第四章 守りたいものほど、うまく守れないと知った。
大切だからこそ、何もできなくなる日がある。
年が明けて、灯凪高校の校舎には、三学期特有の、どこか、引き締まった空気が、漂っていた。冬休みの穏やかさから、一転して、生徒たちの表情には、進路への意識が、少しずつ、色濃く、浮かび始めている。
窓の外には、まだ、真冬の、冷たい風が、木々の裸の枝を、揺らしていた。惺は、その景色を、教室の窓越しに、眺めながら、これからの日々について、静かに、考えを、巡らせていた。
冬休みの間に交わした、あの祖母の話。望乃莉が、初めて惺の前で涙を見せた、あの日の記憶は、惺の中で、これまで以上に、彼女という存在を、大切に思う気持ちを強くさせていた。
けれど、その「大切にしたい」という気持ちが強くなるほど、惺の中には、新しい種類の迷いも、生まれ始めていた。
三学期最初の週、惺は、学年主任から、進路について話す機会を与えられた。二年生の三学期は、本格的に進路を考え始める時期であり、部活も、そろそろ引退を意識した時期に差しかかっていた。
「坂本、お前、部活続けるなら、次の夏の大会が、最後になるかもしれないな」
顧問の先生から、そう告げられたとき、惺は、初めて、自分の高校生活が、確実に終わりに近づいていることを、実感した。
グラウンドの向こうに見える、冬の澄んだ空が、いつもよりも、いくらか、遠く、感じられた。惺は、その空を見上げながら、これまでの、二年間の記憶を、静かに、辿り直していた。
冬の弱い日差しが、グラウンドの土を、わずかに、照らしている。その光の中で、惺は、自分自身の、これからの選択について、深く、思いを、巡らせ続けていた。
同時に、望乃莉との関係についても、惺は、漠然とした不安を感じ始めていた。彼女への想いは、確かなものになっている。それでも、まだ「好き」という言葉を、伝えられずにいる。このまま、時間だけが過ぎていってしまったら。もし、進路が分かれてしまったら。そんな考えが、惺の頭の中を、何度も駆け巡るようになっていた。
「最近、なんか、また悩んでるだろ」
一澄が、惺の変化に気づいて、そう指摘してきたのは、一月の半ばのことだった。
「なんとなく、分かる?やっぱり」
「そりゃ、分かるって。もう何年の付き合いだと思ってんだよ」
惺は、少し苦笑しながら、正直に打ち明けることにした。窓の外には、冬の弱い光が、廊下の床に、長い影を、落としていた。二人の会話の合間には、他の生徒たちの、足早な足音が、時折、響いてくる。
「望乃莉のこと、大切だと思ってる。でも、その気持ちが強くなればなるほど、逆に、何も言えなくなってる気がして」
一澄は、少し考えるような表情を浮かべてから、静かに言った。
「それ、分かる気がするな。大切なものほど、失うのが怖くなるもんな」
その言葉が、惺の心情を、的確に言い当てていた。惺は、深く頷いた。窓の外を、一陣の冷たい風が、通り抜けていった。
「今のまま、友達みたいな関係でいれば、少なくとも、この関係は、壊れない。でも、告白して、もし、断られたら……」
「その先の関係が、変わっちゃうかもしれない、ってことだろ」
「うん」
一澄は、しばらく黙っていたけれど、やがて、真剣な表情で言った。
「でもさ、坂本。今のまま、何も言わずにいたら、いつか、絶対に後悔すると思うぞ。俺は、そう思う」
その言葉は、惺の胸に、重く響いた。分かってはいる。それでも、実際に行動に移すことの難しさは、頭で理解していることと、心で受け入れることの間に、大きな隔たりがあった。
その週末、惺は、白灯文庫で、望乃莉と過ごす時間を持った。けれど、その日の惺は、いつもよりも、言葉数が少なかった。望乃莉も、そんな惺の様子に、気づいていたのかもしれない。
「惺くん、最近、元気ないですか?」
望乃莉が、心配そうに尋ねてきた。窓の外には、冬の弱い日差しが、静かに、差し込んでいた。白灯文庫の暖房の、微かな作動音だけが、静まり返った空間に、規則正しく、響いている。惺は、慌てて、笑顔を作った。
「あ、いや、そんなことないよ」
「無理して、笑わなくても、いいですよ」
望乃莉の優しい言葉に、惺は、少し胸が痛んだ。彼女は、いつも、こうして惺の変化に気づいてくれる。それなのに、自分は、彼女に対して、いちばん大切な言葉を、まだ伝えられずにいる。
「望乃莉」
惺は、思い切って、口を開いた。
「進路のこと、考えたことある?」
望乃莉は、少し考えるような表情を浮かべた。
「まだ、はっきりとは。でも、将来、本に関わる仕事がしたいなって、漠然と、思ってます」
望乃莉が、進路について、静かに、語り始めた、その言葉の一つ一つに、惺は、丁寧に、耳を、傾けていた。窓の外の、冬枯れの木々の枝が、風に揺れる音が、時折、微かに、聞こえてくる。
「そっか」
「惺くんは?」
望乃莉に尋ねられて、惺は、少し口ごもった。
「俺は、まだ、全然、決まってなくて」
「焦らなくても、いいと思いますよ。惺くんのペースで」
その言葉に、惺は、少し救われたような気持ちになった。それでも、心の中の不安は、完全には消えなかった。もし、進路が分かれてしまったら。もし、離れ離れになってしまったら。そう考えると、余計に、今、伝えなければならないという焦りと、伝えることへの恐れが、複雑に絡み合っていった。
「望乃莉、あのさ」
惺は、また、勇気を振り絞ろうとした。けれど、その瞬間、司書の先生が、望乃莉に声をかけてきた。
「望乃莉さん、悪いけど、返却の整理、手伝ってもらえる?」
「あ、はい、すぐ行きます」
望乃莉は、惺の方を振り返って、申し訳なさそうな表情を見せた。
「ごめんなさい、惺くん。また、後で」
「うん、大丈夫」
惺は、また、笑顔を作って、彼女を見送った。けれど、心の中では、大きなため息が漏れていた。今日も、また、言えなかった。何度も、何度も、同じことを繰り返している自分に、惺は、少しずつ、苛立ちすら感じ始めていた。
守りたいと思うほど、うまく守れない。大切にしたいと思うほど、何もできなくなってしまう。惺は、その矛盾した感覚に、戸惑いを覚えていた。
窓の外では、冬の弱い日差しが、静かに白灯文庫を照らしていた。惺は、その光を見つめながら、自分自身の心と、じっくり向き合う必要があることを、感じ始めていた。
その日の帰り道、惺が、自転車を漕ぎながら進む道には、冬の冷たい風が、容赦なく、吹きつけてきていた。街路樹は、すっかり、その葉を、落としてしまい、裸の枝だけが、寒々と、空に向かって、伸びている。
惺は、その冷たい風に、頬を、さらしながら、望乃莉に対する、自分自身の想いを、もう一度、しっかりと、確かめ直していた。空には、早くも、いくつかの星が、瞬き始めていた。
このまま、何も伝えられずに、時間だけが過ぎていくのは、嫌だった。望乃莉を大切に思う気持ちがあるなら、その気持ちを、ちゃんと、彼女に届けなければならない。惺は、そう、強く思い始めていた。
守ることは、隠すことではないと初めて思った。
大切だからこそ、何もできなくなる日がある。
年が明けて、灯凪高校の校舎には、三学期特有の、どこか、引き締まった空気が、漂っていた。冬休みの穏やかさから、一転して、生徒たちの表情には、進路への意識が、少しずつ、色濃く、浮かび始めている。
窓の外には、まだ、真冬の、冷たい風が、木々の裸の枝を、揺らしていた。惺は、その景色を、教室の窓越しに、眺めながら、これからの日々について、静かに、考えを、巡らせていた。
冬休みの間に交わした、あの祖母の話。望乃莉が、初めて惺の前で涙を見せた、あの日の記憶は、惺の中で、これまで以上に、彼女という存在を、大切に思う気持ちを強くさせていた。
けれど、その「大切にしたい」という気持ちが強くなるほど、惺の中には、新しい種類の迷いも、生まれ始めていた。
三学期最初の週、惺は、学年主任から、進路について話す機会を与えられた。二年生の三学期は、本格的に進路を考え始める時期であり、部活も、そろそろ引退を意識した時期に差しかかっていた。
「坂本、お前、部活続けるなら、次の夏の大会が、最後になるかもしれないな」
顧問の先生から、そう告げられたとき、惺は、初めて、自分の高校生活が、確実に終わりに近づいていることを、実感した。
グラウンドの向こうに見える、冬の澄んだ空が、いつもよりも、いくらか、遠く、感じられた。惺は、その空を見上げながら、これまでの、二年間の記憶を、静かに、辿り直していた。
冬の弱い日差しが、グラウンドの土を、わずかに、照らしている。その光の中で、惺は、自分自身の、これからの選択について、深く、思いを、巡らせ続けていた。
同時に、望乃莉との関係についても、惺は、漠然とした不安を感じ始めていた。彼女への想いは、確かなものになっている。それでも、まだ「好き」という言葉を、伝えられずにいる。このまま、時間だけが過ぎていってしまったら。もし、進路が分かれてしまったら。そんな考えが、惺の頭の中を、何度も駆け巡るようになっていた。
「最近、なんか、また悩んでるだろ」
一澄が、惺の変化に気づいて、そう指摘してきたのは、一月の半ばのことだった。
「なんとなく、分かる?やっぱり」
「そりゃ、分かるって。もう何年の付き合いだと思ってんだよ」
惺は、少し苦笑しながら、正直に打ち明けることにした。窓の外には、冬の弱い光が、廊下の床に、長い影を、落としていた。二人の会話の合間には、他の生徒たちの、足早な足音が、時折、響いてくる。
「望乃莉のこと、大切だと思ってる。でも、その気持ちが強くなればなるほど、逆に、何も言えなくなってる気がして」
一澄は、少し考えるような表情を浮かべてから、静かに言った。
「それ、分かる気がするな。大切なものほど、失うのが怖くなるもんな」
その言葉が、惺の心情を、的確に言い当てていた。惺は、深く頷いた。窓の外を、一陣の冷たい風が、通り抜けていった。
「今のまま、友達みたいな関係でいれば、少なくとも、この関係は、壊れない。でも、告白して、もし、断られたら……」
「その先の関係が、変わっちゃうかもしれない、ってことだろ」
「うん」
一澄は、しばらく黙っていたけれど、やがて、真剣な表情で言った。
「でもさ、坂本。今のまま、何も言わずにいたら、いつか、絶対に後悔すると思うぞ。俺は、そう思う」
その言葉は、惺の胸に、重く響いた。分かってはいる。それでも、実際に行動に移すことの難しさは、頭で理解していることと、心で受け入れることの間に、大きな隔たりがあった。
その週末、惺は、白灯文庫で、望乃莉と過ごす時間を持った。けれど、その日の惺は、いつもよりも、言葉数が少なかった。望乃莉も、そんな惺の様子に、気づいていたのかもしれない。
「惺くん、最近、元気ないですか?」
望乃莉が、心配そうに尋ねてきた。窓の外には、冬の弱い日差しが、静かに、差し込んでいた。白灯文庫の暖房の、微かな作動音だけが、静まり返った空間に、規則正しく、響いている。惺は、慌てて、笑顔を作った。
「あ、いや、そんなことないよ」
「無理して、笑わなくても、いいですよ」
望乃莉の優しい言葉に、惺は、少し胸が痛んだ。彼女は、いつも、こうして惺の変化に気づいてくれる。それなのに、自分は、彼女に対して、いちばん大切な言葉を、まだ伝えられずにいる。
「望乃莉」
惺は、思い切って、口を開いた。
「進路のこと、考えたことある?」
望乃莉は、少し考えるような表情を浮かべた。
「まだ、はっきりとは。でも、将来、本に関わる仕事がしたいなって、漠然と、思ってます」
望乃莉が、進路について、静かに、語り始めた、その言葉の一つ一つに、惺は、丁寧に、耳を、傾けていた。窓の外の、冬枯れの木々の枝が、風に揺れる音が、時折、微かに、聞こえてくる。
「そっか」
「惺くんは?」
望乃莉に尋ねられて、惺は、少し口ごもった。
「俺は、まだ、全然、決まってなくて」
「焦らなくても、いいと思いますよ。惺くんのペースで」
その言葉に、惺は、少し救われたような気持ちになった。それでも、心の中の不安は、完全には消えなかった。もし、進路が分かれてしまったら。もし、離れ離れになってしまったら。そう考えると、余計に、今、伝えなければならないという焦りと、伝えることへの恐れが、複雑に絡み合っていった。
「望乃莉、あのさ」
惺は、また、勇気を振り絞ろうとした。けれど、その瞬間、司書の先生が、望乃莉に声をかけてきた。
「望乃莉さん、悪いけど、返却の整理、手伝ってもらえる?」
「あ、はい、すぐ行きます」
望乃莉は、惺の方を振り返って、申し訳なさそうな表情を見せた。
「ごめんなさい、惺くん。また、後で」
「うん、大丈夫」
惺は、また、笑顔を作って、彼女を見送った。けれど、心の中では、大きなため息が漏れていた。今日も、また、言えなかった。何度も、何度も、同じことを繰り返している自分に、惺は、少しずつ、苛立ちすら感じ始めていた。
守りたいと思うほど、うまく守れない。大切にしたいと思うほど、何もできなくなってしまう。惺は、その矛盾した感覚に、戸惑いを覚えていた。
窓の外では、冬の弱い日差しが、静かに白灯文庫を照らしていた。惺は、その光を見つめながら、自分自身の心と、じっくり向き合う必要があることを、感じ始めていた。
その日の帰り道、惺が、自転車を漕ぎながら進む道には、冬の冷たい風が、容赦なく、吹きつけてきていた。街路樹は、すっかり、その葉を、落としてしまい、裸の枝だけが、寒々と、空に向かって、伸びている。
惺は、その冷たい風に、頬を、さらしながら、望乃莉に対する、自分自身の想いを、もう一度、しっかりと、確かめ直していた。空には、早くも、いくつかの星が、瞬き始めていた。
このまま、何も伝えられずに、時間だけが過ぎていくのは、嫌だった。望乃莉を大切に思う気持ちがあるなら、その気持ちを、ちゃんと、彼女に届けなければならない。惺は、そう、強く思い始めていた。
守ることは、隠すことではないと初めて思った。

