しおりになる春、君をひらく季節。

第十章 しおりはまだ、鞄の奥で夏を越せずにいる。

 渡したいものほど、鞄の奥へしまってしまう。
 九月に入った灯凪町の朝は、真夏の強い日差しが、少しずつ、その勢いを、和らげ始めていた。それでも、蝉の声は、まだ、絶えることなく、辺りに、響いている。街路樹の緑も、まだ、その深い色合いを、失ってはいなかった。
惺が、交差点へと向かう道すがら、通学路の脇には、いつの間にか、彼岸花の、鮮やかな赤い花が、ちらほらと、咲き始めているのが、見えた。夏から秋への、緩やかな移行を、その花の色が、静かに、告げているようだった。
 灯凪高校は新学期を迎えた。夏の強い日差しは、少しずつ和らぎ始めていたけれど、まだ蝉の声は絶えることなく、真夏の余韻を町に残していた。
 始業式の朝、惺はいつもの交差点で、望乃莉と待ち合わせた。夏休みの間も、朝の挨拶や、時折の白灯文庫での時間は続いていたけれど、こうして制服姿で顔を合わせるのは、久しぶりのことだった。
 「おはよう」
 「おはよう、ございます」
 いつもと変わらない挨拶。それでも、惺の中には、夏の間に積み重ねてきた、たくさんの想いが、確かに残っていた。缶ジュースの冷たさ、触れ合った指先、花火の夜の横顔。そのすべてが、まだ言葉にできていない、大きな塊となって、惺の胸の中にあった。
 「夏休み、あっという間でしたね」
 望乃莉が、歩きながら、ぽつりと言った。
 「うん、本当に。もう二学期か」
 「惺くんの部活、秋の大会、近いんですよね」
 「そうなんだ。今度こそ、いいところまで行きたいんだけど」
 「応援、してます」
 その言葉に、惺は自然に微笑んだ。祭りの日の花火の音より、大きく胸を騒がせたあの想いは、まだ、この胸の中に、しっかりと残っていた。
 始業式を終えた、灯凪高校の校舎には、夏休みの解放感から、日常の緊張感へと、少しずつ、切り替わっていく、独特の空気が、漂っていた。廊下には、久しぶりに顔を合わせた生徒たちの、賑やかな声が、絶え間なく、響いている。
 惺が、望乃莉と、交差点で交わした会話を、心の中で、反芻しながら、教室へと向かう間も、窓の外の空は、まだ、夏の名残を、感じさせる、深い青さを、湛えていた。
 二学期が始まってからの日々は、あっという間に、惺の時間は、様々な用事で、埋め尽くされていった。中間試験に向けての勉強、部活の練習試合、そして、文化祭の準備。惺の周りでは、そうした慌ただしさを反映するように、廊下を行き交う生徒たちの足音も、いっそう、忙しなく、響くようになっていた。
 窓の外の木々は、少しずつ、その葉の色を、緑から、わずかに、色づき始めた黄色へと、変化させ始めている。季節の移ろいは、こうして、日常の忙しさの中にも、確かに、その足跡を、残していた。
 望乃莉との時間も、以前ほど頻繁には持てなくなっていた。それでも、朝の挨拶と、時折の白灯文庫での短い時間だけは、二人にとって、変わらない大切な習慣として続いていた。
 ある日の放課後、惺は久しぶりに白灯文庫に顔を出した。窓から差し込む、午後の光は、夏のそれとは、明らかに、違う、柔らかな色合いを、帯びていた。白灯文庫の中の空気も、以前よりも、いくらか、涼しく、乾いた、秋の気配を、感じさせるものに、変わりつつあった。
 窓際の席には、いつも通り望乃莉が座っている。惺が近づくと、彼女は本から顔を上げて、微笑んだ。その瞬間を、惺は、この一瞬の、確かな安らぎとして、深く、心に、刻み込んでいた。
 「惺くん、久しぶりですね」
 「ごめん、文化祭の準備で、バタバタしてて」
 「大丈夫です。忙しいのは、分かってますから」
 望乃莉の優しい言葉に、惺は少し安堵しながら、彼女の近くの席に腰を下ろした。
 「望乃莉は、文化祭、何か参加するの?」
 「図書委員として、古本市の手伝いをします」
 「そうなんだ。俺、見に行くよ」
 「はい、待ってます」
 そんな他愛のない会話を交わしながら、惺は、鞄の中にまだしまったままの、あのしおりのことを、ふと思い出した。夏の間、何度も渡そうとしては、機会を逃し続けてきたもの。花びらは、あれから少し色が薄くなっているだろうか。
 今日こそ、渡そう。惺は、そう心に決めた。
 「あの、望乃莉」
 惺が声をかけると、望乃莉は本から顔を上げた。
 「はい?」
 惺は鞄の中に手を入れた。指先が、しおりの端に触れる。心臓が、いつものように早鐘を打ち始める。それでも、今日は、最後まで渡し切ろうと、惺は強く自分に言い聞かせた。
 「実は、渡したいものが……」
 そこまで言いかけたとき、白灯文庫の扉が勢いよく開いた。
 「望乃莉ちゃん!古本市の値札、確認お願いできる?」
 図書委員の別の生徒が、慌ただしく駆け込んできた。望乃莉は、惺との会話を中断して、そちらに視線を向けた。
 「あ、はい、すぐ行きます」
 彼女は、申し訳なさそうな表情で、惺の方を振り返った。
 「ごめんなさい、惺くん。ちょっと行ってきます」
 「あ、うん、大丈夫」
 惺は、慌てて笑顔を作った。望乃莉は、少し心配そうな表情を見せながらも、そのまま図書委員の生徒と一緒に、白灯文庫の奥へと向かっていった。
 惺は、一人取り残されて、まだ鞄の中に入れたままのしおりを、そっと握りしめた。またしても、渡すタイミングを逃してしまった。今度は、自分の勇気のなさが原因ではなく、単純な巡り合わせの悪さだったけれど、それでも、惺の中には、深いため息が漏れた。
 「タイミング、悪いな……」
 小さく呟いて、惺は鞄の中に、しおりをそっと押し込んだ。遠くから、秋の虫の声が、微かに、聞こえ始めていることに、気づいた。
 その日、望乃莉は、古本市の準備で忙しく、結局、あの続きを話す時間は訪れなかった。惺は、白灯文庫を後にしながら、なんとなく、この夏という季節が、確かに終わりを迎えようとしていることを感じていた。
 自転車を漕ぎながら、惺は夏の思い出を振り返った。花びらを一緒に拾った公園、名前を呼び合った白灯文庫、缶ジュースをもらった自動販売機、指先が触れ合った瞬間、花火に照らされた横顔。たくさんの大切な時間を積み重ねてきたはずなのに、いちばん伝えたい言葉だけが、まだ、届けられずにいる。
 家に帰った惺は、机の引き出しを開けて、もう一度、しおりを取り出した。花びらの色は、確かに、少しずつ薄くなり始めていた。それでも、まだ、完全に色褪せてしまったわけではない。
 このしおりが、完全に色を失ってしまう前に、渡さなければならない。惺は、そう強く思った。夏に生まれたこの想いを、季節が変わってしまう前に、ちゃんと形にして届けたかった。
 けれど、その願いとは裏腹に、季節は、惺の想いを待ってはくれなかった。九月の風は、少しずつ涼しさを増していき、夏休みの間、あれほど強かった蝉の声も、日に日に小さくなっていった。惺は、そのしおりの、少しずつ、色褪せていく花びらを見つめながら、季節が、確実に、移ろっていくことを、静かに、実感していた。
 惺は、しおりをそっと引き出しにしまい直した。渡せなかった想いは、また、次の機会を待つことになった。それでも、心のどこかで、この想いが、いつまでも夏の中に留まり続けることはできないと、惺は分かっていた。
いつか、季節が変わりきる前に。惺は、その決意だけを、胸の中にしっかりと刻み込んだ。
 夏が終わっても、そのしおりだけは季節を越えられなかった。