しおりになる春、君をひらく季節。

第九章 言えば壊れる気がして、笑ってごまかした。

 本当に言いたいことほど、冗談に変わってしまう。
 祭りの夜から数日が経った。あの夜、夜空いっぱいに咲いた花火の光と、隣で微笑んでいた望乃莉の横顔は、惺の中で、消えることなく残り続けていた。同時に、あの瞬間、言えなかった言葉のことも、ずっと胸の中でくすぶり続けていた。
 夏休みも残りわずかとなり、新学期に向けての準備が、少しずつ始まっていた。惺の部活も、新チームでの練習試合を重ねながら、秋の大会に向けて、本格的な調整期間に入っていた。
 その日の放課後、惺は白灯文庫に向かった。白灯文庫には、夏休みの終わりを感じさせる、静かな午後の空気が、満ちていた。窓の外の蝉の声は、以前よりも、いくらか、その勢いを、弱めているように、惺には、感じられた。
 窓から差し込む、午後の光の角度も、少しずつ、その傾きを、深くしている。惺は、その光の変化に、夏という季節が、確実に、終わりへと、近づいていることを、静かに、実感していた。
 窓際の席には、いつも通り望乃莉が座っていた。惺は、望乃莉に、声をかけようとした、図書室の冷房の音が、微かに、その調子を、変えたような気がした。窓の外では、入道雲が、遠くの空に、その姿を、大きく、膨らませている。
 惺が入ってきたことに気づくと、彼女は本から視線を上げて、微笑んだ。
 「惺くん、お疲れ様です」
 「ただいま、って感じかな。もう、ここが自分の場所みたいになってる」
 惺が冗談めかして言うと、望乃莉は小さく笑った。
 「私も、そう感じてます。惺くんが来ると、なんだか、落ち着きます」
 その一言に、惺の心臓が跳ねた。けれど、表面上は平静を装って、いつもの席に腰を下ろした。
 「祭り、楽しかったね」
 惺が話題を切り出すと、望乃莉は頷いた。
 「はい、本当に。花火、きれいでした」
 「うん」
 そこで、会話が一瞬、途切れた。惺の頭の中には、あの夜、言えなかった言葉が、まだ渦巻いていた。今、この瞬間なら、言えるかもしれない。惺は、そう思って、口を開きかけた。
 「あの、望乃莉」
 「はい?」
 惺は、望乃莉の顔を見つめた。彼女は、こちらをまっすぐに見返してくる。その静かな眼差しを、午後の光が、優しく、照らし出していた。惺は、その光景の美しさに、一瞬、言葉を失いながらも、なんとか、伝えたい想いを、言葉にしようと、試み続けていた。望乃莉の瞳の奥に、何かを期待するような色が、一瞬、浮かんだ気がした。
 言おう。今こそ、あの日から抱え続けている気持ちを、言葉にしよう。惺はそう決意した。
 けれど、いざその瞬間になると、これまでと同じように、喉の奥が固まってしまった。心臓が、痛いくらいに早鐘を打っている。手のひらに、じっとりと汗がにじんでいた。
 「その……」
 言葉が続かない。望乃莉は、じっと惺の言葉を待っている。その静けさが、かえって惺を追い詰めた。
 もし、ここで気持ちを伝えて、もし、拒絶されてしまったら。これまで積み重ねてきた、この穏やかな時間が、壊れてしまうのではないか。そんな恐れが、惺の中で、急速に膨らんでいった。
 「望乃莉って、最近、日焼けした?」
 結局、惺の口から出てきたのは、まったく見当違いな言葉だった。窓の外を、一陣の風が、通り抜けていった。木々の葉が、さわさわと、擦れ合う音が、微かに、聞こえてくる。望乃莉は、少し驚いたような表情を見せた。
 「え……日焼け、ですか?」
 「うん、なんか、前より、健康的な感じがして」
 我ながら、ひどい誤魔化し方だった。望乃莉は、少し戸惑ったような表情を浮かべながらも、素直に答えてくれた。
 「祭りの日、外にいたから、かもしれません」
 「そっか、なるほどね」
 惺は、心の中で、自分自身に対する情けなさを、噛み締めていた。せっかくの機会を、また、つまらない冗談で誤魔化してしまった。望乃莉の表情には、少しだけ、落胆したような色が浮かんでいるように見えた。それに気づいて、惺はさらに、自己嫌悪に陥った。
 「あの、望乃莉」
 もう一度、勇気を振り絞ろうとした。けれど、そのとき、望乃莉が、先に口を開いた。
 「惺くん、最近、疲れてますか?部活、忙しそうだから」
 「あ、いや、そんなことは」
 「無理しないでくださいね」
 望乃莉の優しい言葉に、惺は、また言葉を失ってしまった。彼女は、惺の様子から、何かを察しているのかもしれない。それでも、それ以上、深く追及してくることはなかった。
 「ありがとう。大丈夫だよ」
 惺は、そう答えて、無理に笑顔を作った。望乃莉も、それに合わせるように、微笑んだ。けれど、その笑顔の奥に、何か、言葉にならない寂しさのようなものが、隠れているように、惺には感じられた。その表情の機微を、午後の柔らかな光が、静かに、包み込んでいた。
 その日の帰り道、夏の終わりを告げるような、涼しい風が、頬を、そっと、撫でていった。蝉の声は、以前よりも、明らかに、その数を、減らしているようだった。惺は一人、自転車を漕ぎながら、自分自身に苛立っていた。なぜ、あんなにも簡単なことができないのだろう。「好きだ」という、たった三文字の言葉を、どうして口にできないのだろう。
 答えは、分かっていた。怖いのだ。今の関係が、壊れてしまうことが。望乃莉との、この穏やかで、温かい時間が、告白という一つの行動によって、取り返しのつかない形に変わってしまうことが、何よりも怖かった。
 もし、望乃莉が、自分と同じ気持ちを持っていなかったら。もし、告白したことで、今までのように、自然に話せなくなってしまったら。そう考えるだけで、惺の勇気は、あっという間に萎んでしまうのだった。
 けれど、このまま何も言わずにいることも、正しいこととは思えなかった。祭りの夜、花火に照らされた望乃莉の横顔を見つめながら感じた、あの強い想い。それを、いつまでも胸の中に閉じ込めておくことが、本当に良いことなのだろうか。
 家に帰った惺は、机の引き出しを開けて、あの花びらのしおりを取り出した。窓の外からは、秋の虫の、微かな声が、聞こえ始めていることに、惺は、気づいた。季節は、確実に、次の段階へと、その足を、進めようとしていた。
 もう随分と長い間、渡せずにいる。夏休みが終わり、新学期が始まれば、また忙しい日々に追われて、この気持ちを伝える機会は、さらに減ってしまうかもしれない。
 惺は、そのしおりを、しばらくの間、じっと見つめていた。歪んだ花びら、不格好なテープの跡。それでも、確かに自分の気持ちがこもった、大切なもの。
 いつか、これを渡せる日が来るのだろうか。惺は、そう自問しながら、引き出しを閉じた。窓の外では、夏の終わりを告げるような、少し涼しい風が吹き始めていた。
 笑顔は守れた。でも、本音は置き去りになった。