しおりになる春、君をひらく季節。

第一章 白い息と一緒に、隠していた気持ちがこぼれた。

 冬になると、言葉は白い息になって目に見える。
十二月に入り、灯凪町の朝は、海からの風が、いっそう、その冷たさを、増していた。街路樹は、すっかり、葉を落とし、裸の枝を、冬の澄んだ空に、突き上げるように、伸ばしている。
 惺の吐く息は、白く、宙に、立ち上っては、すぐに、溶けていった。朝の交差点で交わす「おはよう」の挨拶も、今では白い息とともに、宙に溶けていくようになっていた。
 通学路の脇に並ぶ家々の窓には、早くも、クリスマスの飾り付けが、施され始めている。その暖かな色合いの光が、まだ薄暗い、冬の朝の中で、ぽつぽつと、灯っていた。
 秋の間、惺の部活は、新チームでの大会に臨んでいた。結果は、地区大会でのベスト8。以前よりも良い成績を残せたことで、惺の中には、ある種の達成感と、次への意欲が芽生えていた。文化祭も無事に終わり、望乃莉が担当していた古本市も、盛況のうちに幕を閉じた。
 季節が移り変わる中で、惺と望乃莉の関係は、少しずつ、けれど確実に、深まりを見せていた。それでも、あの夏に生まれた「好き」という想いは、まだ、言葉になることなく、惺の胸の中に留まったままだった。
 しおりも、まだ渡せていない。机の引き出しの中で、あの花びらの栞は、もうすっかり色を失い、薄い茶色へと変わってしまっていた。それでも、惺は、そのしおりを捨てることができずにいた。
 十二月のある放課後、惺は白灯文庫に向かった。冬の弱い日差しが、窓越しに、控えめに、差し込んでいた。白灯文庫の暖房は、静かに、その温かさを、部屋全体に、行き渡らせている。
 窓の外の木々の枝は、風が吹くたびに、乾いた音を立てて、揺れていた。冬の日差しは短く、放課後にはすでに、窓の外が薄暗くなり始めている。
 望乃莉は、いつもの窓際の席で、暖かそうなカーディガンを羽織りながら、本を読んでいた。望乃莉の暖かそうなカーディガンの色合いが、冬の柔らかな光の中で、いっそう、優しく、映えて見えた。惺は、その姿を、静かに、見つめながら、彼女の隣の席に、腰を下ろした。
 「望乃莉」
 惺が声をかけると、彼女は本から顔を上げて、微笑んだ。
 「惺くん。今日は、部活、休み?」
 「うん、今日は自主練だけで、早めに終わったんだ」
 惺は、彼女の近くの席に腰を下ろした。白灯文庫の暖房が、ゆるやかに空間を温めている。窓の外では、冬の冷たい風が、木々の枝を揺らしていた。
 「もうすぐ、冬休みだね」
 惺がそう言うと、望乃莉は頷いた。
 「早いですね。もう、一年の終わりが近づいてます」
 「一年か……」
 惺は、この一年を振り返った。その瞬間、図書室の窓の外を、一羽の鳥が、静かに、横切っていった。その姿は、あっという間に、冬の澄んだ空の中に、溶け込んでいく。
 惺は、その鳥の軌跡を、目で追いながら、この一年間に、積み重ねてきた、たくさんの記憶を、もう一度、静かに、辿り直していた。窓の外の景色は、季節ごとに、その表情を、大きく、変えてきた。それでも、望乃莉と過ごした時間の温もりだけは、変わることなく、惺の心の中に、残り続けていた。
 生徒手帳を拾った、あの春の日から、もう九ヶ月が経とうとしている。花びらを拾った公園、名前を呼び合った瞬間、缶ジュースの温かさ、指先の感触、花火に照らされた横顔。数え切れないほどの、大切な思い出が、この一年の中に詰まっていた。
 「望乃莉と、いろんなことがあったなって、思って」
 惺がぽつりと言うと、望乃莉は、少し驚いたような表情を見せた。それから、優しく微笑んだ。
 「私も、そう思います。惺くんと出会って、たくさんのことが、変わりました」
 「変わった?」
 「はい。前は、もっと、自分の殻に閉じこもってた気がします。でも、惺くんと話すようになって、少しずつ、外に出られるようになった、気がします」
 その言葉は、惺の胸に、静かに染み渡っていった。自分の存在が、望乃莉にとって、何かの変化のきっかけになっていたということが、素直に嬉しかった。
 二人は、しばらくの間、静かに、それぞれの時間を過ごしていた。窓の外は、次第に暗さを増していく。冬の夕暮れは、他の季節よりも、ずっと早く訪れる。
 「そろそろ、帰ろうか」
 惺が声をかけると、望乃莉は頷いて、本を閉じた。二人は一緒に、白灯文庫を出た。
 冬の日は、すでに、その姿を、西の空へと、沈め始めていた。校舎の窓には、いくつかの、暖かな明かりが、灯り始めている。廊下を歩く二人の足音だけが、静まり返った校舎に、小さく、響いていた。
 昇降口を出ると、冬の冷たい空気が、二人を、包み込んだ。空には、早くも、いくつかの星が、瞬き始めている。校舎を出る頃には、外はすっかり夜の色に染まっていた。空気は、刺すように冷たい。
 「寒いね」
 惺が思わず呟くと、望乃莉も小さく頷いた。二人の口から、白い息が、次々と立ち上っていく。惺は、その光景を見ながら、ふと、以前読んだ、望乃莉が薦めてくれた本の一節を思い出した。冬の寒さが、人の心の壁を、少しだけ薄くするという内容だった。
 「あのさ」
 惺は、意を決して、口を開いた。心臓が、いつものように、早鐘を打ち始める。
 「望乃莉」
 「はい?」
彼女が、こちらを向いた。街灯の明かりが、彼女の頬を、柔らかく照らしている。吐く息が、白く、宙に溶けていく。
 「俺、望乃莉のこと……」
 言いかけた言葉が、また喉の奥で詰まりそうになった。けれど、今日は、なぜか、これまでとは少し違う感覚があった。冷たい空気が、頭の中を、少しだけ冷静にさせてくれているのかもしれない。
 「望乃莉のことが、大切だと思ってる」
 それだけを、なんとか、口にすることができた。街灯の明かりが、二人を、優しく、照らし出していた。二人の口から立ち上る、白い息が、その光の中で、ゆっくりと、溶けていく。
 冬の澄んだ夜空には、月が、静かに、その光を、放っていた。惺は、望乃莉の返事を待つ、その静寂の時間の中で、自分の心臓の鼓動だけが、やけに、大きく、聞こえるのを、感じていた。「好き」という言葉には、まだ届かなかったけれど、それでも、これまでの惺にとっては、大きな一歩だった。
 望乃莉は、驚いたように目を見開いた。しばらくの間、何も言わずに、惺の顔を見つめていた。惺は、その沈黙が、少し怖くなった。
 「あの、変なこと、言った?」
 惺が不安になって尋ねると、望乃莉は、静かに首を振った。
 「いいえ。私も……惺くんのこと、大切だと、思ってます」
 その言葉に、惺の胸は、いっぱいになった。「好き」という言葉には、まだ届かなかった。それでも、お互いの気持ちの一部を、こうして言葉にできたことが、惺にとっては、何よりも嬉しいことだった。
 「よかった」
 惺が、思わずそう漏らすと、望乃莉は、はにかむように笑った。その笑顔は、冬の寒さの中でも、確かな温もりを持って、惺の心に届いた。
 二人は、しばらくの間、その場に立ったまま、お互いの顔を見つめ合っていた。白い息が、二人の間で、絶えず立ち上っては、消えていく。
 「送るよ、家まで」
 惺がそう言うと、望乃莉は、少し驚いたような表情を見せながらも、頷いた。
 「はい、ありがとうございます」
 二人は、並んで、夜の道を歩き始めた。会話は、それほど多くなかった。それでも、さっき交わした言葉の余韻が、二人の間に、温かい空気を作り出していた。
 冬の夜は、まだまだ長い。それでも、惺の中には、確かな予感があった。この冬が終わる頃には、きっと、まだ言えていない、あの言葉も、伝えられる日が来るはずだと。
 隠していた想いは、寒さに負けて少しだけこぼれた。