しおりになる春、君をひらく季節。

第二章 人の減った中庭で、君はやけに素直だった。

 誰もいない場所では、人は少しだけ本当の自分になれる。
 十二月も半ばを過ぎ、灯凪高校は、冬休みを間近に控えていた。期末試験が終わり、生徒たちの間には、どこか解放感に似た空気が漂っている。それでも、冬の寒さは日ごとに厳しさを増し、夏に賑わっていた中庭も、今ではほとんど人影を見かけなくなっていた。中庭には、真冬の、澄み渡った空気が、辺り一帯を、静かに、包み込んでいた。夏には、あれほど、生徒たちで賑わっていた楠の木の下も、今では、その葉の多くを、落としてしまい、寒々とした、枝の姿を、晒している。
 惺が、中庭に足を踏み入れたとき、冬の弱い日差しが、それでも、確かな暖かさを、地面に、届けていた。風のない、穏やかな日で、日向にいれば、コートを着ていなくても、それほど、寒さは感じなかった。
 あの夜、「大切だと思ってる」という言葉を交わしてから、惺と望乃莉の間には、以前とは違う、確かな親密さが生まれていた。まだ、「好き」という言葉には、お互いにたどり着いていない。それでも、二人の間に流れる空気は、明らかに変わっていた。
 試験最終日、惺は答案を提出し終えた解放感から、久しぶりに中庭に足を向けた。冬の日差しは弱く、楠の木の葉も、いくらか落ちて、枝の隙間から冷たい空が覗いている。それでも、風のない穏やかな日で、日向にいれば、そこまで寒さは感じなかった。
 ベンチには、誰も座っていなかった。惺は、なんとなく、その場所に腰を下ろした。夏に、望乃莉と初めてゆっくり話した場所。あの日の記憶が、まだ鮮明に、惺の中に残っていた。
 しばらくすると、望乃莉が、中庭に姿を現した。惺の姿を見つけると、彼女は少し驚いたような表情を見せてから、こちらに近づいてきた。
 「惺くん、こんなところで」
 「試験終わって、なんか、ここに来たくなって」
 望乃莉は、小さく微笑んで、惺の隣、少し距離を空けて腰を下ろした。冬の中庭は、夏の賑わいが嘘のように静かだった。周囲には、他に、人の気配は、まったく、感じられなかった。夏の賑わいが、まるで、嘘であったかのように、中庭全体が、静かな、冬の眠りに、包まれているようだった。
 冬の澄んだ空気の中では、遠くの物音まで、はっきりと、聞こえてくる。校舎の中から、微かに漏れる、生徒達の話し声、廊下を歩く上靴の足音。それらの音が、静かな中庭に、時折、届いていた。二人だけの空間のように感じられた。
 「試験、どうだった?」
 惺が尋ねると、望乃莉は少し考えるような表情を浮かべた。
 「数学は、まあまあだと思います。英語は、少し不安です」
 「望乃莉でも、不安になることあるんだ」
 惺が驚いたように言うと、望乃莉は、少し拗ねたような表情を見せた。
 「私も、普通に不安になりますよ。いつも、完璧に見えるかもしれないですけど」
 その表情が、あまりにも自然で、無防備だったので、惺は思わず笑ってしまった。
 「なんですか、笑わなくても」
 「いや、ごめん。ただ、そういう望乃莉、初めて見た気がして」
 望乃莉は、少し照れたように、視線を逸らした。
「誰もいないと、つい、素になっちゃいます」
 その言葉に、惺は、ふと気づいた。教室や、白灯文庫、人の多い場所では、望乃莉は、いつも少しだけ、自分を抑えているのかもしれない。それが、彼女の無口さや、控えめな態度の理由の一つなのかもしれない、と。
 「もっと、素の望乃莉、見てみたいな」
 惺が、思わず本音を漏らすと、望乃莉は、驚いたように惺の方を見た。しばらくの沈黙の後、彼女は、静かに口を開いた。
 「じゃあ、少しだけ、話します。私の、本当の気持ち」
 惺は、姿勢を正して、彼女の言葉を待った。冬の冷たい風が、二人の間を、静かに通り抜けていく。彼女の吐く息が、白く、宙に、浮かんでは、すぐに、溶けていった。
 「私、昔から、人と話すのが、あまり得意じゃなくて。何を話せばいいのか、分からなくて、いつも、本の後ろに隠れてました」
その言葉の重みを、冬の澄んだ空気が、いっそう、際立たせているようだった。惺は、その言葉の一つ一つを、大切に、受け止めながら、彼女の横顔を、静かに、見つめ続けていた。
 望乃莉は、遠くを見つめるように、言葉を紡いでいった。
 「本の中の言葉なら、安心できたんです。誰かを傷つけることもないし、誰かに傷つけられることもない。ただ、物語の中に、自分の気持ちを重ねているだけで、良かったから」
 惺は、黙って、彼女の話に耳を傾けていた。これまで、彼女がこんなにも自分のことを語ってくれたことは、なかった。
 「でも、惺くんと出会ってから、少しずつ、変わってきました。行動で、何かを伝えたいって、思うようになったんです。生徒手帳を届けてくれたときも、花びらを一緒に拾ってくれたときも、私、すごく嬉しくて。言葉にできない分、何か、行動で応えたいって、思うようになりました」
 「缶ジュース、渡してくれたのも?」
 惺が尋ねると、望乃莉は、頷いた。
 「はい。あれも、私なりの、精一杯の気持ちでした」
 惺の胸に、温かいものが広がっていった。望乃莉の、一つ一つの行動の裏にあった想いを、こうしてはっきりと聞くことができて、これまでの記憶が、より一層、鮮やかに輝きを増していくような気がした。
 「俺も、同じかもしれない」
 惺は、そう言って、続けた。
 「言葉にするの、苦手で。だから、いつも、行動で示そうとしてた。でも、それだけじゃ、伝わらないこともあるんだなって、最近、思うようになった」
 望乃莉は、じっと惺の顔を見つめていた。冬の日差しが、雲の切れ間から、二人の座るベンチへと、柔らかく、差し込んできた。その光の暖かさが、まるで、二人の会話を、そっと、後押ししてくれているかのようだった。望乃莉の視線に、惺は、少し照れくさくなりながらも、続けた。
 「望乃莉に、伝えたいことが、たくさんある。でも、まだ、うまく言葉にできなくて」
 「いいんです、急がなくても」
 望乃莉が、優しく言った。
 「惺くんのペースで、いいと思います。私も、同じですから」
 その声の温かさが、冬の冷たい空気の中でも、確かな、安らぎを、惺の心に、もたらしてくれていた。その言葉に、惺は、少し救われたような気持ちになった。焦らなくていい。自分のペースで、少しずつ、伝えていけばいい。望乃莉のその言葉が、惺の中の緊張を、少しだけ和らげてくれた。
 「あのさ」
 惺は、ふと、気になっていたことを、口にした。
 「望乃莉は、本当に、俺みたいな人間で、いいの?もっと、話し上手な人とか、いると思うけど」
 望乃莉は、少し驚いたような表情を見せてから、静かに首を振った。
 「惺くんが、いいんです。惺くんだから、私も、こうして、少しずつ、話せるようになってきたんです」
 その言葉に、惺は、胸がいっぱいになった。「惺くんだから」という一言が、これまでのどんな言葉よりも、深く、惺の心に染み渡っていった。
 冬の日差しが、少しずつ、傾き始めていた。二人は、しばらくの間、静かに、その場に座り続けていた。楠の枝の影が、地面の上を、ゆっくりと、移動していく様子を、二人は、静かに、見つめていた。会話は途切れていたけれど、その沈黙は、以前にも増して、心地よいものだった。
 冬の夕暮れは、他の季節よりも、ずっと、早く、訪れる。空の色が、薄い水色から、次第に、橙色へと、移り変わり始めた頃、二人は、ようやく、ベンチから、立ち上がった。
 沈黙のあとに交わした一言が、昨日までより近かった。