、次々と、灯っていく明かりを、一つ一つ、見つめ続けていた。その暖かな光の連なりが、冬の夜の、静かな町並みを、優しく、彩っていた。
 「望乃莉らしい考え方だね」
 「そうですか?」
 「うん。物事の、見えない部分まで、ちゃんと想像してる感じがする」
 望乃莉は、少し照れたように、視線を伏せた。
 「惺くんも、同じだと思います。花びらを一緒に拾ってくれたときも、私の気持ちを、ちゃんと想像してくれてた気がします」
 その言葉に、惺の胸は、温かくなった。二人は、また、しばらくの間、無言で、夜の帳が下りていく町を歩き続けた。
 やがて、二人の帰り道が分かれる交差点に差し掛かった。街灯の明かりが、二人の姿を、柔らかく、照らし出していた。惺は、いつも、ここで望乃莉と別れる。それでも、今日は、なんとなく、まだ、彼女と一緒にいたいという気持ちが、強く残っていた。
 「望乃莉」
 惺が声をかけると、彼女は足を止めて、こちらを向いた。
 「屋上で言ったこと、ちゃんと、覚えてる」
 惺の言葉に、望乃莉は、静かに頷いた。
 「私も、覚えてます」
 「もう少しだけ、待っててほしい。ちゃんと、伝えたいことがあるから」
 「はい」
 望乃莉の返事は、短かったけれど、そこには、確かな信頼と、優しさが込められていた。惺は、その言葉に、少しずつ、勇気を蓄えていくような感覚を覚えていた。
 「じゃあ、また、明日」
 「はい、また、明日」
 望乃莉は、小さく手を振って、自分の帰り道へと歩いていった。惺は、その後ろ姿を、しばらくの間、見送っていた。街灯の明かりが、彼女の姿を、静かに照らしている。伝えたその言葉の余韻を、冬の澄んだ夜空に瞬き始めた、いくつかの星々が、静かに、見守っているようだった。
 自転車に跨り、惺は、自分の家路を辿り始めた。町の灯りは、次第に、その数を増していく。惺は、その光景を眺めながら、自分自身の心の中にある迷いも、少しずつ、晴れていくような感覚を覚えていた。
 答えは、遠くにあるものではない。ずっと、自分のすぐ近くに、あったのだ。望乃莉という存在。彼女と過ごしてきた、たくさんの時間。花びらを拾った春、缶ジュースを分け合った夏、涙を見せてくれた冬。そのすべてが、惺の中で、確かな答えとして、形を成しつつあった。
 家に帰った惺は、机の引き出しを開けて、あの色あせたしおりを、もう一度、取り出した。花びらは、すっかり茶色く変わってしまっていたけれど、その形は、まだ、しっかりと残っていた。
 もうすぐ、このしおりを渡す日が来る。惺は、そう、確信していた。灯凪町の灯りが、一つ、また一つと灯っていくように、惺の中の迷いも、少しずつ、確かな決意へと、変わりつつあった。窓の外には、冬の夜の、深い静けさが、町全体を、優しく、包み込んでいた。
 答えは遠くではなく、ずっと隣にあった。