第三章 遠い山が見える日に、君は少し泣いていた。
空気が澄む日は、心まで隠せなくなる。
冬休みに入り、灯凪町の空気は、いっそう冷たく澄み渡っていた。空には、雲一つなく、遠くの山並みまで、はっきりと、その稜線を、見渡すことができる。惺は、その景色に、思わず、足を止めて、見入ってしまった。
呼吸をするたびに、白い息が、目の前に、くっきりと、浮かび上がる。惺は、その息の白さに、冬という季節の、確かな存在感を、改めて、感じ取っていた。
灯凪町の人々は、そんな日を「山が近づく日」と呼んで、ちょっとした喜びとして受け止めていた。
冬休み中も、惺と望乃莉は、時折、白灯文庫で顔を合わせていた。白灯文庫は、冬休み中も、短縮開館という形で開いており、受験生や、静かな場所で読書をしたい生徒たちにとって、貴重な居場所になっていた。
その日は、朝から、抜けるような青空が広がっていた。惺は、部活の朝練を終えた後、なんとなく、白灯文庫に足を向けた。望乃莉は、いつもの窓際の席で、本を読んでいた。
「望乃莉、おはよう」
「おはよう、ございます」
惺は、彼女の近くの席に腰を下ろした。窓の外には、いつになく澄んだ空と、遠くにうっすらと連なる山並みが見えていた。
「今日、山が見えるね」
惺が窓の外を指差すと、望乃莉も、そちらに視線を向けた。
「本当ですね。こんなに、はっきり見えるの、久しぶりです」
「灯凪町から、山まで見えるの、知らなかった」
「空気が澄んでる日だけ、です。年に、数回くらいしか」
二人は、しばらくの間、窓の外の景色を眺めていた。冬の澄んだ空気の中、遠くの山並みは、うっすらと白く雪化粧をしているように見えた。
「望乃莉、大丈夫? なんか、今日、元気ないような」
惺が、ふと気づいて尋ねた。望乃莉は、少し驚いたような表情を見せてから、小さく首を振った。
「大丈夫です。ちょっと、考え事してただけで」
「考え事?」
望乃莉は、少し躊躇うような様子を見せてから、静かに口を開いた。
「今日、おばあちゃんの、命日なんです」
その言葉に、惺は、はっとした。以前、公園で花びらを拾いながら聞いた、亡くなった祖母の話を思い出したのだ。
「そっか……そうだったんだ」
「毎年、この時期になると、少し、感傷的になっちゃって」
望乃莉は、そう言いながら、窓の外の山並みに視線を戻した。冬の澄んだ光を受けて、いっそう、その輪郭を、鮮明にしていた。彼女の言葉の一つ一つが、その静かな景色と、重なり合うように、惺の心に、深く、染み渡っていった。望乃莉の横顔は、いつもより、どこか儚げに見えた。
「おばあちゃんとは、どんな人だったの?」
惺が、慎重に尋ねると、望乃莉は、少し微笑んだ。
「優しい人でした。いつも、本を読んでくれて。私が、人と話すのが苦手なこと、分かってくれてました。無理に、外に出なくてもいいよって、いつも、言ってくれてました」
望乃莉は、当時を懐かしむように、遠くを見つめながら続けた。
「花びらの栞のこと、教えてくれたのも、おばあちゃんです。『言葉にできないことは、こうやって、形にすればいいのよ』って、いつも言ってました」
その言葉に、惺は、望乃莉の生き方の根っこにあるものを、少しだけ理解できたような気がした。彼女が、行動で気持ちを示そうとするのは、祖母から受け継いだ、大切な教えだったのだ。
「おばあちゃんが、亡くなったとき……すごく、寂しかったです」
望乃莉の声が、いつもより、少し震えていた。惺は、黙って、彼女の言葉に耳を傾けた。
「でも、悲しいって、なかなか、言葉にできなくて。周りの人には、『大丈夫』って、いつも言ってました。でも、本当は、全然、大丈夫じゃなかった」
そう言いながら、望乃莉の目に、うっすらと涙が浮かんでいるのが、惺の目にも見えた。彼女は、それを隠すように、少し俯いた。
「望乃莉」
惺は、思わず、彼女の名前を呼んだ。何を言えばいいのか、分からなかった。それでも、この瞬間、彼女の隣にいたいという気持ちだけは、はっきりとしていた。
「すみません、変な話、しちゃって」
望乃莉が、慌てたように、涙を拭おうとした。惺は、鞄からハンカチを取り出して、そっと彼女に差し出した。彼女が受け取る、その手の動きを、冬の柔らかな光が、優しく、照らしていた。
「無理に、我慢しなくていいよ」
その言葉に、望乃莉は、驚いたように惺を見た。それから、彼女の目から、堪えきれなかった涙が、一筋、頬を伝った。
「私、ずっと、悲しいって、言えなかったんです。誰にも。強く、ならなきゃって、思ってて」
「泣いていいんだよ、望乃莉の前でなら」
惺は、精一杯の言葉を、彼女に伝えた。望乃莉は、しばらくの間、静かに涙を流していた。惺は、その隣で、ただ、静かに寄り添っていた。何か特別なことを言うわけでもなく、ただ、彼女の悲しみに、そっと寄り添うことだけを、心掛けていた。
「ありがとう、ございます」
しばらくして、望乃莉が、涙を拭いながら、そう言った。
「惺くんの前でなら、こんな風に、泣けるんだって、今、気づきました」
その言葉に、惺の胸は、じんわりと温かくなった。彼女にとって、自分が、そういう存在になれているということが、何よりも嬉しかった。
「望乃莉が、悲しいときは、いつでも、話してほしい。俺、聞くから」
惺がそう言うと、望乃莉は、小さく頷いた。彼女の表情には、涙の跡が残っていたけれど、その奥に、確かな安堵のような色も、見て取れた。
「おばあちゃんに、伝えたかった言葉、まだ、たくさんあります。でも、もう、伝えられない。それが、いちばん、悲しいです」
望乃莉の言葉に、惺は、深く頷いた。
「だからこそ、今、伝えられる人には、ちゃんと伝えた方がいいのかもしれないね」
惺のその言葉に、望乃莉は、少し考えるような表情を浮かべた。それから、静かに、惺の方を見つめた。
「そうですね。惺くんの言う通りだと、思います」
窓の外では、遠くの山並みが、冬の澄んだ光の中で、静かに佇んでいた。惺は、その景色を眺めながら、望乃莉の涙が、悲しみだけではなく、何か新しい始まりの予感も、含んでいるような気がしていた。
涙は悲しさではなく、ようやく届き始めた想いだった。
空気が澄む日は、心まで隠せなくなる。
冬休みに入り、灯凪町の空気は、いっそう冷たく澄み渡っていた。空には、雲一つなく、遠くの山並みまで、はっきりと、その稜線を、見渡すことができる。惺は、その景色に、思わず、足を止めて、見入ってしまった。
呼吸をするたびに、白い息が、目の前に、くっきりと、浮かび上がる。惺は、その息の白さに、冬という季節の、確かな存在感を、改めて、感じ取っていた。
灯凪町の人々は、そんな日を「山が近づく日」と呼んで、ちょっとした喜びとして受け止めていた。
冬休み中も、惺と望乃莉は、時折、白灯文庫で顔を合わせていた。白灯文庫は、冬休み中も、短縮開館という形で開いており、受験生や、静かな場所で読書をしたい生徒たちにとって、貴重な居場所になっていた。
その日は、朝から、抜けるような青空が広がっていた。惺は、部活の朝練を終えた後、なんとなく、白灯文庫に足を向けた。望乃莉は、いつもの窓際の席で、本を読んでいた。
「望乃莉、おはよう」
「おはよう、ございます」
惺は、彼女の近くの席に腰を下ろした。窓の外には、いつになく澄んだ空と、遠くにうっすらと連なる山並みが見えていた。
「今日、山が見えるね」
惺が窓の外を指差すと、望乃莉も、そちらに視線を向けた。
「本当ですね。こんなに、はっきり見えるの、久しぶりです」
「灯凪町から、山まで見えるの、知らなかった」
「空気が澄んでる日だけ、です。年に、数回くらいしか」
二人は、しばらくの間、窓の外の景色を眺めていた。冬の澄んだ空気の中、遠くの山並みは、うっすらと白く雪化粧をしているように見えた。
「望乃莉、大丈夫? なんか、今日、元気ないような」
惺が、ふと気づいて尋ねた。望乃莉は、少し驚いたような表情を見せてから、小さく首を振った。
「大丈夫です。ちょっと、考え事してただけで」
「考え事?」
望乃莉は、少し躊躇うような様子を見せてから、静かに口を開いた。
「今日、おばあちゃんの、命日なんです」
その言葉に、惺は、はっとした。以前、公園で花びらを拾いながら聞いた、亡くなった祖母の話を思い出したのだ。
「そっか……そうだったんだ」
「毎年、この時期になると、少し、感傷的になっちゃって」
望乃莉は、そう言いながら、窓の外の山並みに視線を戻した。冬の澄んだ光を受けて、いっそう、その輪郭を、鮮明にしていた。彼女の言葉の一つ一つが、その静かな景色と、重なり合うように、惺の心に、深く、染み渡っていった。望乃莉の横顔は、いつもより、どこか儚げに見えた。
「おばあちゃんとは、どんな人だったの?」
惺が、慎重に尋ねると、望乃莉は、少し微笑んだ。
「優しい人でした。いつも、本を読んでくれて。私が、人と話すのが苦手なこと、分かってくれてました。無理に、外に出なくてもいいよって、いつも、言ってくれてました」
望乃莉は、当時を懐かしむように、遠くを見つめながら続けた。
「花びらの栞のこと、教えてくれたのも、おばあちゃんです。『言葉にできないことは、こうやって、形にすればいいのよ』って、いつも言ってました」
その言葉に、惺は、望乃莉の生き方の根っこにあるものを、少しだけ理解できたような気がした。彼女が、行動で気持ちを示そうとするのは、祖母から受け継いだ、大切な教えだったのだ。
「おばあちゃんが、亡くなったとき……すごく、寂しかったです」
望乃莉の声が、いつもより、少し震えていた。惺は、黙って、彼女の言葉に耳を傾けた。
「でも、悲しいって、なかなか、言葉にできなくて。周りの人には、『大丈夫』って、いつも言ってました。でも、本当は、全然、大丈夫じゃなかった」
そう言いながら、望乃莉の目に、うっすらと涙が浮かんでいるのが、惺の目にも見えた。彼女は、それを隠すように、少し俯いた。
「望乃莉」
惺は、思わず、彼女の名前を呼んだ。何を言えばいいのか、分からなかった。それでも、この瞬間、彼女の隣にいたいという気持ちだけは、はっきりとしていた。
「すみません、変な話、しちゃって」
望乃莉が、慌てたように、涙を拭おうとした。惺は、鞄からハンカチを取り出して、そっと彼女に差し出した。彼女が受け取る、その手の動きを、冬の柔らかな光が、優しく、照らしていた。
「無理に、我慢しなくていいよ」
その言葉に、望乃莉は、驚いたように惺を見た。それから、彼女の目から、堪えきれなかった涙が、一筋、頬を伝った。
「私、ずっと、悲しいって、言えなかったんです。誰にも。強く、ならなきゃって、思ってて」
「泣いていいんだよ、望乃莉の前でなら」
惺は、精一杯の言葉を、彼女に伝えた。望乃莉は、しばらくの間、静かに涙を流していた。惺は、その隣で、ただ、静かに寄り添っていた。何か特別なことを言うわけでもなく、ただ、彼女の悲しみに、そっと寄り添うことだけを、心掛けていた。
「ありがとう、ございます」
しばらくして、望乃莉が、涙を拭いながら、そう言った。
「惺くんの前でなら、こんな風に、泣けるんだって、今、気づきました」
その言葉に、惺の胸は、じんわりと温かくなった。彼女にとって、自分が、そういう存在になれているということが、何よりも嬉しかった。
「望乃莉が、悲しいときは、いつでも、話してほしい。俺、聞くから」
惺がそう言うと、望乃莉は、小さく頷いた。彼女の表情には、涙の跡が残っていたけれど、その奥に、確かな安堵のような色も、見て取れた。
「おばあちゃんに、伝えたかった言葉、まだ、たくさんあります。でも、もう、伝えられない。それが、いちばん、悲しいです」
望乃莉の言葉に、惺は、深く頷いた。
「だからこそ、今、伝えられる人には、ちゃんと伝えた方がいいのかもしれないね」
惺のその言葉に、望乃莉は、少し考えるような表情を浮かべた。それから、静かに、惺の方を見つめた。
「そうですね。惺くんの言う通りだと、思います」
窓の外では、遠くの山並みが、冬の澄んだ光の中で、静かに佇んでいた。惺は、その景色を眺めながら、望乃莉の涙が、悲しみだけではなく、何か新しい始まりの予感も、含んでいるような気がしていた。
涙は悲しさではなく、ようやく届き始めた想いだった。

